鎮守の森を出ると、月が高い位置から青白い光を降らせており、かなり夜遅い時間であることが分かった。なんの催しもない夜中の境内に人気(ひとけ)があるはずもなく、拝殿正面にとりつけられている蛍光灯が冷たい色で照らしているのは、階と賽銭箱だけだ。

 有理沙は有毅と並んでその光の下まで進みながら、社務所となっている翼殿(よくでん)の窓をちらと横目に見た。窓には目隠しのスクリーンが下りていたが、継ぎ目の細い隙間から明かりが漏れ、そこを隼が何度か通り過ぎるのが見えた。


「ねえ有毅。これからなにをするの」


 有理沙は、ようやくその問いを口にすることができた。隼が準備をすると言った時点で聞けばよかったのだが、不機嫌な彼の様子に尻込みしてしまったのだ。常であれば隼の機嫌くらいで動じる有理沙ではない。しかし胸の内でざわめく予感のようなものが、有理沙をためらわせた。

 階の前で立ち止まって、有毅は有理沙を見上げた。


「有理沙からぼくに移したものを祓って流すんだ」


 ごく軽い口調で有毅は言う。有毅があっけらかんとしているので、嫌な感じがしたのは杞憂だったろうかと、有理沙は少し気持ちを上向けた。


「それじゃあ、有毅もすぐに人に戻れるんだ」


 それならばなにも問題はない。そう、有理沙が思い直した矢先だった。


「人には戻らない」


 言葉の意味がすぐに理解できず、有理沙は眉を寄せて有毅を見下ろした。


「え? だって今、移したものを祓うって」

「そう。ご祈祷して焚き上げたら、全部祓われて月との(えにし)は完全に消える」

「ちょっと待って」


 有理沙は這いつくばるように、有毅の目の高さまで身を低くした。勢い余って膝を石畳に打ちつけたが、今は痛みに構っていられなかった。


「焚き上げるって、どういうこと」


 有理沙の剣幕に有毅は一瞬気圧されるようにのけぞったが、すぐに平静をとり戻して耳をそよがせた。


「そのままの意味。燃やすってこと」

「燃やすってなにを? その折り紙のウサギ? 折り紙を燃やすだけなら、有毅はなんともないでしょう」


 有理沙が顔を突き出して迫るように畳みかけると、有毅は一歩下がって耳を垂れた。有毅の頭に乗っている折り紙ウサギも呼応するようにかさりと音をたてた。


「有理沙なら分かってると思ったのに……これはぼくだ」

「そんなのだめ!」


 有理沙は眉を吊り上げて叫んだ。


「その折り紙が本当に有毅だって言うなら、燃やしたら今見えて話せてる有毅はどうなっちゃうの」

「それは……」

「せっかく帰ってこられたのに、燃やすなんて絶対だめ」


 頑として言い募る有理沙に、有毅は困り果てて髭まで垂らした。


「なに大騒ぎしてるんだ。もう遅いんだから静かにしてくれ」


 背後から隼の声がして、有理沙は両手をついた体勢から勢いよく跳ね起きた。社務所から出てきた隼はジャージから白衣(はくえ)差袴(さしこ)に着替えていて、シャワーまで浴びてきたらしくこざっぱりとしていた。

 有理沙は、そばまできた隼の襟をつかんで詰め寄った。


「隼、なんでそんな平気でいられるの? 自分がなにしようとしてるか分かってる?」

「平気に見えるか?」


 隼の声があまりに低く、有理沙は失言に気づいて息をのむ。

 隼は有理沙の手をつかみ返して、やや強引に襟を放させた。乱れた白衣の合わせを直す彼の表情は声と同様に厳しい。


「仕方ない。ちゃんと祓わないと、せっかく移したものが有理沙に戻る。それだけは避けないと」

「だけど、有毅が」

「隼を責めちゃだめだ」


 さらに言い募ろうとした有理沙を、有毅がスカートの裾を引っ張って止めた。見下ろした有理沙の眼差しを、有毅は真っ直ぐに受け止める。


「有理沙、冷静に考えて。ぼくが消えてもなにも変わらない。元々皆には見えないから、いないのと同じなんだ。でも、有理沙は違う。有理沙がいなくなったら、困る人や悲しむ人がたくさんいる」


 なにか言い返さなくてはと、有理沙は言葉を探した。しかしどんなに必死に思考を巡らせても、有毅を説得できるだけのものが見つからない。有毅の言うことはよく分かる。けれど、それを受け入れられるかどうかは別だった。

 くずおれるように有理沙は膝をつき、有毅の小さな体を抱き上げた。柔らかな毛並みの感触はあるのに、重さはまるで感じられない。それが有毅の存在の儚さをもの語っているようで、有理沙は堪えきれずに涙ぐみ、白ウサギを抱き締めた。


