有理沙はなにが起きたか分からず、混乱のままさらに強くユウキの肩を揺すった。
「ユウキ。どうしたの、ユウキ」
力なく揺れるばかりのユウキの体に、押し寄せた不安が有理沙の心臓を痛いほどに叩く。ユウキはまったく反応を示さないかに見えたが、不意に低くうめいて弱々しく体を丸めた。
「ユウキ、苦しいの? お腹が痛いの?」
夢中でとり縋って呼びかけていると、横から伸びてきた衣兎の手が有理沙の前脚を押さえた。
「あまり動かしてはだめです」
厳しさをはらんだ声に止められ、有理沙は縋る相手を衣兎に変えて涙ぐんだ。
「衣兎様、ユウキどうしちゃったんだろう。どうして急に、こんな……」
「わたくしにも、分かりません」
衣兎は動揺で息を詰まらせる有理沙の背中を数度撫でてから、横たわるユウキに触れ、耳に口を寄せた。
「ユウキ、聞こえますか。ユウキ」
衣兎の声にも、ユウキは応えない。ときおりうめきながらか細い呼吸を繰り返すばかりの弟の姿に、有理沙の心臓は引き絞られた。
恐慌する頭で、必死に原因を考える。ユウキに持病らしいものはなかったはずだ。では最近、なにがあったか。記憶を辿り、輝夜殿で隼がユウキを蹴り飛ばしたのを思い出す。あの時、隼の足はユウキの腹部に直撃しているように見えた。やはり外から見えないところに傷を負っていたのかもしれない。
有理沙の恐怖を煽るように、心音だけでなく雷鳴までが大きくなり、鼓膜が痛んで耳鳴りがした。目を覚まさないユウキの姿に、有理沙の呼吸まで苦しくなってくるようだ。
その時、予期しない方角から声がした。
「有理沙!」
よく知る少年の声に、有理沙の意識が性急に引き戻された。はっとして空を仰げば、角ばった白いものが頭上を通過した。目を丸くする有理沙の前に降り立ったのは、大きな折り紙のウサギだ。一瞬不安を忘れるほど仰天した有理沙だったが、折り紙ウサギの背に乗る隼と有毅を見て、即座に現状を思い出した。
「隼!」
有理沙が呼び返すと、険しかった隼の表情がやや和らいだ。
「よかった、見つけた」
声に安堵をにじませた隼に対し、有理沙は切羽詰まって叫び返した。
「隼、ユウキの様子がおかしいの!」
一度開いた眉間を隼は再びひそめ、有理沙の隣に横たわる白ウサギに気づいて顔を強張らせた。隼の肩口から首を伸ばすように、有毅も有理沙たちに顔を見せた。その瞳に哀切が覗き見えた気がして、有理沙の背筋を冷えたものが這い下りた。
隼はウサギのユウキにはなにも言わないまま、硬質な表情で衣兎へと視線を移した。
「もしかして、その子がツクヨミの奥さん?」
衣兎の幼い見た目のせいだろう。隼は怪訝さを隠さない声色で誰にともなく問うた。答えたのは、それまで呆然としていた衣兎自身だった。
「はい。衣兎と申します」
隼はさらになにか言おうとするように口を開き、しかし間近で轟いた雷鳴に素早く口をつぐんで顔を上げた。
耳をつんざく轟音と同時に、視界が閃光で真っ白になった。悲鳴をあげて、有理沙は身を伏せた。つかの間、視覚と聴覚が役目を果たさなくなり、痺れるような感触が毛皮の表面を走り抜ける。衝撃が去り、頭痛がするほどの耳鳴りに耐えながら恐る恐る目を上げれば、目の前のススキが広く薙ぎ倒されていて、その中心に、ツクヨミがいた。
「ここにいたか」
穏やかに話すツクヨミしか知らなかった有理沙は、発せられた声の冷たさにぞっとした。真っ直ぐに向けられた冷徹な眼差しに、衣兎があえぐように息をもらす。
「ツクヨミ……」
鷹揚な動作で、ツクヨミは手を差し伸べた。
「衣兎、こちらへきなさい。彼らは衣兎にとってよくない者だ」
隼たちに目もくれず、ツクヨミは平板な声音で言う。衣兎は唇の端を引き結び、答えあぐねる間を置いてようやく声を発した。
「都は、どうしたのですか。ウサギたちは、無事ですか?」
「さて。わたしには分かりかねる」
いかにも興味がなさそうにツクヨミが言い放ち、ユウキに寄り添っていた衣兎は勢い込んで立ち上がった。
「分からない? あれだけのことをしてですか!」
衣兎は叫び、ツクヨミの背後に見える火影を指さした。
ツクヨミに反論してみせた衣兎に驚いて、有理沙は少女の横顔を見上げた。衣兎が声を荒らげることがあるとは思わなかったのだ。怒りに打ち震えているかと思われた少女の眼差しは、隠しきれない恐れをにじませ揺れていた。少女の覚悟が有理沙にもうかがえる。
雷雲は塊となってススキの原の上まで流れてきていたが、遠く見える地平は、いまだ衰えることのない炎を立ち上げ赤く燃えていた。ツクヨミは衣兎の示す景色にちらと目をやっただけで、心動かされた様子もなくすぐさま顔を戻した。
「衣兎がわたしから逃げなければ起きなかったことだ」
「それは……」
言葉を失う衣兎に向かって、ツクヨミは改めて腕を伸ばした。冷たかったかんばせが、ふと柔らかく綻ぶ。あまりに鮮やかな表情の変化に、有理沙はかえって空恐ろしさを感じた。
「屋敷と都はまた造ればよい。ウサギはいくらでも連れてくることはできる。衣兎の望むものはすべて手に入れ、なんでも造ろう。わたしにはそれができるし、これまでもそうしてきた。なにも不満に思うことはないはずだ。わたしと共にいることが、衣兎の幸福になる」
一方的に言い切るツクヨミに、有理沙もいよいよ黙っていられなくなった。初めて会った時や、輝夜殿で怪我をしたユウキに見せた優しさが偽りだったならば、あまりにいたたまれない。人として好ましいとさえ思っていたからこそ、裏切られたと感じられた。
「ツクヨミ様、そんな勝手な――」
「勝手に決めないでください!」
悲鳴のように叫んで、衣兎が有理沙を遮った。感情の高ぶりに、衣兎の華奢な肩がわなないている。
「わたくしの幸福はわたくしが決めます。あなたに決められることではありません。お願いです、ツクヨミ。わたくしはあなたを嫌いになりたくありません。どうか、わたくしの話を聞いてください」
祈るように、衣兎は体の前で両手を組んだ。ツクヨミの顔から再び笑みが消えた。差し伸べられていた腕がゆっくりとおろされ、目元が鋭利に細まる。
「やはり、好ましくない影響が出ているようだ。放っておかずに早く対処すべきだったらしい」
ツクヨミの胸元の珠で五色の光が揺らめき、雷雲の唸りが大きくなった。
力を失って、衣兎はくずおれた。少女の決死の訴えは、わずかもツクヨミに届かなかったのだ。なけなしの勇気はいとも簡単にへし折れ、衣兎は打ちのめされて両手をついた。
「衣兎様……」
有理沙は思わず呼んだが、それ以上どう言葉をかけていいか分からなかった。
打ちひしがれる衣兎の頭上を、折り紙ウサギが飛び越えた。隼と有毅を乗せた折り紙のウサギが軽やかに跳ね、ツクヨミと少女たちの間に着地する。柳眉をひそめたツクヨミと正面から向き合い、隼は大げさなため息をついた。
「他人の夫婦関係に口を出すもんじゃないと思って黙って聞いてたけど、さすがにこれ以上は無理だ」
呆れて面倒がっているのが、声から明らかだった。それでも、目の前で困っている者を見捨てておけないのが、隼だった。次に発せられた彼の声は、幼なじみの有理沙ですら聞いたことがないほど低いものだった。
「最低だな、あんた」
