橋を渡り切ると、別棟へ入る。左右に御簾のかけられた黒塗りの廊下は静謐に包まれている。
 どこを向いても、まるで平安貴族が住む寝殿造のような瀟洒な屋敷だ。
 辿り着いた重厚な扉の前で、付き添いの女性は膝をつく。
「花嫁さまをお連れしました」
 平伏する彼女の様子が、生贄を神に捧げる信徒のように見えて、ぞっと背筋を震わせる。
 寝室に案内するだけなのに、あまりにも遠すぎるとも思った。
 まさか……生贄花嫁として、喰われてしまうなんてことは……。
 恐れていた一抹の不安を覚える。
 助けを呼ぼうとして、頭に思い浮かんだのは、春馬の顔だった。
 ふと冷静になり、首を捻る。
 なぜ助けを求めるのが春馬なのだろう。
 この場合、私を喰らうのが鬼神の春馬で、助けてほしいのは両親だとか、そうなるはずなのに。
 使用人たちは両開きの扉を左右から開ける。
 そこから見える室内は薄暗いが、仄かな橙色の灯火がぽつりと輝いていた。
 春馬の姿は見えない。声も聞こえない。
 私が自らの意思で中に踏み出さなければならないのだ。
 ごくりと息を呑み、勇気を出して足を前へ運ぶ。
 すると背後で軋んだ音が鳴り、扉が閉められた。使用人たちが立ち去るかすかな物音が聞こえると、あとには静寂が広がる。
 振り向いて室内に目を凝らす。
 薄衣で作られた几帳が、明かりに浮かび上がっている。
 カーテンのようなそれが突如、ばさりと捲られた。
 びくっとして肩を跳ねさせる。
 几帳の陰から、浴衣に身を包んだ春馬が現れた。
「待ちかねたぞ」
 跳ね上がった薄衣が下りないうちに、大股で歩み寄ってきた春馬に軽々と抱き上げられる。
 お姫様のように横抱きにされた私は、瞬く間に几帳の陰へと連れ去られてしまった。
 そこは寝台だった。褥には純白の布団が敷かれ、枕がふたつ並んでいるのを目にする。
 どきりと鼓動が弾む。
 褥に下ろされたときにはもう、熱い男の腕の中に囚われていた。
「あっ……あの、春馬……」
 男性とこんなにも密着するのは初めてで、戸惑いが生まれる。
 経験のない私にも、これから春馬がなにをするつもりなのか予想がついた。
 なぜなら彼の強靱な胸がぴたりと触れ、大きなてのひらが背中に回されて逃げることを許さないのだから。
 花嫁として、夫に純潔を捧げなくてはいけない。
 初夜を無事にこなすのは、夜叉姫としての私の役目なのだから。
 たとえ愛のない政略結婚であっても、褥では旦那さまに身を任せないと――。
 頭ではわかっているのに、緊張した体が強張る。
 身を起こした春馬は冷徹に私の帯を解くと、ゆるんだ浴衣の合わせを開いた。
 まだ上気して桜色に染まっている胸元が曝される。
 春馬は射貫くような双眸で私を見下ろしていた。
 未知のことに怯えが走り、ぶるぶると小刻みに体が震える。
 私……どうなるの……?
 胸に大きなてのひらが這わされ、その感触にびくりと体が跳ね上がった。
 張りつめるあまり呼吸が浅くなる。ひどく胸を喘がせてしまい、春馬が触れている肌を通して、彼のてのひらにもその緊張は伝わってしまう。
 じっと碧色の双眸を向けていた春馬は、ふと胸に触れていた手を離す。
 彼は乱れていた浴衣の合わせを、もとに戻した。
「少し、話さないか」
「え……?」
 身を起こした春馬は、捕らえていた私の体を解放した。
 伸しかかっていた重みが消えると、なぜか胸が虚ろになる。あれほど緊張を漲らせていたのに、すうっと冷たいものが体に射し込むのを感じた。
 夫婦の営みは、行わないのだろうか。
 ぎゅっと合わせを掴んだ私は、緩慢に起き上がる。
 褥に胡坐をかいて座った春馬の双眸は、先ほどと変わらない冷徹な色を宿していた。
「話すって、なにを……?」
「古代インド時代に俺と乾闥婆が死闘を繰り広げた話を聞くか? 長いので三日三晩かかりそうだが」
「それは遠慮しておくわね」
「……そうか」
 即座に断ると、春馬は亜麻色の髪を無造作にかき上げる。なんでもないその仕草に雄の色気がにじみ、どきんと胸が弾んだ。