かぐやの国のアリス

 声に近づくにつれ、それが歌であることに有理沙は気づいた。それも複数人の声が重なり、合唱をしている。歌の合間にさんざめくような話し声も聞こえて、かなりの人数が近くにいるのだろうことが分かる。少しずつ鮮明になってくる歌声の陽気さに力を得て、有理沙はススキの綿毛を巻き上げながら猛然と野原を突き進んだ。

 ススキが途切れ、視界が開けた。そして、ウサギがいた。

 一羽ではない。十は確実にいるだろうか。様々な柄や体色のウサギが集まり、跳ねまわり――餅つきをしていた。

 ススキの原の真ん中で、その場所だけは綺麗に刈り込まれていた。遊びまわるには十分な広さだろう円形の広場の中央に、立派な白木の臼が置かれ、ウサギたちがとり囲んでいる。

 ひときわ体が大きな茶色いウサギが杵を振り下ろすたび、周りのウサギがやんやと囃し立てる様が見てとれた。

 ずっと聞こえていた歌に意味を持った歌詞がのって、ようやくはっきりと有理沙に届いた。


 ウサギさんの餅つきは
 トーン トーン トッテッタ
 トッテ トッテ トッテッタ

 おっこねて おっこねて
 おっこね おっこね おっこねて

 とっついて とっついて
 とっつい とっつい とっついて

 シャーン シャーン
 シャン シャン シャン

 トッテ トッテ トッテッタ


 目の前の光景が信じられず、有理沙は唖然として立ち尽くした。

 なぜ、こういう時に有毅が出てきてくれないのだろう。普通と少し違う彼が見えるところにいてくれたならば、この現実離れした状況ももう少し冷静に受け入れられそうな気がするのだが。

 餅つきをするウサギたちの向こうで、なにかが跳ねるのが見えた。餅つきウサギたちよりも一回り体が小さい子ウサギたちが、じゃれあい遊び回っている。その内の黒い子ウサギが、自身の体ほどもあるボールを、ぽーんと投げ上げるのが見えた。

 その瞬間、有理沙は穴に落ちる前のできごとを思い出した。


「あ! ボール!」


 有理沙が声をあげると、歌が途切れ、ウサギたちが一斉に振り向いた。

 驚かせてしまったらしいことを有理沙は危ぶんだが、そもそも黒ウサギがサッカーボールを持ち去ったのが悪いのだと思い直す。逃げてしまったとしても構わないだろう。ボールさえ返してもらえるのであれば。

 有理沙が思い切って足を踏み出すと、ウサギたちはわっと大声をあげた。


「お客様だ!」


 叫ぶと同時に、ウサギたちが群れになって駆けてきた。予想と反する反応に、有理沙はかえってぎょっとして足を止めた。その足元へ、ウサギたちはお構いなしに群がり、とり巻いていく。


「やっとお客様がみえたぞ!」

「新しい子は久しぶりだね」

「ねえねえ、君の名前は?」


 押し合いへし合いしながら、ウサギたちが詰め寄る勢いで畳みかける。有理沙はさっきまでの勢いをすっかり失い、気圧されるまま体を引いた。


「ちょっと、ちょっと待って」


 勢いに耐えかねて後退った有理沙のひかがみを、誰かが後ろから押した。


「うわっ」


 膝からひっくり返りそうになり、慌てて足を前に出して踏みとどまる。首をひねって背後を見れば、両前脚をいっぱいに伸ばしたウサギと目が合った。


「さあさあ、立ち話もなんですから。あっちに座って、どうぞゆっくりしていってくださいな」

「え、いや、あたしはボールを」

「まあまあ、そう言わずに」


 正面の二羽が有理沙の手を片方ずつつかんだ。後ろから膝やふくらはぎを押すのに合わせて、両腕を引っ張られれば、有理沙はたたらを踏むように進むしかない。体が小さいとは言っても、餅つきができるほどの力があるのだ。多少の抵抗が意味をなすはずもなかった。

 熱烈な歓迎はありがたいとは思うが、こう強引ではやはり気後れしてしまう。

 脚を押すウサギの数はいつの間にか増え、有理沙はあっという間に餅つき会場の真ん中近くまで連れていかれた。


「ツクヨミ様、ツクヨミ様! お客様がみえました!」


 白黒のぶち模様の子ウサギが、甲高く叫びながら先行するように走り出した。子ウサギは餅つきの臼を素通りし、さらに向こうへと駆けていく。有理沙は子ウサギの向かう先を目で追った。

 有理沙がいたのとは反対側の広場の端。ウサギたちがボール遊びをしていた場所を見渡せる位置。花穂を躍らせるススキを背景に、白い衣を着た男が座っていた。
 降って湧いた見知らぬ男の姿に、有理沙は息をのんだ。臼とウサギたちの影になって、つい今まで彼の存在に気づけていなかった。

 地面に胡坐をかいたまま、男は駆け寄ってきた子ウサギを抱き上げ、白い袴の膝に乗せた。袴と同色の幅広い袖が地面を刷くようにこすったが、気にする様子はない。

 ゆったりとした襟と腹の部分を紐で留めた着物は、狩衣(かりぎぬ)と呼ばれるものだ。月乃浦神社の祭祀で宮司が着ているのを、有理沙も見たことがある。烏帽子(えぼし)はつけておらず、長い黒髪を背中で緩く束ねるにとどめている。身じろぎするたびに淡く輝くその髪の艶といったら、花の女子高生の有理沙としては嫉妬せずにはおれない。

 首からは長い数珠に似た飾りをさげていて、透き通った珠の連なる中に一つだけある大きな珠の中で五色(ごしき)の輝きが揺らめいていた。

 男がぶち模様の毛並みを撫でると、子ウサギは心地よさそうに目を細めて鼻をひくひくと動かした。子ウサギは甘えるように男に身をすり寄せてから、指差すように前脚を持ち上げ改めて言った。


「ツクヨミ様、見てください。新しい子がきてくれました」


 男が顔を上げた。頬の後れ毛を掻き上げながら向けられた涼しい眼差しに、有理沙は思わずどぎまぎした。


「そのようだね」


 そう低く言った彼の声は、眼差し同様に涼やかだった。


「さあさあ、ツクヨミ様のお隣りへどうぞ」

「ちょっと、そんなに引っ張らないで」


 ウサギに腕を強く引かれ、有理沙はつんのめるようにしてツクヨミの前まで進んだ。近づいてみればそこには、二人でゆとりをもって座れる広さの茣蓙(ござ)が敷かれていた。くつろげるよう、厚めの座布団までがその上に置かれている。ずいぶんと準備がよすぎではないかと有理沙は思ったが、とりあえずは疑問の前に口にすべき事柄があった。


