「そうですよね。信じています」
 旦那さまに抱きしめてもらうと、ざわめいていた胸が落ち着きを取り戻す。深呼吸した私は、体に回されている強靱な腕に手を添えた。
「不安にさせて、すまない。政略結婚の件や、雷地を失ったことなどでショックを受けただろう。あの頃から、きみは浮かない顔をしていた」
「あ……」
 様々な懊悩を抱えていたことを思い出す。
 けれど、それらはいずれ私の手の届かなくなる領域なのだと察していた。
 夜叉一族を巡る今後のことは、柊夜さんと子どもたちに引き継いでもらうことになる。
 そのためにも、私は母親としての務めを果たさなければならない。
「私はもう、神世に直接かかわれないと思っています。そうだとしても、みんなの幸せを願っています。私にできるのは、凜を無事に出産して、子どもたちを育て上げることだけです。本当は、わかっているんです」
 思いの丈を伝えると、柊夜さんはつるを押し上げて眼鏡を外し、真紅の双眸を露わにする。
 美しい焔に見惚れていると、精悍な顔が傾けられた。
 優しく唇が触れ合い、くちづけが交わされる。
 まるで神聖な誓いのキスのように胸に染みた。
「愛している。……これは約束だ」
「え……なんの約束ですか?」
「きみが、幸せな一生を送るという約束だよ」
 ふっと笑みを浮かべる柊夜さんに、愛しさが込み上げてくる。
 たとえ神気を失ったとしても、私の家族を守り抜いていこうという想いが胸に刻まれた。
「ありがとう、柊夜さん……。あなたと結婚できて、幸せです」
 そう告げた刹那、また射し込むような腹痛が襲ってくる。
 今度のものは、先ほどとは比べものにならないくらいの痛みだった。
「いたっ……」
 お腹を抱えてうずくまる。もしかして、本当に出産につながる陣痛かもしれない。
「あかり⁉ すぐに病院へ行こう。歩けるか?」
「うう……待ってください。お手洗いに……」
 なぜか股が濡れた感触があった。破水したのだろうか。
 柊夜さんに抱えられ、どうにか立ち上がり、お手洗いへ入った。
 破水したのなら、すぐに病院へ向かって分娩という流れになるはず。これは無事に出産できる予兆だと心に念じる。
 ところがショーツを下ろして便座に座ると、股から大量に液体が流れた。
 液体の正体を目にして細い悲鳴を上げる。
「ひっ」
 血だ。
 真っ赤な鮮血が目に飛び込み、愕然とする。
 おしるしどころの量ではない。月経ではありえないのに、それよりも出血量が多かった。
「どういうこと……? なんでこんなに、血が出るの?」
 妊娠後期に大量に出血するなんて尋常ではない。これは胎盤の血液なのか。それともまさか、赤ちゃんの血……?
 目眩がとまらない。呼吸が浅く速くなり、息継ぎすら覚束なくなる。
 私の赤ちゃんはどうなってしまうのだろう。まだお腹にいるのに、大丈夫なの? 呼吸できているの?
 危機を知らせるかのように、腹部に激痛が走る。身が捩れるほどの痛みが襲い、体を小刻みに震わせた。とても立ち上がれず、呻き声しか出せない。
「うう……うああ……」
 無事に赤ちゃんが生まれると信じていたはずなのに、その幸せがひどく遠い。
 出血したためか、頭がぐらりとして、意識が朦朧とする。
 柊夜さんに、知らせないと……。
 そのとき、ドアがノックされる音が響いた。
「あかり、支度ができたぞ。具合はどうだ」
「しゅう、や……ううっ……」
 呻き声を聞いた柊夜さんは、すぐさま扉を開け放った。うずくまっている私の姿に目を見開く。
「血が……すごく出て……ううぅ」
 棚からナプキンを取り出した柊夜さんは私の衣服を素早く整える。
 事態は切迫していた。赤ちゃんの命にかかわる出血だという予感が走る。
 私を抱えた柊夜さんはお手洗いから出た。
「あかり、頑張るんだ。凜はもうすぐ生まれるぞ」
「柊夜さん……私たちの、赤ちゃんが……お願い、死なないで……」
 腹部の激痛と心の軋みに苦しみながらつぶやく。眦から流れた涙が頬を伝う。
 病院へ向かいながら、私はひたすら赤ちゃんの無事を祈った。