「衣兎様!」
衣兎がやってきたのと同じ方角から、別の少女の声が叫んだ。炎の中から走り出てきたのは、白い衣を被った白いウサギ。
「有理沙!」
大き過ぎる着物を引きずる有理沙に、隼が駆け寄った。着物の裾を踏んで転びそうになるウサギの体を、少年がすかさず抱き上げる。
「有理沙、大丈夫か」
案じる隼の顔に、有理沙は煤で黒くなった鼻先を向けた。
「ああ隼、無事でよかった。あたしは大丈夫。それより衣兎様は」
有理沙が早口で忙しなく告げ、隼は胴をつかんだ腕をひねって衣兎の方へ顔を向けてやった。
「衣兎様」
被っていた着物を隼の手の中に残して、有理沙は彼の腕からするりと抜け出した。ツクヨミと寄り添うように座り込む衣兎の方へと、白ウサギは二本脚で駆けていく。その姿がややぎこちなく見えるのは、両前脚を体の前で重ね合わせているからだ。衣兎のもとに辿り着いた有理沙は、その前脚を真っ直ぐに差し出した。
「衣兎様、これを」
大切に握り締めてきたものを見せるため、有理沙は重ねていた前脚をそっと開いた。現れたのは二つに割れた子安貝と――小さな雛だった。
有理沙はぎょっとして、前脚を引っ込めた。
「えええっ! なんで!」
ピンクの体に埃のような産毛が生えているだけの、目も開かぬ鳥の雛が前脚の上でもぞもぞと動いている。子安貝だと思っていたものは、やはりツバメの卵だったのだろうか。
予想外だったのは有理沙だけではなかったらしく、隼と有毅は困惑したように雛を見下ろしているし、衣兎も目を点にしている。その中でツクヨミだけが冷静な表情で、あたふたする有理沙に向かって腕を伸ばした。ツクヨミの指先が有理沙に届く寸前、その腕を隼が素早くつかんで止めた。
「なにする気だ」
威嚇するような眼差しにひるむことなく、ツクヨミは目線だけを隼に向ける。
「安心しなさい。傷つけるわけではない」
つかの間にらみ合うように視線を交わし合う。しかし有理沙と衣兎から訴えるような目を向けられ、隼は渋々とツクヨミの腕を放した。解放されたツクヨミは無言のまま、雛を包み込むように、有理沙の前脚に右手を重ねた。触れるか触れないかの、柔らかなひと撫で。
ツクヨミが手をどけると、大人のツバメが赤い喉元を見せるように翼を開いた。驚く一同の目の前で、ツバメは羽ばたき飛び立つ。その姿を、そこにいた全員が揃って目で追い駆けた。
ツバメは彼らの頭上で旋回し、真っ直ぐに天を目指す。くちばしが垂直に上を向いたその時、まるで墨がしたたるように波紋を描いて雲が晴れた。その中心へと、ツバメが飛び込む。ツバメは黒い空の中へと消え、揺らいだ漆黒の波間に、翡翠色の竹林が垣間見えた。
「隼、有理沙!」
有毅が素早く二人を呼んだ。即座に反応した隼が有理沙を抱き上げ、折り紙ウサギの背に飛び乗る。空の波が消える前に、折り紙ウサギが高く跳ねた。
「待って、衣兎様が!」
身を乗り出そうとした有理沙を、隼は強く押さえつけた。
「あの子はこない」
「でも」
「しっかりつかまって」
有毅が、隼と有理沙のやりとりを遮って忠告をする。折り紙ウサギは空の波紋の中心を目指して体を伸ばし、背が垂直になった。振り落とされぬよう隼の肩にしがみついた有理沙と、地上からそれを見上げる衣兎の視線が交わった。衣兎が微笑み、有理沙の胸に切なさが迫った。
「衣兎様っ」
叫んだ少女の声だけを余韻に残し、折り紙ウサギは空の中心に吸い込まれて消えた。
少年少女を見送った衣兎は、かたわらの夫へと顔を向けた。天を見上げていたツクヨミが、視線に気づいて衣兎を見返す。邪気のない夫の瞳に、衣兎は笑いかけた。
「ありがとうございます」
ツクヨミは困惑げに口を引き結び、腕の中のユウキへと視線を落とした。
「かわいそうな子を見たくないと衣兎が言って、わたしもそう思った。これで、よかったのだろうか」
衣兎は両腕を伸ばして、愛しさからツクヨミを抱き締めた。
「それでよいのです。わたくしは幸せです。これから先、また不安になることがあるかもしれません。その時はまた、たくさんお話ししましょう。そうすればきっと、お互いの心がもっと分かりますから」
「そうか……そう、だな」
静かに言って、ツクヨミはそっと衣兎の体を離させた。周囲では、まだあちこちで火の手が上がっている。ツクヨミは、かたわらに落ちている珠を拾い上げた。五色の光を揺らめかせるそれは、元々ツクヨミが首からさげていたものだ。握り込めば、珠は光は色鮮やかさを増した。
一度は晴れた雲が、再び上空に立ちこめた。雲はうねりながら広がり、田畑の上を越え、都まで届く。やがて灰色の厚い雲が、見える限りの空すべてを覆い尽くした。
月の国に、恵みの雨が降った。
