祖母を死に至らしめたときの帝釈天は許しがたいけれど、今こうして小さくなっている彼を断罪したくはない。
 私も幼子をなだめるように、そっと帝釈天の肩に触れる。
 すると、ぽつりと神世の主は言った。
「我が……悪かった。そなたたちの祖母を死なせて、すまぬ」
 謝罪した帝釈天は頭を垂れた。
 こんな姿を見たのは、私たちふたりだけではないだろうかという驚きが走る。
 けれどすぐに呻いた神世の主は私たちを押しのけると、ふてくされたように寝椅子に体を横たえた。

 書庫から出た兄と私は階段を上り、静謐な廊下を歩んでいく。
 すると、祖父と春馬がすでに控えの間の前で待ち構えていた。
「来たか、ふたりとも。事の次第は聞いていた」
 書庫にいた灯火のあやかしのひとつが、祖父の周囲をゆるりと飛んでいる。
 どうやら善見城のしもべを操っていたらしい。書庫での会話はすべて筒抜けだったのだ。
 兄は大きく嘆息する。
「おじいちゃんはとっくに真相を知っていたんだよね? でもそれを利用して、夜叉一族の地位を確保しようという算段だったのかな」
「口を慎め、悠。帝釈天に罪を認めさせたのは、おまえたちの功績だ。今後は協定を守ることに専念するのだ」
「僕はおじいちゃんの部下じゃないよ」
「おまえは夜叉の後継者としての自覚が足りぬ。だが凜は鳩槃荼の花嫁として、すでに和平協定を守るべき立場になったのだ。妹の気苦労を考えよ」
 苦言を呈した祖父に、兄は肩を竦める。
 協定のための政略結婚であることを思い出した私は、その重責に息を呑んだ。
「今さら僕が言うことじゃないかもしれないけど……凜は協定のための政略結婚に納得してるのか?」
 その質問に、黙している春馬が咎めるかのような視線を兄へ向けた。
 本当の初夜を迎えていない私たちは、夫婦とは言えないのではないか。つまり、協定を守るための務めを果たしていない。
 懊悩をとっさに隠し、私は即座に首肯する。
「もちろん。夜叉姫としての使命を果たすためだけじゃないわ。私自身が春馬と結婚したいと、希望したの」
「春馬? ああ……鳩槃荼を、そんなふうに呼んでいるんだね」
 もしかしたら、兄は私が花嫁としてやっていけるか心配なのかもしれない。
 私と同じ焔を宿した目を、兄はまっすぐに春馬へ向ける。
「妹は優しいから、それだけ傷つきやすいんだ。鳩槃荼に凜を守っていけるのか?」
 まるで春馬を品定めするような発言に、はっとした私は身を強張らせる。
 春馬の返事を聞くのが恐い。
 けれど彼は、ためらいなく答えた。
「無論。俺の命をかけて、凜を必ず守ろう」
「そうなんだ。でも、もしその誓いが覆されたとき、凜は返してもらうからね」
「承知した」
 力強く述べた春馬に安堵する反面、まるで離縁を望むかのような兄の言い分に戸惑いを覚える。
 兄は政略結婚を含めて、協定自体を快く思っていないことがうかがえた。
 ふたりのやり取りに重い溜息を吐いた祖父は、春馬に言い含める。
「凜を頼んだぞ、鳩槃荼。夜叉姫をほかの鬼神に奪われぬよう、気をつけろ」
「承知」
 結婚したことで協定が済んだわけではなかった。和平協定を快く思わない鬼神が存在し、私たちの仲を裂こうとする可能性もあるのだと、彼らのやり取りで知らされる。
 私は、協定を存続させるための大切な夜叉姫……。
 まるで自分が道具のように思えてしまうのは、私と春馬が夫婦としての絆を結んでいないゆえだろうか。
 祖父と兄が、私の行く末を案じての発言だとわかっているのに。
 懊悩を押し隠した私は、春馬とともに居城へ戻った。

 寝所の窓辺から夜空の星を見上げて、物思いに耽る。
 昨夜は春馬がここに座っていたけれど、広い床几にクッションが積み重ねられたスペースは、考え事があるときはちょうどよい場所だ。
 手枕をついて寝台に寝そべっている春馬は、こちらを眺めていた。
「そうしていると、凜が女神像のようだな。先ほどから、まったく動いていない」
「……瞬きはしているわ」
 ぼんやり答えると、身を起こした春馬は着流しの袂を翻して、そばにやって来た。私の背後に座り、彼は長い腕を回す。
 夜風で冷えた体が抱き込まれた。着物を通して、熱い腕にじんわりと温められる。