隼にとって他人の男女トラブルほど、どうでもいいものはなかった。芸能ニュースの熱愛だ離婚だと騒ぎ立てる報道にさえ、まるで関心が持てない。だから、ツクヨミと奥方のいざこざに巻き込まれたのだと分かった時には、とにかく面倒臭い以外の感想が出てこなかった。
それでも、自分より年下に見える少女が大の男に追い詰められ傷ついているのを目の前にしてしまっては、さすがに看過はできない。よせばいいのに、と自分で自分に思いながら、隼はツクヨミの前へと出ていた。
「奥さんに逃げられてブチ切れるとか、はたから見てると大分やばいぞ」
「うわぁ、はっきり言うなぁ」
真後ろにいる有毅が間延びした声で言ったが、否定をしないということは同意見なのだろう。それで勢いづいた隼は、攻め手を緩めることなく続けた。
「奥さんが話を聞いてくれって言ってるんだから、聞くくらいしてやればいいのに。どうも別れ話ってわけでもなさそうだしさ。無視はさすがにかわいそうだろ」
隼が言葉を重ねるほどに、ツクヨミの眉間の溝が深くなっていた。冷ややかだった美貌が、みるみる憤怒に歪んでいく。怒ると言うことは図星なのだろうと、隼は勝手に解釈した。ツクヨミと最初に会った時にはなにを考えているか分からない男だと思ったが、とるに足らない高校生を相手に本気で怒りをあらわにするあたり、根はかなり大人げないかもしれない。
「子供が分かったような口をきく。わたしといることを選んだのは衣兎だ。衣兎は、わたしのそばにいなくてはならない。わたし以上に、衣兎を幸せにできる者はいないのだから」
鳴りやまぬ雷鳴と紛うほどに凄んだ声だった。しかし隼は怖じ気づくどころか、ツクヨミの脅しつけるようなやり方を笑い飛ばした。
「分かってないのはあんただろう。この勘違い束縛野郎」
隼が言い終わるか終わらないかの内に、折り紙ウサギが飛びすさった。轟音と共に降り注いだ稲妻が地面をうがつ。ススキの原の真ん中に火柱が立ち上がった。
「あっぶね」
「隼が煽るからだって」
呆れたように言う有毅を、隼は一瞬だけ横目に見た。
「だって事実だろう」
「そりゃ、言いたくなる気持ちは分かるけどさ」
有理沙の真横まで下がった折り紙ウサギの背で有毅と早口にやりとりしながら、隼は体の前に回したスポーツバッグの中を探り、引っ張り出した紙切れを足下の有理沙に投げた。
「これ持って離れてろ」
有理沙は慌てて両前脚を伸ばし、ひらひらと舞う紙片が地面につくぎりぎりで受け止めた。
「これって、お札?」
「雷よけ。気休めにくらいなるだろ。危ないからちゃんと離れてろよ」
困惑しているだろう有理沙を見もせず粗雑に言い渡して、隼は折り紙ウサギの背で体勢を作り直した。
「有毅、いけるな」
隼の背中に向けて、有毅はちょっとため息をついた。
「オッケー。正直、火は勘弁して欲しいんだけど、まあなんとかかわすさ」
ぼやきながらも、有毅の声音によどみはない。頼もしい幼馴染みに感謝するように、隼は折り紙ウサギの首元を撫でた。
「一気にいくぞ」
隼の宣言と同時に、折り紙ウサギが強く地面を蹴った。
*☾
高く跳ねた折り紙ウサギの背中を見送った有理沙は、投げ渡されたお札を小さく折り畳んで、首からさげている子安貝の巾着に押し込んだ。隼たちが前に出てくれたことで、恐れるばかりだった思考が冷静さをとり戻して働き出した感覚がする。二人のようにツクヨミに立ち向かえなくても、できることはあるはずだ。
巾着の口をしっかり閉じてから素早く顔を上げ、有理沙はうずくまっている衣兎の肩を叩いた。
「衣兎様。すぐに離れましょう。急がないと、火に囲まれてしまいます」
うなだれたまま衣兎は、顔に落ちかかる髪の隙間からのぞくように力なく有理沙を見た。
「有理沙、わたくしは……」
「ツクヨミ様は、隼がきっとなんとかしてくれます。ユウキを運ぶのを手伝ってください」
打ちひしがれる衣兎に役割を頼むことでどうにか励まし、有理沙は横たわるユウキの肩の下に前脚を差し入れた。ユウキはいまだ、苦しげな呼吸を繰り返していた。
「ユウキ、しっかりして。絶対に助けるから、もうちょっと頑張って」
有理沙は息を吸って、ユウキの上体を抱き起こした。自分と変わらぬ体格の者を抱きかかえるのはかなりの重労働だ。有理沙が唸り声をあげながら苦労していると、横から伸びてきた手がそっとユウキを抱き上げた。反射的に振り向いた有理沙に、衣兎が頷く。衣兎の顔にはまだ悲哀の色が濃かったが、すぐには立ち直れずとも少しでも動こうとする姿に、有理沙はほっとした。
「ありがとうございます」
「いいえ。早くいきましょう」
衣兎はユウキを赤子のように慎重に抱いて立ち上がった。
落雷による火は、有理沙たちをとり巻き始めていた。有理沙が前に立ち、両腕の塞がった衣兎のためにススキをかき分け進む。後ろを気にしてちらとだけ振り返ってみれば、青い顔をした衣兎の背後に細く揺れる炎が見え、さらにその向こうで跳ねる折り紙ウサギの姿も目についた。折り紙ウサギが跳ねるのに合わせて、雲に閃光が走る。轟く雷鳴に首をすくめるように、有理沙は顔を正面に戻した。
視界を黒煙が覆い始めた。どうにか振り払おうとするが、表皮を撫でる熱風で火が間近まで迫っているのが分かる。熱さで髭が縮れそうだと有理沙が思った矢先、目の前に雷の柱が突き立った。衝撃と轟音で、体が後ろへとなぎ倒される。何度もまばたきして鼓膜や網膜が痛むのをどうにか押さえつけながら顔を上げると、進行方向のススキの原は火の海に変わっていた。
「有理沙、こちらへ!」
呆然とする有理沙を、衣兎が強く抱き寄せた。紐を解いた白い袿の中へと、ユウキ共に抱き込まれる。
「衣兎様」
「大丈夫です」
心配する有理沙の呼びかけを、衣兎は素早く遮った。
「火鼠の毛が織り込まれた衣ですから、燃えることはありません」
だから大丈夫だ、という衣兎の額から汗が落ちる。燃えないとは言っても、炎の熱は確実に衣の中を蝕んでいる。有理沙も、自身の耳が熱をもっているのが感じられた。
また、近くに雷が落ちた。
「衣兎様っ」
悲鳴のように叫んで、有理沙はユウキ越しに衣兎へしがみつき、衣兎も二羽のウサギを抱く腕をきつくした。
「大丈夫、大丈夫です。ツクヨミが、わたくしを殺すはずがないのですから、わたくしといれば大丈夫です」
衣兎の声は有理沙たちを安心させようというだけでなく、自身に言い聞かせているようでもあった。火の勢いは増すばかりで、いつまた雷が落ちるかも分からない。炎に巻かれるのが先か、雷に打たれるのが先か。どちらにしても、危機に変わりはなかった。
その時、有理沙と衣兎に挟まれる形になっていたユウキが身じろぎした。有理沙ははっとして、その肩を慎重に揺らした。
「ユウキ、気がついたの?」
顔を覗き込むと、固く閉じられていたはずの目がうっすらと開いていた。ユウキが目覚めたことは喜ばしくはあっても、安堵できる状況ではない。今起きなくても、という複雑な感情も心の隅にありつつ、有理沙はユウキを強く抱くように身を寄せた。その有理沙の前脚を、ユウキが弱々しく押しのけた。有理沙と衣兎の間で手足をばたつかせてもがき、抜け出そうとしている。
「ユウキ、出ちゃだめ」
有理沙は暴れるユウキを押さえつけたが、どこからその力が出ているのか、足掻く彼を止め切れない。衣兎も腕に力を込めるも、ユウキはそれさえも無心に身をひねって脚で押しやる。