衣兎がやってきたのと同じ方角から、別の少女の声が叫んだ。炎の中から走り出てきたのは、白い衣を被った白いウサギ。
「有理沙!」
大き過ぎる着物を引きずる有理沙に、隼が駆け寄った。着物の裾を踏んで転びそうになるウサギの体を、少年がすかさず抱き上げる。
「有理沙、大丈夫か」
案じる隼の顔に、有理沙は煤で黒くなった鼻先を向けた。
「ああ隼、無事でよかった。あたしは大丈夫。それより衣兎様は」
有理沙が早口で忙しなく告げ、隼は胴をつかんだ腕をひねって衣兎の方へ顔を向けてやった。
「衣兎様」
被っていた着物を隼の手の中に残して、有理沙は彼の腕からするりと抜け出した。ツクヨミと寄り添うように座り込む衣兎の方へと、白ウサギは二本脚で駆けていく。その姿がややぎこちなく見えるのは、両前脚を体の前で重ね合わせているからだ。衣兎のもとに辿り着いた有理沙は、その前脚を真っ直ぐに差し出した。
「衣兎様、これを」
大切に握り締めてきたものを見せるため、有理沙は重ねていた前脚をそっと開いた。現れたのは二つに割れた子安貝と――小さな雛だった。
有理沙はぎょっとして、前脚を引っ込めた。
「えええっ! なんで!」
ピンクの体に埃のような産毛が生えているだけの、目も開かぬ鳥の雛が前脚の上でもぞもぞと動いている。子安貝だと思っていたものは、やはりツバメの卵だったのだろうか。
予想外だったのは有理沙だけではなかったらしく、隼と有毅は困惑したように雛を見下ろしているし、衣兎も目を点にしている。その中でツクヨミだけが冷静な表情で、あたふたする有理沙に向かって腕を伸ばした。ツクヨミの指先が有理沙に届く寸前、その腕を隼が素早くつかんで止めた。
「なにする気だ」
威嚇するような眼差しにひるむことなく、ツクヨミは目線だけを隼に向ける。
「安心しなさい。傷つけるわけではない」
つかの間にらみ合うように視線を交わし合う。しかし有理沙と衣兎から訴えるような目を向けられ、隼は渋々とツクヨミの腕を放した。解放されたツクヨミは無言のまま、雛を包み込むように、有理沙の前脚に右手を重ねた。触れるか触れないかの、柔らかなひと撫で。
ツクヨミが手をどけると、大人のツバメが赤い喉元を見せるように翼を開いた。驚く一同の目の前で、ツバメは羽ばたき飛び立つ。その姿を、そこにいた全員が揃って目で追い駆けた。
ツバメは彼らの頭上で旋回し、真っ直ぐに天を目指す。くちばしが垂直に上を向いたその時、まるで墨がしたたるように波紋を描いて雲が晴れた。その中心へと、ツバメが飛び込む。ツバメは黒い空の中へと消え、揺らいだ漆黒の波間に、翡翠色の竹林が垣間見えた。
「隼、有理沙!」
有毅が素早く二人を呼んだ。即座に反応した隼が有理沙を抱き上げ、折り紙ウサギの背に飛び乗る。空の波が消える前に、折り紙ウサギが高く跳ねた。
「待って、衣兎様が!」
身を乗り出そうとした有理沙を、隼は強く押さえつけた。
「あの子はこない」
「でも」
「しっかりつかまって」
有毅が、隼と有理沙のやりとりを遮って忠告をする。折り紙ウサギは空の波紋の中心を目指して体を伸ばし、背が垂直になった。振り落とされぬよう隼の肩にしがみついた有理沙と、地上からそれを見上げる衣兎の視線が交わった。衣兎が微笑み、有理沙の胸に切なさが迫った。
「衣兎様っ」
叫んだ少女の声だけを余韻に残し、折り紙ウサギは空の中心に吸い込まれて消えた。
少年少女を見送った衣兎は、かたわらの夫へと顔を向けた。天を見上げていたツクヨミが、視線に気づいて衣兎を見返す。邪気のない夫の瞳に、衣兎は笑いかけた。
「ありがとうございます」
ツクヨミは困惑げに口を引き結び、腕の中のユウキへと視線を落とした。
「かわいそうな子を見たくないと衣兎が言って、わたしもそう思った。これで、よかったのだろうか」
衣兎は両腕を伸ばして、愛しさからツクヨミを抱き締めた。
「それでよいのです。わたくしは幸せです。これから先、また不安になることがあるかもしれません。その時はまた、たくさんお話ししましょう。そうすればきっと、お互いの心がもっと分かりますから」
「そうか……そう、だな」
静かに言って、ツクヨミはそっと衣兎の体を離させた。周囲では、まだあちこちで火の手が上がっている。ツクヨミは、かたわらに落ちている珠を拾い上げた。五色の光を揺らめかせるそれは、元々ツクヨミが首からさげていたものだ。握り込めば、珠は光は色鮮やかさを増した。
一度は晴れた雲が、再び上空に立ちこめた。雲はうねりながら広がり、田畑の上を越え、都まで届く。やがて灰色の厚い雲が、見える限りの空すべてを覆い尽くした。
月の国に、恵みの雨が降った。