夜叉の鬼神と身籠り政略結婚三~夜叉姫は生贄花嫁~

 そういえば月経は遅れている。一週間ほど遅れることはよくあったので、気にとめていなかった。妊娠したら子宮に赤ちゃんがいるので、当然月経は来なくなる。
 お手洗いの棚を探った母は、細長い箱を取り出す。
「買い置きがあったよ。このスティックに尿をかけると、妊娠しているか判定できるから」
 母が取り出したのは、妊娠検査薬だった。
 これまで誰とも交際したことがない私は、検査薬を手に取るのは初めてである。
 どきどきしながら箱を開封して説明書を読む。検査薬の蓋を外して、採尿部に尿をかけると、hCGホルモンの濃度により妊娠の判定が行える。判定窓に青いラインが出ると陽性。終了の線は出ていても、ラインが出なければ陰性だ。
 もちろん、妊娠していたら陽性反応になる。
 hCGホルモンは妊娠中の女性特有のホルモンであり、受精卵の着床後に分泌が始まるそうなので、妊娠していないのに陽性反応を示すということは考えにくい。
 結果は、一分後に判定できると書かれている。
 つまり妊娠していたら、すぐに判別できてしまうほど、体は明瞭に作り替えられているのだ。
 検査薬を手にして顔を曇らせていると、母は応援するように拳を握りしめる。
「不安だと思うけど、すぐに調べたほうがいいと思うの。もし妊娠していたら、赤ちゃんを大切にお腹の中で育てないといけないから」
「検査してみるわ……。陰性の可能性もあるわけだしね」
 まだ妊娠と決まったわけではない。母は期待しているようだが、先ほどの吐き気は体調不良による胃の不快感だと思えてきた。そんなことは今までにも、よくあることだった。
 そんなにすぐに妊娠するものとも思えない。体調不良と月経の遅れが重なるのは珍しくもない。
 そう思い直した私は、お手洗いへ入った。
 緊張しつつ白い体温計のような検査薬の蓋を外し、尿をかける。カバーを戻すと、判定窓の白い箇所に水分が染み込んでいくのを確認できた。真っ白のままだ……。
 複雑な気分で検査薬を手洗い場に置き、身支度を調える。そうしてから、もう一度検査薬に目を向けた。
「……えっ⁉」
 検査薬の判定窓部分に、青いラインが浮かび上がっている。
 先ほどは真っ白だと思ったのだが、あれは尿をかけた直後だったからなのか。
 手に取って検査薬を凝視する。終了窓と、判定窓のそれぞれに青いラインがくっきりと刻まれていた。
 判定結果は、陽性――。
「私……妊娠しているの……⁉」
 春馬の子を、身籠もってしまった。
 それがとてつもない大ごとに思えて、青ざめる。
 夜叉姫が帝釈天派の重鎮とも言える鳩槃荼の子を産んだら、その子はどうなってしまうのだろう。果たして何者になるのか。夜叉なのか、鳩槃荼なのか。とても不安定な地位に陥ってしまいそうな気がする。
 それに春馬は政略結婚の条件として、必ず世継ぎが欲しいと宣言していた。彼の目的は世継ぎをもうけることだから、妊娠してしまったら、私はもう用済みになるのではないか。
 途端に、愛し合った日々が遠くなる。
 私が子を産んだら、もう彼のそばにはいられなくなる……?
