有理沙は窓際の適当な席を拝借して、ぼんやりと校舎の外を眺めていた。眼下のグラウンドでは、赤くなり始めた西日の下で運動部員たちが声をかけ合い、限られた時間の中での練習に精を出している。長く伸びた影と共に駆け回る彼らの姿を目で追いかけながら有理沙はため息をつき、やがて飽きて机に突っ伏した。

 有理沙が月でウサギになっていた間、やはり両親を心配させてしまっていた。本当は月から戻ってきてすぐに帰宅するべきだったのだろうが、有毅を見送った直後の精神状態でそれはできなかった。すべて片づけた後で自宅まで送ってくれた隼も一緒に叱られたのは申しわけなくはあったが、まだ高校生の二人、一晩のこととはいえ電話も通じなかったのでは仕方がない。母の涙を見たのは、有毅が神隠しにあった時以来、二度目だった。

 有理沙の両親も、隼の両親も、放課後に勢いで遠出してうっかりバスの最終便を逃してしまった、などというずいぶん雑な言いわけをよく信じてくれたと思う。あるいは信じていなかったかもしれないが、誤魔化しようがないほど憔悴しきった二人を、深く追求することまでしなかった。帰宅したその日、有理沙はかろうじて登校したが、隼はさすがに疲労が深く学校を休んだ。それでも翌日には登校してサッカー部にもしっかり参加してるのだから、やはり隼は強いのだと、有理沙は改めて思った。

 遠くから、別れの挨拶を交わし合う女生徒の声が聞こえた。一人きりの教室内に落ちる影の色が濃くなってきている。そろそろ教師が校舎の戸締まりのために、見回りにくるかもしれない。それでもなかなか帰る気になれず、有理沙は両腕を伸ばして机に頬を押しつけた。

 家にいると、有毅がいない事実が強く意識された。有毅は有理沙が他の人といる時には、まったくとまでは言わずともあまり姿を見せなかったので、必然的に学校ではさほど話しはしなかった。しかし家では、宿題をしているときや就寝前にはほぼ必ずあれこれと会話をしていたのだ。だから自宅の部屋で一人になると、つい有毅の姿を探してしまう。そして双子の弟がもういないことに、どうしようもなく打ちのめされるのだった。

 有理沙がそうして一人で塞ぎ込んでいると、不意に教室後ろの引き戸が開く音がした。先生がきたかと思って振り向くと、戸に手をかけている隼と目が合った。


「やっぱりまだ残ってたのか」


 教室に入って戸を閉めた隼が、窓際の有理沙のところまで真っ直ぐに歩み寄ってくる。有理沙は突っ伏していた上体を起こして、ちらとグラウンドへと目線をやった。あれほど走り回っていた運動部員たちは道具の片づけを終えて、すでにちらほらと下校を始めていた。

 有理沙は頬杖をついて、真横まできた隼を見上げた。


「なにか用事だった?」

「下駄箱にまだ靴があったから、様子を見にきた。帰らないのか?」


 問いながら隼は隣の席の椅子を引き、有理沙の方を向いて座った。有理沙は幼馴染みの姿を横目に見ながら、悩むように唸った。


「やっぱり、帰らなきゃだよねぇ……」


 頭では分っているのだが、どうしても気持ちがついてこない。そのせいで有理沙がなかなか動けずにいると、隼はなにか思いついたようにブレザーのポケットを探り、とり出したものを有理沙に差し出した。


「これ、やるよ」


 紐を持って顔の前に垂らすように差し出されたそれは、小振りなお守り袋だった。地紋のある水色の錦に、〝月乃浦神社〟の文字が金糸で刺繍されている。不審に思いつつ有理沙が袋をつまむと、隼は白い緒を放してすぐに手を引っ込めた。どういうつもりだろうかと考えながら、有理沙はお守りをひっくり返してみた。平たい袋の反対の面には、白いウサギのイラストが織り込まれていた。

