「……わかっています。凜が生まれたら、またあやかしが見えなくなりますしね。これで最後かと思うと、少し寂しいですけど」
 意図せず涙声になってしまい、唇を噛みしめる。
 柊夜さんは空いたほうの手を、私の手の甲に重ね合わせた。
「すまない。きみを守るためだ。母が犠牲になったことを繰り返したくない」
 私は何度も頷いた。柊夜さんの想いは、よくわかっているから。
 思いを巡らせていた私は、ふいに耳に届いた不気味な音に顔を上げる。
 オオオォ……。空気を裂いて鳴り響く音色に怖気が立つ。
 風の唸りのようだが、周囲に強風は吹いていない。
「なんの音でしょう?」
「あれは……」
 柊夜さんは険しい表情で前方を見据えた。
 運河の彼方から、不穏な気配が漂ってくる。空を見上げると、曇天は血のごとく赤く染まっていた。
 その雲に一点の影が生じる。
 疾駆してきた鳥は、こちらに向かってきた。
「コマ!」
 私が手を掲げると、猛然と羽ばたいてきたコマは崩れ落ちるように舟に落下した。
 とっさに両手ですくい上げる。コマは疲弊しきった様子で羽をだらりと広げていたけれど、すぐに身を起こした。
「ピッ、ピギッ、ピピ――ッ」
 必死の訴えには切迫したものを感じる。
 まさか、悠たちの身になにか起こったのだろうか。
「コマ、城でなにかあったのね?」
 ただならぬコマの鳴き声に、柊夜さんは腰を浮かせた。
 そのとき、柳の揺れる運河沿いの道を異様なあやかしが向かってきた。
 泥人形のような土気色の体に虚ろな目をして、両腕をさまよわせている。まるで感情のないゾンビみたいだ。
 よろけながら数体で群れている彼らは舟へ近づこうとするが、運河縁から足を踏み外した。水飛沫が上がり、もがきながら水中に沈んでいく。
「えっ……⁉ このあやかしたちは何者ですか?」
泥人(どろびと)だ。餓鬼の一族が使役するために生み出すしもべだ。泥人の意思はなく操られているだけだが、捕まったら殺される危険があるぞ」
 不安を覚えた私の鼓動が早鐘のごとく鳴り響く。
 ややあって、蛇行した運河を曲がると夜叉の居城が見えてくる。
「柊夜さん、城が……!」
 壮麗な天守閣は泥に塗られていた。
 すでに城門は破壊され、束となった泥人が城内へ侵入しているのが遠目にうかがえる。彼らの呻き声が苦悶の呪詛のごとく木霊していた。
 凄惨な光景を目にした私は愕然とした。
 柊夜さんは息を呑むと、真紅の双眸を燃え立たせる。
「なんということだ……おのれ、餓鬼め!」
 殺気を漲らせた柊夜さんの体から、悋気が立ち上る。
 コマはこの危機を知らせたくて飛んできたのだ。城に残してきた子どもたちは無事なのか。
「悠たちは無事でしょうか⁉ 早く、城に……」
 夜叉の城は目前なのに、恐怖に駆られた船頭は舵を放り出して平伏した。舟はその場に停止してしまう。
「きみたちは、ここで待機していてくれ。泥人は泳げないから舟に乗っていれば安全は確保できる。コマ、頼んだぞ」
 私の肩にとまったコマは、頷くように頭を低くする。
 彼は、ひとりで子どもたちの救出に向かうつもりなのだ。
「柊夜さん……ひとりで行くんですか? 私も――」
 言いかけた私の肩を両手でしっかりと抱いた柊夜さんは、真紅の双眸をまっすぐに向ける。
「必ず戻る。きみは腹の子を守ってくれ」
 私には、お腹にいる凜を守るという役目があったことを思い出す。
 無理についていき、彼の足手まといになってはいけない。
「わかりました。凜は必ず守ります。悠たちを、お願いします」
 毅然としてそう告げると、ひとつ頷いた柊夜さんは強大な神気を発する。
 鬼の角と獰猛な牙が顕現した。剛健な肉体の発露により、シャツがはだける。
 強靱な脚力で舟から飛び上がると、運河沿いの道に着地し、瞬く間に城へ駆けていった。
 群がる泥人をなぎ倒し、夜叉となった柊夜さんは城門へ辿り着く。
 ところが行く手を塞ぐかのように、仁王立ちになっている男がいた。
 甲冑で巨躯を武装し、白銀の髪を煌めかせる猛々しい鬼神は、八部鬼衆のひとりである薜茘多だった。
 この泥人たちを使って夜叉の城に攻撃を仕掛けているのは、やはり餓鬼の頭領とも謳われている薜茘多の仕業なのか。