降って湧いた見知らぬ男の姿に、有理沙は息をのんだ。臼とウサギたちの影になって、つい今まで彼の存在に気づけていなかった。

 地面に胡坐をかいたまま、男は駆け寄ってきた子ウサギを抱き上げ、白い袴の膝に乗せた。袴と同色の幅広い袖が地面を刷くようにこすったが、気にする様子はない。

 ゆったりとした襟と腹の部分を紐で留めた着物は、狩衣(かりぎぬ)と呼ばれるものだ。月乃浦神社の祭祀で宮司が着ているのを、有理沙も見たことがある。烏帽子(えぼし)はつけておらず、長い黒髪を背中で緩く束ねるにとどめている。身じろぎするたびに淡く輝くその髪の艶といったら、花の女子高生の有理沙としては嫉妬せずにはおれない。

 首からは長い数珠に似た飾りをさげていて、透き通った珠の連なる中に一つだけある大きな珠の中で五色(ごしき)の輝きが揺らめいていた。

 男がぶち模様の毛並みを撫でると、子ウサギは心地よさそうに目を細めて鼻をひくひくと動かした。子ウサギは甘えるように男に身をすり寄せてから、指差すように前脚を持ち上げ改めて言った。


「ツクヨミ様、見てください。新しい子がきてくれました」


 男が顔を上げた。頬の後れ毛を掻き上げながら向けられた涼しい眼差しに、有理沙は思わずどぎまぎした。


「そのようだね」


 そう低く言った彼の声は、眼差し同様に涼やかだった。


「さあさあ、ツクヨミ様のお隣りへどうぞ」

「ちょっと、そんなに引っ張らないで」


 ウサギに腕を強く引かれ、有理沙はつんのめるようにしてツクヨミの前まで進んだ。近づいてみればそこには、二人でゆとりをもって座れる広さの茣蓙(ござ)が敷かれていた。くつろげるよう、厚めの座布団までがその上に置かれている。ずいぶんと準備がよすぎではないかと有理沙は思ったが、とりあえずは疑問の前に口にすべき事柄があった。


「待って。お願いだからちょっと待って」


 無理に座らされる前に、有理沙はどうにかウサギたちを押し止めた。有理沙の必死さを不思議がるように、ウサギたちの視線が集まる。ツクヨミまで同じ視線を寄こしてきたので有理沙は落ち着かない心地になったが、ようやく話を聞いて貰えそうなことには少しだけほっとした。


「あたしはサッカーボールをとりにきたの。黒いウサギが持っていたでしょう? 返してくれない?」


 有理沙が言い終わると同時に、ツクヨミの狩衣の袖がもぞりと動いた。気づいた有理沙が注意を向けると、地面に届く幅のある袖の隙間から、黒い鼻先が怯えたようにそろそろとのぞく。ツクヨミが腕を上げるようにして袖をどければ、真っ黒な子ウサギがすっかり姿を現した。袴に貼り付くように身を縮めていた黒ウサギは、焦ったようにツクヨミの背中へと回り込んだ。


「こら、隠れるでない」


 ツクヨミは身をひねって黒ウサギの首根っこをつかまえ、体の前へと連れ出した。動きに合わせ、ツクヨミの胸元で珠飾りがさらりと鳴る。


「さっきの(まり)はどこに?」


 ツクヨミの声はやはり穏やかだったが、やや問い質す響きを帯びていた。つかまれたままの子ウサギは怯えたように耳を垂れ、黒い体を丸めた。


「さっき投げたときに、向こうのススキの中に……」

「他にとったものはないね?」

「ありません」

「それなら、すぐにとってきて返して差し上げなさい。いっておいで」


 ツクヨミが手を放してやると、子ウサギは転がるように慌ただしくススキの原へと駆けていった。

 子ウサギの姿を見送ったツクヨミは、改めて有理沙へと顔を向けた。


「迷惑をかけ申しわけなかった。まだ幼い子だ。大目に見てやってくれると嬉しい」


 彼に謝られると思っていなかった有理沙は、一瞬返事に迷ってもごもごと口を動かした。


「ボールを返してもらえるなら、あたしは構わないけれど」

「そうか。それならばよかった」


 安堵した様子でツクヨミが表情を綻ばせ、有理沙は思いがけず心臓が跳ねた。顔のいい男性の微笑みというのは、それだけでかなりの威力があるものだと、身に染みて実感する。

 ツクヨミは有理沙の内心になど気づかない様子で、自身の隣に置かれた座布団を示した。


「あの子はすぐに戻ってくるだろうが、せっかくだ。ゆっくりしていくとよい。皆、宴を続けよう」