淡々と吐き出す高梨さんに、私はただ頷いた。
妊娠を望んでいるからこそ、お腹の大きい私が成功者のように見えて、彼女は目を逸らすのだ。
ヤミガミが認識できていないはずだが、高梨さんは正面の黒い物体をじっと見つめて切々と語った。
「それでもあの人を褒めそやして、どうにか作業のように出してもらうんですよ。月に一回だけ。でもいつも真っ白の妊娠検査薬に、絶望してしまうんです。フライング検査して陽性だと、うっすらと青いラインが出るそうですね。それなのにラインの出ない真っ白の判定窓が、なにも存在しないことを突きつけてくるんです。流産したから、妊娠しづらいのかな……」
項垂れた高梨さんは、てのひらで目元を覆った。
ヤミガミは、そんな高梨さんをじっとうかがっている。
彼女にどんな言葉をかけてあげたらよいのだろう。
おひとりさまが長かった私には、家族と縁遠い寂しさがよくわかる。そして、その縁をたぐり寄せたいと思っても、努力だけではどうにもならないことを知っていた。
頑張るほどに自分の無力さを痛感させられるのである。
けれど今は幸せな私がどんなに励ましたとしても、高梨さんの気分を害するのではないかという恐れが脳裏を掠めた。
『大丈夫』という言葉は無責任かもしれない。妊娠している私が言っても、嫌味に聞こえてしまうかもしれない。
でも彼女を元気づけてあげたかった。前向きになれたなら、赤ちゃんが高梨さんのお腹に宿るかもしれないから。
「そうだ! 高梨さん、私のお腹にさわってみませんか?」
「……え? でも、妊婦さんや小さな子を連れている人は、ほかの女性をすごく警戒しますよね。赤ちゃんを傷つけられると思っているんでしょうけど、宝物を見せびらかしておいてにらみつけるので、こちらが傷つきます。だから子どもは見ないようにしているんです。まして、お腹にさわるだなんて、できませんよ」
高梨さんは様々な悲しい経験をしたことで、幸せな未来をイメージできないのかもしれない。確かに私も自分が出産するまでは、子どもを産んだ経験のある人との隔たりを感じていた。それは『まだなの?』という言葉に集約される。女としての格差を女性たちが生み出しているのは、ひどく悲しい社会の構造である。
「私は高梨さんが心優しい人だとわかっていますよ。この子も高梨さんの話を聞いていますから、撫でてみたら、なにか反応を返してくれるかもしれません。――ねえ、凜」
彼女の手を取り、お腹に導く。高梨さんは頬に緊張を浮かべたが、私の手を振りほどくことはしなかった。
高梨さんの手が、膨らみのあるお腹にそっと触れる。彼女は愛しげに目を細めた。
「もう名前が決まっているんですね……。ごめんね、凜ちゃん。こんな愚痴を聞かせて」
そのとき、ぴくんとお腹の赤ちゃんが動くのを感じた。
――胎動だ。
息を呑んだ私は体を硬直させ、全神経をお腹に集中させる。
「高梨さん……! 今、わかりました⁉ お腹の赤ちゃんが動きましたよ」
ぴくりぴくりと、胎動は連続して起こっている。
気のせいではない。高梨さんが触れたことを、凜が気づいたのだ。
「あ……本当ですね。赤ちゃんは、こんなふうに動くのね……」
「ずっと胎動がこなかったのに、高梨さんが触れたら動いてくれたんです! きっと凜は高梨さんのことが好きなんですよ」
「まあ……わたしが赤ちゃんに好かれるなんて、そんなことはないでしょうけど、でも、そうだったらいいわね」
苦笑をこぼす高梨さんは、私のお腹から手を離す。彼女は興奮した私が漏らした励ましを、信じていないようだった。
けれど夜叉姫である凜は、人間の想像を超える能力を備えているかもしれない。
たとえば、命を宿せるだとか――。
「ありがとう、星野さん。お話しできて、よかった。しかもお腹にさわらせてもらえて、とても気持ちが落ち着きました」
高梨さんは柔らかな表情で告げる。これまでのどこか切迫したような顔つきは消えていた。彼女は自らのてのひらを見下ろして、言葉を継ぐ。
「もしもの話なんですけど……わたしに子どもが生まれたら、凜ちゃんと友達になってくれませんか? そういう望みを持っていたなら、なにかが変わるかもしれない気がするので」
「もちろんです!」
快諾すると、目を細めた高梨さんは遠くを見やる。彼女は未来を思い描いているのだった。私たちの子どもが、一緒に公園で遊んでいる光景をイメージしているのではないだろうか。それは、すぐそこにある未来なのだ。
高梨さんが「それでは」と言って席を立つ。
すると、ずっと私たちを見つめていたヤミガミは、くるりと踵を返した。
「キュ……」
高梨さんに取り憑くことを諦めたのだろうか。
そう思ったとき――。
ヤミガミがまとう黒い器が、すうっと溶けるように薄くなる。
ふわりとした髪の毛と、小さな背中が一瞬だけ見えた。
私が瞬いたとき、ヤミガミの姿は消えていた。
「今のは……人間の、赤ちゃん?」
堕落した神といわれているが、あのヤミガミには最後まで悪意が感じられなかった。
もしかして、あれは高梨さんの死んだ子どもだったのかも……。
そうだとしたら、いなくなったのは、役目を終えたと悟ったからなのかもしれない。
すべては、私の想像でしかないのだけれど。
お腹に手を当てた私は、ヤミガミの消えた廊下を切ない想いで、いつまでも見つめていた。
