松本隼(まつもとはやと)は、甘しょっぱいスポーツドリンクを一気に口へと流し込んだ。周りではサッカー部の仲間たちが、同じように水分補給をしながら汗を拭き、思い思いにストレッチや休憩をしている。隼はスポーツドリンクを飲み込みながら、目の前の青いベンチへと視線を落とした。そこには隼の荷物と一緒に、有理沙の鞄を置いていた。

 荷物の持ち主はすぐに戻るだろうと思ったが、さすがに地面に放り出したままではまずいだろうと拾っておいた。しかし一向に、有理沙が戻ってくる様子がない。この休憩を最後にもう一ゲームほど練習したら、部活時間も終わりになるだろう。

 隼は水筒を鞄にしまうと、隣にいた部員の肩を叩いた。後頭部を刈り上げた同年の部員は、顔だけで振り向いた。


「ん? どうした?」

「有理沙がボールとりにいったまま戻ってこないから、少し様子を見てくる。練習が始まるまでに戻らなかったら、先生に適当に言っといてくれ」

「はいはい。分かったよ。羨ましいなぁ、お熱くて」

「ばーか。そんなんじゃねえよ」


 仲間の肩を軽く小突いてから、隼はサッカーコートを横切るように駆けだした。

 隼と有理沙の通う高校は、少し運動部が強い以外はこれといって特色のない普通科の進学校だった。男女で同じ紺のブレザーもごくシンプルなもので、制服を目的にくる生徒などもいはしない。唯一特徴と言えるかもしれないとすれば、隼の父が宮司をしている月乃浦神社と隣接していることくらいだ。

 とはいっても、神社と高校になにか関係があるわけではない。この高校への進学を決めた理由とて、近くてサッカーができるからというだけだ。隼たち家族の住む家は神社の敷地内にあるので、朝ゆっくりできるのと、忘れ物をとりにいきやすいのが非常に都合がよかった。

 できるだけ急いで戻ろうと、隼は砂埃の舞うグラウンドを一気に走り抜けて、緑のフェンスをよじのぼった。


「有理沙ー、ボール見つかったかー」


 フェンスから飛び降りながら、隼はクマザサの藪に向かって声をかけた。いつものわめくような声が返ってくるだろうと予想しながら、フェンスを背にして真っ直ぐに立つ。けれど返事はなく、声が聞こえなかったのだろうかと思って、隼は軽く息を吸った。


「おーい、有理沙ー」


 返事はなかった。返事どころか、近くの藪にいれば聞こえるだろう葉擦れの音さえもなく、林床(りんしょう)のクマザサもしんとしている。薄暗い鎮守の森の奥も、わずかな風に木々の枝葉が小さく揺れる以外に、動くものの気配は見えなかった。


「有理沙ー、いないのかー?」


 もう一度呼んでみるが、やはり応えるものはない。さすがに不審に思って、隼は眉をひそめた。


「隼」


 突然、真横から呼びかけられて、隼は弾かれるように振り向いた。紺ズボンの制服を着た少年が、間近に立っていた。見覚えのある姿に、隼は胸を撫で下ろした。


「なんだ、有毅か。急に出てきたら驚くだろう。でも、有毅がいるってことは、有理沙も近くにいるんだな。あいつ、どこまでいったんだ」


 有毅に問いかけながら、隼は改めて目の前の森と見渡した。つるべ落としに日は低くなり、森を漂う薄闇も色を濃くし始めている。けれど有理沙が近くにいるなら見つけられるはずだと思い、隼は森の底に目を凝らした。


「有理沙が連れていかれた」
「え?」


 出し抜けに有毅が囁き、隼は咄嗟に聞きとれずに聞き返した。


「なんだって?」


 振り向けば、色素の薄い瞳が真っ直ぐに隼を見ていた。


「有理沙が連れていかれた」


 有毅は繰り返し、有理沙とよく似た顔を悲痛に歪ませた。


「やっぱり、ぼくだけでは駄目だった。自分が見つからないようにするのが精いっぱいで、なにもできなかった」


 有毅の言葉が浸透するのに時間がかかった。じわじわと意味を悟り、隼は冷水を浴びせられたように血の気が引いていく。


「連れていかれたって、まさか……」


 ゆっくりと、有毅が頷いた。


「そんな!」


 声を荒らげ、隼は有毅の肩をつかんだ。


「なんで今になって有理沙が! 有毅だけじゃなくて、どうして有理沙まで……どうして!」


 有毅が消えた幼き日の記憶が蘇り、隼は打ち震えた。

 毎日のように自宅に警察がきて、マスコミが押し寄せ、出かけることさえままならなかったのを思い出す。たくさんの大人たちが有毅の失踪時のことを聞きたがり、同級生たちは遠巻きにして噂し、隼を腫物のように扱った。耐え忍ぶしかない日々だった。しかし両親は疲れ切った顔をしながらも、お前は心配しなくていいのだと、隼を気づかってくれていた。

 隼は疲弊していたが、大きな負担は両親が引き受けてくれていた。だからこそ、なにより気がかりだったのが、有理沙のことだった。

 双子の弟である有毅がいなくなって、有理沙は急速に生気が希薄になったようだった。学校にくるどころか、まったく外に出ることもなく家に籠るようになった。こちらがどんなに話しかけても反応は鈍く、そのまま有理沙まで消えてしまうのではないかと、隼は焦燥した。

 そんな状況から必死の思いで、元のはつらつとした有理沙をとり戻したのだ。それが再び奪われるなど、隼にとってあってはならないことだった。

 狼狽える隼の手を有毅はそっとつかんで、肩から離させた。触れた有毅の肌に、人らしい体温はない。肌の感触はあっても、質量を伴ってはいなかった。


「ぼくは、有理沙をとり戻したい」


 隼を見る、有毅の眼差しが強くなった。


「お願いだ、隼。有理沙をとり戻すのに力を貸して欲しい。ぼく一人では無理でも、隼と協力できればきっとできる。こんなことを頼めるのは、ぼくを呼び戻せた隼だけなんだ」


 有毅の声はあくまで静かだったが、縋る響きがあった。有理沙を失いたくないと思うのは、隼だけではない。

 隼は手を下ろすと、何度か深呼吸して、自身の中の動揺を懸命に抑え込んだ。


「おれは、どうしたらいい?」


 隼が真正面から問えば、有毅も同じように正面から隼を見詰めた。


「ぼくと一緒に、月の国へいって欲しい」

「月? 有理沙は、月にいるっていうのか?」


 有毅はゆっくり頷いた。


「人でないものを、相手にすることになる。危険なことはできるだけないようにするつもりだけど、保証はできない。いく前にしっかり準備して」


 笑うようにほんの少しだけ、有毅は目を細めた。


「隼は前よりずっと力をつけているし、ぼくもいる。だから、きっと大丈夫。有理沙は、ぼくと同じにはならない」