 愕然としてドアを開けると、母が心配げな顔をして待っていた。
「お母さん……私……妊娠してた……」
 妊娠検査薬を見せると、母は喜びを弾けさせる。
「おめでとう、凜!」
 ぎゅっと抱きつかれた私は、訝しげに眉をひそめた。
 なにが、おめでとうなのだろう。
 母は人間だから、まったくわかっていないのだ。孕んだことで、私が不幸になるかもしれないことに。
 胸に不安が渦巻き、気分が悪くなる。
 母に支えられながらダイニングへ戻ると、廊下での会話が漏れ聞こえたのか、着席している父と兄の間には気まずい空気が満ちていた。
 父は険しい顔つきで、こちらをにらむ。
「妊娠だとか聞こえたが。誰が妊娠したのだ。説明を求める」
 言葉に詰まった私はうつむいた。そんな私と父を見比べた母は、明るい笑みを浮かべる。
「凜は、おめでたです!」
 母の祝福の声のあと、室内には沈黙が下りた。
 当然かもしれない。私が春馬の子を産んだら、夜叉一族の未来が変わるかもしれないのだから。
「鳩槃荼は懐妊を知っているのか?」
 父の質問に、力なく首を横に振る。
「なにも……。今、気づいたばかりなの」
「すぐに神世に戻れ。鳩槃荼にはこちらから知らせておく」
 その言葉に、弾かれたように顔を上げた。
 春馬にはまだ知られたくない。
「彼には言わないで!」
「なんだと⁉ 堕胎するつもりじゃないだろうな。自分の立場をわきまえろ」
 怒鳴りつけた父は真紅の瞳を燃え立たせる。
 困惑を浮かべた母が守るように、私の背に手を回した。
「柊夜さん、落ち着いてください。凜も興奮しないで。お願いだから、お腹の赤ちゃんを苦しませないで」
 背をさすられ、ソファに腰を下ろす。
 母の優しさが身に染みて、泣きそうになった。まだなにか言いたげだった父は口を噤んだ。
「……風天、外に出よう。コマとヤシャネコもおいで」
 席から立ち上がった兄が、しもべたちを連れて外へ出ていく。張りつめた家の空気に耐えられなくなったのだろう。
 母が持ってきてくれた麦茶を飲むと、気持ちは少し落ち着いた。
 まだ平らなお腹に手を当てる。妊娠したなんて実感はまるで湧かなかった。
 どうしよう……。
 春馬に、知らせるべきだろうか。
 けれど、彼の反応が怖い。
 喜んでくれたら嬉しい。でも、孕んだから結婚は解消だとか、そんなことになったら、どうしたらいいのか。
 春馬に愛されて幸せな日々だったのに、子どもができてこんなに不安になるなんて思わなかった。
「……お母さん。今日はうちに泊まってもいい?」
 父はすぐに神世に戻れと言ったけれど、気持ちの整理ができていなかった。
 春馬に会いたいのに、会いたくないという相反した想いが駆け巡り、胸が苦しい。
 母は私のそばに来ると、笑顔で言う。
「もちろんよ。ここは、凜の家なんだから。――そうでしょう、柊夜さん」
「……ああ。その通りだ」
 父は昔から母に甘い。惚れた弱みということだろうか。
 喜んだ母は、私の部屋のベッドに新しいシーツをかけると言って張り切った。
 私も手伝おうと、自室に入る。
 子どものときから使用していた勉強机はそのままで、室内は綺麗に掃除されていた。
「……お母さん。初めにお兄ちゃんを妊娠したとき、どうだった?」
 両親は授かり婚なので、妊娠が発覚したときは未婚だったはずだ。職場の上司と部下という関係で、交際していなかったと聞いている。
 新品のシーツを広げた母は、昔を懐かしむように双眸を細めた。
「あのときは、すごく戸惑ったよ。今の凜みたいにね。しかも誰も相談する人がいないから心細かったな……。でもすぐに柊夜さんはプロポーズしてくれたの。『俺の正体は夜叉だ』っていう告白つきでね。それでさらに戸惑ったけどね」
「お父さんらしいね。鬼神の花嫁は気苦労が多いのかな……」
「大変なこともいろいろあったけど、でもお母さんは柊夜さんと結婚できて、とっても幸せよ。家族がいてくれる幸福は何物にも代えられないって、出産してみてわかったな」