 そのお守りは、有理沙にも見覚えがあるものだった。月乃浦神社で授与品として並べられている、十二支のお守りの一つだ。しかしそれをくれた隼の意図がまるで分らず、有理沙は眉をひそめた。今の有理沙にとってウサギのモチーフは、開いたばかりの生傷に触れるようなものだ。


「なにこれ」


 問い質す声は、自然と尖ったものになった。けれど隼は気にした風もないまま、ポケットに手を入れて立ち上がった。


「有理沙専用のお守り」

「専用って。プレゼントとしてはさすがに趣味悪くない?」


 有理沙はにらみつけたが、椅子を元通りにしてこちらを見た隼は口元に薄く笑みさえ浮かべていた。


「そう言うなって。それ一つしかないんだ。なくすなよ」


 最後の一言と同時に、隼は教室の出口の方へ体を向けてしまう。有理沙はむっとして、椅子から腰を浮かせた。


「ちょっと、隼――」

「まったく。素直じゃないよね、隼って」


 間近で声がして、有理沙はぴたり動きを止めた。同じ声に反応して、隼が勢いよく振り返る。隼の視線は有理沙ではなく、有理沙の隣へと注がれた。


「ばか、今出てくるなって」

「いつ出てきても一緒だって。自分で渡してるんだから、黙ってる意味もないじゃん」


 叱りつけるようにわめく隼に、いかにもマイペースな少年の声が返事をする。その声に有理沙の心臓が痛いほどに早鐘を打ち、呼吸までも苦しくなった。息を詰めてゆっくり首を回してみる。目の前の机に腰を軽く預けて、制服姿の少年が立っていた。

 ぽかんとして言葉を失う有理沙を見て、少年は有理沙と同じ色の瞳で愉快そうに笑った。


「有毅……なんで……」


 やっとのことでそれだけ発した有理沙に、有毅は笑みを深める。


「それは、隼に聞いた方が早いんじゃないかな。ねえ、隼」


 有毅の目線に誘われるように有理沙が顔を向ければ、隼はやや気まずそうに頭をかいていた。しばらく渋る様子を見せたものの、隼は諦めたようにため息をついて有理沙の目を見た。


「今回のことで、有毅は神霊になったんだ。なりゆきで、そうするしかなかったんだけど。まあ、それで、神霊なら依代(よりしろ)を用意してやれば、そこに降ろすことができるんじゃないかと思って、やってみたんだ」

「そういうこと。依代っていうのが、そのお守り。ほんと、隼ってすごいよね。ぼくはもうすっかり、だめだとばかり思ってたから、驚いたのなんの」


 有理沙の手の中にあるお守りを示して、有毅が補足するように言う。隼は軽い調子で褒めちぎる有毅をちょっとねめつけるように見て、一度しまった椅子をまた引き出して座り直した。


「新しい依代を用意してやるってのは、元々約束してたしな。今はそんなのしかないけど、おれが宮司を継いだら、うちの祭神にでもしてやるよ」

「んー、それはいいかなぁ」


 悪くないだろう提案を間延びした口調でしりぞけられ、隼は顔をしかめた。


「なんでだよ。うちみたいな小さい神社じゃ嫌だってのか」

「そうじゃなくてさ、神社の祭神になったら、有理沙以外の人のお願いも聞かないといけなくなるじゃん。ぼくは有理沙のお願いしか聞く気ないから、今のままの方がいいな」


 隼は呆れ返って眉間を開いた。


「本っ当にシスコンだな。さすがにやばくないか?」


 引き気味に隼は言うも、有毅はむしろ上機嫌に鼻を鳴らした。


「なんとでも。言っておくけど、隼にだって渡す気はないから」


 ぐっと言葉に詰まるように隼は口の端を引き結び、頭を抱えるようにこめかみを押さえた。


「……おれは判断を誤ったか?」


 自分を挟んで繰り広げられる応酬を聞きながらも、二人の会話内容は有理沙の思考にあまり入ってきていなかった。目の前に有毅がいるという事実だけが、有理沙の胸をいっぱいする。目を離したら消えてしまう気もして、有理沙は弟の顔をじっと見入った。彼は記憶にあるままの調子で話し、笑っているばかりで、そこに少しの揺らぎも見出すことはなかった。浮かせたままだった腰を脱力するように椅子におろすと、有理沙の感情は急に決壊して目からあふれ出た。