「待って。お願いだからちょっと待って」


 無理に座らされる前に、有理沙はどうにかウサギたちを押し止めた。有理沙の必死さを不思議がるように、ウサギたちの視線が集まる。ツクヨミまで同じ視線を寄こしてきたので有理沙は落ち着かない心地になったが、ようやく話を聞いて貰えそうなことには少しだけほっとした。


「あたしはサッカーボールをとりにきたの。黒いウサギが持っていたでしょう? 返してくれない?」


 有理沙が言い終わると同時に、ツクヨミの狩衣の袖がもぞりと動いた。気づいた有理沙が注意を向けると、地面に届く幅のある袖の隙間から、黒い鼻先が怯えたようにそろそろとのぞく。ツクヨミが腕を上げるようにして袖をどければ、真っ黒な子ウサギがすっかり姿を現した。袴に貼り付くように身を縮めていた黒ウサギは、焦ったようにツクヨミの背中へと回り込んだ。


「こら、隠れるでない」


 ツクヨミは身をひねって黒ウサギの首根っこをつかまえ、体の前へと連れ出した。動きに合わせ、ツクヨミの胸元で珠飾りがさらりと鳴る。


「さっきの(まり)はどこに?」


 ツクヨミの声はやはり穏やかだったが、やや問い質す響きを帯びていた。つかまれたままの子ウサギは怯えたように耳を垂れ、黒い体を丸めた。


「さっき投げたときに、向こうのススキの中に……」

「他にとったものはないね?」

「ありません」

「それなら、すぐにとってきて返して差し上げなさい。いっておいで」


 ツクヨミが手を放してやると、子ウサギは転がるように慌ただしくススキの原へと駆けていった。

 子ウサギの姿を見送ったツクヨミは、改めて有理沙へと顔を向けた。


「迷惑をかけ申しわけなかった。まだ幼い子だ。大目に見てやってくれると嬉しい」


 彼に謝られると思っていなかった有理沙は、一瞬返事に迷ってもごもごと口を動かした。


「ボールを返してもらえるなら、あたしは構わないけれど」

「そうか。それならばよかった」


 安堵した様子でツクヨミが表情を綻ばせ、有理沙は思いがけず心臓が跳ねた。顔のいい男性の微笑みというのは、それだけでかなりの威力があるものだと、身に染みて実感する。

 ツクヨミは有理沙の内心になど気づかない様子で、自身の隣に置かれた座布団を示した。


「あの子はすぐに戻ってくるだろうが、せっかくだ。ゆっくりしていくとよい。皆、宴を続けよう」
 ツクヨミの一声で、有理沙をとり囲んでいたウサギたちは揃って返事をして行動を再開した。


「さあさあ、お座りくださいな」


 席を勧められ、有理沙は多少の気後れを感じたが、少しくらいならいいかと思い直した。ウサギにもてなされる宴というのもなかなか楽しそうだ。

 有理沙はローファーを脱いで茣蓙に上がり、お邪魔しますと一声かけてツクヨミの隣に腰を下ろした。


(なれ)の名は?」


 座るなりツクヨミに問われ、有理沙は目をぱちくりした。


「あ。()()って、あたし? あたしは、吉野有理沙」

「有理沙か。外からここに加わる者は久しぶりだ。よく覚えておこう」


 ツクヨミの言い方に引っかかりを覚えて、有理沙は首を傾げた。お客がくるのが久しぶりだから親しくしたい、ということだろうか。

 そんなやりとりをしている間に、茣蓙に座る二人の前にお膳が運ばれてきた。優美な脚つきのお膳の上に、朱塗りの鮮やかな椀が並べられている。椀に施された蒔絵(まきえ)の華やかさに、有理沙は少々驚いた。これだけ豪華なお膳は、よほどの高級旅館でもなければなかなかお目にかかれないかもしれない。


「どうぞ召し上がれ」


 配膳をしたウサギにうながされ、有理沙はさっそく両手を合わせた。


「ありがとう。いただきます」


 有理沙は期待に胸を膨らませて、まずは一番手前の大きな椀の蓋を開いた。ふわりと、優しい出汁の香りが鼻先をくすぐった。椀の中身は、澄んだ汁に青菜と餅の入ったお雑煮だった。

 豪華な膳のわりに、料理は質素な印象だ。それでも食欲を誘う香りに、自然と唾液が湧き出す。考えてみれば、今日は日課となっている学校終わりの買い食いをしていないのだ。有理沙は空腹を満たすべく、すべすべとした塗り箸をとり上げ、水面(みなも)の満月のような餅をつまんだ。

 つきたての餅はふわりとした感触と共に、箸の先を包み込んだ。そっと持ち上げれば、汁をまとって薄く伸びていく。その絹のように白さに見入りつつ、有理沙は餅を頬張った。餅はなめらかに舌をすべり、噛むほどに甘みを増した。汁のわずかな塩味がその甘みを淡く包み、つるりと喉へと落ちていく。


「おいしいー!」


 有理沙は感嘆して、夢中で箸を進めた。配膳をしたウサギは有理沙の反応に満足した様子で髭をそよがせた。


「お気に召したようでよかったです。たくさんありますから、どんどん召し上がってください。きなこやお醤油、餡子はもちろん、大根おろしのお餅もできますよ」


 口の中のものを飲み込んでから、有理沙は目を丸くした。


「そんなにたくさん! どうしよう。全部おいしそう」

「それなら、全部お持ちしましょう」


 配膳ウサギは一旦その場を離れると、餅つきウサギたちの方へと駆けていった。するとすかさず別のウサギが進み出てきて、小振りな椀型の盃を有理沙に差し出した。


「甘酒はお好きですか?」

「もちろん大好き。ありがとう」


 有理沙は迷わず盃を受けとった。少し香りを楽しんでから、盃の縁にそっと口をつける。白くとろりとした甘酒は人肌に温かく、口に含めば夢のような甘さが広がった。


「これもおいしいー」


 甘さの余韻にうっとりと酔いしれると、有理沙は盃を置いて箸を持ち直した。

 次々と運ばれてくる料理はどれも素朴だったが、想像を上回るおいしさで有理沙は感動しっぱなしだった。不思議と満腹になる気配はなく、味に飽きることもなく、箸は止まらない。有理沙が目の前の椀を残らず空にしたとしても、追加の餅がどんどんつかれ、速やかに新しい椀に入れ替えられた。

 有理沙が何杯目になるか分からないお雑煮をすすっているときだった。隣からくすくすと笑う声が聞こえた。振り向くと、膳のものを食べ終えたツクヨミがくつろいだ様子でこちらを見ており、有理沙は我に返るようにしまったと思った。


