「……高梨さん。もし生まれてきた子が、人とは違う不思議な能力を持っていたとしたら、その子を愛せますか?」
突然の問いかけに、彼女は瞬きをした。
だがすぐに、決意を込めた表情で頷く。
「もちろん、どんな子でも我が子ですから、愛せます。わたしにはもう、これきりしかチャンスがないんです。たとえ生まれてきた子が障がいを持っていたとしても、不思議な力があっても、大切に育てます」
高梨さんからは、並々ならぬ覚悟が漲っていた。
長い間、妊娠と出産を望み、ようやくそれが叶えられる彼女には愚問だったと悟る。
高梨さんはお祝いの品を置いて、帰っていった。
私は眠っている凜に、ぽつりとつぶやく。
「凜……あなたの、夜叉姫としての能力なの?」
死んでしまった雷地を、生まれ変わらせることができるのだろうか。
まだ遠い未来のことかもしれないけれど、いつか、あの日の悲しみを幸せに変えることができたなら。
そう願った私は凜の横に寝そべり、瞼を閉じた。
やがて日が暮れ、窓の外には夜の帳が降りる。
消灯後の病室内は、しんと静まり返っていた。
凜は名札のついた新生児ベッドで、すやすやと眠っている。私のベッドの真横にキャスター付きの新生児ベッドを置いているので、夜中に泣いたとき、すぐに抱き上げておっぱいをあげられる。
安らかな凜の寝顔を見て、ほっとした私はベッドに入った。
けれどすぐに眠気は訪れず、昼間に高梨さんとやり取りしたことが脳裏に浮かぶ。
高梨さんの赤ちゃんが、無事に生まれますように……。
そのとき、ふと頬に風を感じた。
首を巡らせると、窓のカーテンがわずかに揺れている。
窓を閉め忘れたのだろうか。赤ちゃんの体に障るので閉めないと。
身を起こした私は、月明かりに浮かび上がる影に気づき、ぎくりとした。
「だ、誰⁉」
室内に得体の知れない何者かがいる。
窓辺に佇んだ黒い影は、低い声を発した。
「ご苦労だったな、母君」
聞き覚えのある男の声音に、はっとする。
「く……鳩槃荼!」
鬼神の鳩槃荼だった。政略結婚は凜が大人になってからということにまとまったはずだが、もしかして生まれた凜をさらいに来たのだろうか。
ベッドから飛び降りた私は、凜をかばうように覆い被さる。
「安堵せよ。奪ったりはしない。俺の花嫁の顔を見に来ただけだ」
冷静な声に、おそるおそる顔を上げる。鳩槃荼は窓辺から一歩も動いていなかった。
すらりとした体躯は彫像のごとく微動だにせず、背後で揺れるカーテンが風の流れを伝える。彼の碧色の双眸が月光の中で炯々と輝いていた。
「信用できぬか。では、俺は両手を挙げている。妙な動きをしたら、母君は遠慮なく俺を突き刺すがいい」
そう言った鳩槃荼は胸元から取り出した短刀を、柄のほうを向けてこちらに差し出す。
私は首を横に振ると、凜を抱き上げた。
「けっこうです。凜を傷つけたりしたら、いけませんから。こうしたら、凜の顔が見えますか?」
赤ちゃんの顔が見えるように、おくるみを傾ける。
鞘に納められた短刀を懐にしまった鳩槃荼は、律儀に両手を掲げた。
「ああ。見えている」
彼は眠る凜を、瞬きもせず見つめていた。
時が止まったかのように、鳩槃荼は動かなかった。
やがて凜が「ふぇ……」と小さな泣き声をあげた。
その声を合図としたように、すっと鳩槃荼は両手を下ろす。
「二十年後に夜叉姫を迎えに来る。さらばだ」
くるりと踵を返した鳩槃荼の亜麻色の髪が揺れ、月明かりのもとに輝いた。
私はその輝きで、唐突に悟る。彼は彫像の鬼神ではなく、血肉の通った男性であり、凜を花嫁にするつもりでいるのだと。そしてその日は、決して遠い未来ではない。
永劫の時を生きる鳩槃荼にとっては、数日後という感覚なのかもしれない。
とっさに鬼神の背に声をかけた。
「あの、あなたにお願いがあります!」
「なにか」
「いずれ、結婚したら……凜を幸せにしてあげてください」
それだけが私の望みだった。
いつか政略結婚であることや、心のすれ違いが、ふたりを隔てるかもしれない。
けれど、命をかけて産んだ娘には幸せになってほしい。
鳩槃荼が凜を慈しんでくれたなら、どんなことがあっても幸せになれるのではないかと思った。
ところが彼は碧色の双眸を瞬かせる。
「母君の言う”幸せにする”とは、いかなる意味かな」
真理を問いかけるような返答に息を呑む。
鳩槃荼は平然としている。幸せの形に定義はないけれど、彼は人間にとっての一般的な幸せを知らないように見えた。
結婚すること、子どもが生まれること……。どれもがとても幸福なものだけれど、私はもっとも大切と思えるものを願った。
「凜を……笑顔にしてあげてください」
「承知した」
短く告げた鳩槃荼は窓から身を翻す。ここは二階だ。
馬のいななきが夜闇に響き渡る。
窓辺に近寄ると、蹄の音とともに去っていく馬上の後ろ姿が見えた。
小さく吐息をこぼした私は、空を見上げる。
そこには白々と冴え渡る下弦の月が鎮座していた。
「鳩槃荼は、あの冷たい月のような鬼神ね。それとも優しいところもあるのかな。ねえ、凜……」
腕に抱いた凜は、うっすらと目を開けた。
