石灯籠の明かりに映し出された松やツツジが薄闇に浮かび上がっている。西の空の端には、雲の切れ間に夕陽の残滓がにじんでいた。
 沓脱ぎ石の下駄に足を置いて、移りゆく空の色をぼんやりと眺める。ふと、男物の大きな下駄に目を落とした。
 春馬が庭に出るときに履く下駄は、今は冷たかった。
 それも当然のことで、不動産会社から戻ってきて食事したばかりなのだから、庭に出ていない。
 けれど履き物が冷えているのは、彼の心まで表している気がした。胸の奥まで、雪の破片のような怜悧なものが射し込む。
「でも、全部、食べてくれた……」
 笑ってはくれなかったけれど、春馬は私が作った煮物に箸をつけて完食した。美味いと言ったのはお世辞かもしれないが、拒絶はされなかった。その事実に縋りたい自分がいた。
 ぽつりと漏らしたつぶやきをすくい上げるかのように、低い声音がかけられる。
「凜」
 はっとして振り向くと、漆黒の浴衣をまとった春馬がすぐそばに立っていた。
 彼は私の隣に腰を下ろし、胡座をかく。
 そして遠慮がちにつぶやいた。
「気落ちしているようだが……屋敷の暮らしに馴染めないか」
「ううん。そうじゃないの。この屋敷は素晴らしいし、使用人のみなさんも私にとてもよくしてくれるわ」
 あなたと心が離れているのが、つらい。
 そう言いたいけれど、口を噤んだ。春馬にどうにかしてほしいと要求するような言い方をしてしまいそうだった。それにより、彼とさらに距離が生じることが怖い。
 心とは、一方が寄せれば絆が結ばれるものではないと思うから。
 そうすると、体のほうを結べば解決するのだろうか。けれど、きっかけが掴めないままでは、無理に私のほうから懇願したとしても、しらけた空気が漂うのではという恐れがあった。
 どうすればいいのかわからない。春馬に嫌われたくないと思うあまり、私は自らを拘束しているのだった。
「月が綺麗だな」
 天空に目を向けた春馬は唐突につぶやく。
 釣られて見上げると、星の瞬く夜空には下弦の月が輝いていた。
 なぜか、ずきりと胸が抉られる。
 このもどかしい疼きは、いったいなんだろう。
「あなたは、あの月のようね。綺麗で冷たくて、遠いから、手が届かないわ……」
「俺はここにいるが」
 事も無げに言った春馬は、そっと私の手に自らの冷たいてのひらを重ね合わせた。実際の距離の話ではないのに、彼は情緒を理解していないらしい。
 でも、互いの肌に触れたのは久しぶりのことで、胸がときめく。
 話の流れでの触れ合いかもしれないけれど、春馬の体温を感じられたのが、こんなにも嬉しい。
 膝に置いた私の手に、大きな手を重ねながら、春馬はまた月を見上げた。
「あの月は、あのときのものとよく似ている」
「あのときって?」
 月の満ち欠けはひと月ほどで一周するので、下弦の月はよく見られるものではないだろうか。
 首をかしげる私の横で、春馬は双眸を細めた。彼の碧色の瞳には、輝く月が映り込んでいる。
「凜が生まれたとき、病院へ会いに行ったのだ。あの夜も下弦の月だった」
「……そうだったの?」
 初耳だった。もちろん月のことも、春馬と会ったことも覚えていない。
「夜に病室に忍び込んだので、警戒した母君はおまえを抱いて離さなかった。奪うつもりではなく、顔を見たかっただけなのだ。そこで俺は母君に、とあることを頼まれた」
「頼まれごと? どんな?」
「いずれ結婚したら、凜を幸せにしてほしいと言うので、幸せとはいかなる意味かと訊ねた。そうしたら、笑顔にすることだと彼女は言った」
 母の真心が胸に染み入る。
 私の幸せとは、政略結婚を結び夜叉姫としての使命を果たすことでも、世継ぎを設けることでもなく、私が笑顔になることだと当時から母は考えていたのだ。
 人間の母は、私と兄が夜叉の血を受け継ぎ、特殊な能力や目の色を持っていることに、ひどく気を使ってきた。
 私たちを愛し、慈しんで育ててくれた母だけれど、私がヤシャネコと遊んでいるときなど、ふと寂しげな顔を見せていた。母は私を産んだら神気を失い、あやかしたちが見えなくなってしまったのだという。
 そんな母を見て、夜叉姫として生まれた私は恵まれていると思わざるを得ない。その認識とは裏腹に『こんな能力なんていらない』と口にできない窮屈さを感じていたことも確かだった。