「ご、ごめんなさい。あたし、いつの間にかこんなに食べて」


 初対面の男性に無遠慮な大食いっぷりを披露してしまったことに気づき、今更ながら羞恥心が込み上げる。有理沙が慌ててとり繕うように椀と箸を置くと、ツクヨミは声を上げて笑った。


「食べ物はいくらでもある。好きなだけ食べなさい。今日はとても気分がよい。誰か、笛を」


 ツクヨミが声をかけると、どこからともなく篠笛を捧げ持ったウサギが進み出てきた。篠笛を受けとると、ツクヨミは有理沙にちらりと視線を投げかけた。


(がく)は好きかな」


 有理沙が是とも否とも答える前に、ツクヨミは笛を唇にあてた。あれほど騒がしくしていたウサギたちが、水を打ったように静まり返った。息をのむことさえ憚られるほど、待ちわびるような沈黙。

 ツクヨミがそっと、笛に息を吹き込んだ。

 紡ぎ出された音に、有理沙は詰めていた息を吐き出した。笛の音は妙なる調べとなって、高く、時に低く響き、耳朶を慰める。有理沙に笛の良し悪しが分かるような教養はなかったけれど、どこか懐かしさも覚える音色に自然と聞き入った。

 笛に合わせて、誰かが歌い出した。それはよく知る歌のようなのに、記憶のものと少しずつずれて、心の繊細な部分に触れるようだった。とても美しく耳に心地いいはずなのに、切なく切なく、歌は響く。


 ウサギ ウサギ
 なに見て跳ねる
 まんまるお目々に映るのは
 見えども届かぬ 恋し君
 松本隼(まつもとはやと)は、甘しょっぱいスポーツドリンクを一気に口へと流し込んだ。周りではサッカー部の仲間たちが、同じように水分補給をしながら汗を拭き、思い思いにストレッチや休憩をしている。隼はスポーツドリンクを飲み込みながら、目の前の青いベンチへと視線を落とした。そこには隼の荷物と一緒に、有理沙の鞄を置いていた。

 荷物の持ち主はすぐに戻るだろうと思ったが、さすがに地面に放り出したままではまずいだろうと拾っておいた。しかし一向に、有理沙が戻ってくる様子がない。この休憩を最後にもう一ゲームほど練習したら、部活時間も終わりになるだろう。

 隼は水筒を鞄にしまうと、隣にいた部員の肩を叩いた。後頭部を刈り上げた同年の部員は、顔だけで振り向いた。


「ん? どうした?」

「有理沙がボールとりにいったまま戻ってこないから、少し様子を見てくる。練習が始まるまでに戻らなかったら、先生に適当に言っといてくれ」

「はいはい。分かったよ。羨ましいなぁ、お熱くて」

「ばーか。そんなんじゃねえよ」


 仲間の肩を軽く小突いてから、隼はサッカーコートを横切るように駆けだした。

 隼と有理沙の通う高校は、少し運動部が強い以外はこれといって特色のない普通科の進学校だった。男女で同じ紺のブレザーもごくシンプルなもので、制服を目的にくる生徒などもいはしない。唯一特徴と言えるかもしれないとすれば、隼の父が宮司をしている月乃浦神社と隣接していることくらいだ。

 とはいっても、神社と高校になにか関係があるわけではない。この高校への進学を決めた理由とて、近くてサッカーができるからというだけだ。隼たち家族の住む家は神社の敷地内にあるので、朝ゆっくりできるのと、忘れ物をとりにいきやすいのが非常に都合がよかった。

 できるだけ急いで戻ろうと、隼は砂埃の舞うグラウンドを一気に走り抜けて、緑のフェンスをよじのぼった。


「有理沙ー、ボール見つかったかー」


 フェンスから飛び降りながら、隼はクマザサの藪に向かって声をかけた。いつものわめくような声が返ってくるだろうと予想しながら、フェンスを背にして真っ直ぐに立つ。けれど返事はなく、声が聞こえなかったのだろうかと思って、隼は軽く息を吸った。


「おーい、有理沙ー」


 返事はなかった。返事どころか、近くの藪にいれば聞こえるだろう葉擦れの音さえもなく、林床(りんしょう)のクマザサもしんとしている。薄暗い鎮守の森の奥も、わずかな風に木々の枝葉が小さく揺れる以外に、動くものの気配は見えなかった。


「有理沙ー、いないのかー?」


 もう一度呼んでみるが、やはり応えるものはない。さすがに不審に思って、隼は眉をひそめた。


「隼」


 突然、真横から呼びかけられて、隼は弾かれるように振り向いた。紺ズボンの制服を着た少年が、間近に立っていた。見覚えのある姿に、隼は胸を撫で下ろした。


「なんだ、有毅か。急に出てきたら驚くだろう。でも、有毅がいるってことは、有理沙も近くにいるんだな。あいつ、どこまでいったんだ」


 有毅に問いかけながら、隼は改めて目の前の森と見渡した。つるべ落としに日は低くなり、森を漂う薄闇も色を濃くし始めている。けれど有理沙が近くにいるなら見つけられるはずだと思い、隼は森の底に目を凝らした。


「有理沙が連れていかれた」
「え?」


 出し抜けに有毅が囁き、隼は咄嗟に聞きとれずに聞き返した。


「なんだって?」


 振り向けば、色素の薄い瞳が真っ直ぐに隼を見ていた。


「有理沙が連れていかれた」


 有毅は繰り返し、有理沙とよく似た顔を悲痛に歪ませた。


「やっぱり、ぼくだけでは駄目だった。自分が見つからないようにするのが精いっぱいで、なにもできなかった」


 有毅の言葉が浸透するのに時間がかかった。じわじわと意味を悟り、隼は冷水を浴びせられたように血の気が引いていく。


「連れていかれたって、まさか……」


 ゆっくりと、有毅が頷いた。


「そんな!」


 声を荒らげ、隼は有毅の肩をつかんだ。


「なんで今になって有理沙が! 有毅だけじゃなくて、どうして有理沙まで……どうして!」


 有毅が消えた幼き日の記憶が蘇り、隼は打ち震えた。

 毎日のように自宅に警察がきて、マスコミが押し寄せ、出かけることさえままならなかったのを思い出す。たくさんの大人たちが有毅の失踪時のことを聞きたがり、同級生たちは遠巻きにして噂し、隼を腫物のように扱った。耐え忍ぶしかない日々だった。しかし両親は疲れ切った顔をしながらも、お前は心配しなくていいのだと、隼を気づかってくれていた。