暴れるユウキを必死で押さえている内に、彼の前脚に子安貝の袋の緒が絡まった。首が締まるのが分かり有理沙が息を詰めた刹那、袋の緒が切れる。あ、と思った時には、ユウキは袋の緒を絡みつかせたまま有理沙と衣兎の腕からするりと抜け出した。
「ユウキ!」
ユウキが衣兎の肩を蹴り、真上に高く飛び上がった。
青白い稲妻が一筋、白ウサギの上に落ちた。
有理沙は悲鳴すらあげることができなかった。真っ黒なウサギの体が降下していく映像が、妙にゆっくりして見えた。黒ウサギなどこんなところにいただろうかと、一瞬考える。音を立てて、黒いウサギが目の前の地面に落ちた。黒いのは毛並みではなく、焼け焦げた皮膚だった。ところどころ燃え残っている毛並みは、白い。毛皮の焼ける、不快な匂いがした。
「ユウキ――!」
有理沙は夢中で衣兎の腕を振り払い、ユウキにとり縋った。
「やだよ、ユウキ。やだやだやだ!」
触れたところからユウキの焼けた皮膚が崩れ、驚いて前脚を引っ込める。露出した真っ赤な傷はあまりに生々しかったが、有理沙は目を覆うことだけはできなかった。
「ユウキ、ユウキ! ユウキ、起きて、ねえ」
ユウキをもっとしっかり押さえていれば、と自責の念が痛いほどに胸を圧する。しかしユウキが飛び出さなければ、雷は有理沙たちに落ちていたかもしれない。守ってくれたのだろうか、とも思えて、有理沙は気持ちの収拾がつかずにとり乱すしかできなかった。
どんなに声をかけても、ユウキは少しも反応を返さない。その意味を受け入れたくなくて、有理沙はあふれた涙を拭いもせずに、弟の名前を呼び続けた。
ユウキにとり縋る有理沙に、頭からなにかが被せられた。全身をすっぽり覆うそれは白い袿で、襟の隙間から見上げれば真正面に衣兎がいた。
「ごめんなさい、有理沙」
なぜ急に衣兎が謝ったのか分からず、有理沙はただ見詰め返した。衣兎は有理沙の白い額を柔らかく撫でてから、両手を伸ばしてユウキを抱き上げた。
「やはり、わたくしは逃げてはいけなかったのです。そうすれば、こんなことにはならなかった……」
動かないユウキを袖で包み込むように懐に抱き、衣兎は改めて有理沙と目を合わせた。
「わたくしはツクヨミのもとへいきます」
衣兎の瞳が炎を映して輝くのを見て、有理沙は前脚を伸ばして衣兎の袖をつかんだ。
「でも衣兎様、帰りたいって」
微笑むように、衣兎の目が細まった。
「わたくしは、長く月にい過ぎました。今、人の世に戻ってもわたくしの帰る場所はないでしょう。でも、有理沙は違います。だから、必ず帰って。それが、わたくしの希望です。……ごめんなさい、巻き込んでしまって。ツクヨミは、必ずわたくしが止めます」
最後の言葉と共に、衣兎はユウキを抱えたまま、有理沙の前脚を振り払うように立ち上がった。
「待って、衣兎様!」
慌てて呼び止めるも、衣兎はもうこちらを見ようとしない。駆け出した衣兎の背中は炎の合間へとすべり込み、またたく間にその影さえも見えなくなった。
「衣兎様!」
追いかけようと立ち上がった途端、固く丸いものを踏みつけて有理沙は転んだ。痛みに顔をしかめながら恨めしく見やった足下にあったのは、卵に似た小さな子安貝だった。入っていた袋は落雷で燃え尽きてしまったのだろう。有理沙は体を起こして、子安貝を拾い上げた。つるりとした子安貝の表面に、亀裂が縦に一筋走っていた。
胸元で子安貝を握りしめて、有理沙はもう一度立ち上がった。衣兎の袿を頭から被り直し、深呼吸をして炎の中へと飛び込んだ。
吹きつける熱気で髭が焦げて縮れるのが分かった。それでも体は、衣兎がくれた火鼠の衣で守られている。
(希望は、まだ消えてない)
そう信じて、有理沙は炎の中を突き進んだ。
*☾
高く飛び上がった折り紙ウサギを目がけて、閃光が走った。折り紙ウサギは風に乗るようにくるりと身を翻し、雷の直撃を避ける。真下で上がった炎をかろうじてかわし、折り紙ウサギは着地したその足を後ろに蹴り出してツクヨミとの距離を詰めた。
隼はツクヨミの姿をしっかりと視界にとらえながら左手で体を支え、右手をスポーツバッグに差し入れた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓え給いし時に――」
気持ちの高ぶりを押さえて、低く低く隼は唱える。折り紙ウサギは雷と炎を避けてせわしく方向転換を繰り返す。隼は振り落とされぬように動きによくよく気を張り、左手と両脚に力を入れながらも、祝詞に意識を集中させる。
「――生り坐せる祓え戸の大神たち、諸々の禍事、罪、穢れあらんをば、祓え給い清め給えと白すことを聞こし召せと、恐み恐みも白す」
祝詞の終わり、バッグから右手を引き抜いた。
「有毅、飛べ!」
折り紙ウサギが地面を蹴る。隼は右手に握り締めた切幣を頭上に向かって撒いた。降り注ぐ紙吹雪の中を、折り紙ウサギはくぐり抜ける。地面に届いた切幣で、ツクヨミがひるむように足を引くのが視野の端に見えた。雷の音が、一瞬遠のく。
全身に切幣を浴びながら、隼はジャージのポケットに忍ばせていた鋏を左手でつかみ出した。有毅の神札を造る時、筆箱から出てきた鋏だ。飛び上がった折り紙ウサギの高度が頂点を過ぎ降下を始めるのを見計らい、切幣を歪んだ紙箱ごとバッグから引っ張り出して投げた。腕を振った拍子に体勢が崩れ、折り紙ウサギの背から隼の体も投げ出される。
紙箱が宙で回転し、一帯に切幣が巻き散らされる。雪片のごとく舞い散る切幣をツクヨミはもかわしきれず、袂で顔を隠すように腕をかかげて身を低くした。
隼は落下しながら鋏を右手に持ち替えて柄を握り、身をひねって大きく振りかぶった。
落ちる速度に乗せて、鋏を振り下ろす。ガラスが割れるような甲高い音が響き渡り、ツクヨミの首飾りの緒が切れた。連なっていた珠が舞い飛ぶ。珠は水中で立ち上る泡のようにきらめきながら、さやかな音を立てて地面に散らばった。
落下する隼の体が地面にぶつかる寸前、白い影が滑り込んですくい上げた。白い影は、有毅の折り紙ウサギだった。
「助かった」
「まったく、無茶するなぁ」
有毅は呆れて言ったが、交わし合った笑みに安堵があった。
ツクヨミが小さくうめくように喉を鳴らして膝をついた。珠の緒と一緒に髪を留めていた紐も切れたらしく、長い黒髪が肩から滑り落ちて表情を隠す。荒い息をつくツクヨミのすぐそばまで折り紙ウサギが歩み寄ったので、隼は反撃を警戒しながら慎重に地面へおりた。
空はいまだ雲に覆われていたが、雷鳴はやんでいた。ツクヨミから発せられていた圧倒的な気配がしぼむようにかすんでいくのが隼にも分かる。
隼が振り下ろした鋏は、ツクヨミには当たっていない。当てるつもりもなかった。刃物は元来、そこにあるだけで魔や穢れを祓うものだからだ。実を言えば小さな鋏の一振りで効果があったことに隼は内心かなり驚いていたが、顔には出さずにツクヨミの正面に立った。
うなだれるツクヨミに、隼が声をかけようとした時だった。少女の叫ぶ声が響いた。
「ツクヨミ!」
隼が振り向く前に、衣兎は彼を押しのけるようにツクヨミに掻いついた。かなり無理をして炎をかいくぐってきたせいで、着物は元の色が判然としないほど煤にまみれ、長い髪は毛先が焦げて縮れている。あちこち痛んで怪我もしているだろうありさまではあったが、衣兎はなりふり構うことなくツクヨミに額を寄せた。