彼女の瞳に月が映り込む。夜叉姫の瞳は焔と下弦の月の、ふたつを宿していた。
突然の問いかけに、彼女は瞬きをした。
だがすぐに、決意を込めた表情で頷く。
「もちろん、どんな子でも我が子ですから、愛せます。わたしにはもう、これきりしかチャンスがないんです。たとえ生まれてきた子が障がいを持っていたとしても、不思議な力があっても、大切に育てます」
高梨さんからは、並々ならぬ覚悟が漲っていた。
長い間、妊娠と出産を望み、ようやくそれが叶えられる彼女には愚問だったと悟る。
高梨さんはお祝いの品を置いて、帰っていった。
私は眠っている凜に、ぽつりとつぶやく。
「凜……あなたの、夜叉姫としての能力なの?」
死んでしまった雷地を、生まれ変わらせることができるのだろうか。
まだ遠い未来のことかもしれないけれど、いつか、あの日の悲しみを幸せに変えることができたなら。
そう願った私は凜の横に寝そべり、瞼を閉じた。
やがて日が暮れ、窓の外には夜の帳が降りる。
消灯後の病室内は、しんと静まり返っていた。
凜は名札のついた新生児ベッドで、すやすやと眠っている。私のベッドの真横にキャスター付きの新生児ベッドを置いているので、夜中に泣いたとき、すぐに抱き上げておっぱいをあげられる。
安らかな凜の寝顔を見て、ほっとした私はベッドに入った。
けれどすぐに眠気は訪れず、昼間に高梨さんとやり取りしたことが脳裏に浮かぶ。
高梨さんの赤ちゃんが、無事に生まれますように……。
そのとき、ふと頬に風を感じた。
首を巡らせると、窓のカーテンがわずかに揺れている。
窓を閉め忘れたのだろうか。赤ちゃんの体に障るので閉めないと。
身を起こした私は、月明かりに浮かび上がる影に気づき、ぎくりとした。
「だ、誰⁉」
室内に得体の知れない何者かがいる。
窓辺に佇んだ黒い影は、低い声を発した。
「ご苦労だったな、母君」
聞き覚えのある男の声音に、はっとする。
「く……鳩槃荼!」
鬼神の鳩槃荼だった。政略結婚は凜が大人になってからということにまとまったはずだが、もしかして生まれた凜をさらいに来たのだろうか。
ベッドから飛び降りた私は、凜をかばうように覆い被さる。
「安堵せよ。奪ったりはしない。俺の花嫁の顔を見に来ただけだ」
冷静な声に、おそるおそる顔を上げる。鳩槃荼は窓辺から一歩も動いていなかった。
すらりとした体躯は彫像のごとく微動だにせず、背後で揺れるカーテンが風の流れを伝える。彼の碧色の双眸が月光の中で炯々と輝いていた。
「信用できぬか。では、俺は両手を挙げている。妙な動きをしたら、母君は遠慮なく俺を突き刺すがいい」
そう言った鳩槃荼は胸元から取り出した短刀を、柄のほうを向けてこちらに差し出す。
私は首を横に振ると、凜を抱き上げた。
「けっこうです。凜を傷つけたりしたら、いけませんから。こうしたら、凜の顔が見えますか?」
赤ちゃんの顔が見えるように、おくるみを傾ける。
鞘に納められた短刀を懐にしまった鳩槃荼は、律儀に両手を掲げた。
「ああ。見えている」
彼は眠る凜を、瞬きもせず見つめていた。
時が止まったかのように、鳩槃荼は動かなかった。
やがて凜が「ふぇ……」と小さな泣き声をあげた。
その声を合図としたように、すっと鳩槃荼は両手を下ろす。
「二十年後に夜叉姫を迎えに来る。さらばだ」
くるりと踵を返した鳩槃荼の亜麻色の髪が揺れ、月明かりのもとに輝いた。
私はその輝きで、唐突に悟る。彼は彫像の鬼神ではなく、血肉の通った男性であり、凜を花嫁にするつもりでいるのだと。そしてその日は、決して遠い未来ではない。
永劫の時を生きる鳩槃荼にとっては、数日後という感覚なのかもしれない。
とっさに鬼神の背に声をかけた。
「あの、あなたにお願いがあります!」
「なにか」
「いずれ、結婚したら……凜を幸せにしてあげてください」
それだけが私の望みだった。
いつか政略結婚であることや、心のすれ違いが、ふたりを隔てるかもしれない。
けれど、命をかけて産んだ娘には幸せになってほしい。
鳩槃荼が凜を慈しんでくれたなら、どんなことがあっても幸せになれるのではないかと思った。
ところが彼は碧色の双眸を瞬かせる。
「母君の言う”幸せにする”とは、いかなる意味かな」
真理を問いかけるような返答に息を呑む。
鳩槃荼は平然としている。幸せの形に定義はないけれど、彼は人間にとっての一般的な幸せを知らないように見えた。
結婚すること、子どもが生まれること……。どれもがとても幸福なものだけれど、私はもっとも大切と思えるものを願った。
「凜を……笑顔にしてあげてください」
「承知した」
短く告げた鳩槃荼は窓から身を翻す。ここは二階だ。
馬のいななきが夜闇に響き渡る。
窓辺に近寄ると、蹄の音とともに去っていく馬上の後ろ姿が見えた。
小さく吐息をこぼした私は、空を見上げる。
そこには白々と冴え渡る下弦の月が鎮座していた。
「鳩槃荼は、あの冷たい月のような鬼神ね。それとも優しいところもあるのかな。ねえ、凜……」
腕に抱いた凜は、うっすらと目を開けた。
彼女の瞳に月が映り込む。夜叉姫の瞳は焔と下弦の月の、ふたつを宿していた。