 隼は疲弊していたが、大きな負担は両親が引き受けてくれていた。だからこそ、なにより気がかりだったのが、有理沙のことだった。

 双子の弟である有毅がいなくなって、有理沙は急速に生気が希薄になったようだった。学校にくるどころか、まったく外に出ることもなく家に籠るようになった。こちらがどんなに話しかけても反応は鈍く、そのまま有理沙まで消えてしまうのではないかと、隼は焦燥した。

 そんな状況から必死の思いで、元のはつらつとした有理沙をとり戻したのだ。それが再び奪われるなど、隼にとってあってはならないことだった。

 狼狽える隼の手を有毅はそっとつかんで、肩から離させた。触れた有毅の肌に、人らしい体温はない。肌の感触はあっても、質量を伴ってはいなかった。


「ぼくは、有理沙をとり戻したい」


 隼を見る、有毅の眼差しが強くなった。


「お願いだ、隼。有理沙をとり戻すのに力を貸して欲しい。ぼく一人では無理でも、隼と協力できればきっとできる。こんなことを頼めるのは、ぼくを呼び戻せた隼だけなんだ」


 有毅の声はあくまで静かだったが、縋る響きがあった。有理沙を失いたくないと思うのは、隼だけではない。

 隼は手を下ろすと、何度か深呼吸して、自身の中の動揺を懸命に抑え込んだ。


「おれは、どうしたらいい?」


 隼が真正面から問えば、有毅も同じように正面から隼を見詰めた。


「ぼくと一緒に、月の国へいって欲しい」

「月? 有理沙は、月にいるっていうのか?」


 有毅はゆっくり頷いた。


「人でないものを、相手にすることになる。危険なことはできるだけないようにするつもりだけど、保証はできない。いく前にしっかり準備して」


 笑うようにほんの少しだけ、有毅は目を細めた。


「隼は前よりずっと力をつけているし、ぼくもいる。だから、きっと大丈夫。有理沙は、ぼくと同じにはならない」
 隼は、体の動きを確かめるようにぐるぐると肩を回した。前に後ろにと念入りに肩甲骨を回転させたあとには、大きく足を開いてしっかりと筋肉を伸ばし、ほぐしていく。

 拝殿前の石畳で入念にストレッチをする隼を、有毅は賽銭箱に座って眺めていた。


「隼」

「ん?」

「ジャージでいくの?」


 隼は準備運動を中断することなく腰を回しながら、いかにも不思議そうにしている有毅の問いに答えた。


「しっかり準備しろって言ったのは有毅だろ」

「それはそうだけど」

「危険なことがあるかもしれないんだろ? だったら、いつでも走れる格好の方がいいに決まってる」


 自信を持って隼は断言したが、有毅は理解しつつもぴんときていない様子だった。

 隼は学校指定の青いジャージの上下を着ていた。足元はグレーのランニングシューズで、誰が見ても運動前に準備体操をしているだけに見えるだろう。唯一ランニングに向いていないのは、左肩から斜めがけしている黒いエナメルのスポーツバッグくらいだろうか。

 サッカー部の練習は終わり間際の時間だったが、隼はその時間さえも惜しく適当に理由をつけて抜けてきていた。森の向こうでは今頃、チームメイトたちがトンボを持ってグラウンド整備にいそしんでいることだろう。


「宮司の子なんだから、もっとこう、それっぽい格好をするのかと」


 イメージを語る有毅を、隼は目をすがめて見やった。


「狩衣のことを言ってるのか? 祭祀のドレスコードではあるけど、おれはまだそういう立場にない。作務衣(さむえ)でもいいけど、動きやすさならやっぱりジャージだろ。大切なのは信仰心であって、装束自体に力があるわけじゃない。でなきゃ、散歩ついでの気軽な参詣とかもできないだろ」

「でも、それでご利益に影響が出たりしないの?」


 上体を曲げて脇を伸ばし、隼はちょっとだけ唸った。


「どうかな。相手は神様だから、礼儀に則って祭り上げるに越したことはない。でも、ちゃんとした祭祀ならともかく、急場にまでそこまでしないとご利益がないんだとしたら性格悪すぎないか? 八百万(やおよろず)の神っていうくらいだから、中にはそういうのもいるだろうし、粗末に扱われたことで祟る神霊の話も確かにあるけど、そういうのは信仰心の問題であることがほとんどだ。きちんとお祭りすれば大抵はそれで済む。日々の感謝って言えば聞こえはいいけど、ようは普段からのご機嫌とりが大事なんだよ、神様ってのは」


 まだ首をひねっている有毅を横目に見ながら、隼は腕を体の前で交差させて肩のストレッチをした。


「難しく考えなくても、人間関係と同じだよ。恩も親交も礼儀もないようなやつがいきなりきて、困ってるから助けろって言われても、有毅だって嫌だろう」

「それはまあ確かに」

「おれは、そういうのはちゃんとするようにしてる。親に言われての習慣ってのもあるけど。一応、潔斎もしてきたから大丈夫だろう」

「潔斎って言ったって、シャワー浴びただけじゃん」

「しないよりいいだろう」

「ふうん」


 有毅は考える様子で、賽銭箱に座ったまま足をぶらつかせた。


「隼って、信心深いんだかドライなんだか分かんないよね」

「神様の存在を否定する気はなくても、合理的にいきたいんだよ。有毅は祭られたいと思うか?」


 手首を回しながら隼が問えば、有毅はちょっと面食らった顔をしてから唸った。


「そういうのはいいかな。そもそもぼくは神霊とは違うし、神様のことはよく知らない。ぼくは有理沙のそばにいられたら、それでいいんだ」

「そうか」


 最後に軽く跳躍して、十分に体が温まったことを確かめた隼は、よし、と自身に気合を入れた。


「それで、どうしたらいい?」


 準備万端とばかりに隼が言い、有毅は賽銭箱から軽やかに立ち上がった。


「鎮守の森のどこかに入口がある。その時々で移動するものなんだけど、まだ月の匂いがしているから、ふさがってはいないはずだ。探せばすぐに見つかると思う」


 そう言って、有毅は少しだけ鼻をひくつかせた。


「こっちの方かな」


 有毅が指差した方向を見て、隼は怪訝に眉をひそめた。


「本殿?」

「の、裏の方」


 胡乱に言った言葉をすぐさま継がれ、隼は有毅をちらと()めつけた。有毅は涼しい顔をしていて、隼はひとまず文句を飲み込んだ。


「裏ってことは、竹林の方か」

「そのはず。有理沙の気配が最後にしたのも竹林の方だった」

「そこまで分かってるなら、早くいこう」


 社殿を回り込むべく、隼は体の向きを変えた。


「ぼくは先にいくよ」


 視界の端で有毅の姿がかき消えた。有毅がいた場所を余韻のように落ち葉が風に乗って通り過ぎていき、隼はちょっと肩をすくめた。


「便利だなぁ」


 今の有毅の体は案外快適なのではないかとぼんやり考えつつ、隼は遅れをとるまいと石畳を駆け出した。
 月乃浦神社の社殿は、よくある神社と同様に、参拝者が参詣する拝殿と、祭神を安置する本殿、それらを繋ぐ幣殿(へいでん)が棟を連ね、奥に長い構造になっている。拝殿の左右には、社務所の役割をする翼殿(よくでん)が欄干つきの廻縁(まわりえん)で繋がっており、これらを回り込むとなるとなれば、それなりの距離を走ることになる。

