有理沙は悲鳴すらあげることができなかった。真っ黒なウサギの体が降下していく映像が、妙にゆっくりして見えた。黒ウサギなどこんなところにいただろうかと、一瞬考える。音を立てて、黒いウサギが目の前の地面に落ちた。黒いのは毛並みではなく、焼け焦げた皮膚だった。ところどころ燃え残っている毛並みは、白い。毛皮の焼ける、不快な匂いがした。


「ユウキ――!」


 有理沙は夢中で衣兎の腕を振り払い、ユウキにとり縋った。


「やだよ、ユウキ。やだやだやだ!」


 触れたところからユウキの焼けた皮膚が崩れ、驚いて前脚を引っ込める。露出した真っ赤な傷はあまりに生々しかったが、有理沙は目を覆うことだけはできなかった。


「ユウキ、ユウキ! ユウキ、起きて、ねえ」


 ユウキをもっとしっかり押さえていれば、と自責の念が痛いほどに胸を圧する。しかしユウキが飛び出さなければ、雷は有理沙たちに落ちていたかもしれない。守ってくれたのだろうか、とも思えて、有理沙は気持ちの収拾がつかずにとり乱すしかできなかった。

 どんなに声をかけても、ユウキは少しも反応を返さない。その意味を受け入れたくなくて、有理沙はあふれた涙を拭いもせずに、弟の名前を呼び続けた。

 ユウキにとり縋る有理沙に、頭からなにかが被せられた。全身をすっぽり覆うそれは白い袿で、襟の隙間から見上げれば真正面に衣兎がいた。


「ごめんなさい、有理沙」


 なぜ急に衣兎が謝ったのか分からず、有理沙はただ見詰め返した。衣兎は有理沙の白い額を柔らかく撫でてから、両手を伸ばしてユウキを抱き上げた。


「やはり、わたくしは逃げてはいけなかったのです。そうすれば、こんなことにはならなかった……」


 動かないユウキを袖で包み込むように懐に抱き、衣兎は改めて有理沙と目を合わせた。


「わたくしはツクヨミのもとへいきます」


 衣兎の瞳が炎を映して輝くのを見て、有理沙は前脚を伸ばして衣兎の袖をつかんだ。


「でも衣兎様、帰りたいって」


 微笑むように、衣兎の目が細まった。


「わたくしは、長く月にい過ぎました。今、人の世に戻ってもわたくしの帰る場所はないでしょう。でも、有理沙は違います。だから、必ず帰って。それが、わたくしの希望です。……ごめんなさい、巻き込んでしまって。ツクヨミは、必ずわたくしが止めます」


 最後の言葉と共に、衣兎はユウキを抱えたまま、有理沙の前脚を振り払うように立ち上がった。


「待って、衣兎様!」


 慌てて呼び止めるも、衣兎はもうこちらを見ようとしない。駆け出した衣兎の背中は炎の合間へとすべり込み、またたく間にその影さえも見えなくなった。


「衣兎様!」


 追いかけようと立ち上がった途端、固く丸いものを踏みつけて有理沙は転んだ。痛みに顔をしかめながら恨めしく見やった足下にあったのは、卵に似た小さな子安貝だった。入っていた袋は落雷で燃え尽きてしまったのだろう。有理沙は体を起こして、子安貝を拾い上げた。つるりとした子安貝の表面に、亀裂が縦に一筋走っていた。

 胸元で子安貝を握りしめて、有理沙はもう一度立ち上がった。衣兎の袿を頭から被り直し、深呼吸をして炎の中へと飛び込んだ。

 吹きつける熱気で髭が焦げて縮れるのが分かった。それでも体は、衣兎がくれた火鼠の衣で守られている。


(希望は、まだ消えてない)


 そう信じて、有理沙は炎の中を突き進んだ。


 *☾


 高く飛び上がった折り紙ウサギを目がけて、閃光が走った。折り紙ウサギは風に乗るようにくるりと身を翻し、雷の直撃を避ける。真下で上がった炎をかろうじてかわし、折り紙ウサギは着地したその足を後ろに蹴り出してツクヨミとの距離を詰めた。

