「なにも……。今、気づいたばかりなの」
「すぐに神世に戻れ。鳩槃荼にはこちらから知らせておく」
 その言葉に、弾かれたように顔を上げた。
 春馬にはまだ知られたくない。
「彼には言わないで!」
「なんだと⁉ 堕胎するつもりじゃないだろうな。自分の立場をわきまえろ」
 怒鳴りつけた父は真紅の瞳を燃え立たせる。
 困惑を浮かべた母が守るように、私の背に手を回した。
「柊夜さん、落ち着いてください。凜も興奮しないで。お願いだから、お腹の赤ちゃんを苦しませないで」
 背をさすられ、ソファに腰を下ろす。
 母の優しさが身に染みて、泣きそうになった。まだなにか言いたげだった父は口を噤んだ。
「……風天、外に出よう。コマとヤシャネコもおいで」
 席から立ち上がった兄が、しもべたちを連れて外へ出ていく。張りつめた家の空気に耐えられなくなったのだろう。
 母が持ってきてくれた麦茶を飲むと、気持ちは少し落ち着いた。
 まだ平らなお腹に手を当てる。妊娠したなんて実感はまるで湧かなかった。
 どうしよう……。
 春馬に、知らせるべきだろうか。
 けれど、彼の反応が怖い。
 喜んでくれたら嬉しい。でも、孕んだから結婚は解消だとか、そんなことになったら、どうしたらいいのか。
 春馬に愛されて幸せな日々だったのに、子どもができてこんなに不安になるなんて思わなかった。
「……お母さん。今日はうちに泊まってもいい?」
 父はすぐに神世に戻れと言ったけれど、気持ちの整理ができていなかった。
 春馬に会いたいのに、会いたくないという相反した想いが駆け巡り、胸が苦しい。
 母は私のそばに来ると、笑顔で言う。
「もちろんよ。ここは、凜の家なんだから。――そうでしょう、柊夜さん」
「……ああ。その通りだ」
 父は昔から母に甘い。惚れた弱みということだろうか。
 喜んだ母は、私の部屋のベッドに新しいシーツをかけると言って張り切った。
 私も手伝おうと、自室に入る。
 子どものときから使用していた勉強机はそのままで、室内は綺麗に掃除されていた。
「……お母さん。初めにお兄ちゃんを妊娠したとき、どうだった?」
 両親は授かり婚なので、妊娠が発覚したときは未婚だったはずだ。職場の上司と部下という関係で、交際していなかったと聞いている。
 新品のシーツを広げた母は、昔を懐かしむように双眸を細めた。
「あのときは、すごく戸惑ったよ。今の凜みたいにね。しかも誰も相談する人がいないから心細かったな……。でもすぐに柊夜さんはプロポーズしてくれたの。『俺の正体は夜叉だ』っていう告白つきでね。それでさらに戸惑ったけどね」
「お父さんらしいね。鬼神の花嫁は気苦労が多いのかな……」
「大変なこともいろいろあったけど、でもお母さんは柊夜さんと結婚できて、とっても幸せよ。家族がいてくれる幸福は何物にも代えられないって、出産してみてわかったな」
 父と知り合う前の母が孤独だったことを知らされる。母方の両親はいないので、母は結婚して初めて家族の愛情に触れたのだ。
 それに比べたら、私は両親の愛情に恵まれて育った。生まれたときからヤシャネコやコマがいて、家族に囲まれていた。
 春馬と、そんな幸福な家庭が作れるだろうか。
 お腹に手を当てては思い悩んでしまう。
 でも、自分の身がどうなったとしても、彼に愛された証である、この子を産みたい。
 その想いは強かった。授かった命が報われてほしい。
 粉々になった雷地から、命の核を取り出したときの光景が脳裏によみがえる。
 あのときと同じ気持ちだった。私は大切なものを守った雷地に、報われてほしいと願ったのだ。
 彼は果たして報われたのか。答えはもうすぐ出ることになる。

 翌日、私たちは風天を連れて外出した。
 風天を、とある人物に合わせるため、近所の公園へ向かう。
 せっかく現世に来てもらったのに、私の妊娠のことで騒がせてしまった。一晩考えても答えは出ず、懊悩が続いただけだった。
「風天、ごめんね。昨日はうちの事情で大騒ぎして」
「とんでもございません。わたくしは夜叉のしもべですから、見聞きしたことは内密にいたします」
 風天は無表情でついてくる。現世では疲労が溜まるのか、彼女の羽衣は力なく垂れていた。