 それでも隼は心得たもので、棟を繋ぐ縁をくぐりつつ、長く伸びる日暮れの影と併走するように社殿の裏へと駆けつけた。

 竹林に入ると、有毅の姿はすぐに見つかった。社殿からいくらか離れた竹林の中ほど、竹の隙間から差す夕日を浴びて立っている。その輪郭が滲んで見えるのは、隼の目が日差しに眩んでいるだけなのか、あるいは有毅の存在の希薄さゆえか。前者であればいいと思いながら、隼は有毅の背中に駆け寄った。


「あったか?」


 有毅はすぐには答えず、目線だけで隼を見やってから、足元を指差した。


「ここだ」


 有毅の前の地面は、竹の地下茎が覗く段差になっていた。飛び降りて振り返ってみれば、ちょうど段になっている部分が、黒い穴になっていた。かなり狭そうではあるが、人が一人どうにか通れはするだろう。

 隼は地面に両手をついて、慎重に穴を覗き込んでみた。ぽっかりと開いた口より奥は、地肌すら見えないほど濃い闇に塗りつぶされていた。


「この穴が、月の国に繋がってるのか」

「うん」


 有毅が頷くのを確認すると、隼はスポーツバッグを紐をできるだけ短く調整して腹這いになった。


「待って、隼」


 早速穴に潜り込もうとした隼を、有毅が引き留めた。穴の縁に手をかけたまま首をひねるように顔を上げれば、間近に膝をついた有毅が硬い表情でこちらを見ていた。その口元が震えているのを見てとって、隼は一度体を起こした。


「怖いのか?」


 隼が問うと、淡い色をした有毅の瞳が揺れた。動揺を悟られまいとするように有毅は顔を伏せたが、吐いた息も震えを含んでいた。数瞬の間があって、ようやく有毅は声を絞った。


「怖いよ。正直、ぼくがまた向こうにいって、どうなるか分からないんだ。今度こそ本当に、帰ってこられなくなるかもしれない」


 消え入りそうに背中を縮めながら、有毅が言う。隼は怯える幼馴染みの姿に自然と目を細めると、体温のないその手を握ってやった。


「そうはならない。そのために、おれがいくんだ」


 励ますように言えば、有毅は少しだけ顔を上げた。隼は、手を握る力を強めた。


「昔のおれはなにも分かってなかったから、見よう見まねのままごとみたいな儀式しかできなかった。有毅が皆に見えないのはおれのせいだ。だから、もうそんな半端なことはしない。有理沙は確実にとり戻す。有毅も、今度こそ完全な状態で、一緒に帰ってくるんだ――そのためにおれは、ずっと努力してきた」


 隼の言葉を受けて、次第に有毅の瞳に光が差した。驚いたように見開かれた目が、ふと笑みの形に細まる。


「ありがとう。でも責任は感じないで欲しい。どんな形であれ、隼がぼくを呼び戻してくれたことには感謝してるんだ」


 今にも泣きそうにも見える有毅に笑み返すと、隼は改めて穴の前に腹這った。


「ねえ、隼」


 進む体勢を作った矢先に再び呼ばれ、まだなにかあるのかと隼はかたわらを仰ぎ見た。今度は怯えのない表情の有毅と目が合った。


「隼はさ、なんで、ぼくが見えることを有理沙に言わないの」


 静かな声音に、隼はすぐに答える言葉が出なかった。黙ったまま正面に顔を戻し、穴の縁に手をかける。一つ、息を吐いた。


「おれは絶対に、有毅を元に戻すって決めてる。でも、今の有毅が見えることが当たり前になったら、それで満足して、決意が揺らぐ気がするんだ。それに、有毅が元に戻れば、言わなくたって同じだ」


 隼がこうして思いを口にするのは初めてだった。有毅を呼び戻した時からずっと秘めていただけに、言葉にすると妙に照れくささがある。それでなんとなく隼が顔を上げられずにいると、有毅が小さく笑うのが聞こえた。


「隼らしいや」


 らしいと言われるのなら、照れるものでもないのかもしれない。しかし笑われるのは、少々憎らしかった。


「言っとくが、おれはあくまで宮司の息子でしかないから妙な期待はするなよ。出仕(しゅっし)ですらないんだ」

「それが分からないほど無知じゃないつもりさ。それでも、子供のままごと儀式でぼくを呼び戻すことはできた」

「不完全だけどな」

「できたっていう事実が大事なんだよ」


 念のための釘差しだったが、有毅には不要な上に意味をなさなかったらしい。それでもやはり少々期待しすぎなのではと思ったものの、有毅が柔らかに笑っているので隼はそれ以上言うのはやめた。

 気をとり直して、隼は穴の縁にかけた手に力を入れた。


「いくぞ」
「うん」


 隼は大きく息を吸い込んで、暗い穴へと身をすべり込ませた。
 穴の底に着いた隼は、一面のススキの原に感嘆の息をもらした。


「すっげぇ……」


 ススキが波打つたび銀の野原をきらめきの走るさまは、この場所にきた目的をつかの間忘れさせるものだった。隼がつい景色に見入っていると、隣に並ぶように有毅が姿を現した。


「綺麗な場所だよね」

「本当に月なのか、ここは」

「そうだよ」


 有毅は腕を掲げ、頭上を指差した。


「あれが地球。ぼくらは、あそこからきた」


 有毅が示す先を追って、隼は空を仰ぎ見た。普通の夜空ならあるだろう濃淡がまるでない真っ黒な空。そこに満月のように円を描く大きな星があった。表面で渦を巻いている白い模様は雲だろうか。


「まじか……」


 隼の中で月へいくといえば、アポロ11号の月面着陸映像なのだが、竹林の穴を通ってきたことといい、どうもかなりイメージと違う場所らしい。根の国という言葉がつい頭に浮かび、縁起でもない、と隼は考えを振り払うように首を振った。死者の国とまで言わなくとも、概念的に近い空間ではありえるかもしれないが。


