目の前にいた泥人の体が音もなく崩れ落ちた。
 唖然とした私はコマを抱き寄せる。光に包まれた舟には、いつの間にかひとりの女の子が立っていた。
「え……誰なの?」
 凜然として佇む彼女は腰まである長い黒髪で、セーラー服を着ていた。
 年頃は中学生くらいだろうか。この子が助けてくれたのだ。
 こちらを振り向いた彼女の端麗な顔立ちに、はっとする。
「あなたは、まさか……凜――⁉」
 彼女の瞳の奥には、真紅の焔が宿っている。
 悠と同じ目の色だ。なにより、整った顔立ちが柊夜さんによく似ていた。
 凜と思しき女の子は、感情のない表情で口を閉ざしている。
 私のお腹に凜はいるので、この姿は幻影なのだ。悠の幻影も闇の路や洞窟に現れたことがあったけれど、まさか成長した姿の凜にも会えるなんて。
「凜なのね。そうなんでしょう?」
 答えは返ってこないとわかっているが、感極まって問いかける。
 無言の凜は腕を掲げて円を描く。すると、舟はゆっくり岸辺へ向かった。
 広場に目を向けると、無防備になった風天と悠が泥人に取り囲まれている。
 ぎゅっと、風天が悠を抱きしめる。
 魔の手が伸びたそのとき、高らかな馬のいななきが響き渡る。
 突如として現れた白馬は前脚を蹴り上げ、泥人の群れをなぎ倒した。
「あの馬は……!」
 見覚えのある白馬は、鳩槃荼のしもべであるシャガラだ。
 馬上から槍を構えた鳩槃荼が一閃を放つ。すると泥人たちは脆くも崩れ落ちた。
 薜茘多と同じ眷属であるはずの鳩槃荼が、なぜ助けてくれたのだろう。
 それを見ていた薜茘多は激高した。血に染まった拳を柱に叩きつける。
「鳩槃荼、なぜ邪魔をする! 貴様は俺に加勢すべきだろうが!」
退()け。この襲撃を帝釈天さまは、ご承知なのか? そうでなければ、のちほど痛い目を見るのは薜茘多のほうだ」
 指摘された薜茘多は、ぐっと牙を噛みしめる。
 シャガラが「ブルルル……」と威圧に満ちた唸り声をあげると、それだけで泥人たちの体が欠けていった。足元に溜まった同胞の残骸に足を取られ、泥人は次々と汚泥に突っ伏していく。
 敗北を悟った薜茘多は身を引いた。血を流した体を翻しながらも怨嗟を吐く。
「貴様らばかり美味い汁を吸いやがって……決して許さぬ!」
 頭領が逃げ去ると、残されていた泥人たちは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
 溶けていく泥の塊を悲しい思いで見つめていた私は、岸辺にやってきた柊夜さんにてのひらを差し出される。
「あかり。怪我はないか」
「私は平気です。……柊夜さんが傷だらけじゃないですか」
 薜茘多と戦った彼は血を流し、ひどい傷を負っている。
 幻影の凜は、ふわりと飛び上がり岸辺に降り立った。
 凜を目にした柊夜さんは驚きに目を見開いたが、すぐに幻影だと気づいたようで、冷静に私の手を取り、舟から降ろす。
 私たちは破壊された城門を通り、悠たちのもとへ駆けつけた。
 悠と風天は身を寄せ合いながら、呆然としてその場に座り込んでいた。
「無事でよかった……。風天、悠を守ってくれてありがとう」
「……わたくしは、夜叉のしもべとして当然のことをしたまででございます」
 悠を抱きしめると悲しげに眉を下げ、私にぎゅっとしがみついてきた。
 そのとき、シャガラから下りた鳩槃荼が瞠目してこちらを見た。
 彼の眼差しは、まっすぐに私のそばに立っている凜へと注がれている。
「……夜叉姫」
 ふたりの視線が絡み合う。凜はその瞳に鳩槃荼を映してはいるが、なにも答えない。本体はお腹の中にいる胎児なので、幻影の彼女は口がきけないのだった。
 ふっと、幻影の凜は鳩槃荼から視線を逸らす。彼女は風天のもとへ歩を進めた。
 風天の足元には、砕けた石と化した雷地の亡骸があった。
「柊夜さん、雷地をもとに戻せますか?」
 あやかしの石像なので、もとの姿に修復可能だろうか。
 ところが柊夜さんは悲しげに双眸を細めた。
「雷地は単なる石像とは異なる。人間と同じで、粉々になってしまえばもう……よみがえることはできない」
「そんな……それじゃあ、雷地は……」
 私の驚愕を、風天が引き継いだ。彼女は冷静な声音でつぶやく。
「雷地は、死にました」
 広場に沈痛な静寂が満ちる。
 この戦いで、雷地が犠牲になってしまった。
 風天はいつもと変わらない無表情で、雷地の亡骸を見つめた。
「なぜ雷地は、あえてわたくしの前に立ったのでしょう。悠さまはわたくしが守っていました。泥人に破壊されるのは、わたくしのはずでした」