こうして私は、まともな人間関係を築けないまま成人してしまった。忌避されるのは異性でも同じなので、恋人ができたこともない。
 鬼神の許嫁がいるとはいえ、それはいわゆる政略結婚らしい。
 詳しい話は知らないけれど、きっと生贄のようなものではないだろうか。現世で生まれ育った私には、鬼神の供物として捧げられた生贄花嫁が、初夜に頭から食べられるというイメージしか湧かない。
「キスとか、経験してみたかったな……」
 好きな人と結ばれたいなんて贅沢は言わない。せめて男の子とデートして、楽しい思い出を作ってみたかった。
 でも、許嫁の鬼神ですら私の真紅の唇を、気味が悪いと罵るかもしれないけれど。
 溜息をついた私は学食をあとにし、その後の講義を終える。
 出番のなくなったノートを鞄にしまい、帰途に着こうと講義棟を出た。
 キャンパスの小道に咲いている紫陽花の葉が気になり、覗いてみる。先日、ここでカタツムリのあやかしと話したことを思い出す。
 今日はいないようだ。死んだ仲間をよみがえらせてほしいという依頼だったが、カタツムリの殻を再生することができず、憤慨されたのだった。
 自分の能力の不甲斐なさを思い知らされるばかりで、溜息がこぼれる。
「雨が……降るかしら」
 ふと頬に風を感じ、空を見上げる。
 先ほど講義室から見上げた下弦の月は、すでに雲に隠れていた。
 すると、風にのってざわめきが耳に届く。キャンパスが騒然としているのに気づき、何事かと足を向ける。
 いつもは静かな敷地内に、多数の女子大生が各々のグループを組んで集まっている。彼女たちは門前を見ながら賑やかな声をあげていた。
「あの人、誰⁉ すごくカッコイイ!」
「王子様みたい! 彼女を迎えに来たのかな?」
 その声に釣られて、ふと門前に目を向ける。
 そこに佇んでいた若い男性の姿に惹きつけられた。
 金糸のような透き通る亜麻色の髪は襟足で軽やかに跳ね、稀少な翡翠を思わせる碧色の双眸が異国の王子様を彷彿とさせる。
 すらりとした体躯にまとう純白のシャツが目に眩しい。
 彼が醸し出すのは神秘的な美しさなのに、どこか雄の勇猛さを匂わせていた。
 私は……この人に会ったことがある。
 唐突に、そう感じた。
 運命的なものかはわからない。けれど、確かに見覚えがあるのだ。
 遠い記憶を彼方から探り出していると、ゆっくりと歩を進めた彼が、キャンパスに入ってきた。
 彼が動いたことにより、歓声が満ちる。
 え……私のところへ来る……?
 王子様のような男性は周囲の女性には目もくれず、まっすぐにこちらへ向かってくる。
 鬼の子と呼ばれて忌避される私が、まさか王子様に選ばれるなんてこと、あるわけがない。
 人々の注目を浴びる中、彼は私の前までやってきた。息を呑む私に、彼は恭しい所作で、てのひらを差し出す。
「約束通り、二十年後に迎えに来た。俺の花嫁」
 深みのある声音で明瞭に告げられ、瞬きを繰り返す。
 腰まである私の漆黒の髪が、さらりと風にさらわれた。
「……花嫁?」
 まさか、この人が、私の許嫁なのか。
 そうだとしたら、彼は人間ではない。父と同じく、鬼神のひとりなのだ。
 彼は私の手を取ると、まるで騎士の誓いのように、手の甲に静かにくちづけた。
 熱い唇の感触に、どきりとする。
「美しく成長したな。会いたかった。夜叉姫」
 感極まったつぶやきに含まれていた“夜叉姫”という言葉は、女子大生たちの悲鳴みたいな叫びにかき消された。
 彼女たちは驚きと不満を込めて口々に発する。その中には先ほど私を“気味が悪い”と言って遠巻きにした人たちもいた。
「鬼山さんの彼氏なの⁉ なんであんなに素敵な人が、あの子に⁉」
「いいなぁ、堂々とキスしてくれるなんて、うらやましい!」
 恋人などではない。私だって、この状況にひどく困惑している。
 けれど彼女たちは私の恋人が迎えに来たのだと勘違いしているようで、キャンパスはざわめきが止まらない。
「ここは騒がしいな。場所を移動してもよいだろうか」
「ええ……そうね。近くの公園に行きましょう」
 彼の提案に了承する。そっと見上げると、わずかも外されない碧色の眼差しは、まるで宝石のようにきらきらと輝いている。精緻に整った顔立ちは秀麗だけれど、切れ上がった眦と薄い唇が酷薄な印象を与えた。
 彼はキスした手をつないだまま、門へ向かう。
 まるで仲睦まじい恋人同士のようで、恥ずかしくなった私はうつむきながら、手を引く彼に寄り添った。
 キャンパスのざわめきは、歩みとともに遠くなっていった。