「有理沙は、どこにいるんだ」


 言いながら、隼はススキの原へと視線を戻した。前後左右、見渡す限りの銀の野原に起伏はなく果てもない。だからこそ他に誰かいれば見えそうなものなのだが、人らしき影は見えなかった。


「きっと、ツクヨミのところにいる」

「ツクヨミ?」


 聞き捨てならず、隼は眉間を厳しくして有毅を見た。


「ツクヨミって、古事記に出てくる、月神の?」


 慎重に問うた隼に、有毅は首を横に振った。


「ツクヨミとは名乗ってるけど、彼は神様とか、そういうものじゃない。人ではないことは確かだけど。ツクヨミ自身も、自分がなんなのかは分かっていないんだと思う」


 淡々と語る有毅の表情が強張っている。それで隼は、ツクヨミとやらがどんな存在かおおよそ察した。


「それで、有理沙はそのツクヨミにつかまって閉じ込められてるってことか」


 有毅はまた首を横に振った。


「閉じ込められているってことはないと思う。むしろ歓迎されて、もてなされてるんじゃないかな」

「は? ツクヨミっていうのは悪いやつじゃないのか?」

「ぼくにははっきり分からない。ただ……」


 言いよどむように、有毅は言葉を途切れさせた。わずかに唇を噛み、考え込む様子で沈黙する。隼が言葉の続きを待っていると、有毅は息を吐いてこちらを見た。


「隼、これからぼくが言うことは、絶対に守って欲しい」


 有毅が声色を変えたので、隼は体ごと向き直った。ここが隼の知らない場所である以上、頼りになるのは有毅しかいない。

 有毅は言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を発した。


「ここの食べものを、絶対に口にしてはいけない」

「食べたら、どうなるんだ」


 訝しむ隼に、有毅は一呼吸置いてから続けた。


「月の国のものを食べた生き物は、月の国のものになってしまう――帰れなくなるんだ」


 隼は、有毅の言葉の意味が咄嗟に入ってこなかった。ただ、胸の内でざわりとしたもの恐ろしさが首をもたげた。血の気が引くのを感じながら隼は有毅を見詰めた、次の瞬間には眼差しを鋭いものにした。


「そのこと、有理沙は知ってるのか」


 有毅は気まずそうに瞳をさまよわせ、隼から目線をそらした。


「有理沙は知らない。伝える余裕がなかった」


 反射的に距離を詰めて、隼は有毅の襟をつかんだ。


「有理沙はツクヨミにもてなされてるって言ったな。それって当然、食事も出されてるんじゃないか」

「……おそらく」


 目を合わせないまま呟くほどの声で有毅が言い、隼は頭に血がのぼった。


「有理沙はもう帰れないとか言わないよな」


 突き飛ばすよう襟を離せば、有毅が尻餅をついた。触れる質量が感じられないので、どうにも気持ち的なすわりの悪さを伴う。有毅に怒るのはお門違いだとはどこかで思いながら、隼は憤りを抑えられなかった。様々な悪態が頭をよぎったが、それを口にするのだけはどうにか堪えた。


「……ごめん。でも、戻す方法があると思うんだ」


 囁くように有毅は言い、シャツの襟を整えながら立ち上がった。


「まだ有理沙はこちらにきたばかりだから、食べ物が完全に体に馴染む前なら、きっと間に合う。でも、隼まで月の国のものになってしまったら、もうぼく一人ではどうにもできない」


 有毅は、うつむけていた顔を上げた。


「月の国にはツクヨミと、その奥方、それからツクヨミが集めたウサギしかいない。ウサギたちは善良だから攻撃してくることはない。でも、だからこそ、ここでは一番危険なんだ。彼らは悪意なく、色々なものを食べさせようとしてくるから」


 進み出た有毅は隼の横を通り過ぎ、数歩いった先で振り返った。


「これからぼくらは、ツクヨミのいる輝夜殿(かぐやでん)に向かう。輝夜殿のある月の都の住民はみんなウサギなんだ。だから、本当に気をつけて」


 有毅がいく先を示す。隼はまだ憤然として納まらないものを感じていたが、深く息を吐いて冷静さをとり戻す努力をした。有毅の言う通りであるなら、内輪でもめている余裕はない。


「……分かった。十分に気をつける」


 自分をとり戻して隼が了解すれば、有毅は口元に薄く笑みを見せた。


「心配だな。隼は優しいから」

「どこがだよ」


 隼は本心から返したが、有毅は笑い声を立てただけだった。


「悪かったな。乱暴なことして」


 気をとり直すように隼が謝罪すれば、有毅は目を伏せてから首を横に振った。


「ううん。ぼくも悪かったんだ。さっきも言った通り、きっとまだ間に合うと思うけど、ゆっくりしてもいられない。急ごう」


 有毅が先行して歩き出し、隼はすぐにあとを追った。

 ススキをどんなに掻き分け進もうとも、有毅の足音がすることはない。それでも一生懸命に地面を踏みしめるように歩く背中に、隼はある種の頼もしさを感じると同時に、自分も頼られているのだと実感した。

 有毅だけならば、歩く必要などないはずだ。それでもあえて隼に合わせて歩いている。それほど有毅は、隼の力を必要としてくれているのだ。

 有理沙と有毅、必ず二人とも助けてみせると改めて誓って、隼は銀の野原を突き進んだ。
 香ばしい匂いを感じて、有理沙はゆるゆると目を開いた。ぼやけた視界が焦点を結べば、黒ずんだ板戸に向かって自分が寝ていることを認識できた。心地よい布団の肌触りを感じながら、有理沙は寝起きの倦怠感に引きずられるように、ごろりと寝返りを打って向きを変えた。

 そこは、板の間に囲炉裏の切られた見知らぬ部屋だった。

 はてここはどこだっただろうと考えながら、有理沙は億劫に起き上がった。億劫だと思ったわりには、体はずいぶんと軽く感じられた。

 板戸と障子戸に囲われた部屋は、趣ある古民家を思わせるものだった。むき出しの太い梁と屋根裏は囲炉裏の煙で燻されて、黒く艶を放っている。木目鮮やかな床板に切られた囲炉裏には、五つずつ串に刺した団子が火を囲うように並べられていた。白い餅肌にこんがりとした食べ頃な焼き色がつき、香ばしい匂いを立ち昇らせている。枕元を見やれば、有理沙が探していたサッカーボールが置かれていた。

 転がらないよう座布団に乗せられているボールを見て、有理沙はウサギたちの宴会での自身の食べっぷりを思い出した。フードファイターもかくやあらんとばかりに、一体何人前を平らげただろう。しかもそれだけの量を食べたあとで、手元に戻ったサッカーボールで子ウサギたちと全力で走り回って遊んだのである。思い返すだけで、有理沙は自分の胃袋の強靭さにおののいた。