「ツクヨミ、無事ですか」
ツクヨミがゆっくりと顔を上げた。衣兎は片腕で抱き込むように、夫の頭を引き寄せて頬を当てた。
「ツクヨミ、もう大丈夫です。わたくしは、ここにいます」
「衣兎……」
ツクヨミは両腕を衣兎の背中へと伸ばし、少女の細い体をきつく抱き締めた。
「衣兎、わたしには衣兎が必要だ」
請うような囁きに、衣兎は静かに頷く。
「分かっています。今のあなたを生み出したのは、わたくしなのですから」
ツクヨミ、と彼に名づけたのは衣兎だ。名前によって彼は確たる姿を得て、力までも手に入れた。安易に神と同じ名を与えてしまったからなのだと、気づいた時には手遅れだった。雛が親鳥を追うように、ツクヨミは名づけ親である衣兎に執着し、強く求める。すべては衣兎が招いた。今更、逃れられるはずがなかった。
なだめるようにツクヨミの後頭部を撫でた衣兎は首を巡らせ、背後に立つ隼少年を振り返った。むっつりと口を閉ざした少年は、ただ衣兎を見返すだけでなにも言わない。
「申しわけ、ありませんでした」
衣兎が謝罪すると、隼は面食らったように目を見開いた。そういう表情をすると、大人びて見えた少年が年相応の印象になった。
「あなた方をずいぶんと苦しめてしまいました」
「別に、あんただけが悪いわけじゃないだろう」
素っ気ない語調で隼が言い、衣兎は首をゆるく横に振った。
「ツクヨミの行いの原因は、すべてわたくしにあります」
「衣兎」
名を呼んだのは、ツクヨミだった。衣兎は顔の向きを戻して、もう一度彼の頭に頬を寄せた。
「ツクヨミ、もうなにもしなくていいです。贈り物も、新しいウサギも、わたくしには必要ありません」
「しかしそれでは……」
「わたくしはただ、あなたにわたくしの言葉を聞いて欲しいのです」
言い募ろうとしたツクヨミの言葉を、衣兎は強く撥ねのけた。
「あなたさえいれば、と言い切るにはわたくしは未熟かもしれません。わたくしは欲張りですから、そばにいるだけでは満足できないのです。もっとわたくしを見て、話を聞いて、わたくしを分かって欲しい。あなたを愛しているわたくしを、どうか信じて欲しいのです。そして、あなたのことをもっと理解したい」
ツクヨミの手をとり、衣兎は片腕に抱えていた黒いウサギを慎重に渡して抱かせた。衣兎にうながされる形で腕の中に収まったウサギを、ツクヨミは戸惑いの眼差しで見下ろす。
「……ユウキ、か」
衣兎はうなずき、ユウキを抱くツクヨミの腕に手を添えた。
「これは、あなたが望んだことですか?」
問いかけに、ツクヨミの瞳が揺れた。彼の胸になにがよぎったかまでは見てとれなかったが、ユウキの焼け焦げた耳元を撫でる手つきには、いつもウサギたちに対する時と変わらぬ慈愛があった。それを答えと受けとって、衣兎はツクヨミの顔に落ちかかる髪をそっと掻き撫でた。
「もう二度と、誰かを傷つけることはしないでください。かわいそうな子を見るのは、もうたくさん。あなた自身も、傷ついてしまう」
衣兎はもう一度後ろを振り返った。今度は隼のさらに後ろへ目をやる。大きな折り紙ウサギの背に乗るもう一人の少年を視界にとらえた。
「あなたにも、謝らなくてはいけません」
確信を持って、衣兎は言った。言葉を交わす機会が今までなかったが、有理沙から話は聞いていたので姿を見てすぐに、もう一人の有毅だと分かった。どこか遠くを見るような危うげな眼差しに面影がある。友人と一緒にいるからか話し方に少々粗野さはあるが、発せられる声も間違いなく衣兎が聞き慣れたものだった。
人の有毅は、衣兎の眼差しにちょっと肩をすくめた。
「ぼくに謝ることじゃない。もう、その体に未練はないし。かわいそうだとは思うけど、ぼくが戻らないと決めた以上は遅かれ早かれこうなったんだ。ぼくだって共犯みたいなものだ」
元はと言えば有毅が分かれてしまった原因は衣兎とツクヨミにあるのに、彼はそれを責めなかった。衣兎は感謝を告げようとしたが、目線をはずされたことで彼が言葉を求めていないことが分かった。代わりに静かに微笑み、目蓋を伏せて黙礼をした。
「衣兎様!」
衣兎がやってきたのと同じ方角から、別の少女の声が叫んだ。炎の中から走り出てきたのは、白い衣を被った白いウサギ。
「有理沙!」
大き過ぎる着物を引きずる有理沙に、隼が駆け寄った。着物の裾を踏んで転びそうになるウサギの体を、少年がすかさず抱き上げる。
「有理沙、大丈夫か」
案じる隼の顔に、有理沙は煤で黒くなった鼻先を向けた。
「ああ隼、無事でよかった。あたしは大丈夫。それより衣兎様は」
有理沙が早口で忙しなく告げ、隼は胴をつかんだ腕をひねって衣兎の方へ顔を向けてやった。
「衣兎様」
被っていた着物を隼の手の中に残して、有理沙は彼の腕からするりと抜け出した。ツクヨミと寄り添うように座り込む衣兎の方へと、白ウサギは二本脚で駆けていく。その姿がややぎこちなく見えるのは、両前脚を体の前で重ね合わせているからだ。衣兎のもとに辿り着いた有理沙は、その前脚を真っ直ぐに差し出した。
「衣兎様、これを」
大切に握り締めてきたものを見せるため、有理沙は重ねていた前脚をそっと開いた。現れたのは二つに割れた子安貝と――小さな雛だった。
有理沙はぎょっとして、前脚を引っ込めた。
「えええっ! なんで!」
ピンクの体に埃のような産毛が生えているだけの、目も開かぬ鳥の雛が前脚の上でもぞもぞと動いている。子安貝だと思っていたものは、やはりツバメの卵だったのだろうか。
予想外だったのは有理沙だけではなかったらしく、隼と有毅は困惑したように雛を見下ろしているし、衣兎も目を点にしている。その中でツクヨミだけが冷静な表情で、あたふたする有理沙に向かって腕を伸ばした。ツクヨミの指先が有理沙に届く寸前、その腕を隼が素早くつかんで止めた。
「なにする気だ」
威嚇するような眼差しにひるむことなく、ツクヨミは目線だけを隼に向ける。
「安心しなさい。傷つけるわけではない」
つかの間にらみ合うように視線を交わし合う。しかし有理沙と衣兎から訴えるような目を向けられ、隼は渋々とツクヨミの腕を放した。解放されたツクヨミは無言のまま、雛を包み込むように、有理沙の前脚に右手を重ねた。触れるか触れないかの、柔らかなひと撫で。
ツクヨミが手をどけると、大人のツバメが赤い喉元を見せるように翼を開いた。驚く一同の目の前で、ツバメは羽ばたき飛び立つ。その姿を、そこにいた全員が揃って目で追い駆けた。
ツバメは彼らの頭上で旋回し、真っ直ぐに天を目指す。くちばしが垂直に上を向いたその時、まるで墨がしたたるように波紋を描いて雲が晴れた。その中心へと、ツバメが飛び込む。ツバメは黒い空の中へと消え、揺らいだ漆黒の波間に、翡翠色の竹林が垣間見えた。
「隼、有理沙!」
有毅が素早く二人を呼んだ。即座に反応した隼が有理沙を抱き上げ、折り紙ウサギの背に飛び乗る。空の波が消える前に、折り紙ウサギが高く跳ねた。
「待って、衣兎様が!」
身を乗り出そうとした有理沙を、隼は強く押さえつけた。
「あの子はこない」
「でも」
「しっかりつかまって」