 父と知り合う前の母が孤独だったことを知らされる。母方の両親はいないので、母は結婚して初めて家族の愛情に触れたのだ。
 それに比べたら、私は両親の愛情に恵まれて育った。生まれたときからヤシャネコやコマがいて、家族に囲まれていた。
 春馬と、そんな幸福な家庭が作れるだろうか。
 お腹に手を当てては思い悩んでしまう。
 でも、自分の身がどうなったとしても、彼に愛された証である、この子を産みたい。
 その想いは強かった。授かった命が報われてほしい。
 粉々になった雷地から、命の核を取り出したときの光景が脳裏によみがえる。
 あのときと同じ気持ちだった。私は大切なものを守った雷地に、報われてほしいと願ったのだ。
 彼は果たして報われたのか。答えはもうすぐ出ることになる。

 翌日、私たちは風天を連れて外出した。
 風天を、とある人物に合わせるため、近所の公園へ向かう。
 せっかく現世に来てもらったのに、私の妊娠のことで騒がせてしまった。一晩考えても答えは出ず、懊悩が続いただけだった。
「風天、ごめんね。昨日はうちの事情で大騒ぎして」
「とんでもございません。わたくしは夜叉のしもべですから、見聞きしたことは内密にいたします」
 風天は無表情でついてくる。現世では疲労が溜まるのか、彼女の羽衣は力なく垂れていた。
 後ろには、ヤシャネコと兄が続く。ぶらりと散歩するといった様相で、彼らは木々の紅葉を眺めていた。
 紅葉の色づきを目にした私は、はっとさせられる。
 春馬と再会したときは紫陽花が咲いていたのに、いつの間にか季節は流れてしまったのだ。季節の移ろいに気づかないほど彼との恋愛に溺れていたのかと思うと、かつては友人すらいなかった自分の変化に驚いてしまう。
 ややあって、一行は公園に到着した。
 子どもの頃はよく遊んだ公園は住宅地のそばにあり、すべり台や砂場などがあるだけの小さなものだ。
 いつの間にか遊具がとても小さくなったと感じていると、ベンチのそばにいた人物がこちらに気づく。
 無邪気な表情を浮かべた青年は、私たちに声をかけた。
「凜ちゃん、悠! 久しぶりだね」
「……大地くん⁉ 身長が伸びたわね。誰なのかわからなかったわ」
 幼なじみの高梨大地は、すらりとした好青年に成長していた。小さな頃はよく遊んでいたが、小学生のときに彼は別の地区に引っ越していったので、会うのはそれ以来になる。もとは母親同士が会社の同僚で、子どもが生まれたら友達になろうと約束したそうだ。
 それに、彼と仲良く遊べたのにはもうひとつの理由がある。
「ヤシャネコだ! 変わらないなぁ」
「大地くん、久しぶりにゃ~ん。大人になっても、おいらが見えるにゃんね」
「今も、あやかしが見えるんだよ。子どもの頃だけかと思ってたのにな」
 大地はヤシャネコと握手を交わした。
 春馬に話したことがあるが、彼こそが生粋の人間なのにあやかしが見える、唯一の友人だった。そして生まれる前の記憶があると言って、私と兄に話して聞かせた不思議な男の子だ。
 その意味を、私は時を経て気づかされた。
 私たちの背後に佇む風天に、大地は目を向けた。
「その女の子も……あやかしだよね?」
 大地と目を合わせた風天は、ぶるぶると体を震わせる。常に冷静な彼女の双眸はいっぱいに見開かれ、表情には驚愕が浮かんでいた。
「ら、雷地……。あなたは、雷地なのですか……?」
 あやかしの雷地の姿を、おぼろげにしか覚えていない私にはわからないが、大地はかつての雷地とよく似ているらしい。
 彼女のそばに膝をついた大地は、まっすぐに風天を見た。
「きみは……やっぱりそうだ! ぼくが前世で一緒に暮らしていた女の子だ。何度もふたりで空を飛んだよ。夢じゃない。きみは本当に実在したんだね」
「あ……あ……覚えているのですか?」
「もちろんだよ。ぼくには生まれる前の記憶があるんだ。ぼくときみは夫婦みたいな関係で、城に住んでいたんだ。でも悪い鬼に襲われて、きみをかばったぼくは死んでしまう。そうだよね?」
