「違いますから……。唇を尖らせなかったから、代わりに瞼にキスしようという魂胆ですよね」
「その通りだ」
 まったく悪びれない柊夜さんは悪辣な夜叉の笑みを浮かべる。
 もう結婚していて子どもがいるのに、熱烈に旦那さまに求められるのは嬉しくもあるのだけれど、子どもたちの前で堂々と戯れるのはどうなのか。
 ちらりとベランダの悠たちに目を向ける。
 飛んできたスズメが器の米粒を啄むのを、悠は目を輝かせて見ている。コマとヤシャネコも楽しげに会話を繰り広げていた。彼らは来訪してきたスズメに夢中のようだ。
 ふいに大きなてのひらに頬を包まれる。自然と私の視線は眼前の旦那さまに向いた。
「子どもたちは心配ない。俺が目の前にいるときは、俺だけを見てくれ」
 紡がれる声音は深みがあり、鼓膜を甘く震わせた。
 柊夜さんの声も、真紅の瞳も大好きだけれど、情熱的に迫られると恥ずかしくて困ってしまう。
「わかりました。柊夜さんを見ています。ですから、今の悠にあやかしのことは秘密だと、理解してもらう方法を伝授してください」
「むしろ、隠さなくていいんじゃないか?」
「えっ? でも……」
 意外な返答に目を瞬かせる。すると容赦のない瞼へのくちづけが降ってきた。
 あやかしや神世を支配する鬼神たちの存在を、現世の人々に知られてはならないはず。
 もし知れ渡れば、世界の均衡が崩れてしまうかもしれない。現世のあやかしを統率する鬼衆協会の会長でもある柊夜さんは、それを回避するために活動を続けてきたのだから。
「俺も幼い頃は、あやかしは自分だけが見えることを理解していなかったので、平気で野良のあやかしたちと話していた。だが、おばあさまはそれを正すようなことはしなかったな。周囲の人間に気味悪がられるので、小学生のときにはおのずと事情を理解したが、もし、おばあさまに否定されていたら、彼女に対して反感を抱いたのではないかと思う。あやかしと話すのは楽しいものだからな」
 瞼に熱い唇を押し当てながら、柊夜さんは淡々と語った。
 お母さんを不慮の事故で亡くすという事情があった柊夜さんは、父親である先代の夜叉とは同居せず、多聞天であるおばあさまに育てられたのだ。鬼神としての能力ゆえに、孤独な子ども時代を過ごしたのであろう彼の言葉が重く響く。
「言われてみるとそうですね……。私も、ヤシャネコやコマと話すのはとても楽しいです。それを、おかしいと思われるからみんなの前では無視しなさいと指示されたら、悲しい気持ちになりますよね」
 私は人間なので、お腹の子の神気により、あやかしの姿が見えている。悠が胎内に残してくれた神気が消滅したときは、ヤシャネコが消えてしまったと思い、悲しくて泣いたことを思い出す。
 ふたりめの子を出産したら、私はいずれあやかしが見えなくなる。だからこそ、あやかしと話せるのは貴重な体験だと身に染みていた。
「俺は周囲の目よりも、悠の気持ちを大切にしたい。今、すべてを教え込もうとしなくとも、成長するに従って導いてやるといいのではないかな」
 悠のことを真摯に考えてくれる柊夜さんに、じんと胸が熱くなる。
 無理に世間に合わせるのではなく、子どもの気持ちを大事にしようという思いに、深い共感を覚えた。
 ようやく瞼から唇を離した柊夜さんは、優しい笑みを見せる。
「ふたりめも、もうじき生まれる。今後のことは柔軟に考えていきたい。ひとまず、保育園にはコマとヤシャネコが交代で付き添うとしよう。コマも立派な夜叉のしもべだ。俺たちがいないときでも、夜叉の後継者を守ってくれる」
「そうですね。当番制にしたら、悠も納得してくれると思います。それにコマも寂しくないですし」
 頷いた柊夜さんは、幾度も長い睫毛を瞬かせた。
 もしかして、瞼にキスしろという合図かな?
 私からも愛情を返したいと常々思っているので、勇気を持って身を伸ばす。柊夜さんの瞼に、そっと唇を触れさせる。
 薄い皮膚は温かくて柔らかくて、壊れてしまうかもしれないと思い、すぐに唇を離した。
 ところが、なぜか柊夜さんは困ったように微笑む。
「あかり……」
「え。瞬いたからキスしてほしいという合図なのかと思ったんですけど……違いました?」
 今さら恥ずかしくなってしまい、頬が火照る。
 しかも、合図と思ったのは勘違いだったようだ。
「違ってはいないが、俺がキスしてほしいのは、こちらだ」
 そう言った柊夜さんは精悍な顔を傾けて、唇を重ね合わせた。
 長い腕に抱きすくめられ、濃密なくちづけを受け止める。
 柊夜さんってば、いつでも確信犯なんだから……。