「では、これから赤子はその名で呼ぼう」
ふたりめの子の名前は、『凜』に決まった。
柊夜さんはそっと私のお腹をてのひらで触れると、深みのある声で話しかける。
「いいか、凜。パパからのお願いだ。ママにあまり心配をかけるんじゃないぞ」
「柊夜さんったら……。凜はもう眠ってますよ」
ふたりで微笑みを交わすと、室内に穏やかな空気が満ちる。
柊夜さんに相談できてよかった。私たちは夫婦なのだから、ともに悩み、ともに笑うのだということを改めて胸に刻んだ。
企画営業部のフロアに、盛大な拍手が響き渡る。
「大変喜ばしいことだ。神宮寺さん、ひとこと挨拶をどうぞ」
課長の柊夜さんから名前を呼ばれた男性は喝采の中、堂々とした足取りでみんなの前へ出た。
彼の亜麻色の髪とヘーゼルの瞳が美貌に華を添えており、貴族の若様のごとき気品にあふれている。
「プロモーションCMが受賞できたのは光栄なことです。ですが、今回の賞をいただけたのは、もちろん僕だけの力ではありません。チームが一丸となって制作した結果、お客様の要望に応えることができました」
甘く掠れた声で述べる神宮寺さんを、女性社員たちはうっとりして眺めている。
大手の広告代理店である『吉報パートナーズ』の企画営業部では様々な広告とプロモーション案件を担っているのだが、このたび新規プロジェクトとしてプロモーションCMが制作された。その作品が評価され、とある広告賞の企画部門を受賞したのだ。
案件統括を行ったチームリーダーは、神宮寺刹那である。
彼の実力は遺憾なく発揮されたわけだが、その正体を知っている私は少々複雑な思いがする。
実は、彼の正体は鬼神の羅刹なのだ。
四天王の多聞天を主とし、夜叉と対になる存在である。鬼衆協会の一員でもある羅刹は、いわば仲間の鬼神だ。
ところが羅刹ときたら、私に求婚して柊夜さんを挑発し、挙げ句に悠をさらって私を花嫁にしようと企んだ。神世へ行った私たちは洞窟を経て羅刹の居城へ赴き、無事に子どもたちを救出したのだった。
柊夜さんと対決した羅刹は敗れたけれど、その翌日には何事もなかったかのように会社に出勤してきたので唖然としたものだ。
しかも頬や口端にできた傷のことを訊ねられると、彼は平然として『悪い女に噛まれました』と答えたのだ。黙然として聞いていた私の頬が引きつったのは言うまでもない。事実と相違ありますと言えないのがつらい。
まるで性悪イケメンの代表格のような男である。さすがは鬼神だ。執念深い柊夜さんに引けを取らない。
和やかな空気で朝礼を終え、私はデスクに戻ってきた。
座席に座ろうと椅子を引くと、デスクに手をついた羅刹が横から美麗な笑みを向けてくる。
「星野さん、ありがとう。きみに協力してもらったおかげだよ」
「私は微々たる助力をしただけですから。受賞できたのは神宮寺さんの実力ですよ」
職場では旧姓で呼ばれているものの、一歩会社を出ると羅刹は堂々と私を名前で呼ぶのが困りものだ。
挨拶だけで済むはずもなく、羅刹は身をかがめてきた。彼の吐息が耳にかかるほど顔が近づく。
「それじゃあ、ご褒美が欲しいな。ふたりきりのディナーで妥協してあげるよ。高級レストランを予約しておくね」
「なにが妥協なのかまったく理解不能なんですけど。鬼が荒ぶってしまうので、ご遠慮しますね」
「それは怖いね。僕はいかなるときでも怒ったりしないよ。優しくエスコートしてあげる」
どの口が言うのかな?