 大地の話に息を呑んだ風天は、ぎこちなく頷く。
 私が空に捧げた命の核は現世へ向かい、高梨大地という人間として生まれ変わったのだった。前世があやかしだった名残で記憶のかけらが残留し、あやかしが見えるという体質を持って生まれたのだろう。
 母の同僚の女性から大地が生まれたのも、単なる偶然とは思えなかった。
 私は自らのてのひらを広げて、じっと見る。
『ずっと胎動がこなかったのに、高梨さんが触れたら動いてくれたんです!』
 嬉しそうな母の声が、記憶の彼方から届く。
 あのとき私は、子どものいない高梨さんの切ない告白を聞いていた。彼女が子どもを授かったらいいなと、母のお腹の中で思ったのだ。
 悲しい思いをした人たちが報われてほしかった。だから雷地の命の核を、高梨さんの胎内に宿した……。
 兄はヤシャネコを抱っこして、呑気にすべり台を滑っている。大地に連絡を取り、呼び出しただけであとは任せるつもりらしい。
 神妙な顔をした風天は、大地に訊ねた。
「わたくしは、ずっとあなたに問いたいことがありました。それを二十年、わたくしの胸に問いかけても答えは出ませんでした」
「どんなことかな?」
「なぜ、わたくしをかばったのですか? あのとき、あなたはわたくしと悠さまの前に出て、両手を広げました。そうしなければ死ぬのは、わたくしのほうでした。どうしてあなたはわざと犠牲になったのです」
 切々と訴えた風天に、大地は朗らかな笑みを見せる。
「そんなこと、答えは簡単だよ! きみのことが好きだからさ」
「……はい?」
「きみが大切だから、生きてほしかったんだ。だってぼくたちは夫婦なんだから」
 その答えに、風天の金色の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 常に平淡な彼女が見せる感情の発露は、大地に見せるべく、ずっと抱え続けていたものではないだろうか。
 風天の涙はこの世のどんな宝石よりも美しく、そして切なかった。
 震える唇で、風天は声を絞り出す。
「……今、あなたは、幸せですか?」
「もちろん幸せだよ。ぼくは両親に愛されて、こうして大人になれた。それに……きみに、また会えたからね」
 風天の小さな手を取った大地は微笑みかける。
 流れる雫で頬を濡らしながら、風天は目を見開き、大地の姿を焼きつけていた。
「……ありがとう。わたくしは、その言葉をあなたに告げたかったのでした」
 ふたりは時を経て、巡り会えた。
 死が引き裂いた悲しい結末のその先に、温かい言葉を交わすふたりを見守る。
 真紅のもみじが、ひらりと舞い落ちる。
 あやかしの少女と人間の青年は、いくつものもみじが舞い散る中、手をつないで見つめ合っていた。
 穏やかな秋の空は、鰯雲が綺麗に並んで泳いでいる。
 大地と別れて公園から帰る道すがら、私たちは充実感の中にも、どこか物悲しさを漂わせた。
「風天……、彼に会えて、よかった?」
 不幸にも死した雷地の行く末が幸せなものだったとわかり、当時の雷地の想いも知ることができた。
 だが、大地はもはや雷地ではなく、風天のつがいとして戻ってくるわけではないのだ。
 私に問いかけられた風天は目を伏せる。人形のような彼女のつるりとした頬には、涙の痕があった。
「わたくしは、ずっと後悔していました。なぜ雷地を死なせてしまったのかと。ですが、あの方は、わたくしを好きだと、夫婦だと言ってくれました。やはり雷地もそのように考えて、わたくしを守ってくれたのでしょう。彼の思いやりが身に染みました」
「そうね……。風天を大切にしていたから、雷地はあなたを守ったのだわ」
「感謝いたします。雷地の望み通り、彼は人間としての生を得ました。凜さまが、雷地の命のかけらをすくい上げてくださったおかげでございます」
「あのときのことは私も、うっすらとしか覚えていないの。でも、雷地を救いたいと思ったのだわ」