「なにも、変わらなくないよ……あたしが、悲しいよ……」


 有毅は有理沙の首元に顔を埋めるように、そっと頬をすり寄せた。


「ごめん、有理沙」





 月乃浦神社の鳥居と拝殿を結ぶ参道から少しはずれた地面に、焚き上げのための炉が切ってあった。四角い石を正方形に並べて固定してあるだけの簡易な炉の中心に、小さな井の字型に角材が積み上げられている。炉の隅に小さな御幣(ごへい)を立てて簡易に場を整えた隼は、角材へと火をつけた。夜闇の中にぽっと、赤い浄火(じょうか)が立ち上がった。

 隼が下がると、入れ替わるように有毅が炉の前に立った。有毅は火を背にして、隼を見上げる。隼よりさらに後ろにいる有理沙の位置からでは、有毅の顔は影になっていて表情までは見えなかった。

 背筋を伸ばした隼は手を叩き、深くお辞儀をした。


高天原(たかまのはら)神留坐(かむづまりま)す、皇親(すめらがむつ)神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)(みこと)()ちて、八百万(やおよろづ)神等(かみたち)を、(かむ)(つど)えに(つど)(たま)い、(かむ)(はか)りに(はか)(たま)いて、()皇御孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原(とよあしはら)水穂国(みずほのくに)を、安国(やすくに)(たひら)けく()ろし()せと、事依(ことよ)さし(まつ)りき……」


 長い長い祝詞を、隼は淡々とそらんじる。神社の跡継ぎではあってもまだまだ神主ではありえないというのに、有理沙の知らないところで、彼はこんなことまでできるようになっていたのかと驚く。よく知っているはずの背中は浄火に照らされて神々しく映ったが、気づかぬ間に開いていた距離を見せつけられるようでもあり、弱った有理沙の心はますます打ちのめされた。

 火は勢いを増し、境内を赤く赤く照らす。祝詞が終わり、有毅が燃え盛る炎の方に体を向けた。


「有毅!」


 有理沙は駆け出していた。炎に向かう有毅を止めようと、手を伸ばす。けれどそれは、隼の腕で簡単に阻まれてしまった。


「放して隼! このままじゃ有毅が!」


 必死にもがくも、隼の腕は簡単には振りほどけない。あがけばあがくほど、むしろ力強さを増しているようだ。せめてなにか言ってくれればいいものを、隼はいっさい声を発さずにただ有理沙を抱き込むように押さえつけた。

 一瞬だけ、有毅が有理沙の方を振り返った。その顔は笑っているように見えたが、すぐに向こうを向いてしまったので確かなことは言えない。白ウサギが地面を蹴り、炎の中へと飛び込んだ。


「有毅!」


 有毅と一緒にいた折り紙ウサギはあっという間に黒く焦げ、灰となって崩れていく。同じ早さで、白ウサギの姿も炎の中で輪郭が溶ける。折り紙ウサギが燃え尽きた時には、白ウサギの姿はすっかり煙に変わり、月の輝く夜空へと高く上って消えていた。

 隼に抱きかかえられたまま、有理沙はその場に泣き崩れた。





 空が白み始めていることに気づいて、有理沙は少しだけ顔を上げた。もう涙は止まっていたが火の前からどうしても離れる気になれず、膝を抱えて座り込み、そのまま夜を明かしてしまった。積み上げられていた角材はほぼ燃え尽き、山になった灰の中でわずかな燃え残りがくすぶるばかりになっていた。

 有理沙は瞳だけを動かして左隣を見やった。体温が感じられるほどの距離で、白衣袴姿のままの隼が有理沙と同じように膝を抱えて座っていた。まばたきがゆっくりなのは、眠気を堪えているからかもしれない。誰よりも疲れているはずなのに、隼は一睡もせず、泣きじゃくる有理沙につき添ってくれていたのだから。

 正面に目線を戻した有理沙はもう一度膝に顔を埋め、深く息を吐き出した。


「落ち着いたか?」


 有理沙の気配を察したように、隼が問う。有理沙は顔は上げないまま、浅く頷いた。


「ねえ、隼」

「うん?」

「なんで、有毅が見えること言ってくれなかったの」


 気まずい沈黙がおりた。隼が答えあぐねているのが顔を見ずとも伝わってくる。長すぎる間の後で、隼はようやくぽつりと言った。


「ごめん」


 有理沙は膝を抱えて組んだ手に力を入れた。


「ばか隼。答えになってない」


 また沈黙。しかし今度は、さっきほど長くはならなかった。


「――ごめん」


 やはり隼は答える気がないらしい。有理沙はまた、涙がこぼれるのを感じた。


「ばか……ありがとう」

「……ああ」


 月乃浦神社を囲う鎮守の森の(ふち)が、昇る朝日で色づき始めた。



 第四章 了