春馬は碧色の双眸を細める。
「今のしもべは、御嶽殿からの呼び出しか?」
「そ、そうね。顔が見たいだとか、そういうことだと思う。あなたと仲良く暮らしていることも報告したいと思っていたところだから、ちょうどよかった」
 意外にも春馬は、あっさり頷いた。
「では、ともに神世へ行こう。ただし、御嶽殿の屋敷や夜叉の居城に泊まってはならぬ。俺の城に花嫁として戻り、俺と同衾するのだ。御嶽殿と話す場はこちらで設けよう」
「もちろんよ。私は春馬の花嫁だもの」
 同衾とは、一緒の布団に入ることだ。今までと同じで、手をつないで眠るだけである。
 ひとまず神世へ行って祖父と話せれば、兄に会えるように取り計らってもらえるだろう。
 こうして私は鬼神の花嫁として、神世へ向かう決意を固めた。

 春馬に手を引かれた私は屋敷をあとにして闇の路を通り、神世へ足を踏み入れた。
 久しぶりに訪れる神世は曇天が広がっている。雲の隙間を縫うように、邪龍の種族であるソラミズチが黒く細い姿をくねらせて飛んでいるのが見えた。妖気にあふれた気配は現世とは比べものにならないほど凶悪で、まさに鬼神の住まう異界の様相を呈している。
 闇の路を出ると眼前には、豪壮な鬼神の居城がそびえていた。
 どうやら春馬の屋敷と居城とを、つなげているらしい。
 鳩槃荼の居城を訪れるのは初めてだ。運河に囲まれた城は優美な大天守を誇っている。
 見惚れていると、城門の向こうから一頭の白馬が駆けてきた。
「シャガラ! 花嫁を出迎えよ」
 勇壮な白馬は春馬のしもべらしい。
 シャガラはそばまでやってくると蹄を鳴らし、巨体を地に伏せた。私の足元に首を下げている。主の花嫁に忠節を示してくれたのだ。
「ありがとう、シャガラ。頭を上げていいのよ」
 動物が大好きな私はヤシャネコにそうするのと同じように、身をかがめてシャガラの首をそっと撫でた。
 すると甘えるように鼻を鳴らしたシャガラは、頭をもたげる。気持ちよさげに私の腕に顔を寄せるので、さらに銀色のたてがみを梳くように撫でた。懐いてくれたのだろうか。
「とても人懐っこいのね。シャガラが出迎えてくれて嬉しいわ」
 戯れる私としもべを目にした春馬は驚きの表情を見せていた。
「なんと……シャガラは俺以外の誰にも懐かぬ。しかも犬のように甘えるなど、信じられぬことだ」
「そうなの? じゃあ、私を気に入ってくれたのかしら」
「しもべには好みを表すなど許されぬ。差し出した首を踏みつけられようとも、主の花嫁として敬わねばならない。それが忠節というものだ」
 首を踏みつけるなんて、そんなことをするわけがない。神世の厳しい上下関係を改めて知り、窮屈な思いがした。
「私はそんな乱暴なことをしない。シャガラも家族として、大切にするわ」
 夜叉のしもべであるヤシャネコとコマは、父には主として礼を尽くしているけれど、家族の一員だとして兄弟同然に育ってきた。下僕でも、ペットでもない。それと同じように、春馬の眷属であるシャガラも大事にしたい。
 春馬は私の主張に黙していたけれど、碧色の瞳はなにか言いたげだった。
 鳩槃荼の花嫁として失格だと言われてしまうかもしれない。
 けれど、慈しむ心を失うことをしたくない。曲げるつもりはなかった。
「凜は、優しいのだな。おまえの好きなようにするがいい」
 双眸を細めた春馬に呆れた色はなかった。その声は、まるで深い感銘を受けたかのような響きを帯びていた。
 安堵した私は、ほっと胸を撫で下ろす。
 私……春馬に嫌われたらどうしようと、怖かった。
 どうしてそんな気持ちになるのだろう。好かれようが嫌われようが、私たちは政略結婚のための夫婦なのだから関係ないはずなのに。
 するとシャガラはそわそわし出して、背中を揺らした。
「遠乗りに行くか。シャガラは凜を背中に乗せたいようだ」
「でも私、馬に乗ったことがないのよ」
「俺とともに乗れ。後ろから抱いているから、手綱を掴んでいろ」
「えっ……後ろからって……」
 私が前に乗り、背後の春馬に抱き込まれる格好になるのだろうか。そんなに密着されたら心臓がもたなそうだ。
「わ、私が後ろで春馬の背中を掴んでいるというのは、どう?」
 バイクなどではそのようにふたり乗りするのではないか。密着するのに変わりはないけれど、こちらが背中に抱きつく形のほうが、胸の鼓動は抑えられる気がする。