 散々走り回ってさすがに疲れ、休憩をしたところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶がなかった。茣蓙に寝そべったのは確かなので、そのまま居眠りしてしまったのかもしれない。目覚めないまま宴会が終わって、起こさぬよう誰かが運んでくれたのだとしたら、大変に申しわけないことをしてしまったと、有理沙は頭を抱えた。

 ふと、部屋の外から誰かが歩いてくる音に気がついた。有理沙とは囲炉裏を挟んだ位置にある障子戸。その向こうの土間を歩く、軽快な足音がこちらに向かってくるのが分かる。足音はあっという間に近くなり、障子に影が映ったと思った瞬間には、がらりと戸が引き開けられた。

 顔を覗かせたのは、真っ白な毛並みのウサギだった。


「おはよう、有理沙」

「……おはよう」


 目が合うと同時に挨拶されたので、有理沙は思わず返事をした。白ウサギの声は、聞き覚えのあるような少年のものだった。けれど平板で抑揚に乏しく、そういう話し方をする者に覚えはない。

 当たり前のように部屋に入ってきた白ウサギは、素焼きの皿を一枚と、小さな甕を抱えていた。そのまま囲炉裏端の円座にちょこんと座り、皿と甕をかたわらに置く。前脚を伸ばして、囲炉裏に並べられている団子を一本とると、焼き加減を確認するようにくるりと回してから、串を持って甕の中へ逆さに入れた。そしてとり出された団子は、透き通った飴色のたれを纏っていた。

 白ウサギはそれを皿に置くと、他の団子も次々に手にとってはたれを纏わせて、皿に置いていった。

 慣れた手つきで団子を積み上げる白ウサギを観察しながら、このウサギは誰だったろうかと有理沙は考えた。

 ススキの原での宴会に、こんなに真っ白なウサギがいただろうか。あの場にいたすべてのウサギと話したわけではないし、数もたくさんいたので白ウサギがいなかったとは断言できない。それでも会話はしなかったはずだ、とは思うのだが、親しく呼ばれたことを考えると自信がなくなった。有理沙があれこれと思い巡らせていると、団子を積み上げ終わった白ウサギが有理沙に向かって皿を差し出した。


「食べる?」


 甘辛い匂いに誘われて有理沙は手を伸ばしかけたが、宴会で食べた量を思い出して踏みとどまった。


「ありがとう。でも、今はお腹が空いてないから」

「そう」


 白ウサギはあっさり皿を引っ込めると、自分で団子を一本とって、ぱくりと口に入れた。もぐもぐと小刻みに動くその愛らしい口元を眺めて、有理沙は布団を押しやって座り直した。


「あなた、名前は?」


 有理沙が少々改まって尋ねると、白ウサギは団子を飲み込んでから、不思議そうにこちらを見た。


「有理沙、ぼくが分からない?」


 逆に問われて、有理沙は焦った。やはり面識があったらしい。けれどウサギの顔など有理沙から見たら皆同じで、色や柄以外にどう見分けろというのか。

 有理沙が挙動不審に目線をさまよわせていると、白ウサギは団子の皿を置いて肩をすくめた。


「ずっと離れてたから仕方ないのかな。ぼくはすぐに有理沙だって分かったのに」


 やれやれと言いたげな口調が、ふいに有理沙の記憶にあるものと重なった。まさかと思ったのは一瞬で、彼しかいないという確信をする。それでもやはりどこかでは信じられず、有理沙は慎重に呟いた。


「……ユウキ?」


 白ウサギは笑うように、うっそりと頬の毛を膨らませて赤い目を細めた。あんぐりと、有理沙は口を開いた。


「ユウキ、なんでウサギになってるの」

「なんでって、有理沙もウサギなのに?」

「え?」


 弟はなにを言っているのだろうと思いつつ、有理沙は自身の手に目を落としてぎょっとした。目の前のユウキと同じ真っ白な毛に覆われた、丸い前脚がそこにあった。


「え? え?」


 頬に触れ、頭に触れる。口元からは細い髭が弧を描いて伸び、頭の上には真っ直ぐに立ち上がった二本の耳があった。


「なんで? なんで? え?」


 混乱して顔中を撫でまわす有理沙を尻目に、ユウキは団子をもう一本食べ始めた。


「月の国の住民は、ツクヨミ様と奥方様以外みんなウサギなんだ。なにも不思議がることじゃない」

「でも、そんなの困る」


 有理沙が縋るように言えば、ユウキは団子の串を口からはずして首を傾けた。


「なにが困るの?」

「なにがって……だって、あたし帰らないと」

「ここが有理沙の家だよ。どこに帰るって言うのさ」

「どこって……」


 それ以上言葉が続かず、有理沙は呆然とした。ユウキが言うように、ここが有理沙の家であるはずだ。だというのに、帰らなければという焦燥が、胸の内をじりじりと焼いている。頭での理解と感情があまりにもちぐはぐしていて、悪い物でも食べてしまったように胃の腑のあたりがきゅうと痛む気がした。

 ユウキは相変わらずのんきに団子を食べている。それを恨めしく思いながら、有理沙は気分の悪さを誤魔化そうと、枕元にあったサッカーボールを引き寄せた。ひと抱えもあるボールを体の前にやれば、顎を乗せられてほどよく体重も預けられる。有理沙はサッカーボールのぴかぴかとした表面をちょっと撫でた。このボールを探していただけのはずが、ずいぶんおかしな事態になってしまったようだ。

 その時はたと違和感を覚えて、有理沙は首をひねった。左右に何度か首をひねって考えてみるが、違和感はぬぐえない。どうにもすっきりせず、ついに唸ると、ユウキが気づいて顔を向けた。


「有理沙、どうしたの?」

「ううん。なんでもない」


 有理沙が咄嗟に平静を装えば、ユウキはすぐに興味を失った様子で顔を戻して団子を食べ進めた。

 わけの分からない違和感でユウキを心配させてはいけない気がして、有理沙は脱力しながら小さくため息をついた。


(あたし、なんでボールなんて探してたんだっけ)



 第一章 了
 目抜き通りに出ると、ずっと聞こえていた喧騒が一層大きくなって打ち寄せた。道の真ん中で枝を垂らしている柳並木の下を、ウサギたちが耳をそよがせ陽気にいき交っている。空は相変わらず夜の色をしていたが、白い石畳の道がほの明るく光っているようで視界には困らない。道の両側には木造長屋造りの商店が暖簾を並べ、客を呼び込む声があちこちで飛び交っていた。暖簾の色はウサギたちの毛並みよりずっと多彩で鮮やかな色柄をしていて、活気を煽り立てるようだ。

