隼にとって他人の男女トラブルほど、どうでもいいものはなかった。芸能ニュースの熱愛だ離婚だと騒ぎ立てる報道にさえ、まるで関心が持てない。だから、ツクヨミと奥方のいざこざに巻き込まれたのだと分かった時には、とにかく面倒臭い以外の感想が出てこなかった。

 それでも、自分より年下に見える少女が大の男に追い詰められ傷ついているのを目の前にしてしまっては、さすがに看過はできない。よせばいいのに、と自分で自分に思いながら、隼はツクヨミの前へと出ていた。


「奥さんに逃げられてブチ切れるとか、はたから見てると大分やばいぞ」

「うわぁ、はっきり言うなぁ」


 真後ろにいる有毅が間延びした声で言ったが、否定をしないということは同意見なのだろう。それで勢いづいた隼は、攻め手を緩めることなく続けた。


「奥さんが話を聞いてくれって言ってるんだから、聞くくらいしてやればいいのに。どうも別れ話ってわけでもなさそうだしさ。無視はさすがにかわいそうだろ」


 隼が言葉を重ねるほどに、ツクヨミの眉間の溝が深くなっていた。冷ややかだった美貌が、みるみる憤怒に歪んでいく。怒ると言うことは図星なのだろうと、隼は勝手に解釈した。ツクヨミと最初に会った時にはなにを考えているか分からない男だと思ったが、とるに足らない高校生を相手に本気で怒りをあらわにするあたり、根はかなり大人げないかもしれない。


「子供が分かったような口をきく。わたしといることを選んだのは衣兎だ。衣兎は、わたしのそばにいなくてはならない。わたし以上に、衣兎を幸せにできる者はいないのだから」


 鳴りやまぬ雷鳴と紛うほどに凄んだ声だった。しかし隼は怖じ気づくどころか、ツクヨミの脅しつけるようなやり方を笑い飛ばした。


「分かってないのはあんただろう。この勘違い束縛野郎」


 隼が言い終わるか終わらないかの内に、折り紙ウサギが飛びすさった。轟音と共に降り注いだ稲妻が地面をうがつ。ススキの原の真ん中に火柱が立ち上がった。


「あっぶね」

「隼が煽るからだって」


 呆れたように言う有毅を、隼は一瞬だけ横目に見た。


「だって事実だろう」

「そりゃ、言いたくなる気持ちは分かるけどさ」


 有理沙の真横まで下がった折り紙ウサギの背で有毅と早口にやりとりしながら、隼は体の前に回したスポーツバッグの中を探り、引っ張り出した紙切れを足下の有理沙に投げた。


「これ持って離れてろ」


 有理沙は慌てて両前脚を伸ばし、ひらひらと舞う紙片が地面につくぎりぎりで受け止めた。


「これって、お(ふだ)?」

「雷よけ。気休めにくらいなるだろ。危ないからちゃんと離れてろよ」


 困惑しているだろう有理沙を見もせず粗雑に言い渡して、隼は折り紙ウサギの背で体勢を作り直した。


「有毅、いけるな」


 隼の背中に向けて、有毅はちょっとため息をついた。


「オッケー。正直、火は勘弁して欲しいんだけど、まあなんとかかわすさ」


 ぼやきながらも、有毅の声音によどみはない。頼もしい幼馴染みに感謝するように、隼は折り紙ウサギの首元を撫でた。


「一気にいくぞ」


 隼の宣言と同時に、折り紙ウサギが強く地面を蹴った。


 *☾


 高く跳ねた折り紙ウサギの背中を見送った有理沙は、投げ渡されたお(ふだ)を小さく折り畳んで、首からさげている子安貝の巾着に押し込んだ。隼たちが前に出てくれたことで、恐れるばかりだった思考が冷静さをとり戻して働き出した感覚がする。二人のようにツクヨミに立ち向かえなくても、できることはあるはずだ。