 忌避していた私の能力が、誰かを救った。そのことに、私自身が救われたのだった。
 ヤシャネコを連れた兄は、言いにくそうに切り出す。
「でもさ……ふたりは夫婦に戻れるわけじゃないよな。風天と雷地は別々の道を歩むことになったんだ。それはいいのかい?」
 あやかしの風天は現世に居続けられるわけではなく、夜叉の居城に戻り、引き続き城の守護にあたる。そして大地は前世の記憶を持つとはいえ、それは過去のことであり、彼のこれからの人生でほかの誰かと結婚するかもしれないのだ。
 風天は柔らかな笑みを浮かべた。
 いつも無表情だった彼女が見せた、初めての笑顔は穏やかなものだった。
「彼には人間として幸せな一生を送ってもらいたいのです。かつて私を守ってくれたように、大地さまの愛する人を守ってほしい。それがわたくしの願いでございます」
 風天の思いやりに満ちた言葉に、彼女の心が変化したのだと感じた。
 ふたりは惹かれ合って、つがいになったわけではないかもしれない。
 けれど雷地の勇気ある行動により、夫婦の絆は結ばれたのだった。
 私も……春馬と絆の結ばれた夫婦になりたい。
 自分の立場がどうなるかばかりを考え、不安に陥ってはいけない。彼への思いやりをもって接することが大切なのだと胸に刻む。
 春馬の碧色の双眸を愛しく思い出してしまう。
 彼に会って、話したい。子どものこと、そして、これからのことを。
 そっと、お腹に手を当てたとき、もみじがひらりと舞い降りた。
「ピュイ」
 ふと聞こえた鳥の鳴き声に、顔を上げる。
 真紅に染まったもみじの枝にとまったコマが、こちらに呼びかけていた。
「おかえり、コマ。ご苦労だったね」
 姿が見えないと思ったが、兄が用事を頼んでいたようだ。
 羽ばたいたコマは、なぜか兄の肩にはとまらず、道の向こうまで飛んでいく。
 落葉の敷き詰められた道に佇んでいた人物の姿に、はっとした。
「春馬……」
 静謐な双眸でこちらを見ている春馬に、胸が高鳴る。
 春馬の姿を示したコマは、ようやく兄の肩に降り立った。
「僕がコマに伝えさせたんだ。妹は現世に来ているってね。僕がさらったと思われたら、困るだろ?」
 見つめ合う私と春馬を置いて、兄はしもべたちを連れて帰っていった。
 真紅の道に、私たちは無言で佇んでいた。
 やがて春馬はこちらに歩み寄る。
 会いたかった――。
 あふれる想いが胸を占める。
 けれど、もう彼とはこれまでと同じ関係ではいられなくなる。お腹には、彼の子がいるのだから。
 いたたまれなくて、私は目を伏せた。
「心配したぞ」
 すいと私の手をすくい上げた春馬は、キャンパスで出会ったときのように、指先にくちづけた。
 彼の唇の熱さが、懐かしくて愛しい。
「どうして……来てくれたの?」
「俺の花嫁を、何度でも迎えに来よう」
「……あなたに、言わなくてはいけないことがあるの。とても大事なことなの……」
「なにか」
 緊張を孕んだ春馬の双眸は、まっすぐに私を見つめていた。
 唇を震わせて、声を絞り出す。
「私……妊娠しているの。あなたの赤ちゃんが、お腹にいるのよ」
 告白した刹那、逞しい腕に抱きしめられる。
 春馬の強靱な腕の中に包まれ、私の居場所はここなのだと、はっきり胸のうちで感じた。
「俺の子を産んでくれ」
「……私も、あなたの子を産みたい。でも……あなたと別れたくない」
 ためらいながら口にすると、腕の力をゆるめた春馬は私の顔を覗き込んだ。
「子を産むと、なぜ俺と別離することになるのだ?」
「だって、政略結婚の条件として、春馬は世継ぎを欲しがっていたでしょう?」
「いかにも」
「世継ぎが生まれたら、目的は果たされるわ。そうしたら私はもう、あなたに愛されなくなると思って……」
 意外なことを聞いたかのように、春馬は目を見開く。
 やがてその双眸を細めると、彼は私の髪を優しく撫でた。いつも褥で、そうするように。
