隼が振り向く前に、衣兎は彼を押しのけるようにツクヨミに掻いついた。かなり無理をして炎をかいくぐってきたせいで、着物は元の色が判然としないほど煤にまみれ、長い髪は毛先が焦げて縮れている。あちこち痛んで怪我もしているだろうありさまではあったが、衣兎はなりふり構うことなくツクヨミに額を寄せた。


「ツクヨミ、無事ですか」


 ツクヨミがゆっくりと顔を上げた。衣兎は片腕で抱き込むように、夫の頭を引き寄せて頬を当てた。


「ツクヨミ、もう大丈夫です。わたくしは、ここにいます」

「衣兎……」


 ツクヨミは両腕を衣兎の背中へと伸ばし、少女の細い体をきつく抱き締めた。


「衣兎、わたしには衣兎が必要だ」


 請うような囁きに、衣兎は静かに頷く。


「分かっています。今のあなたを生み出したのは、わたくしなのですから」


 ツクヨミ、と彼に名づけたのは衣兎だ。名前によって彼は確たる姿を得て、力までも手に入れた。安易に神と同じ名を与えてしまったからなのだと、気づいた時には手遅れだった。雛が親鳥を追うように、ツクヨミは名づけ親である衣兎に執着し、強く求める。すべては衣兎が招いた。今更、逃れられるはずがなかった。

 なだめるようにツクヨミの後頭部を撫でた衣兎は首を巡らせ、背後に立つ隼少年を振り返った。むっつりと口を閉ざした少年は、ただ衣兎を見返すだけでなにも言わない。


「申しわけ、ありませんでした」


 衣兎が謝罪すると、隼は面食らったように目を見開いた。そういう表情をすると、大人びて見えた少年が年相応の印象になった。


「あなた方をずいぶんと苦しめてしまいました」

「別に、あんただけが悪いわけじゃないだろう」


 素っ気ない語調で隼が言い、衣兎は首をゆるく横に振った。


「ツクヨミの行いの原因は、すべてわたくしにあります」

「衣兎」


 名を呼んだのは、ツクヨミだった。衣兎は顔の向きを戻して、もう一度彼の頭に頬を寄せた。


「ツクヨミ、もうなにもしなくていいです。贈り物も、新しいウサギも、わたくしには必要ありません」

「しかしそれでは……」

「わたくしはただ、あなたにわたくしの言葉を聞いて欲しいのです」


 言い募ろうとしたツクヨミの言葉を、衣兎は強く撥ねのけた。


「あなたさえいれば、と言い切るにはわたくしは未熟かもしれません。わたくしは欲張りですから、そばにいるだけでは満足できないのです。もっとわたくしを見て、話を聞いて、わたくしを分かって欲しい。あなたを愛しているわたくしを、どうか信じて欲しいのです。そして、あなたのことをもっと理解したい」


 ツクヨミの手をとり、衣兎は片腕に抱えていた黒いウサギを慎重に渡して抱かせた。衣兎にうながされる形で腕の中に収まったウサギを、ツクヨミは戸惑いの眼差しで見下ろす。


「……ユウキ、か」


 衣兎はうなずき、ユウキを抱くツクヨミの腕に手を添えた。


「これは、あなたが望んだことですか?」


 問いかけに、ツクヨミの瞳が揺れた。彼の胸になにがよぎったかまでは見てとれなかったが、ユウキの焼け焦げた耳元を撫でる手つきには、いつもウサギたちに対する時と変わらぬ慈愛があった。それを答えと受けとって、衣兎はツクヨミの顔に落ちかかる髪をそっと掻き撫でた。


「もう二度と、誰かを傷つけることはしないでください。かわいそうな子を見るのは、もうたくさん。あなた自身も、傷ついてしまう」


 衣兎はもう一度後ろを振り返った。今度は隼のさらに後ろへ目をやる。大きな折り紙ウサギの背に乗るもう一人の少年を視界にとらえた。


「あなたにも、謝らなくてはいけません」


 確信を持って、衣兎は言った。言葉を交わす機会が今までなかったが、有理沙から話は聞いていたので姿を見てすぐに、もう一人の有毅だと分かった。どこか遠くを見るような危うげな眼差しに面影がある。友人と一緒にいるからか話し方に少々粗野さはあるが、発せられる声も間違いなく衣兎が聞き慣れたものだった。

 人の有毅は、衣兎の眼差しにちょっと肩をすくめた。


「ぼくに謝ることじゃない。もう、その体に未練はないし。かわいそうだとは思うけど、ぼくが戻らないと決めた以上は遅かれ早かれこうなったんだ。ぼくだって共犯みたいなものだ」


 元はと言えば有毅が分かれてしまった原因は衣兎とツクヨミにあるのに、彼はそれを責めなかった。衣兎は感謝を告げようとしたが、目線をはずされたことで彼が言葉を求めていないことが分かった。代わりに静かに微笑み、目蓋を伏せて黙礼をした。