 月の都は、一歩ごとに有理沙(ありさ)の興味をそそるものであふれていた。店先で交わされる、店主と客のちょっとしたやりとりまで、有理沙の長い耳は拾っていく。

 どこかの家で子ウサギが生まれた。あそこの娘さんは大工の息子にぞっこんらしい。そんな会話についつい耳を澄ませていた有理沙だったが、前を歩くユウキの白い背中と距離が開いたことに気づいて慌てて追い駆けた。

 ユウキが出かけると言うので、有理沙も一緒に家を出てきた。実は少しばかり気分の悪さはあったのだが、なんとなく独りになりたくないと思ったのだ。けれど外に出た途端すっきりとしたので、ただの起き抜けの不調だったらしい。一本裏通りにある家まで届くほどの大通りの賑やかさが、有理沙の胸を躍らせたのも大いに影響したに違いなかった。


「あらユウキ、また奥方様のところ?」


 有理沙が追いついたところでちょうど声をかけるものがあり、ユウキが髭を揺すって立ち止まった。有理沙も足を止めると、道の脇へと顔を向けた。そこには、色とりどりの干菓子を並べた菓子屋があった。声をかけてきたのは、店先で品出しをしていた茶鼠(ちゃねず)色の雌ウサギだ。

 茶鼠ウサギを見たユウキは、声を発さずにその場で頷いた。有理沙は弟の愛想のない様子に軽く眉をひそめたが、茶鼠ウサギは構うことなくさらに明るく言った。


「それならこれを持っておいきよ。奥方様は桃がお好きだから」


 茶鼠ウサギが売り台から箱を一つとり、ユウキはやはりなにも言わずにそちらへ歩み寄る。有理沙は茶鼠ウサギが差し出した箱の中身が気になり、ユウキの肩越しに覗き込んだ。

 桃の実と花をかたどった薄紅色の落雁が、白い箱の中に並んでいた。箱の底には揺らめく水面を思わせる青い濃淡の金平糖が敷き詰められていて、鮮やかな花手水(はなちょうず)のようにも見えた。


「わあ、かわいい!」


 有理沙が無邪気に声をあげると、茶鼠ウサギはころころと笑い声をたてた。


「そうでしょう。ユウキ、こちらの娘さんは?」


 水を向けられ、これまで茫洋としていたユウキの表情にようやく笑みのようなものが浮かんだ。


「彼女は有理沙。ぼくの双子の姉さんなんだ」


 ごく端的に紹介をされたので、有理沙はユウキの隣に立って軽くお辞儀をした。


「有理沙です。双子の弟がお世話になってます」

「色白なところがユウキとそっくりね。こちらこそよろしくね」


 有理沙の丁寧な挨拶に、茶鼠ウサギは気さくに微笑んだ。
 蓋をして紙を巻いた落雁の箱を受けとると、ユウキがさっさと歩き出し、有理沙は慌てて会話を切り上げてあとに続いた。


「ユウキ、ちゃんと挨拶くらいしなさいよ。感じ悪いよ」


 菓子屋での一連のやりとりでユウキがあまりにも淡々としていたので、有理沙はつい苦言を呈した。けれどユウキは振り返りもせずに、黙々と歩を進めるばかりだ。有理沙は歩幅を大きくして、ユウキの隣に並んだ。


「ユウキっってば、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」


 ユウキはやっと応えたが、顔は進行方向を向いたままだ。


「平気だよ。いつもあんな感じ。ツクヨミ様や奥方様に喜んで貰いたいだけだから、ぼくがどう反応しても一緒なんだ」
「だからって……」


 有理沙がさらに説教を続けようとしたところで、ユウキが足を止めた。急に立ち止まるものだから、追い抜きそうになって会話まで途切れてしまう。どうしたのかと有理沙は思ったが、瓦屋根の乗った門が目の前にあり、目抜き通りの一番奥まできたのだとすぐに気づいた。


「ここは?」

「ツクヨミ様のお屋敷。みんな、輝夜殿って呼んでる」


 常夜の空の下でことさら明るく見えるその屋敷は確かに名前の通りであるようだと、有理沙は思った。

 四つの柱が屋根を支える大門を中心に築地塀が左右に長く続いており、その広大さが並大抵ではなかろうことは外からでも伺い知れる。戸は開いていたが、塀も門もそびえる高さがある上に、庭園があまりに広いため少し覗いたくらいでは建物が見えない。けれど枝葉を茂らせて並ぶ庭木のどれもが黄金色に輝いていて、有理沙は息をのんだ。わずかな風に枝が揺れるたび、さらさらと鈴を鳴らすような音がしている。

 その不思議な音に有理沙が耳をそばだてていると、いつの間にかユウキが門をくぐって庭へと進んでいた。


「あ、ユウキ、待って」


 ユウキを追って門に飛び込めば、金の庭はますます輝いてるようだった。白い玉砂利を敷き詰めた道はただでさえ明るいというのに、そこから見える庭木の幹や枝がすべて、磨き上げられた金色をしているのだ。よく見ると、地面に接している根の部分は銀色であるようだ。枝の先には白い泡の粒のような実が鈴なりになっており、門の外でも聞こえたさらさらという音を奏でていた。

 有理沙は砂利につまずきそうになりながらも目が離せず、近くの木々を仰ぎ見ながらユウキの半歩後ろを歩いた。


「玉の木だよ」


 危なっかしい有理沙の様子に気づいたように、ユウキが振り向きながら言った。


「玉の木?」

「ツクヨミ様が奥方の衣兎(いと)様のために、蓬莱山(ほうらいさん)からとってきて増やしたんだ。ここは、衣兎様のためのお庭だから」


 蓬莱山がどこかは有理沙には分からなかったが、奥方のためにこれだけの庭を作り上げるツクヨミが相当な愛妻家であろうことは察せられた。容姿だけでなく立ち振る舞いや笛の音まで優雅なツクヨミを有理沙は思い出し、そんな男性に愛される奥方はさぞ幸せな女性だろうと少々羨む気持ちが芽生える。

 金の並木を抜けると、ようやく目的の屋敷が見えた。視界の端から端まで占めるほど大きな屋敷に、有理沙はもう何度目になるか分からないため息をついた。丹塗りの柱と白い壁のコントラストのなんと鮮やかなことか。建物の手前には瑠璃色の水をたたえた池があり、上下反転した屋敷を鮮やかさそのままに映している。池を渡る赤い欄干の橋が建物に向かって真っ直ぐに伸びており、その(たもと)に、ツクヨミが立っていた。