有毅が、隼と有理沙のやりとりを遮って忠告をする。折り紙ウサギは空の波紋の中心を目指して体を伸ばし、背が垂直になった。振り落とされぬよう隼の肩にしがみついた有理沙と、地上からそれを見上げる衣兎の視線が交わった。衣兎が微笑み、有理沙の胸に切なさが迫った。
「衣兎様っ」
叫んだ少女の声だけを余韻に残し、折り紙ウサギは空の中心に吸い込まれて消えた。
少年少女を見送った衣兎は、かたわらの夫へと顔を向けた。天を見上げていたツクヨミが、視線に気づいて衣兎を見返す。邪気のない夫の瞳に、衣兎は笑いかけた。
「ありがとうございます」
ツクヨミは困惑げに口を引き結び、腕の中のユウキへと視線を落とした。
「かわいそうな子を見たくないと衣兎が言って、わたしもそう思った。これで、よかったのだろうか」
衣兎は両腕を伸ばして、愛しさからツクヨミを抱き締めた。
「それでよいのです。わたくしは幸せです。これから先、また不安になることがあるかもしれません。その時はまた、たくさんお話ししましょう。そうすればきっと、お互いの心がもっと分かりますから」
「そうか……そう、だな」
静かに言って、ツクヨミはそっと衣兎の体を離させた。周囲では、まだあちこちで火の手が上がっている。ツクヨミは、かたわらに落ちている珠を拾い上げた。五色の光を揺らめかせるそれは、元々ツクヨミが首からさげていたものだ。握り込めば、珠は光は色鮮やかさを増した。
一度は晴れた雲が、再び上空に立ちこめた。雲はうねりながら広がり、田畑の上を越え、都まで届く。やがて灰色の厚い雲が、見える限りの空すべてを覆い尽くした。
月の国に、恵みの雨が降った。
有理沙と隼は、折り紙ウサギの背中から同時に放り出された。
「うわあっ」
有理沙は丸い体で転がり、隼は背中から地面に着地をした。
転がった末に仰向けになった有理沙は、地面でじたばたして体の向きを変え、顔を上げた。日は完全に落ちており、一帯は夜の色の中にあった。けれど筋になって見える竹の幹の並びと、枝のざわめく音で、ここが月乃浦神社の竹林であることがすぐに分かった。
二人を振り落とした有毅は小さくなった折り紙ウサギを肩に乗せ、地面で大の字に伸びている隼の頭側に屈んで顔を覗き込んでいた。
「隼、生きてる?」
「もう無理、死ぬぅー」
本人の言う通り隼は疲労困憊な様相で、しばらく動く気はなさそうだ。有理沙は彼のそばまで歩み寄って、脇のあたりにぺたりと座った。
「帰ってきちゃった……衣兎様、大丈夫かな」
心残りを、ぽつりとこぼす。すると有理沙の頭に、隼の手が置かれた。隼は地面に仰向けたまま、呼吸を整えるように長く息を吐いた。
「大丈夫だろ。大丈夫じゃなかったとしても、おれたちじゃあ、これ以上なにもしてやれない。あとは当人同士の問題だ」
「うん……」
月の国はツクヨミが作り上げた、衣兎のための檻だった。ツクヨミは衣兎を愛するあまり、逃げ出さぬように翼を手折り、見えぬ鎖で繋いだのだ。そして衣兎は、檻から出たいと強く願いながら、しかしそれを叶えるにはあまりにツクヨミを愛し過ぎていた。
人であったことを忘れたウサギたちにとって、月の国はこれ以上ない幸福の地ではあることは間違いないだろう。有理沙も、居心地のよさがなかったとは言えない。しかしそんな場所であっても、ウサギのユウキは最後まで居場所を見つけられないままだった。
考えれば考えるほど、もっと自分にできることがあったのではないかと、思わないではいられない。衣兎もユウキも救える方法が、あったのではないか。本当に、帰ってきてしまってよかったのか。
別れ際、衣兎は笑っていた。あの笑顔がまた曇ることがなければいいと、有理沙はただただ願った。
「それで――」
隼が気持ちを切り替えるように言いながら、顔だけ起こして有理沙を見た。
「有理沙は、いつまでウサギでいるんだ?」
はっとして、有理沙は自分の前脚を見下ろした。そこにあるのは、煤で薄汚れた白い毛並みに包まれている丸い足先だった。何度か指を曲げ伸ばししてみるが、なにかが変わる様子はまるで見られない。
「……分かんない」
「はあ?」
頓狂な声をあげて隼が露骨に顔をしかめ、有理沙はにらみ返すように眉間を寄せた。
「だって、どうやってウサギになったかも分かんないんだもん。戻り方なんて分かんないよ」
「分かんないって、それじゃあ――」
「戻れるよ」
言い合いを始めようとする有理沙と隼を、有毅が止めた。同時に振り向く二人の前で、有毅が体を伸ばす。
「隼、ちょっとどいて」
あっさりした口調で言われて隼は口をへの字にしたが、渋々と上体を起こした。ややさがった位置で隼は胡座をかき、有毅も有理沙の正面まで移動して再び身を屈めた。
「有理沙、手を出して」
言われるまま、有理沙は立ち上がってから両前脚を揃えて有毅の前に差し出した。有毅がそれを両手で下から支えるようにつかむと、彼の肩に乗っていた折り紙ウサギが有理沙の前脚の上に軽やかに飛び移った。
「それに、三度息を吹きかけて」
「おい、それ……」
有毅の指示に、隼が反応した。しかし続く言葉を有毅に目で制され、隼は忌々しそうにため息をついて顔を背けた。有理沙は彼らのやりとりの意味が分からず、やや不安になって有毅を見上げた。
「なにかあるの?」
「なんでもない。ほら、早く」
有理沙を見下ろす有毅の眼差しは、過去にないほど真摯な色をしていた。引っかかりを覚えながらも、有理沙は折り紙ウサギを口元へと寄せた。口をすぼませて、ゆっくり三度、息を吹きかける。
変化は、すぐに現れた。折り紙ウサギが乗っていた前脚が膨らむように大きくなり、目線までもが一気に高くなったのだ。まばたきする間に前脚の指がひょろりと長くなり、体表を覆っていた白い毛もなくなる。代わりに、紺のブレザーの生地が、手首から上の肌を隠していた。
「戻った!」
自分の体を見下ろして、人の姿とはこんなに視点が高かったのかと有理沙は驚いた。自身で思っていた以上にウサギの体に馴染んでいたらしく、地面がもの凄く遠く感じられる。制服のスカートもローファーも、月の国にいった時そのままで、どういう仕組みか着衣ごとウサギになっていたことが判明した。頭に手をやってみたが、やや乱れた髪が触れるだけで、長い耳もなくなっていた。
「本当に元に戻った! ありがとう、有毅――」
勢いよく視線を正面に戻して、有理沙は硬直した。有毅がいるべき場所に、白ウサギが二本脚で立っていた。白ウサギは、頬の毛をふっさりと膨らませて赤い目を細めた。
「よかった、うまくいって」
白ウサギは、有毅と同じ声で言った。急に心音が早くなるのを、有理沙は意識した。
「なんで、有毅がウサギに?」
有理沙が慎重に問うと、有毅は三角形の鼻をひくつかせた。
「ぼくらが双子だから」
「それが、ウサギになんの関係があるの?」
ウサギの体に違和感があるのか、有毅は自身の長い耳を撫でつけながら答えた。
「ぼくらは同じ血を分けて同じ日に同じ顔で生まれてきた。だからぼくらは、それぞれの身代わり――形代になることもできるんだ。有理沙の体にあったツクヨミの力や穢れは、今のでぼくに移った」
有理沙の手の上にいた折り紙ウサギが跳ねた。毛づくろいに満足したらしい有毅の額へと、折り紙ウサギは着地する。
「隼」
呼びかけながら有毅は、胡座に頬杖をついてそっぽを向いている隼に向き直った。
「疲れてるところ悪いんだけど、最後にもうひと仕事だけいいかな」
