彼女は高梨さんといい、既婚者である。私より年上で、落ち着いたお母さんという雰囲気があるが、高梨さんから子どもの話は聞いたことがない。業務以外の内容をほかの社員と話している姿も見かけなかった。
うるさかったのかな……?
首をかしげていると、高梨さんの足元に黒いボール状のものが、ころりと転がってくるのが見えた。
「あっ……あれは……!」
突起のような小さな手足をばたつかせて、近づいてはまた離れていき、様子をうかがっている。
あやかしのヤミガミだ。
黒いぬいぐるみのような姿は器で、ヤミガミの本体を見た者は死ぬと言われている。もとは神だったが降格させられたそうだ。その恨みなのか定かではないが、人間に取り憑いて悪事を行わせる危険なあやかしである。
以前は同僚の玉木さんに取り憑き、ホームへ飛び込ませようとした事件があったけれど、柊夜さんと羅刹の活躍により事なきを得た。
あのときのヤミガミは羅刹が握り潰したが、姿を消しただけで消滅したわけではないから、獲物を見つけたらまた現れるのだ。
現世の闇に無数にひそむ彼らは、心の弱い人間を狙って入り込むのだとか……。
「星野さん、どうかしたの?」
「あっ、いえ、なんでもないです」
凝視していたら、本田さんから不審に思われてしまった。
あやかしはふつうの人間には見えないので、もちろんみんなは気にとめていない。このフロアでほかにあやかしが見えるのは柊夜さんと羅刹である。ちらりと彼らに目を向けるが、ヤミガミの妖気が小さいためなのか、気づいていないようだ。
騒ぎ立てても困るものね。どうしたらいいんだろう……。
私が戸惑っているうちに、ヤミガミはじりじりと高梨さんに近づく。
そのとき、ビジネスバッグを携えた羅刹が颯爽とフロアを横切った。
「それでは、営業に行ってまいります。ほら玉木さん、僕についておいで」
風を切るような神気が発せられたのか、驚いたヤミガミは「ピャッ」と鳴いて飛び上がった。慌ててフロアの出入り口へ転がっていく。
「もぉ~。ぼくは神宮寺さんの部下じゃないんですからね! ぼくのほうが先輩なのにぃ」
「上司のつもりじゃないよ。どちらかというと飼い主の気分かな」
「ぼくは犬ですか⁉」
「そういえば、チワワっぽいねえ」
玉木さんはまさに子犬のごとくわめきつつ、羅刹の後ろに付き従っている。ふたりは柊夜さんからペアにされた経緯があるので、外回りも一緒に行動することが多い。
羅刹がフロアを出ていったあとにはもう、ヤミガミの姿はどこにもなかった。
やがて休憩時間になり、ひと息ついた私はパソコンの画面から目を離す。妊娠中のため、ほぼ内勤にしてもらっているので助かっていた。
するとそのとき、目に飛び込んだものに息を呑む。
「え……ちょっと、こらっ……」
なんと先ほど見かけたヤミガミが、高梨さんの腕をよじ登っていた。高梨さん自身はそれに気づいていないわけだが、なんだか具合が悪そうに眉根を寄せている。
視線を巡らすと、フロアに鬼神ふたりの姿はなかった。羅刹は外回りに行っており、柊夜さんは会議から戻ってきていない。これは、まずい事態だ。鬼神という脅威がない今、ヤミガミはやりたい放題になる。
きっと、高梨さんに取り憑くつもりなのだ。
慌てて立ち上がった私は不審に思われないぎりぎりの早足で高梨さんに駆け寄った。虫がついていると言って、ヤミガミを払い落とそう。
ところが、なぜか高梨さんは私が近づいてくるのを目にした途端、さっと席を立つ。
その反動でヤミガミは転げ落ちた。
「ピキュウ!」
「あの、高梨さ……」
声をかけ終えないうちに、高梨さんは私から顔を背けてフロアから出ていく。
なんだか私に話しかけられるのを避けたように見えたが、気のせいだろうか。
ころんと床に転げたヤミガミは、「ピキュピキュ」と鳴いて起き上がる。見回すとそこに高梨さんがいないのを知り、呆然としたのちに猛然と駆けて、彼女のあとを追っていった。
まるで子どものようなかわいらしさのあるヤミガミだが、油断してはいけない。
「どうして高梨さんを狙うのかな……」
明らかにヤミガミは高梨さんを標的にしている。放っておいたら、いずれ取り憑かれてしまうだろう。
フロアから出て高梨さんを探す。休憩の時間なので、そう遠くへは行かないはずだ。
給湯室からは社員たちの華やかな声が聞こえてきたが、ここにはいないだろうと思える。高梨さんが同僚と楽しげに話しているところなど見たことがないからだ。
廊下の角を曲がった先に休憩所があるから、もしかするとそこだろうか。
顔を上げた私は休憩所へ向かったが、ぴたりとその歩みをとめた。
うるさかったのかな……?