「世継ぎが欲しいと言ったのは、決して一族のためだけではない。俺は、家族が欲しかったのだ。婚姻を結んだ俺たちは新しい家族となり、子を育て、末永く幸せに暮らす。その望みは、おまえと触れ合っているうちに確信に変わった。凜は、俺が家族だと言ってくれたな。俺は、凜と家族になるという夢を、ともに叶えたい」
 家族が欲しいという当たり前のはずの願いが、彼の胸のうちにあったのだった。
 私たちは夫婦であり、そして家族でもある。
 春馬は言葉を紡いだ。
「ゆえに、世継ぎができたからといって、凜を見限るなどありえぬ。凜が胎児だったときに夜叉の居城で惹かれ、そして赤子だったおまえを二十年後に迎えに行くと約束し、ようやく花嫁にもらいうけたのだ。心優しく愛情にあふれるおまえと、どうして別れることができるものか」
 彼の想いが胸の奥深くまで染み入る。
 私は妊娠した動揺から不安を募らせ、春馬に見放されるという思い違いをしていたのだと知った。
「私は、ずっとあなたのそばにいてもいいのね」
「無論だ。俺の愛する妻を、離すことなどない」
 力強く告げた春馬が、精悍な顔を傾ける。
 大好きな碧色の瞳を見つめた私は、そっと瞼を閉じた。
 優しいくちづけを交わすと、彼への愛しさが込み上げる。
 春馬は懐から取り出した小さなものを、私の左手の薬指にはめた。
「あ……これ……」
 白銀に光る結婚指輪は、真紅の紅葉の中で煌めきを放つ。
「高価な着物ばかりもらえないと、おまえは言っていた。ならば俺たちは正式な夫婦なのだから、結婚指輪を贈りたい」
 指輪をもらえるだなんて思ってもみなかったので、胸に感激があふれる。
 もうひとつ、おそろいでサイズが大きめの指輪を、春馬は指先で摘まむ。こちらは彼の結婚指輪だ。
 私の手ではめてあげたいので、指輪を受け取る。緊張に手を震わせて、春馬の指に通した。
 互いの薬指には、夫婦の証が輝いている。
「ありがとう……。おそろいのものを身につけられるなんて嬉しい」
「この指輪は、おまえを必ず幸せにするという誓いと思ってくれ」
 私はもう充分に幸せだった。なぜなら春馬は母との約束を守り、私を笑顔にしてくれたのだから。
 そしてこれからも、子どもが生まれたら、三人で笑い合える。
 さらに春馬は、もうひとつの指輪を取り出した。
「えっ……それは、誰のための指輪なの?」
 とても小さな指輪は、私の小指にも入らないほどだ。
 第三の指輪を、春馬は私のてのひらに握らせた。
「これは、生まれてくる赤子の指輪だ」
 赤ちゃんの、指輪……。
 彼は私が妊娠したことを、たった今、知ったはずだ。
 それなのに赤ちゃんの分の指輪も、前もって用意してくれていたのだ。
「もしかして、春馬は赤ちゃんのことを前から考えていたの?」
「おまえを愛しているのだから、いずれ子を孕むと考えていた。愛する家族を守るのが俺の望みなのだから」
 私の脳裏には、子どもたちに囲まれて幸せそうに笑う春馬の姿が浮かんだ。冷徹な鬼神ではあるけれど、同時に彼は家族を慈しむ父親になる。
 私も、彼とともに幸福な未来へ向かっていける。至上の幸せに、眦から涙がこぼれ落ちる。
 頬を伝う雫を、春馬の指先がそっと拭った。
「この涙は、悲しいのではないな?」
「……嬉しいの。幸せで、涙がこぼれるの……」
 初夜の感激を繰り返し、泣いてしまう。
 春馬の優しさに、愛情が胸からあふれた。
 夫婦として彼を慈しみ、大切にしよう。生まれてくる赤ちゃんとともに、家族になろう。
 その誓いを刻み、私は笑顔を見せた。
「笑ってくれたな。おまえの笑顔は、幸せの証だ」
「春馬も笑顔になっているわ。あなたの笑顔は、とても素敵ね……」
 微笑みを交わした私たちは手をつないだ。ふたりで、生まれてくる子の指輪を温めながら。
 紅葉の敷き詰められた真紅の道は、私の瞳の焔と同じ色をしていた。
 もう、うつむくことはない。私は春馬とともに、未来への道を歩んでいった。

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