屋敷での生活がひと月になる頃――。
 少しずつ春馬と心を通わせていく私のもとに来訪があった。
 大学から帰宅して部屋に入ろうとしたとき、突如背後から軽やかな声がかけられる。
「リン!」
 はっとして振り向くが、そこには誰もいない。庭園には鳥のさえずりが鳴っている。
「今の声は、まさか……コマ?」
 呼びかけると、一羽のコマドリが枝から飛び降りてきた。
 私の手にのったコマは相変わらず元気そうだ。ふっくらとした体をして、頭の橙色の毛は艶めいている。ヤシャネコと同じく、私が生まれたときから一緒に暮らしている夜叉のしもべだ。
「今までどこに行っていたのよ。兄さんは帰ってきたの?」
 獣医学生の兄は休学してどこかへ旅に出ている。夜叉の後継者なのに、私に政略結婚の花嫁を一任して勝手なことをしているのだから困ったものだ。
 問いかけられたコマは羽を震わせ、足踏みをした。
「ユウ! チチッ、ピピッ、ピュルル」
 コマは懸命になにかを訴えている。あやかしだけれど、コマは私たちの名前しか言葉を発せないのだ。
 ふと、コマの細い足に小さな紙が結いつけられているのに気づく。
「あら……これ、もしかして……」
 ほどいた紙片を広げてみると、そこには兄の筆跡で文字が綴られていた。
『僕は神世の書庫にいる。祖母が亡くなった原因について帝釈天と話したい。凜も来てほしい』
 兄からの手紙を読んだ私は目を見開いた。
「私たちの、おばあちゃん……」
 郊外の屋敷に住んでいるおばあちゃんは、実は祖母ではないと知ったのは中学生の頃だった。彼女は四天王の多聞天であり、父の育ての親だったのだ。
 私たちの実の祖母は、先代の夜叉である御嶽の妻になる。赤子だった父をかばい、洞窟での事故で亡くなったのだと聞いていた。
「なにかあるのかしら……。そういえば、お父さんと兄さんが洞窟について喧嘩したことがあったわね」
 私が母のお腹にいたときに、祖母が亡くなった洞窟へ家族で行ったことがあるのだという。それについて兄が語ろうとしたとき、父は血相を変えて遮っていた。私にはなにもわからないわけなので、泣きそうになっている母をなだめつつ、言い争いを繰り広げるふたりを見ていることしかできなかったのだ。
 祖母は殺されただとか議論していたが、ふたりとも実際に現場を見たわけではないので、すべて予想の域を出ていなかった。
「おじいちゃんと帝釈天は、当時の詳しいことを知っていそうね。――わかった、コマ。私も神世に行くわ。兄さんにそう伝えてちょうだい」
「ピ」
 了承したコマは手元から飛び立っていった。
 神世には闇の路を通って何度も行ったことがある。帝釈天にも、父に連れられて面会したことがあった。
「私を紹介するときに、兄さんは帝釈天の椅子によじ登って怒られていたわね……。本当に勝手なんだから」
 子どもの頃を思い出したが、今は立場が異なることに気づかされた。
 私は、八部鬼衆である鳩槃荼の花嫁になったのだ。
 鳩槃荼は帝釈天側の鬼神であり、夜叉一族を含めた現世に住まう鬼神たちとは本来敵対する間柄である。両陣営の和平を結ぶための婚姻なのだが、そうすると花嫁の私自身は形式上であっても鳩槃荼に付き従うべきであり、夜叉の味方を表立ってするわけにいかない。そのため、夜叉の後継者である兄に会うから神世に行くと、堂々と春馬に告げるのは憚られた。
 反対されたら、どうしよう……でも、黙って行くなんて……。
 考え込んでいたとき、廊下の軋むわずかな物音が耳に届く。
 はっとして振り向くと、鋭い眼差しを向ける春馬が立っていた。
「あやかしの気配がしたな。夜叉のしもべか」
 春馬には見透かされているのだ。
 私は、ほっと肩の力を抜いた。彼がなにも気づかなかったなら、黙って神世へ向かっていたかもしれない。そんな形で春馬を裏切らずに済んだことに安堵した。
 けれど、夜叉の後継者に会うとは正直に言えなかった。祖母の話は家族の問題ではあるが、一族の存在を揺るがすものに発展するかもしれない。なにより春馬に心配をかけたくなかった。
「おじいちゃんに会いたいの。神世に行ってもいいかしら」
 とっさに、祖父の御嶽を持ち出す。
 隠居した先代の夜叉は威厳があるが、私と兄には優しく接してくれていた。兄に面会することについても味方になってくれるはずだ。