【5】

 男は本屋に入ると片っ端から本を開いていった。

 彼女が話すことが出来ない原因を調べるため、わずかでも可能性のありそうなことは徹底的に知りたかった。

 あまりに熱心に本を読み込んでしまい、家来の少年がすっかり飽きてしまって「外で待ってます」と傍を離れてしまったくらいだ。しかしその言葉さえも、集中している男の耳には届いていないようだった。

 医学書の類をひとしきり読んで買うものを選別してしまうと、ようやく家来の少年がそばにいないことに気がついた。

 本屋の中をきょろきょろと探していると、子供向けの絵本が揃えてある一角があった。

 読みやすい大きな文字に簡単な表現、きれいな絵も添えてあるし、本が苦手な召使たちでも読めるかもしれない。いつも迷惑ばかりかけているし、彼らの為に何か買っていってあげようと、適当な絵本を開いた。

──ある日、お姫さまはとつぜんさらわれてしまいました。お姫さまは、ぶきみなお城でまいにち泣いていました。しかし、お姫さまのもとに王子さまがあらわれて、すくいだしてくれたのです。

 男は別の絵本を手に取った。

──女の子をさらったみにくい魔物は、勇者さまの手によってみごとたおされました。そして女の子にえがおがもどりました。

──悪い魔王にさらわれたお姫さまは、いつもかなしいかおをしていました。でも、ある日勇者さまがやってきました。勇者さまは魔王をたおし、お姫さまをたすけだしました。そしてお姫さまは勇者さまと、ずっとふたりでしあわせに暮ら……

 どの絵本を見たって。

 どんな本を開いたって。

 自分をさらった魔王と幸せに結ばれるお姫様なんて、出て来なかった。

 全て、勇者や王子が活躍するためのお膳立て。

 男は頭がくらりとした。

 選んでいた医学書も買わずにふらふらと本屋を出ると、駆け寄ってきた家来の少年に一言、悲しげに言った。

「帰ろう」

 家来の少年が様子のおかしい主人を気遣うも、帰路の間じゅう男はずっと口を開かなかった。



 城に戻ると、男は心配する家来の少年と別れ、一人自室に戻った。

 沈む心を引きずって、部屋の引き出しに大切にしまってある女の手紙を取り出した。

 大した言葉じゃない、それでも彼女と少しは近付けたのだと思っていた。

 でも、彼女にとってそんなことはなかったのだろうか。

 自分の贈った万年筆で書かれたであろう彼女のきれいな文字を見ていると、涙がにじみそうになった。

 その時、部屋の一角から何やらくぐもった音がしていることに気がついた。

 城中に張り巡らせた薄い金属の欄干。その中は空洞で全体が管のようになっていて、空気を震わせ離れた部屋同士で会話することができる。各部屋にめぐらせてある管のうち一つの先が、なにやら震えていた。

 沢山ある管だが、いつも使われるものはほぼ決まっている。普段まったく使うことのないそれが震えているのを男は不思議に思い、おもむろに管の先の蓋を開けた。

「……わたくしは見た目こそ幼い娘子ですが、本当は竜の魔物です。性別という概念はございませんし、年齢もあなた様の祖父母よりはるかに上だと思います」

「たまに一緒にきてくれる男の子も、魔物なの?」

「はい、わたくしたちは双子の竜です。あの子にも性別はありませんし、年齢もかなり重ねております。人間や他の魔族と違い、竜の魔物はゆっくり年を取るのでございます」

「すごい。人間の女の子と男の子にしか見えない……」

 そこに棒立ちになったまま、男はさあっと血の気が引くのを感じた。二人の会話が耳をすべって消えていく。

 よく聞く声は家来の少女のそれであるとすぐに分かった。そして、会話の内容で分かってしまった。この管がつながっている先は女のいる部屋。この初めて聞く声の主は、女。

 魔族に心を開くつもりがなかったわけではない。ましてや口が利けなかったわけでもない。ただ。

(ただ、私が嫌われていただけなのか……)

 目の前が真っ暗になって、ともすればそのまま膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

 よく考えれば当たり前のことだ。自分をこんな所に突然さらってきた者に心を開いてくれるなど、ましてや好意を持ってくれるなど、自分に都合のいい夢物語にしか過ぎなかったのだ。

 それなのに、自分はなんて愚かなんだろう。

 しばらく放心したまま、何も身動きをとることができなかった。



 それから男は、料理の勉強をやめた。サボりがちだった魔王の仕事にもまじめに取り組んだ。

 良いことのはずなのだが、家来たちはいつもと違う主人の様子がとても心配だった。

 いつも気は弱いながらもにこりと笑ってくれる主人の表情は憂い、力ない笑顔を向けてくれるだけだった。魔王としてはそれでいいのかもしれない。それでも。

「魔王様、最近明らかにおかしいですよ……。本当に、どうされたんですか?」

 家来の少年が不安げに尋ねるも、男は「なんでもないよ」と薄いほほえみを返すばかり。

「そうだ、そろそろ彼女の食事を用意する時間だ。厨房に向かおうかな」

 料理の勉強をやめても、彼女の食事を用意する務めだけは続けていた。

 それと、きらびやかな贈り物はやめても、自分の花壇で摘んだ花束だけは毎日運ばせていた。

 男は一人、心の中で決めていることがあった。

「魔王様が悲しい顔をしていると、なぜか僕まで気分が沈むのです。少しで構いませんから、何を悩まれているのか話してくださいませんか?」

 家来の少年がそんな風に言ってくることは初めてで、男は改めて周囲に心配をかけていたことを詫びた。

「そんな顔をさせて、すまない。悩んでいるというわけではないんだ。ただ、その……分かってしまった、というか」

 言葉を濁しつつ、家来の少年の前で腰を落とした。目線の高さが丁度合うと、男は遠くを見るように目を細めた。

「もしかして、だけど。私の母上は病死したのではなく、父上に私を産まされたのち、勇者や王子によって人間の国に連れ帰られたのではないか?」

 驚いて目を見開く家来の少年の様子で、男はそれが事実なのだと改めて理解した。

 何も言えない家来の少年に、男は「気にしてないよ」と示すように軽く笑ってみせた。

「いつかきっと、彼女を救うため、勇ましい人間の男がこの城を訪れる。私を倒し、彼女を人間の国に連れ帰る」

「魔王様が人間の男に倒されたりなど、絶対にありえません……」

「それは私の亡き父上も、そうだったろう?」

 男は尊敬する偉大な先代の魔王である父の心境も、全てを分かった上でそう言っていた。

 家来の少年は、どうかずっと気づかないでいてほしいと願いつつ、いつか気づいてしまうだろうとは思っていた事実を知ってしまった主の双眸を、じっと見つめた。

「私には、誰かが連れ帰る前に彼女を無理にどうこうしようとは思えないんだ。せめて彼女が残りの期間をなるべく気持ちよく過ごしてくれるよう、少しでも良い状態で城を出られるよう、努めたい。そう決めたんだ。私が彼女にしてあげられることなんて、多くはないのだから」

 語る口調は悲しげで、それでも彼女のためにと行動する姿は痛ましくさえ見えた。

「……魔王様は、それでよいのですか?」

「彼女のことを大切に思うからこそだよ」

 にこりと小さく笑って男は立ち上がった。

「食事の用意の前に、庭の私の花壇から花を摘んでくる。あとで彼女の部屋に届けてくれるよう頼んでおいてくれ」

 そう言って男が出て行くと、部屋を沈黙が支配した。