 有理沙の涙に気づいた隼が、ぎょっと目を見張った。


「あーあ。隼が泣かした」

「どうしてそうなる」


 有毅に突っ込みを入れる声にも、若干の焦りがにじむ。それがなんだかおかしくて、有理沙は目元を押さえながら少し笑ってしまった。


「よかった……有毅が戻ってきて、本当によかった……」


 声に出すと、胸の内にこごっていた不安や寂しさが一気に溶け出すのが分った。代わりに喜びと多幸感とが流れ込み、体内が温かく満たされる。有理沙が何度も鼻をすすりながら袖に目元を押しつけていると、頭になにか被せられた。少し汗の匂いがする、スポーツタオルだった。タオル越しに、軽く頭をとんとんと撫でられる。


「あんまり泣くなよ。本当におれが泣かせたと思われるだろ。ほら、顔拭け」


 隼の言葉に甘えて、有理沙はタオルの端を引き寄せて顔を拭った。


「汗臭い」

「そんなはずないだろ。それ使ってないやつだぞ」

「だって臭いもん。使ったやつと一緒に入れてたでしょ」


 文句として言いながらも、有理沙はタオルに顔を埋めた。染みついた匂いは、妙に有理沙の心をほっとさせた。


「ありがとう。洗って返すね」

「いいって。どうせまとめて洗うから」


 有理沙が畳もうとしたタオルを隼は素早くとり上げ、自身の鞄へと押し込んだ。


「先生がくる前に帰るぞ」


 隼は立ち上がり、片手で椅子を戻しながらさっさと教室の出口へと向かう。有理沙は握ったままだったお守りを鞄の持ち手にくくりつけてから、隼の後を追いかけた。廊下に出たところで追いつき、彼の広い背中を強めに叩いて隣に並んだ。


「ねえ、この後ラーメン食べにいこうよ。おごるからさ」


 はつらつと提案した有理沙を、隼は横目に見下ろした。


「お、珍しいな。どういう風の吹き回し」

「たまにはね。今乗っておかないと、二度とないかもよ」


 へえ、と声を出しながら、隼は口の端を上げた。


「じゃあ、チャーシュー増量と替え玉な」

「なぬ。どんだけ食べる気あんた」

「ぼくは味玉」


 横から割り込んだ声に、有理沙は勢い込んで振り向いた。


「有毅は食べないじゃん」

「気分だよ、気分。ぼくだって体を張ったんだから、仲間はずれは寂しいなぁ」


 有毅は口を尖らせて、わざとらしくいじけてみせる。その表情が憎たらしく、有理沙は目をすがめた。


「この男共め。ひとの財布だと思って」

「ひとの財布だからだろ」

「そうそう」


 男子二人の息が合っているのが腹立たしかったが、それさえも今の有理沙には愛おしく思われた。この時間が続くのであれば、ラーメンの一杯や二杯、安いものだ。

 開き直って、有理沙はわめいた。


「ええい、ままよ! 好きなだけ食べやがれ!」


 歯を見せて、隼は笑った。


「よっしゃ。じゃあ、荷物置いたら鳥居に集合な」

「あ、ちょっと待って」


 隼が廊下を走り出し、有理沙は慌ててその後を追う。じゃれ合うように駆ける二人の背中を見詰めながら、有毅は満たされた心地で姿を消した。

 西日差す学校の廊下を、少年少女たちは疾走する。彼らと共に駆けるように、お守りの白ウサギが小さく跳ねた。



 かぐやの国のアリス 完