柊夜さんと戦ったときは鬼神の本性を露わにして激高したのを見たんですけども。
呆れた私が乾いた笑いを漏らすと、ふいに漆黒の影がゆらりと被さってきた。
「なんの相談をしている。上司である俺に報告したまえ」
鬼の形相を浮かべた柊夜さんが、地獄の支配者のような低音を響かせた。
こうなると思った……。
「なんでもありません、鬼山課長。では私は業務に入りますね」
さらりと述べて座ろうとするが、なぜか体が動かせない。
デスクに手をついた柊夜さんが身を寄せてきて、抱え込まれるようにされていたからだ。
私の左半身は羅刹が同じように捕獲済みである。
ふたりの鬼神がぎゅうぎゅうに挟み込んでくるため、身動きがとれない。
柊夜さんは鋭い眼差しで、眼鏡越しに羅刹をにらみつけた。
「懲りないやつだ。俺の妻は身重だ。彼女の心身に負担をかけないためにも、間男は身を引いたらどうだ」
ふたりめの子の名前は、『凜』に決まった。
柊夜さんはそっと私のお腹をてのひらで触れると、深みのある声で話しかける。
「いいか、凜。パパからのお願いだ。ママにあまり心配をかけるんじゃないぞ」
「柊夜さんったら……。凜はもう眠ってますよ」
ふたりで微笑みを交わすと、室内に穏やかな空気が満ちる。
柊夜さんに相談できてよかった。私たちは夫婦なのだから、ともに悩み、ともに笑うのだということを改めて胸に刻んだ。
企画営業部のフロアに、盛大な拍手が響き渡る。
「大変喜ばしいことだ。神宮寺さん、ひとこと挨拶をどうぞ」
課長の柊夜さんから名前を呼ばれた男性は喝采の中、堂々とした足取りでみんなの前へ出た。
彼の亜麻色の髪とヘーゼルの瞳が美貌に華を添えており、貴族の若様のごとき気品にあふれている。
「プロモーションCMが受賞できたのは光栄なことです。ですが、今回の賞をいただけたのは、もちろん僕だけの力ではありません。チームが一丸となって制作した結果、お客様の要望に応えることができました」
甘く掠れた声で述べる神宮寺さんを、女性社員たちはうっとりして眺めている。
大手の広告代理店である『吉報パートナーズ』の企画営業部では様々な広告とプロモーション案件を担っているのだが、このたび新規プロジェクトとしてプロモーションCMが制作された。その作品が評価され、とある広告賞の企画部門を受賞したのだ。
案件統括を行ったチームリーダーは、神宮寺刹那である。
彼の実力は遺憾なく発揮されたわけだが、その正体を知っている私は少々複雑な思いがする。
実は、彼の正体は鬼神の羅刹なのだ。
四天王の多聞天を主とし、夜叉と対になる存在である。鬼衆協会の一員でもある羅刹は、いわば仲間の鬼神だ。
ところが羅刹ときたら、私に求婚して柊夜さんを挑発し、挙げ句に悠をさらって私を花嫁にしようと企んだ。神世へ行った私たちは洞窟を経て羅刹の居城へ赴き、無事に子どもたちを救出したのだった。
柊夜さんと対決した羅刹は敗れたけれど、その翌日には何事もなかったかのように会社に出勤してきたので唖然としたものだ。
しかも頬や口端にできた傷のことを訊ねられると、彼は平然として『悪い女に噛まれました』と答えたのだ。黙然として聞いていた私の頬が引きつったのは言うまでもない。事実と相違ありますと言えないのがつらい。
まるで性悪イケメンの代表格のような男である。さすがは鬼神だ。執念深い柊夜さんに引けを取らない。
和やかな空気で朝礼を終え、私はデスクに戻ってきた。
座席に座ろうと椅子を引くと、デスクに手をついた羅刹が横から美麗な笑みを向けてくる。
「星野さん、ありがとう。きみに協力してもらったおかげだよ」
「私は微々たる助力をしただけですから。受賞できたのは神宮寺さんの実力ですよ」
職場では旧姓で呼ばれているものの、一歩会社を出ると羅刹は堂々と私を名前で呼ぶのが困りものだ。
挨拶だけで済むはずもなく、羅刹は身をかがめてきた。彼の吐息が耳にかかるほど顔が近づく。
「それじゃあ、ご褒美が欲しいな。ふたりきりのディナーで妥協してあげるよ。高級レストランを予約しておくね」
「なにが妥協なのかまったく理解不能なんですけど。鬼が荒ぶってしまうので、ご遠慮しますね」
「それは怖いね。僕はいかなるときでも怒ったりしないよ。優しくエスコートしてあげる」
どの口が言うのかな?
柊夜さんと戦ったときは鬼神の本性を露わにして激高したのを見たんですけども。
呆れた私が乾いた笑いを漏らすと、ふいに漆黒の影がゆらりと被さってきた。
「なんの相談をしている。上司である俺に報告したまえ」
鬼の形相を浮かべた柊夜さんが、地獄の支配者のような低音を響かせた。
こうなると思った……。
「なんでもありません、鬼山課長。では私は業務に入りますね」
さらりと述べて座ろうとするが、なぜか体が動かせない。
デスクに手をついた柊夜さんが身を寄せてきて、抱え込まれるようにされていたからだ。
私の左半身は羅刹が同じように捕獲済みである。
ふたりの鬼神がぎゅうぎゅうに挟み込んでくるため、身動きがとれない。
柊夜さんは鋭い眼差しで、眼鏡越しに羅刹をにらみつけた。
「懲りないやつだ。俺の妻は身重だ。彼女の心身に負担をかけないためにも、間男は身を引いたらどうだ」