地を這うように轟く遠鳴りが聞こえて、有理沙の隣を歩いていた衣兎が立ち止まった。先行しかけた有理沙が慌てて足を止めて振り向けば、衣兎は強張った顔を後方に向けていた。見開かれたその視線の先へ、有理沙もつられるように目をやる。
後方の空に、高く伸びあがる灰色の雲があった。渦巻くようなうねりの間を青白い閃光が走り抜ける。光からわずかな間を置いて雷鳴が有理沙たちのところまで届き、鼓膜だけでなく全身の毛までびりびりと震わせた。痺れるようなその鳴動に、有理沙は不快さから髭を揺すった。
衣兎の案内で、有理沙たちは輝夜殿を抜け出してきた。これまでにも衣兎はツクヨミの留守中にこっそり出かけたことはあったそうで、身支度さえできれば抜け出すこと自体は案外やさしかった。そういった事情から意外にも衣兎は裏道をよく知っていたが、逃げ出せたら、と考えたことはあっても、本当に逃げ出そうと決意して輝夜殿を出るのは初めてに違いなかった。
白い袿の裾を短くからって胸に懸帯をした衣兎の後ろをいきながら、実のところ有理沙は、逃走を持ちかけた責任として先を歩きたいと思っていた。とは言っても月の国にきて間がないゆえに致命的に土地勘がない。どうしても、衣兎に頼らざるをえなかった。顔見知りのウサギと出くわしても、衣兎が先を急いでいると言えば善良なウサギたちは誰もがなにも疑わずに道をあけてくれた。
そうして大きな問題もなく都を出た一人と一羽の少女たちは、話し合った上でまずススキの原を目指した。隼の居場所はまるで分からなかったが、人の世から月にきた者が最初に降り立つ場所ならば手がかりがあるかもしれない。それに衣兎の話によれば、なんらかの行事がある時以外はススキの原にいく者は少ないから身を隠しやすいだろうとのことだった。
雷鳴が聞こえたのは、大通りを避けて田畑をぐるりと回り込むように畦道を歩み、進行方向に銀のススキの斜面が見えてきた時だった。
「ツクヨミが気づいた……」
白い袿を被った肩を悲痛に震わせて衣兎は呟き、縋るものを求めるように有理沙の方へ手を伸ばした。動揺から空を掻く指先を有理沙がつかまえてやれば、少女は小さな白ウサギにしがみつこうとするように草むらに膝をついた。握った手から怯えが伝わってきて、有理沙はなだめるように前脚で衣兎の前髪に触れた。
「落ち着いてください。まだ、なにも起きていません」
今にも泣きそうに、衣兎は有理沙を見下ろした。
「ですが、あれはツクヨミの雷です。ツクヨミが、わたくしを探している」
「衣兎様」
有理沙はできるだけ優しく呼んでやりながら、衣兎の手を握る力を少しだけ強めた。
「人の世に帰るんでしょう? ここで立ち止まったらすぐにつかまってしまいます。早く、隼たちを見つけないと」
「……そうですね」
衣兎の声音はまだまだ怯えをはらんでいたが、有理沙の励ましでゆるゆると立ち直した。
少女たちは手をとり合い、四季の入りまじる田畑の間を懸命に進んだ。その間も、彼女たちの意気地を折ろうとするように、背後では雷鳴が絶えず鳴り渡っていた。できるだけ振り返らないようにしながら畦道を抜け、ススキの斜面を踏みしめるようにのぼる。
ひと際大きな雷鳴が空気を走り抜けた。その他一切の音がその一瞬に掻き消え、少女たちは悲鳴を上げて互いにとり縋った。のぼり切った斜面の上から恐る恐る振り返れば、遠く見えている灰色の雲が赤く照り映えていた。真っ黒な空の中で鮮やかに雲を染め上げている赤の正体に、衣兎が先に気づいた。
「都がっ!」
衣兎の叫びで、有理沙もようやくなにが起きているか理解した。
「そんな……!」
都が燃えている。距離があるので都のどこが燃えているかまでは見えないが、雲が赤く染まるほどの炎があがっているのだ。ただの火事であるはずがなかった。
赤い雲は筋を描く稲妻を纏い、吠えるように轟音をあげ続けている。雲から地上へ閃光が走るたび炎の赤が濃さを増して、雷鳴の振動が有理沙たちのところまで打ち寄せた。
膝から崩れるように衣兎が地面に座り込み、有理沙は慌ててその体を支えた。
「ツクヨミ、なんてことを……ウサギたちまで巻き込むなんて」
「こんなの、ひどい……」
それ以上の言葉が、有理沙は見つからなかった。
少なくとも有理沙が見てきたツクヨミは、ウサギたちによく気を配り、可愛がっているように見えた。だから衣兎を連れ出すことで怒りを買ったとしても、それほど悪い事態にはならないのではと思っていた。
しかしそれはあまりに楽観的に過ぎたらしい。ツクヨミはかつてススキの原を焼き払ったように、そこに暮らすウサギたちもろとも都を焼き尽くそうとしている。ツクヨミにとって衣兎以外の命はどうでもいいのだと、話だけでは分かっていなかったことを思い知らされた気がした。
衣兎が、真正面から有理沙の両肩をつかんだ。
「有理沙、戻りましょう。このままでは、ウサギたちが……」
「でも、それだと衣兎様が」
衣兎を帰していいのか、有理沙は迷った。確かに衣兎さえ戻れば、おそらくツクヨミの怒りは収められるだろう。しかし、衣兎自身はどうなる。正気を失うほどの執着を見せる相手だ。本当に二度と逃げ出せぬよう、厳重に閉じ込めるくらいのことはするかもしれない。それだけはさせてはいけないと、有理沙は必死で考えを巡らせた。
