大学からほど近い、紫陽花の咲き誇る公園へ私たちはやって来た。
 雨が降りそうな気配がするためか、ひと気はない。ここなら込み入ったことを遠慮なく話せる。
 紫陽花の連なる道を歩みながら、私は突然現れた王子様のような男性に訊ねた。
「あなたは……鬼神なのね」
「そうだ。俺は八部鬼衆のひとり、鬼神の鳩槃荼(くばんだ)。神世で交わされた協定により、夜叉姫を俺の花嫁としてもらいうける」
 瞠目して、鳩槃荼と名乗った鬼神の言葉を受け止める。
 鬼神の許嫁がいるということは知っているが、急に結婚を提示されても受け入れがたく、戸惑いが胸に広がる。
 つないでいた手をようやく離した鳩槃荼は、私と向き合う。彼は真摯な双眸で、間近から私の目を見つめた。
 背が高いので見下ろされる格好になるが、瞳を覗き込まれるのは嫌だ。気味が悪いと言われ、顔をゆがめられるから。
 うつむき、瞳を見られないようにする。
 だが鳩槃荼は愛しい者を見つめるかのように、目を細めた。
「やはり、俺の夜叉姫だ。あのときに見たおまえに間違いない」
 政略結婚の相手が彼であることを、二十歳を迎えた今まで、私は知らずにいた。鳩槃荼という鬼神が存在するのは知っていたが、両親から彼の名前が出たことは一度もない。
「私たち、前にどこかで会ったの……?」
「二度ほどな。夜叉姫は覚えていないだろう」
 彼に会ったことがあるような気もするが、具体的には思い出せなかった。
 きっと私が神世へ行ったときに、すれ違った程度ではないだろうか。
 それなのにどうして彼は、花嫁にもらいうけると自信を持って言えるのだろう。私のことを、なにも知らないのに。
 そして私のほうこそ、彼のことをなにも知らない。突然現れて、二十年前の約束なんて勝手な都合を持ち出されても困惑してしまう。
「あの……ここで”夜叉姫”とはっきり言うのはやめてくれる? 一族のことは現世では秘密なのよ」
「なるほど。では、名で呼ぼう。……凜」
 鳩槃荼は甘く深みのある声音で、大切そうに私の名を響かせた。
 びっくりした私は目を瞬かせる。
 彼は私の名前を知っているのだ。ということは、生まれたときに両親となんらかのやり取りがあったことは間違いない。
 煌めく碧色の双眸を、彼はいっそう近づけてきた。
 顔を上げられないでいると、つむじの辺りから声が届く。
「俺の名も、呼んでみてくれ」
「……ええと、クバ……」
 難しくて、言いにくい。許嫁の名前を言えないなんて、最低だ。また相手を落胆させてしまう予感がした。
 けれど、なぜかふわりとした優しい感触がつむじに生じた。彼の唇が髪に触れた気配がする。
「すまない。俺の名も内密にするべきだったな。現世では“久遠(くおん)春馬(はるま)”という通名を使用している。俺のことは春馬と呼んでくれ」
「わかったわ。……あの、春馬」
「なにか」
「私が頭を上げたら、あなたに頭突きすることになるんじゃないかしら……」
 つむじに唇が触れたままだ。どうして離れないのだろうか。柔らかな感触と、彼の挙動に戸惑いが芽生える。
「よいぞ。頭を上げろ」
「どうしてそうなるの。まずは春馬が頭を上げてちょうだい」
 そう言うと、頭を上げた春馬は姿勢をまっすぐに保つ。そっと目を向けると、彼は驚いた顔をしていた。
「俺に命令するとは……なんという豪気な花嫁だ。気に入ったぞ」
「命令じゃなくてね……」
 神世に住む鬼神だからなのか、浮き世離れしている彼とは話が噛み合わない。
 彼に政略結婚について説明を求めると、とてつもない時間を要しそうだ。両親から詳しい話を聞いたほうがよいだろう。
 私は自宅へ向かって歩き出した。ところが春馬は私の後ろをついてくる。
「うちに来るの?」
「そうなる。凜の向かう先が、俺の行く先だ」