角の壁に張りつくようにして、向こう側を覗いているヤミガミに遭遇したから。
「あっ……」
 ヤミガミは私が近寄っても気づいていないようだ。なにを見ているのだろう。
 私も角から顔を出してみると、休憩所の椅子に腰を下ろしている高梨さんを発見した。彼女はひとりだ。なにをするでもなく、ぼんやりしている。ヤミガミに先んじるなら今しかない。
「こんにちは、高梨さん。ご一緒していいですか?」
 角から姿を現した私に、高梨さんはびくりとしてこちらを見た。
「あ……星野さん」
 彼女は驚いた顔をしたが、すぐに視線を下げてうつむく。なぜか落ち込んでいるようだ。
 断られなかったので、私は高梨さんの隣の椅子に座る。
 ところが、私の後ろをついてきたヤミガミが、ちょんと私たちの正面に鎮座した。
 この場で悪さをする気はないようだが、私が席を立ったら高梨さんになにをするかわからない。
「ヤミちゃんは私たちの話が終わるまで、そこで見ているつもりなのかな?」
「えっ。誰かいました?」
 ついヤミガミに語りかけた台詞を、高梨さんに拾われてしまった。顔を上げた彼女は私の視線の先を追い、まさにヤミガミがいるところに目を向ける。
 慌てた私は瞬きをしつつ、てのひらをさまよわせる。
「ええとですね、そこに小さきものがおりまして、私たちを見ているんですよね。ほら、あやかしとか妖精とか、私は存在を信じていまして、中には悪いものもいまして、高梨さんに取り憑こうとしているのかなー……と、心配になっていたんです」
 濁したものの、どうにかすべてを話した。
 もしかしたら高梨さんはあやかしに憑かれやすい体質だとか、そういうことかもしれないので、ぜひ彼女から話を聞き出したい。
「はあ……そうなんですか。星野さんは霊感が強いんですね」
「ええ、まあ、霊感というか、そういう感じですね……」
 だが高梨さんの反応は薄い。ヤミガミと目が合ったはずだが、やはり見えていないようで、すぐに視線を外していた。
「ピキュ……」
 なぜかヤミガミは寂しそうに鳴く。
 私の直感だけれど、このヤミガミは悪いものではないような気がする。
「たとえばの話なんですけど、高梨さんは悪霊に狙われる心当たりはありますか?」
「はあ。悪霊ですか」
「そうです。誰かを嫉んだり恨んだりだとか、よからぬことを考えていると、悪霊に取り憑かれる危険性が高まります」
 以前、玉木さんが取り憑かれたときは、イケメンを嫉む気持ちがヤミガミを引き寄せたのだった。人間社会の闇にひそむヤミガミは、同調する悪しき心を探しているのかもしれない。
 高梨さんは真顔になったが、口元に自嘲めいた笑みをのせる。それから彼女は、ふうと深い息を吐いた。
「すごいですね。星野さんの霊感、当たっていますよ」
「えっ……当たりました⁉」
 驚いた私は椅子から腰を浮かせる。
 その挙動を見て笑った高梨さんは、私の腕に手をかけた。
「落ち着いてください。激しく動いたら、お腹の赤ちゃんがびっくりするでしょう」
「あ、そうですね。当たったことに自分で驚きました」
 高梨さんは目を細めて私の顔を見る。そして、ふっくらとしたお腹に視線を移動させると、悲しげに眉根を寄せた。
「実は……星野さんとは、お話しをしたくないと思っていたんですよね」
「えっ⁉ 私、なにか失礼なことをしたんでしょうか?」
 先ほど、高梨さんに避けられたように感じたが、やはり彼女はそういうつもりだったらしい。
 苦笑をこぼした高梨さんは首を横に振る。
「いえ、星野さんがなにかしたというわけではないんです。わたしの気持ちの問題です。星野さんのおっしゃる通り、あなたや特定の同僚を見ていると、嫉んだり恨んだりする気持ちがとまらなくなってしまうので」
「……私でよければ、それはなぜなのか、聞いてもいいですか?」
 高梨さんは胸のうちを語りたいのだと察した。
 もしかして、その理由こそがヤミガミを引きつけたのだろうか。
 ヤミガミは私たちの正面に佇み、じっとしている。
 高梨さんはまるで空元気のように、明るい声を出した。
「もしかしたらご存じかもしれませんけども、わたし、子どもがいないんです」
「そうだったんですか。高梨さんは確か、ご結婚されてますよね?」
「結婚して、けっこう経ちますけどね……。妊娠したことはあるんですけど、流産してしまって……。夫婦って子どもができないと、それで喧嘩になって、夜もお互いにしらけてしまうんですよ。努力しても結果が出ないと、誰だって嫌になってしまうでしょう?」