その時だった。すぐそばで少年の声がしたのは。
「有理沙、帰らないの?」
後方の空に、高く伸びあがる灰色の雲があった。渦巻くようなうねりの間を青白い閃光が走り抜ける。光からわずかな間を置いて雷鳴が有理沙たちのところまで届き、鼓膜だけでなく全身の毛までびりびりと震わせた。痺れるようなその鳴動に、有理沙は不快さから髭を揺すった。
衣兎の案内で、有理沙たちは輝夜殿を抜け出してきた。これまでにも衣兎はツクヨミの留守中にこっそり出かけたことはあったそうで、身支度さえできれば抜け出すこと自体は案外やさしかった。そういった事情から意外にも衣兎は裏道をよく知っていたが、逃げ出せたら、と考えたことはあっても、本当に逃げ出そうと決意して輝夜殿を出るのは初めてに違いなかった。
白い袿の裾を短くからって胸に懸帯をした衣兎の後ろをいきながら、実のところ有理沙は、逃走を持ちかけた責任として先を歩きたいと思っていた。とは言っても月の国にきて間がないゆえに致命的に土地勘がない。どうしても、衣兎に頼らざるをえなかった。顔見知りのウサギと出くわしても、衣兎が先を急いでいると言えば善良なウサギたちは誰もがなにも疑わずに道をあけてくれた。
そうして大きな問題もなく都を出た一人と一羽の少女たちは、話し合った上でまずススキの原を目指した。隼の居場所はまるで分からなかったが、人の世から月にきた者が最初に降り立つ場所ならば手がかりがあるかもしれない。それに衣兎の話によれば、なんらかの行事がある時以外はススキの原にいく者は少ないから身を隠しやすいだろうとのことだった。
雷鳴が聞こえたのは、大通りを避けて田畑をぐるりと回り込むように畦道を歩み、進行方向に銀のススキの斜面が見えてきた時だった。
「ツクヨミが気づいた……」
白い袿を被った肩を悲痛に震わせて衣兎は呟き、縋るものを求めるように有理沙の方へ手を伸ばした。動揺から空を掻く指先を有理沙がつかまえてやれば、少女は小さな白ウサギにしがみつこうとするように草むらに膝をついた。握った手から怯えが伝わってきて、有理沙はなだめるように前脚で衣兎の前髪に触れた。
「落ち着いてください。まだ、なにも起きていません」
今にも泣きそうに、衣兎は有理沙を見下ろした。
「ですが、あれはツクヨミの雷です。ツクヨミが、わたくしを探している」
「衣兎様」
有理沙はできるだけ優しく呼んでやりながら、衣兎の手を握る力を少しだけ強めた。
「人の世に帰るんでしょう? ここで立ち止まったらすぐにつかまってしまいます。早く、隼たちを見つけないと」
「……そうですね」
衣兎の声音はまだまだ怯えをはらんでいたが、有理沙の励ましでゆるゆると立ち直した。
少女たちは手をとり合い、四季の入りまじる田畑の間を懸命に進んだ。その間も、彼女たちの意気地を折ろうとするように、背後では雷鳴が絶えず鳴り渡っていた。できるだけ振り返らないようにしながら畦道を抜け、ススキの斜面を踏みしめるようにのぼる。
ひと際大きな雷鳴が空気を走り抜けた。その他一切の音がその一瞬に掻き消え、少女たちは悲鳴を上げて互いにとり縋った。のぼり切った斜面の上から恐る恐る振り返れば、遠く見えている灰色の雲が赤く照り映えていた。真っ黒な空の中で鮮やかに雲を染め上げている赤の正体に、衣兎が先に気づいた。
「都がっ!」
衣兎の叫びで、有理沙もようやくなにが起きているか理解した。
「そんな……!」
都が燃えている。距離があるので都のどこが燃えているかまでは見えないが、雲が赤く染まるほどの炎があがっているのだ。ただの火事であるはずがなかった。
赤い雲は筋を描く稲妻を纏い、吠えるように轟音をあげ続けている。雲から地上へ閃光が走るたび炎の赤が濃さを増して、雷鳴の振動が有理沙たちのところまで打ち寄せた。
膝から崩れるように衣兎が地面に座り込み、有理沙は慌ててその体を支えた。
「ツクヨミ、なんてことを……ウサギたちまで巻き込むなんて」
「こんなの、ひどい……」
それ以上の言葉が、有理沙は見つからなかった。
少なくとも有理沙が見てきたツクヨミは、ウサギたちによく気を配り、可愛がっているように見えた。だから衣兎を連れ出すことで怒りを買ったとしても、それほど悪い事態にはならないのではと思っていた。
しかしそれはあまりに楽観的に過ぎたらしい。ツクヨミはかつてススキの原を焼き払ったように、そこに暮らすウサギたちもろとも都を焼き尽くそうとしている。ツクヨミにとって衣兎以外の命はどうでもいいのだと、話だけでは分かっていなかったことを思い知らされた気がした。
衣兎が、真正面から有理沙の両肩をつかんだ。
「有理沙、戻りましょう。このままでは、ウサギたちが……」
「でも、それだと衣兎様が」
衣兎を帰していいのか、有理沙は迷った。確かに衣兎さえ戻れば、おそらくツクヨミの怒りは収められるだろう。しかし、衣兎自身はどうなる。正気を失うほどの執着を見せる相手だ。本当に二度と逃げ出せぬよう、厳重に閉じ込めるくらいのことはするかもしれない。それだけはさせてはいけないと、有理沙は必死で考えを巡らせた。
その時だった。すぐそばで少年の声がしたのは。
「有理沙、帰らないの?」