彼の甘い手管に搦め捕られて、愛を注がれるのは喜悦に満たされる。だからいつも断るなんてできなくて。
 甘美なキスに恍惚としていると、ふと気配を感じた。
 はっとして目を開けると、いつの間にかソファのそばに佇んでいた悠がこちらを凝視している。
 悠は接吻を交わしている私たちを指差した。
「ちゅー」
 慌てて手足をばたつかせ、柊夜さんの腕から逃れた。頬を引きつらせて悠を抱きかかえる。
「えっと、スズメさんはどうしたのかな?」
 ベランダに目を向けると、すでにスズメの姿はなかった。
 スズメが帰ったので、悠は飽きてしまったようだ。ベランダには、しもべたちだけが残っている。
 抱っこした我が子は私の顔を見て、唇を尖らせる。
「まま、ちゅー」
 悠はパパにそうするように、自分にもキスしてほしいとねだっている。我が子ながら最高に可愛い。
 頬をゆるめた私は、悠に顔を近づける。
 そのときソファから立ち上がった柊夜さんが、すかさず口を挟んできた。
「悠。ママとキスするのはパパだけだ。なにしろ俺はママが入社したその日からこの唇を狙って少しずつ業務上の会話を……」
「その話は長くなりそうなので、あとで聞きますから。――はい、ちゅー」
 執念深い夜叉の口上を遮り、ちゅっと悠のぷるぷるの唇にキスをする。
 満面の笑みを見せる悠に反し、柊夜さんは憮然としていた。
 あとから旦那さまの機嫌を取る必要がありそうだ。
 キャッキャと楽しげな悠の笑い声が、家族の集まるリビングを満たした。

 夕飯を終えると、柊夜さんが悠をお風呂に入れるのが日課となっている。
 ふたりがお風呂からあがったら、悠をパジャマに着替えさせる。そのあとはヤシャネコと遊ぶ悠を柊夜さんが見ていてくれるので、私が入浴するというルーティンだ。
 湯船に入って温まりながら、ふっくらとしたお腹をてのひらで触れる。
 入浴中は赤ちゃんが足で子宮を蹴り、胎動を感じることが多い。悠のときも妊娠後期は、暴れているのかと思うほど、ぐりぐり動いていた。
 けれど、この子は入浴中であろうと、ちっとも動いてくれない。
「どうしたのかな……。でも、異常はないみたいだし……」
 幸福な日常の中で、ふと心配事が射し込み、ひとりになったときに心が沈んでしまう。
 初胎動が遅れているだけならいいのだけれど。
 もしかして、生まれつき手足が動かせないだとか……。そうだとしたらどうしよう。
 自分の想像にぶるりと震えた私は涙目になってしまい、慌てて目元を拭う。
 この子のためにも、母親である私が不安ばかり募らせてはいけないのに。
 あとで、健診でもらったエコー写真をもう一度確認してみよう。
 頷いた私は、ぎゅっと赤ちゃんを抱きしめるように、お腹を抱きかかえた。

 湯上がりに脱衣所で着替えていると、子どもたちのにぎやかな声が響いてきた。リビングを覗くと、そこは無人だった。みんなは悠の部屋に行ったらしい。
 一室を悠の部屋にして、そこに玩具などを置いてある。ふたりめの子が生まれたら、悠が自分の部屋で寝られるようにしようと計画した柊夜さんが模様替えを行ったのだ。まだ一歳半なので、自室で勉強するのは先の話だけれど、子どもたちの部屋はいずれ必要になる。
「中学生くらいになったら、お兄ちゃんと妹は別の部屋にしないといけないよね……」
 お腹に手を当て、赤ちゃんに語りかけるように将来の展望をつぶやいた。
 兄と妹が喧嘩したりするのだろうか。微笑ましい未来を思い描き、頬をゆるませる。
 まずは無事に出産を迎えないと、なにも始まらないのだけれど。
 不穏なものを感じた私は、健診で撮影したエコー写真をバッグから取り出した。
 リビングのソファに腰かけ、じっくり現在の我が子を眺めてみる。
 頭部と体、そして手足……赤ちゃんの体の隅々まで見つめるが、特に変わったところはないように思える。
 妊娠六か月ともなると、赤ちゃんの骨と筋肉が発達して、体を回転させるローリング運動を行う時期だ。内耳が完成しているので、聴覚も鋭くなっている。
 胸に迫り上がる焦りは大きい。でも、「まだなの?」と我が子を急かしたくない。
 世間が無神経に訊ねる『結婚はまだなの?』『子どもはまだなの?』という心ない台詞に、いかに傷つくか知っているから。
 うつむいてエコー写真をじっと見つめていると、ふとそこに影が射し込んだ。
 はっとして顔を上げる。
 するとそこには、マグカップを携えた柊夜さんが表情を強張らせてこちらを見下ろしていた。
「あかり。なにかあったのか。ひどく思い悩んでいるようだが」