隼は返事をしなかった。不機嫌そうにむっつりと黙り込み、有毅と目を合わせようともしない。それでも有毅がじっと視線を送り続けていると、やがて根負けしたように、隼は長々と息を吐き出した。振り向いたその表情は、それでもやはり納得しているようには見えない。
「有毅、始めからこうなること分かってただろ」
隼に凄むように言われても、有毅はまるで動じずに肩をすくめた。
「始めからは分ってないよ。隼が新しい体をくれたあたりから考えてはいたけど」
隼は恨めしそうに、目を据わらせた。
「ほんと、なんにも言わないよな」
「隼にだけは言われたくないかな」
この野郎、と隼が口の中でごく小さく言うのが有理沙にも聞こえたが、有毅は相変わらず涼しい顔をしている。隼は何度目かのため息をついて、緩慢に立ち上がった。
「拝殿の前で待ってろ。準備してくる」
重そうな足どりで、隼は暗い竹林を社殿の方角へと歩み去っていく。すっかり二人の会話に乗り損なってしまった有理沙がその背を見ていると、有毅が気を引くようにスカートの裾を引っ張った。
「有理沙、ぼくらもいこう」
鎮守の森を出ると、月が高い位置から青白い光を降らせており、かなり夜遅い時間であることが分かった。なんの催しもない夜中の境内に人気があるはずもなく、拝殿正面にとりつけられている蛍光灯が冷たい色で照らしているのは、階と賽銭箱だけだ。
有理沙は有毅と並んでその光の下まで進みながら、社務所となっている翼殿の窓をちらと横目に見た。窓には目隠しのスクリーンが下りていたが、継ぎ目の細い隙間から明かりが漏れ、そこを隼が何度か通り過ぎるのが見えた。
「ねえ有毅。これからなにをするの」
有理沙は、ようやくその問いを口にすることができた。隼が準備をすると言った時点で聞けばよかったのだが、不機嫌な彼の様子に尻込みしてしまったのだ。常であれば隼の機嫌くらいで動じる有理沙ではない。しかし胸の内でざわめく予感のようなものが、有理沙をためらわせた。
階の前で立ち止まって、有毅は有理沙を見上げた。
「有理沙からぼくに移したものを祓って流すんだ」
ごく軽い口調で有毅は言う。有毅があっけらかんとしているので、嫌な感じがしたのは杞憂だったろうかと、有理沙は少し気持ちを上向けた。
「それじゃあ、有毅もすぐに人に戻れるんだ」
それならばなにも問題はない。そう、有理沙が思い直した矢先だった。
「人には戻らない」
言葉の意味がすぐに理解できず、有理沙は眉を寄せて有毅を見下ろした。
「え? だって今、移したものを祓うって」
「そう。ご祈祷して焚き上げたら、全部祓われて月との縁は完全に消える」
「ちょっと待って」
有理沙は這いつくばるように、有毅の目の高さまで身を低くした。勢い余って膝を石畳に打ちつけたが、今は痛みに構っていられなかった。
「焚き上げるって、どういうこと」
有理沙の剣幕に有毅は一瞬気圧されるようにのけぞったが、すぐに平静をとり戻して耳をそよがせた。
「そのままの意味。燃やすってこと」
「燃やすってなにを? その折り紙のウサギ? 折り紙を燃やすだけなら、有毅はなんともないでしょう」
有理沙が顔を突き出して迫るように畳みかけると、有毅は一歩下がって耳を垂れた。有毅の頭に乗っている折り紙ウサギも呼応するようにかさりと音をたてた。
「有理沙なら分かってると思ったのに……これはぼくだ」
「そんなのだめ!」
有理沙は眉を吊り上げて叫んだ。
「その折り紙が本当に有毅だって言うなら、燃やしたら今見えて話せてる有毅はどうなっちゃうの」
「それは……」
「せっかく帰ってこられたのに、燃やすなんて絶対だめ」
頑として言い募る有理沙に、有毅は困り果てて髭まで垂らした。
「なに大騒ぎしてるんだ。もう遅いんだから静かにしてくれ」
背後から隼の声がして、有理沙は両手をついた体勢から勢いよく跳ね起きた。社務所から出てきた隼はジャージから白衣と差袴に着替えていて、シャワーまで浴びてきたらしくこざっぱりとしていた。
有理沙は、そばまできた隼の襟をつかんで詰め寄った。
「隼、なんでそんな平気でいられるの? 自分がなにしようとしてるか分かってる?」
「平気に見えるか?」
隼の声があまりに低く、有理沙は失言に気づいて息をのむ。
隼は有理沙の手をつかみ返して、やや強引に襟を放させた。乱れた白衣の合わせを直す彼の表情は声と同様に厳しい。
「仕方ない。ちゃんと祓わないと、せっかく移したものが有理沙に戻る。それだけは避けないと」
「だけど、有毅が」
「隼を責めちゃだめだ」
さらに言い募ろうとした有理沙を、有毅がスカートの裾を引っ張って止めた。見下ろした有理沙の眼差しを、有毅は真っ直ぐに受け止める。
「有理沙、冷静に考えて。ぼくが消えてもなにも変わらない。元々皆には見えないから、いないのと同じなんだ。でも、有理沙は違う。有理沙がいなくなったら、困る人や悲しむ人がたくさんいる」
なにか言い返さなくてはと、有理沙は言葉を探した。しかしどんなに必死に思考を巡らせても、有毅を説得できるだけのものが見つからない。有毅の言うことはよく分かる。けれど、それを受け入れられるかどうかは別だった。
くずおれるように有理沙は膝をつき、有毅の小さな体を抱き上げた。柔らかな毛並みの感触はあるのに、重さはまるで感じられない。それが有毅の存在の儚さをもの語っているようで、有理沙は堪えきれずに涙ぐみ、白ウサギを抱き締めた。
「なにも、変わらなくないよ……あたしが、悲しいよ……」
有毅は有理沙の首元に顔を埋めるように、そっと頬をすり寄せた。
「ごめん、有理沙」
月乃浦神社の鳥居と拝殿を結ぶ参道から少しはずれた地面に、焚き上げのための炉が切ってあった。四角い石を正方形に並べて固定してあるだけの簡易な炉の中心に、小さな井の字型に角材が積み上げられている。炉の隅に小さな御幣を立てて簡易に場を整えた隼は、角材へと火をつけた。夜闇の中にぽっと、赤い浄火が立ち上がった。
隼が下がると、入れ替わるように有毅が炉の前に立った。有毅は火を背にして、隼を見上げる。隼よりさらに後ろにいる有理沙の位置からでは、有毅の顔は影になっていて表情までは見えなかった。
背筋を伸ばした隼は手を叩き、深くお辞儀をした。
「高天原に神留坐す、皇親神漏岐、神漏美の命以ちて、八百万の神等を、神集えに集え賜い、神議りに議り賜いて、我が皇御孫命は、豊葦原水穂国を、安国と平けく知ろし食せと、事依さし奉りき……」
長い長い祝詞を、隼は淡々とそらんじる。神社の跡継ぎではあってもまだまだ神主ではありえないというのに、有理沙の知らないところで、彼はこんなことまでできるようになっていたのかと驚く。よく知っているはずの背中は浄火に照らされて神々しく映ったが、気づかぬ間に開いていた距離を見せつけられるようでもあり、弱った有理沙の心はますます打ちのめされた。
火は勢いを増し、境内を赤く赤く照らす。祝詞が終わり、有毅が燃え盛る炎の方に体を向けた。
「有毅!」
有理沙は駆け出していた。炎に向かう有毅を止めようと、手を伸ばす。けれどそれは、隼の腕で簡単に阻まれてしまった。
「放して隼! このままじゃ有毅が!」