 巾着の口をしっかり閉じてから素早く顔を上げ、有理沙はうずくまっている衣兎の肩を叩いた。


「衣兎様。すぐに離れましょう。急がないと、火に囲まれてしまいます」


 うなだれたまま衣兎は、顔に落ちかかる髪の隙間からのぞくように力なく有理沙を見た。


「有理沙、わたくしは……」

「ツクヨミ様は、隼がきっとなんとかしてくれます。ユウキを運ぶのを手伝ってください」


 打ちひしがれる衣兎に役割を頼むことでどうにか励まし、有理沙は横たわるユウキの肩の下に前脚を差し入れた。ユウキはいまだ、苦しげな呼吸を繰り返していた。


「ユウキ、しっかりして。絶対に助けるから、もうちょっと頑張って」


 有理沙は息を吸って、ユウキの上体を抱き起こした。自分と変わらぬ体格の者を抱きかかえるのはかなりの重労働だ。有理沙が唸り声をあげながら苦労していると、横から伸びてきた手がそっとユウキを抱き上げた。反射的に振り向いた有理沙に、衣兎が頷く。衣兎の顔にはまだ悲哀の色が濃かったが、すぐには立ち直れずとも少しでも動こうとする姿に、有理沙はほっとした。


「ありがとうございます」

「いいえ。早くいきましょう」


 衣兎はユウキを赤子のように慎重に抱いて立ち上がった。

 落雷による火は、有理沙たちをとり巻き始めていた。有理沙が前に立ち、両腕の塞がった衣兎のためにススキをかき分け進む。後ろを気にしてちらとだけ振り返ってみれば、青い顔をした衣兎の背後に細く揺れる炎が見え、さらにその向こうで跳ねる折り紙ウサギの姿も目についた。折り紙ウサギが跳ねるのに合わせて、雲に閃光が走る。轟く雷鳴に首をすくめるように、有理沙は顔を正面に戻した。

 視界を黒煙が覆い始めた。どうにか振り払おうとするが、表皮を撫でる熱風で火が間近まで迫っているのが分かる。熱さで髭が縮れそうだと有理沙が思った矢先、目の前に雷の柱が突き立った。衝撃と轟音で、体が後ろへとなぎ倒される。何度もまばたきして鼓膜や網膜が痛むのをどうにか押さえつけながら顔を上げると、進行方向のススキの原は火の海に変わっていた。


「有理沙、こちらへ!」


 呆然とする有理沙を、衣兎が強く抱き寄せた。紐を解いた白い袿の中へと、ユウキ共に抱き込まれる。


「衣兎様」

「大丈夫です」


 心配する有理沙の呼びかけを、衣兎は素早く遮った。


火鼠(ひねずみ)の毛が織り込まれた衣ですから、燃えることはありません」


 だから大丈夫だ、という衣兎の額から汗が落ちる。燃えないとは言っても、炎の熱は確実に衣の中を蝕んでいる。有理沙も、自身の耳が熱をもっているのが感じられた。

 また、近くに雷が落ちた。


「衣兎様っ」


 悲鳴のように叫んで、有理沙はユウキ越しに衣兎へしがみつき、衣兎も二羽のウサギを抱く腕をきつくした。


「大丈夫、大丈夫です。ツクヨミが、わたくしを殺すはずがないのですから、わたくしといれば大丈夫です」


 衣兎の声は有理沙たちを安心させようというだけでなく、自身に言い聞かせているようでもあった。火の勢いは増すばかりで、いつまた雷が落ちるかも分からない。炎に巻かれるのが先か、雷に打たれるのが先か。どちらにしても、危機に変わりはなかった。

 その時、有理沙と衣兎に挟まれる形になっていたユウキが身じろぎした。有理沙ははっとして、その肩を慎重に揺らした。


「ユウキ、気がついたの?」


 顔を覗き込むと、固く閉じられていたはずの目がうっすらと開いていた。ユウキが目覚めたことは喜ばしくはあっても、安堵できる状況ではない。今起きなくても、という複雑な感情も心の隅にありつつ、有理沙はユウキを強く抱くように身を寄せた。その有理沙の前脚を、ユウキが弱々しく押しのけた。有理沙と衣兎の間で手足をばたつかせてもがき、抜け出そうとしている。


「ユウキ、出ちゃだめ」


 有理沙は暴れるユウキを押さえつけたが、どこからその力が出ているのか、足掻く彼を止め切れない。衣兎も腕に力を込めるも、ユウキはそれさえも無心に身をひねって脚で押しやる。

 暴れるユウキを必死で押さえている内に、彼の前脚に子安貝の袋の緒が絡まった。首が締まるのが分かり有理沙が息を詰めた刹那、袋の緒が切れる。あ、と思った時には、ユウキは袋の緒を絡みつかせたまま有理沙と衣兎の腕からするりと抜け出した。


「ユウキ!」


 ユウキが衣兎の肩を蹴り、真上に高く飛び上がった。

 青白い稲妻が一筋、白ウサギの上に落ちた。