首をかしげていると、高梨さんの足元に黒いボール状のものが、ころりと転がってくるのが見えた。
「あっ……あれは……!」
突起のような小さな手足をばたつかせて、近づいてはまた離れていき、様子をうかがっている。
あやかしのヤミガミだ。
黒いぬいぐるみのような姿は器で、ヤミガミの本体を見た者は死ぬと言われている。もとは神だったが降格させられたそうだ。その恨みなのか定かではないが、人間に取り憑いて悪事を行わせる危険なあやかしである。
以前は同僚の玉木さんに取り憑き、ホームへ飛び込ませようとした事件があったけれど、柊夜さんと羅刹の活躍により事なきを得た。
あのときのヤミガミは羅刹が握り潰したが、姿を消しただけで消滅したわけではないから、獲物を見つけたらまた現れるのだ。
現世の闇に無数にひそむ彼らは、心の弱い人間を狙って入り込むのだとか……。
「星野さん、どうかしたの?」
「あっ、いえ、なんでもないです」
凝視していたら、本田さんから不審に思われてしまった。
あやかしはふつうの人間には見えないので、もちろんみんなは気にとめていない。このフロアでほかにあやかしが見えるのは柊夜さんと羅刹である。ちらりと彼らに目を向けるが、ヤミガミの妖気が小さいためなのか、気づいていないようだ。
騒ぎ立てても困るものね。どうしたらいいんだろう……。
私が戸惑っているうちに、ヤミガミはじりじりと高梨さんに近づく。
そのとき、ビジネスバッグを携えた羅刹が颯爽とフロアを横切った。
「それでは、営業に行ってまいります。ほら玉木さん、僕についておいで」
風を切るような神気が発せられたのか、驚いたヤミガミは「ピャッ」と鳴いて飛び上がった。慌ててフロアの出入り口へ転がっていく。
「もぉ~。ぼくは神宮寺さんの部下じゃないんですからね! ぼくのほうが先輩なのにぃ」
「上司のつもりじゃないよ。どちらかというと飼い主の気分かな」
「ぼくは犬ですか⁉」
「そういえば、チワワっぽいねえ」
玉木さんはまさに子犬のごとくわめきつつ、羅刹の後ろに付き従っている。ふたりは柊夜さんからペアにされた経緯があるので、外回りも一緒に行動することが多い。
羅刹がフロアを出ていったあとにはもう、ヤミガミの姿はどこにもなかった。
やがて休憩時間になり、ひと息ついた私はパソコンの画面から目を離す。妊娠中のため、ほぼ内勤にしてもらっているので助かっていた。
するとそのとき、目に飛び込んだものに息を呑む。
「え……ちょっと、こらっ……」
なんと先ほど見かけたヤミガミが、高梨さんの腕をよじ登っていた。高梨さん自身はそれに気づいていないわけだが、なんだか具合が悪そうに眉根を寄せている。
視線を巡らすと、フロアに鬼神ふたりの姿はなかった。羅刹は外回りに行っており、柊夜さんは会議から戻ってきていない。これは、まずい事態だ。鬼神という脅威がない今、ヤミガミはやりたい放題になる。
きっと、高梨さんに取り憑くつもりなのだ。
慌てて立ち上がった私は不審に思われないぎりぎりの早足で高梨さんに駆け寄った。虫がついていると言って、ヤミガミを払い落とそう。
ところが、なぜか高梨さんは私が近づいてくるのを目にした途端、さっと席を立つ。
その反動でヤミガミは転げ落ちた。
「ピキュウ!」
「あの、高梨さ……」
声をかけ終えないうちに、高梨さんは私から顔を背けてフロアから出ていく。
なんだか私に話しかけられるのを避けたように見えたが、気のせいだろうか。
ころんと床に転げたヤミガミは、「ピキュピキュ」と鳴いて起き上がる。見回すとそこに高梨さんがいないのを知り、呆然としたのちに猛然と駆けて、彼女のあとを追っていった。
まるで子どものようなかわいらしさのあるヤミガミだが、油断してはいけない。
「どうして高梨さんを狙うのかな……」
明らかにヤミガミは高梨さんを標的にしている。放っておいたら、いずれ取り憑かれてしまうだろう。
フロアから出て高梨さんを探す。休憩の時間なので、そう遠くへは行かないはずだ。
給湯室からは社員たちの華やかな声が聞こえてきたが、ここにはいないだろうと思える。高梨さんが同僚と楽しげに話しているところなど見たことがないからだ。
廊下の角を曲がった先に休憩所があるから、もしかするとそこだろうか。
顔を上げた私は休憩所へ向かったが、ぴたりとその歩みをとめた。