必死にもがくも、隼の腕は簡単には振りほどけない。あがけばあがくほど、むしろ力強さを増しているようだ。せめてなにか言ってくれればいいものを、隼はいっさい声を発さずにただ有理沙を抱き込むように押さえつけた。
一瞬だけ、有毅が有理沙の方を振り返った。その顔は笑っているように見えたが、すぐに向こうを向いてしまったので確かなことは言えない。白ウサギが地面を蹴り、炎の中へと飛び込んだ。
「有毅!」
有毅と一緒にいた折り紙ウサギはあっという間に黒く焦げ、灰となって崩れていく。同じ早さで、白ウサギの姿も炎の中で輪郭が溶ける。折り紙ウサギが燃え尽きた時には、白ウサギの姿はすっかり煙に変わり、月の輝く夜空へと高く上って消えていた。
隼に抱きかかえられたまま、有理沙はその場に泣き崩れた。
空が白み始めていることに気づいて、有理沙は少しだけ顔を上げた。もう涙は止まっていたが火の前からどうしても離れる気になれず、膝を抱えて座り込み、そのまま夜を明かしてしまった。積み上げられていた角材はほぼ燃え尽き、山になった灰の中でわずかな燃え残りがくすぶるばかりになっていた。
有理沙は瞳だけを動かして左隣を見やった。体温が感じられるほどの距離で、白衣袴姿のままの隼が有理沙と同じように膝を抱えて座っていた。まばたきがゆっくりなのは、眠気を堪えているからかもしれない。誰よりも疲れているはずなのに、隼は一睡もせず、泣きじゃくる有理沙につき添ってくれていたのだから。
正面に目線を戻した有理沙はもう一度膝に顔を埋め、深く息を吐き出した。
「落ち着いたか?」
有理沙の気配を察したように、隼が問う。有理沙は顔は上げないまま、浅く頷いた。
「ねえ、隼」
「うん?」
「なんで、有毅が見えること言ってくれなかったの」
気まずい沈黙がおりた。隼が答えあぐねているのが顔を見ずとも伝わってくる。長すぎる間の後で、隼はようやくぽつりと言った。
「ごめん」
有理沙は膝を抱えて組んだ手に力を入れた。
「ばか隼。答えになってない」
また沈黙。しかし今度は、さっきほど長くはならなかった。
「――ごめん」
やはり隼は答える気がないらしい。有理沙はまた、涙がこぼれるのを感じた。
「ばか……ありがとう」
「……ああ」
月乃浦神社を囲う鎮守の森の縁が、昇る朝日で色づき始めた。
第四章 了
有理沙は窓際の適当な席を拝借して、ぼんやりと校舎の外を眺めていた。眼下のグラウンドでは、赤くなり始めた西日の下で運動部員たちが声をかけ合い、限られた時間の中での練習に精を出している。長く伸びた影と共に駆け回る彼らの姿を目で追いかけながら有理沙はため息をつき、やがて飽きて机に突っ伏した。
有理沙が月でウサギになっていた間、やはり両親を心配させてしまっていた。本当は月から戻ってきてすぐに帰宅するべきだったのだろうが、有毅を見送った直後の精神状態でそれはできなかった。すべて片づけた後で自宅まで送ってくれた隼も一緒に叱られたのは申しわけなくはあったが、まだ高校生の二人、一晩のこととはいえ電話も通じなかったのでは仕方がない。母の涙を見たのは、有毅が神隠しにあった時以来、二度目だった。
有理沙の両親も、隼の両親も、放課後に勢いで遠出してうっかりバスの最終便を逃してしまった、などというずいぶん雑な言いわけをよく信じてくれたと思う。あるいは信じていなかったかもしれないが、誤魔化しようがないほど憔悴しきった二人を、深く追求することまでしなかった。帰宅したその日、有理沙はかろうじて登校したが、隼はさすがに疲労が深く学校を休んだ。それでも翌日には登校してサッカー部にもしっかり参加してるのだから、やはり隼は強いのだと、有理沙は改めて思った。
遠くから、別れの挨拶を交わし合う女生徒の声が聞こえた。一人きりの教室内に落ちる影の色が濃くなってきている。そろそろ教師が校舎の戸締まりのために、見回りにくるかもしれない。それでもなかなか帰る気になれず、有理沙は両腕を伸ばして机に頬を押しつけた。
家にいると、有毅がいない事実が強く意識された。有毅は有理沙が他の人といる時には、まったくとまでは言わずともあまり姿を見せなかったので、必然的に学校ではさほど話しはしなかった。しかし家では、宿題をしているときや就寝前にはほぼ必ずあれこれと会話をしていたのだ。だから自宅の部屋で一人になると、つい有毅の姿を探してしまう。そして双子の弟がもういないことに、どうしようもなく打ちのめされるのだった。
有理沙がそうして一人で塞ぎ込んでいると、不意に教室後ろの引き戸が開く音がした。先生がきたかと思って振り向くと、戸に手をかけている隼と目が合った。
「やっぱりまだ残ってたのか」
教室に入って戸を閉めた隼が、窓際の有理沙のところまで真っ直ぐに歩み寄ってくる。有理沙は突っ伏していた上体を起こして、ちらとグラウンドへと目線をやった。あれほど走り回っていた運動部員たちは道具の片づけを終えて、すでにちらほらと下校を始めていた。
有理沙は頬杖をついて、真横まできた隼を見上げた。
「なにか用事だった?」
「下駄箱にまだ靴があったから、様子を見にきた。帰らないのか?」
問いながら隼は隣の席の椅子を引き、有理沙の方を向いて座った。有理沙は幼馴染みの姿を横目に見ながら、悩むように唸った。
「やっぱり、帰らなきゃだよねぇ……」
頭では分っているのだが、どうしても気持ちがついてこない。そのせいで有理沙がなかなか動けずにいると、隼はなにか思いついたようにブレザーのポケットを探り、とり出したものを有理沙に差し出した。
「これ、やるよ」
紐を持って顔の前に垂らすように差し出されたそれは、小振りなお守り袋だった。地紋のある水色の錦に、〝月乃浦神社〟の文字が金糸で刺繍されている。不審に思いつつ有理沙が袋をつまむと、隼は白い緒を放してすぐに手を引っ込めた。どういうつもりだろうかと考えながら、有理沙はお守りをひっくり返してみた。平たい袋の反対の面には、白いウサギのイラストが織り込まれていた。
そのお守りは、有理沙にも見覚えがあるものだった。月乃浦神社で授与品として並べられている、十二支のお守りの一つだ。しかしそれをくれた隼の意図がまるで分らず、有理沙は眉をひそめた。今の有理沙にとってウサギのモチーフは、開いたばかりの生傷に触れるようなものだ。
「なにこれ」
問い質す声は、自然と尖ったものになった。けれど隼は気にした風もないまま、ポケットに手を入れて立ち上がった。
「有理沙専用のお守り」
「専用って。プレゼントとしてはさすがに趣味悪くない?」
有理沙はにらみつけたが、椅子を元通りにしてこちらを見た隼は口元に薄く笑みさえ浮かべていた。
「そう言うなって。それ一つしかないんだ。なくすなよ」
最後の一言と同時に、隼は教室の出口の方へ体を向けてしまう。有理沙はむっとして、椅子から腰を浮かせた。
「ちょっと、隼――」
「まったく。素直じゃないよね、隼って」
間近で声がして、有理沙はぴたり動きを止めた。同じ声に反応して、隼が勢いよく振り返る。隼の視線は有理沙ではなく、有理沙の隣へと注がれた。
「ばか、今出てくるなって」
「いつ出てきても一緒だって。自分で渡してるんだから、黙ってる意味もないじゃん」
叱りつけるようにわめく隼に、いかにもマイペースな少年の声が返事をする。その声に有理沙の心臓が痛いほどに早鐘を打ち、呼吸までも苦しくなった。息を詰めてゆっくり首を回してみる。目の前の机に腰を軽く預けて、制服姿の少年が立っていた。
