「なにか」
 緊張を孕んだ春馬の双眸は、まっすぐに私を見つめていた。
 唇を震わせて、声を絞り出す。
「私……妊娠しているの。あなたの赤ちゃんが、お腹にいるのよ」
 告白した刹那、逞しい腕に抱きしめられる。
 春馬の強靱な腕の中に包まれ、私の居場所はここなのだと、はっきり胸のうちで感じた。
「俺の子を産んでくれ」
「……私も、あなたの子を産みたい。でも……あなたと別れたくない」
 ためらいながら口にすると、腕の力をゆるめた春馬は私の顔を覗き込んだ。
「子を産むと、なぜ俺と別離することになるのだ?」
「だって、政略結婚の条件として、春馬は世継ぎを欲しがっていたでしょう?」
「いかにも」
「世継ぎが生まれたら、目的は果たされるわ。そうしたら私はもう、あなたに愛されなくなると思って……」
 意外なことを聞いたかのように、春馬は目を見開く。
 やがてその双眸を細めると、彼は私の髪を優しく撫でた。いつも褥で、そうするように。
「世継ぎが欲しいと言ったのは、決して一族のためだけではない。俺は、家族が欲しかったのだ。婚姻を結んだ俺たちは新しい家族となり、子を育て、末永く幸せに暮らす。その望みは、おまえと触れ合っているうちに確信に変わった。凜は、俺が家族だと言ってくれたな。俺は、凜と家族になるという夢を、ともに叶えたい」
 家族が欲しいという当たり前のはずの願いが、彼の胸のうちにあったのだった。
 私たちは夫婦であり、そして家族でもある。
 春馬は言葉を紡いだ。
「ゆえに、世継ぎができたからといって、凜を見限るなどありえぬ。凜が胎児だったときに夜叉の居城で惹かれ、そして赤子だったおまえを二十年後に迎えに行くと約束し、ようやく花嫁にもらいうけたのだ。心優しく愛情にあふれるおまえと、どうして別れることができるものか」
 彼の想いが胸の奥深くまで染み入る。
 私は妊娠した動揺から不安を募らせ、春馬に見放されるという思い違いをしていたのだと知った。
「私は、ずっとあなたのそばにいてもいいのね」
「無論だ。俺の愛する妻を、離すことなどない」
 力強く告げた春馬が、精悍な顔を傾ける。
 大好きな碧色の瞳を見つめた私は、そっと瞼を閉じた。
 優しいくちづけを交わすと、彼への愛しさが込み上げる。
 春馬は懐から取り出した小さなものを、私の左手の薬指にはめた。
「あ……これ……」
 白銀に光る結婚指輪は、真紅の紅葉の中で煌めきを放つ。
「高価な着物ばかりもらえないと、おまえは言っていた。ならば俺たちは正式な夫婦なのだから、結婚指輪を贈りたい」
 指輪をもらえるだなんて思ってもみなかったので、胸に感激があふれる。
 もうひとつ、おそろいでサイズが大きめの指輪を、春馬は指先で摘まむ。こちらは彼の結婚指輪だ。
 私の手ではめてあげたいので、指輪を受け取る。緊張に手を震わせて、春馬の指に通した。
 互いの薬指には、夫婦の証が輝いている。
「ありがとう……。おそろいのものを身につけられるなんて嬉しい」
「この指輪は、おまえを必ず幸せにするという誓いと思ってくれ」
 私はもう充分に幸せだった。なぜなら春馬は母との約束を守り、私を笑顔にしてくれたのだから。
 そしてこれからも、子どもが生まれたら、三人で笑い合える。
 さらに春馬は、もうひとつの指輪を取り出した。
「えっ……それは、誰のための指輪なの?」
 とても小さな指輪は、私の小指にも入らないほどだ。
 第三の指輪を、春馬は私のてのひらに握らせた。
「これは、生まれてくる赤子の指輪だ」
 赤ちゃんの、指輪……。
 彼は私が妊娠したことを、たった今、知ったはずだ。
 それなのに赤ちゃんの分の指輪も、前もって用意してくれていたのだ。
「もしかして、春馬は赤ちゃんのことを前から考えていたの?」
「おまえを愛しているのだから、いずれ子を孕むと考えていた。愛する家族を守るのが俺の望みなのだから」
 私の脳裏には、子どもたちに囲まれて幸せそうに笑う春馬の姿が浮かんだ。冷徹な鬼神ではあるけれど、同時に彼は家族を慈しむ父親になる。
 私も、彼とともに幸福な未来へ向かっていける。至上の幸せに、眦から涙がこぼれ落ちる。
 頬を伝う雫を、春馬の指先がそっと拭った。
「この涙は、悲しいのではないな?」
「……嬉しいの。幸せで、涙がこぼれるの……」
 初夜の感激を繰り返し、泣いてしまう。
 春馬の優しさに、愛情が胸からあふれた。
 夫婦として彼を慈しみ、大切にしよう。生まれてくる赤ちゃんとともに、家族になろう。
 その誓いを刻み、私は笑顔を見せた。
「笑ってくれたな。おまえの笑顔は、幸せの証だ」
「春馬も笑顔になっているわ。あなたの笑顔は、とても素敵ね……」
 微笑みを交わした私たちは手をつないだ。ふたりで、生まれてくる子の指輪を温めながら。
 紅葉の敷き詰められた真紅の道は、私の瞳の焔と同じ色をしていた。
 もう、うつむくことはない。私は春馬とともに、未来への道を歩んでいった。