 隼はツクヨミの姿をしっかりと視界にとらえながら左手で体を支え、右手をスポーツバッグに差し入れた。


「掛けまくも(かしこ)伊邪那岐(いざなぎ)大神(おおかみ)筑紫(ちくし)日向(ひむか)(たちばな)小戸(おど)阿波岐原(あわきはら)に、(みそ)(はら)え給いし時に――」


 気持ちの高ぶりを押さえて、低く低く隼は唱える。折り紙ウサギは雷と炎を避けてせわしく方向転換を繰り返す。隼は振り落とされぬように動きによくよく気を張り、左手と両脚に力を入れながらも、祝詞(のりと)に意識を集中させる。


「――()()せる祓え()の大神たち、諸々の禍事(まがつこと)、罪、(けが)れあらんをば、祓え給い清め給えと(もう)すことを聞こし召せと、(かしこ)み恐みも白す」


 祝詞の終わり、バッグから右手を引き抜いた。


「有毅、飛べ!」


 折り紙ウサギが地面を蹴る。隼は右手に握り締めた切幣(きりぬさ)を頭上に向かって撒いた。降り注ぐ紙吹雪の中を、折り紙ウサギはくぐり抜ける。地面に届いた切幣で、ツクヨミがひるむように足を引くのが視野の端に見えた。雷の音が、一瞬遠のく。

 全身に切幣を浴びながら、隼はジャージのポケットに忍ばせていた(はさみ)を左手でつかみ出した。有毅の神札を造る時、筆箱から出てきた鋏だ。飛び上がった折り紙ウサギの高度が頂点を過ぎ降下を始めるのを見計らい、切幣を歪んだ紙箱ごとバッグから引っ張り出して投げた。腕を振った拍子に体勢が崩れ、折り紙ウサギの背から隼の体も投げ出される。

 紙箱が宙で回転し、一帯に切幣が巻き散らされる。雪片のごとく舞い散る切幣をツクヨミはもかわしきれず、(たもと)で顔を隠すように腕をかかげて身を低くした。

 隼は落下しながら鋏を右手に持ち替えて柄を握り、身をひねって大きく振りかぶった。

 落ちる速度に乗せて、鋏を振り下ろす。ガラスが割れるような甲高い音が響き渡り、ツクヨミの首飾りの緒が切れた。連なっていた珠が舞い飛ぶ。珠は水中で立ち上る泡のようにきらめきながら、さやかな音を立てて地面に散らばった。

 落下する隼の体が地面にぶつかる寸前、白い影が滑り込んですくい上げた。白い影は、有毅の折り紙ウサギだった。


「助かった」

「まったく、無茶するなぁ」


 有毅は呆れて言ったが、交わし合った笑みに安堵があった。

 ツクヨミが小さくうめくように喉を鳴らして膝をついた。珠の緒と一緒に髪を留めていた紐も切れたらしく、長い黒髪が肩から滑り落ちて表情を隠す。荒い息をつくツクヨミのすぐそばまで折り紙ウサギが歩み寄ったので、隼は反撃を警戒しながら慎重に地面へおりた。

 空はいまだ雲に覆われていたが、雷鳴はやんでいた。ツクヨミから発せられていた圧倒的な気配がしぼむようにかすんでいくのが隼にも分かる。

 隼が振り下ろした鋏は、ツクヨミには当たっていない。当てるつもりもなかった。刃物は元来、そこにあるだけで魔や穢れを祓うものだからだ。実を言えば小さな鋏の一振りで効果があったことに隼は内心かなり驚いていたが、顔には出さずにツクヨミの正面に立った。

 うなだれるツクヨミに、隼が声をかけようとした時だった。少女の叫ぶ声が響いた。


「ツクヨミ!」