ぽかんとして言葉を失う有理沙を見て、少年は有理沙と同じ色の瞳で愉快そうに笑った。
「有毅……なんで……」
やっとのことでそれだけ発した有理沙に、有毅は笑みを深める。
「それは、隼に聞いた方が早いんじゃないかな。ねえ、隼」
有毅の目線に誘われるように有理沙が顔を向ければ、隼はやや気まずそうに頭をかいていた。しばらく渋る様子を見せたものの、隼は諦めたようにため息をついて有理沙の目を見た。
「今回のことで、有毅は神霊になったんだ。なりゆきで、そうするしかなかったんだけど。まあ、それで、神霊なら依代を用意してやれば、そこに降ろすことができるんじゃないかと思って、やってみたんだ」
「そういうこと。依代っていうのが、そのお守り。ほんと、隼ってすごいよね。ぼくはもうすっかり、だめだとばかり思ってたから、驚いたのなんの」
有理沙の手の中にあるお守りを示して、有毅が補足するように言う。隼は軽い調子で褒めちぎる有毅をちょっとねめつけるように見て、一度しまった椅子をまた引き出して座り直した。
「新しい依代を用意してやるってのは、元々約束してたしな。今はそんなのしかないけど、おれが宮司を継いだら、うちの祭神にでもしてやるよ」
「んー、それはいいかなぁ」
悪くないだろう提案を間延びした口調でしりぞけられ、隼は顔をしかめた。
「なんでだよ。うちみたいな小さい神社じゃ嫌だってのか」
「そうじゃなくてさ、神社の祭神になったら、有理沙以外の人のお願いも聞かないといけなくなるじゃん。ぼくは有理沙のお願いしか聞く気ないから、今のままの方がいいな」
隼は呆れ返って眉間を開いた。
「本っ当にシスコンだな。さすがにやばくないか?」
引き気味に隼は言うも、有毅はむしろ上機嫌に鼻を鳴らした。
「なんとでも。言っておくけど、隼にだって渡す気はないから」
ぐっと言葉に詰まるように隼は口の端を引き結び、頭を抱えるようにこめかみを押さえた。
「……おれは判断を誤ったか?」
自分を挟んで繰り広げられる応酬を聞きながらも、二人の会話内容は有理沙の思考にあまり入ってきていなかった。目の前に有毅がいるという事実だけが、有理沙の胸をいっぱいする。目を離したら消えてしまう気もして、有理沙は弟の顔をじっと見入った。彼は記憶にあるままの調子で話し、笑っているばかりで、そこに少しの揺らぎも見出すことはなかった。浮かせたままだった腰を脱力するように椅子におろすと、有理沙の感情は急に決壊して目からあふれ出た。
有理沙の涙に気づいた隼が、ぎょっと目を見張った。
「あーあ。隼が泣かした」
「どうしてそうなる」
有毅に突っ込みを入れる声にも、若干の焦りがにじむ。それがなんだかおかしくて、有理沙は目元を押さえながら少し笑ってしまった。
「よかった……有毅が戻ってきて、本当によかった……」
声に出すと、胸の内にこごっていた不安や寂しさが一気に溶け出すのが分った。代わりに喜びと多幸感とが流れ込み、体内が温かく満たされる。有理沙が何度も鼻をすすりながら袖に目元を押しつけていると、頭になにか被せられた。少し汗の匂いがする、スポーツタオルだった。タオル越しに、軽く頭をとんとんと撫でられる。
「あんまり泣くなよ。本当におれが泣かせたと思われるだろ。ほら、顔拭け」
隼の言葉に甘えて、有理沙はタオルの端を引き寄せて顔を拭った。
「汗臭い」
「そんなはずないだろ。それ使ってないやつだぞ」
「だって臭いもん。使ったやつと一緒に入れてたでしょ」
文句として言いながらも、有理沙はタオルに顔を埋めた。染みついた匂いは、妙に有理沙の心をほっとさせた。
「ありがとう。洗って返すね」
「いいって。どうせまとめて洗うから」
有理沙が畳もうとしたタオルを隼は素早くとり上げ、自身の鞄へと押し込んだ。
「先生がくる前に帰るぞ」
隼は立ち上がり、片手で椅子を戻しながらさっさと教室の出口へと向かう。有理沙は握ったままだったお守りを鞄の持ち手にくくりつけてから、隼の後を追いかけた。廊下に出たところで追いつき、彼の広い背中を強めに叩いて隣に並んだ。
「ねえ、この後ラーメン食べにいこうよ。おごるからさ」
はつらつと提案した有理沙を、隼は横目に見下ろした。
「お、珍しいな。どういう風の吹き回し」
「たまにはね。今乗っておかないと、二度とないかもよ」
へえ、と声を出しながら、隼は口の端を上げた。
「じゃあ、チャーシュー増量と替え玉な」
「なぬ。どんだけ食べる気あんた」
「ぼくは味玉」
横から割り込んだ声に、有理沙は勢い込んで振り向いた。
「有毅は食べないじゃん」
「気分だよ、気分。ぼくだって体を張ったんだから、仲間はずれは寂しいなぁ」
有毅は口を尖らせて、わざとらしくいじけてみせる。その表情が憎たらしく、有理沙は目をすがめた。
「この男共め。ひとの財布だと思って」
「ひとの財布だからだろ」
「そうそう」
男子二人の息が合っているのが腹立たしかったが、それさえも今の有理沙には愛おしく思われた。この時間が続くのであれば、ラーメンの一杯や二杯、安いものだ。
開き直って、有理沙はわめいた。
「ええい、ままよ! 好きなだけ食べやがれ!」
歯を見せて、隼は笑った。
「よっしゃ。じゃあ、荷物置いたら鳥居に集合な」
「あ、ちょっと待って」
隼が廊下を走り出し、有理沙は慌ててその後を追う。じゃれ合うように駆ける二人の背中を見詰めながら、有毅は満たされた心地で姿を消した。
西日差す学校の廊下を、少年少女たちは疾走する。彼らと共に駆けるように、お守りの白ウサギが小さく跳ねた。
かぐやの国のアリス 完
『かぐやの国のアリス』をお読みいただきありがとうございます。作者の入鹿なつです。
「幽霊や拝み屋が出てくるようなオカルティックホラーが書きたい!」と思って色々調べてたはずなんですが、生まれたのはこんな児童書と90年代少女漫画を合わせたようなファンタジーでした。おかしい。どうしてこうなった。
有毅と隼になんとなくその辺の名残だけありますね。
「ウサギ」といえば今ではペットとして人気がありますが、世界各地にウサギをモチーフとした物語や歌が多く伝承されていることを思うと、昔から人々に親しまれてきた動物であることがよく分かります。
古事記の「因幡の白ウサギ」しかり。
イソップ物語の「ウサギとカメ」しかり。
キリスト教にはイースターバニーとして行事に登場しますし、ギリシャ神話では狩猟好きの巨人オリオンがよく狩っていたとされて、星座のオリオン座の足元にはウサギ座があります。
この『かぐやの国のアリス』のオマージュ元である月のウサギの伝承も、インドのジャータカ神話に由来し、その後日本で「今昔物語集」に収められました。
中国の伝承では、月ウサギが臼で作っているのは不老不死の薬なんだそう。
これだけ太古から世界中で愛され、人間の創作欲を駆り立ててきた動物もなかなかいないかもしれません。
そして私も、例にもれずウサギに創作欲を刺激されたわけです。
そんなウサギの物語。
もし楽しんでいただけましたら、ほんの一言でもコメントをいただけますと大変うれしく思います。
気が向きましたら、別の作品でもお目にかかれましたら幸いです。
入鹿 なつ