子どもたちの喧噪が耳に届き、意識が引き戻される。
 手元には洗いかけの悠のマグカップとスポンジがある。慌ててシンクのレバーを押して、出しっ放しになっていた水流を止めた。
 キッチンに佇んだまま、しばらく呆然としていたようだ。
 平穏な日常に戻ってきても、ふとしたときに神世で起こった出来事を思い返してしまう。
 生まれてくる凜を政略結婚の花嫁とすること。そして、雷地を失ってしまったこと。
 あれからすでに二か月が経過しようとしているが、衝撃を受けた数々の事柄が未だに脳裏から消えない。
 襲撃を受けたあと、破壊された城の後片付けをした私たちは現世へ戻ってきた。
 もっとも悲しむべき風天は最後まで涙を見せず、どんな慰めの言葉をかけても淡々としていた。
 それからも柊夜さんは何度か神世へ赴き、今回の件について処理したようだが、私には詳しいことを教えてくれなかった。もはや私にできることは、なにもないのかもしれないという無力さを覚える。
 妊娠四十週に入った私のお腹は大きく突き出ていた。キッチンに立つとお腹がつかえるのでシンクが遠く、洗い物がやりづらいほどだ。もう赤ちゃんは、いつ生まれてもよい週数に到達した。
 そして出産を終えてしまうと、私の胎内から神気が消え去り、あやかしが見えなくなる。
 悠のときはしばらく神気が残留していたが、今度もそうとは限らない。
 柊夜さんと相談した通り、私が神世に赴くのは、あれで最後にするべきなのだ。家族のためにも。
 神世のあやかしはおろか、病院から家へ戻ってきたときにはもう、ヤシャネコが見えていないかもしれない……。
 つと振り返り、リビングで積み木遊びをしている悠とヤシャネコのそばに行く。
 悠は縦長の積み木のふたつを並べると、ヤシャネコに話しかけた。
「ぷう、あい」
「風天と雷地にゃん? おいらもふたりには何度も会ったことあるにゃん。……かわいそうだったにゃんね」
 しんみりとつぶやいたヤシャネコは金色の目を伏せる。
 夜叉の居城での顛末を聞いたヤシャネコは、雷地という仲間を失ったことを悲しんだ。悠はといえば、現世に戻ってきたら何事もなかったようにけろりとして保育園に通っている。
 まだ小さいので、忘れてしまったのかとも思ったけれど、そうではない。やはり彼の心の中にはあのときの光景が鮮明に残り、それを昇華しようとしているのだった。
 積み木のひとつを手にした悠は、それをヤシャネコに差し出した。
「おいらにくれるにゃん?」
「ん」
 悠があげた積み木は、雷地に見立てたほうだろうか。
 石像のかけらから、幻影の凜が取り出した光は天へ昇っていった。
 命の核のようなあの輝きは、どこへ……。
 受け取った積み木を大切そうに丸めた尻尾で抱き込んだヤシャネコは目を細める。
 膝をついた私は、静かにヤシャネコに語りかけた。
「ヤシャネコ。悠と凜を、お願いね」
 神妙さが滲んでいたのだろう。不思議そうな顔をしたヤシャネコは、私を見上げた。悠の肩にとまっていたコマは首を巡らせ、ぱちりと瞬きをする。
「それに、コマも。ふたりを頼んだわよ」
「……あかりん。どうして急にそんなこと言うにゃん? あかりんは、おいらたちを置いてどこかへ行くつもりにゃん……?」
 戸惑いを見せたヤシャネコの問いかけに、微苦笑を浮かべて首を横に振る。
「どこにも行かないよ。でも、私は人間だから、出産したらあやかしや神世のことにかかわれなくなると思う。あなたたちは夜叉のしもべだから、いつもふたりのそばにいられる。だからこの先も、子どもたちを助けてほしいの」
 すでに覚悟はできていた。家族が見えている世界を、私だけが認識できなくなる。それに疎外感を覚えてはいけない。私はここにいるみんなの母親なのだから、家族の居場所を守るのが役目だ。
 すくっと立ち上がったヤシャネコは、金色の目をまっすぐに向ける。
「もちろんにゃん! おいらは大事な家族を守るにゃんよ。そうにゃんね、コマ」
「ピピッ」
 コマも力強く啼いて同意を示す。
 彼らがいてくれれば安心だ。
「ありがとう、ふたりとも」
 安堵して感謝を述べると、そんな私をじっと見つめていた悠があくびをこぼした。
 彼は眠そうに目を擦っている。