妊娠を望んでいるからこそ、お腹の大きい私が成功者のように見えて、彼女は目を逸らすのだ。
ヤミガミが認識できていないはずだが、高梨さんは正面の黒い物体をじっと見つめて切々と語った。
「それでもあの人を褒めそやして、どうにか作業のように出してもらうんですよ。月に一回だけ。でもいつも真っ白の妊娠検査薬に、絶望してしまうんです。フライング検査して陽性だと、うっすらと青いラインが出るそうですね。それなのにラインの出ない真っ白の判定窓が、なにも存在しないことを突きつけてくるんです。流産したから、妊娠しづらいのかな……」
項垂れた高梨さんは、てのひらで目元を覆った。
ヤミガミは、そんな高梨さんをじっとうかがっている。
彼女にどんな言葉をかけてあげたらよいのだろう。
おひとりさまが長かった私には、家族と縁遠い寂しさがよくわかる。そして、その縁をたぐり寄せたいと思っても、努力だけではどうにもならないことを知っていた。
頑張るほどに自分の無力さを痛感させられるのである。
けれど今は幸せな私がどんなに励ましたとしても、高梨さんの気分を害するのではないかという恐れが脳裏を掠めた。
『大丈夫』という言葉は無責任かもしれない。妊娠している私が言っても、嫌味に聞こえてしまうかもしれない。
でも彼女を元気づけてあげたかった。前向きになれたなら、赤ちゃんが高梨さんのお腹に宿るかもしれないから。
「そうだ! 高梨さん、私のお腹にさわってみませんか?」
「……え? でも、妊婦さんや小さな子を連れている人は、ほかの女性をすごく警戒しますよね。赤ちゃんを傷つけられると思っているんでしょうけど、宝物を見せびらかしておいてにらみつけるので、こちらが傷つきます。だから子どもは見ないようにしているんです。まして、お腹にさわるだなんて、できませんよ」
高梨さんは様々な悲しい経験をしたことで、幸せな未来をイメージできないのかもしれない。確かに私も自分が出産するまでは、子どもを産んだ経験のある人との隔たりを感じていた。それは『まだなの?』という言葉に集約される。女としての格差を女性たちが生み出しているのは、ひどく悲しい社会の構造である。
「私は高梨さんが心優しい人だとわかっていますよ。この子も高梨さんの話を聞いていますから、撫でてみたら、なにか反応を返してくれるかもしれません。――ねえ、凜」
彼女の手を取り、お腹に導く。高梨さんは頬に緊張を浮かべたが、私の手を振りほどくことはしなかった。
高梨さんの手が、膨らみのあるお腹にそっと触れる。彼女は愛しげに目を細めた。
「もう名前が決まっているんですね……。ごめんね、凜ちゃん。こんな愚痴を聞かせて」
そのとき、ぴくんとお腹の赤ちゃんが動くのを感じた。
――胎動だ。
息を呑んだ私は体を硬直させ、全神経をお腹に集中させる。
「高梨さん……! 今、わかりました⁉ お腹の赤ちゃんが動きましたよ」
ぴくりぴくりと、胎動は連続して起こっている。
気のせいではない。高梨さんが触れたことを、凜が気づいたのだ。
「あ……本当ですね。赤ちゃんは、こんなふうに動くのね……」
「ずっと胎動がこなかったのに、高梨さんが触れたら動いてくれたんです! きっと凜は高梨さんのことが好きなんですよ」
「まあ……わたしが赤ちゃんに好かれるなんて、そんなことはないでしょうけど、でも、そうだったらいいわね」
苦笑をこぼす高梨さんは、私のお腹から手を離す。彼女は興奮した私が漏らした励ましを、信じていないようだった。
けれど夜叉姫である凜は、人間の想像を超える能力を備えているかもしれない。
たとえば、命を宿せるだとか――。
「ありがとう、星野さん。お話しできて、よかった。しかもお腹にさわらせてもらえて、とても気持ちが落ち着きました」
高梨さんは柔らかな表情で告げる。これまでのどこか切迫したような顔つきは消えていた。彼女は自らのてのひらを見下ろして、言葉を継ぐ。
「もしもの話なんですけど……わたしに子どもが生まれたら、凜ちゃんと友達になってくれませんか? そういう望みを持っていたなら、なにかが変わるかもしれない気がするので」
「もちろんです!」
快諾すると、目を細めた高梨さんは遠くを見やる。彼女は未来を思い描いているのだった。私たちの子どもが、一緒に公園で遊んでいる光景をイメージしているのではないだろうか。それは、すぐそこにある未来なのだ。
高梨さんが「それでは」と言って席を立つ。
すると、ずっと私たちを見つめていたヤミガミは、くるりと踵を返した。
「キュ……」
高梨さんに取り憑くことを諦めたのだろうか。
そう思ったとき――。
ヤミガミがまとう黒い器が、すうっと溶けるように薄くなる。
ふわりとした髪の毛と、小さな背中が一瞬だけ見えた。
私が瞬いたとき、ヤミガミの姿は消えていた。
「今のは……人間の、赤ちゃん?」
堕落した神といわれているが、あのヤミガミには最後まで悪意が感じられなかった。
もしかして、あれは高梨さんの死んだ子どもだったのかも……。
そうだとしたら、いなくなったのは、役目を終えたと悟ったからなのかもしれない。
すべては、私の想像でしかないのだけれど。
お腹に手を当てた私は、ヤミガミの消えた廊下を切ない想いで、いつまでも見つめていた。