緩やかに引っ張り上げられるような感覚を覚え、有毅は薄く目を開いた。最初に視界に入ったのは、光を吸い尽くすほど黒い空と、それを縁どって揺れるススキの花穂。ススキで切りとられた黒の真ん中で、大きく丸い瑠璃色の星がくっきりとその姿を主張している。それで、ここが月であり、自分がススキの原に仰向けで寝ているのだということを、有毅は認識した。

 有毅は寝ころんだまま、顔の前に右手の平をかざした。少年の白い手が、確かな輪郭を持ってそこにあった。


「……消えてない」


 確かに自分は、消滅に抗いはした。しかし途中から意識はほとんど失われ、そのまま消えるしかないところまでいったように思われた。それがなぜ、消えることなく意識をとり戻すことができたのだろう。

 消滅をまぬがれただろうことに実感がないまま、有毅は左右へ首を巡らせる。右へと顔を向けた時、触れられるほど間近に隼の顔があり、有毅は目を大きくした。

 隼は地面にうつ伏せ、寝息をたてていた。日焼けした頬が、さらに黒く汚れている。泥がついているのかと思ったが、よく見れば墨汁であるようだ。枕にしている指先も、墨で黒く染まっていた。

 隼を起こさぬよう、有毅はゆっくりと腕をついて起き上がった。体の下の草は、かさりとも音をたてない。すっかりそういうものとして馴染んでいたので、完全に体を起こしたところで葉擦れのような音を聞きつけて、有毅はかえって驚いた。

 音の正体を求めて見やれば、体の横に細長い和紙が落ちていた。どうやらこれが有毅の胸か腹に乗っていて、体を起こした拍子に落下したらしい。

 何度もぐしゃぐしゃに丸めたのではと思えるほど皺になり、泥までついた和紙を拾い上げてみれば、殴り書いたようにひどく荒れた筆文字が並んでいた。それは、「吉野有毅比古命《よしのゆうきひこのみこと》」と、読むことができた。

 ちょっと息を吸って、有毅はかたわらの隼にちらと目を向けた。


(また隼に助けられた、かな)


 有毅は左手に和紙を持ったまま、右手を伸ばして隼の肩に触れた。軽く肩を叩いてはみるが、感触が伝わらないだろうことは分かっているので、顔を寄せて呼びかける。


「隼、隼」


 幼馴染みはなかなか目を開かない。有毅は少々焦れて、耳に口を寄せて声を大きくした。


「隼、起きて」

「ん……」


 ようやく唸る声を出して、隼は体を丸めるように身じろぎした。隼がうっすら目を開いて少しだけ頭を上げたので、有毅は体を低くして顔を覗き込んだ。


「……有毅?」

「うん。おはよう、隼」


 隼は視点のぼんやりした表情で、有毅の顔を見詰めて何度か目をしばたかせた。その瞳がゆっくり焦点を結ぶ。途端に、隼は勢いよく起き上がった。そして、ぎょっとして身をそらせた有毅の肩を、強くつかんだ。


「有毅!」


 叫ぶように呼び、肩と言わず頬と言わず、有毅のあちこちに触れた。


「消えてないな。どこもなんともないな」


 言いながら確かめるように、触れ、つかみ、撫で回す。力強い隼の腕に揉みくちゃにされ、有毅はじたばたした。どうにか腕を突っ張って、隼を引き離す。


「大丈夫、消えてない。消えてないから」


 有毅は隼の目を見て強く言った。見開かれた隼の目が、間近にじっと見詰め返してくる。これで大丈夫なことが伝わったろうと有毅が思った矢先、今度は飛びかかるように抱きつかれた。


「ちょっ、隼」

「よかった!」


 のけぞる有毅の耳元で、隼が叫ぶように言う。


「本当によかった。おれ、もう駄目なんじゃないかとばっかり」


 感極まって、隼の声は震えていた。抱きしめられる腕の力が強まり、有毅は居心地悪くちょっと顔をしかめる。抜け出すのは簡単ではあるが、隼がこれで安心するのであればと、有毅はひとまずそのままでいることにした。


「隼、ぼくになにかした?」


 有毅は抱きつかれたまま、隼の肩口で問うてみた。考えるような間があって、隼の腕が緩んだ。体を離した隼が地べたに胡坐をかいたので、有毅も向き合う位置に座り直した。

 話す体勢を作ったところで隼がすぐに話し始めるかと思いきや、言葉に悩む様子で口元を歪めて唸った。有毅は軽くため息をついて、問い直した。


「隼、ぼくになにをしたの? これはなに?」


 左手に持ったままのぐしゃぐしゃな和紙を、隼に差し出して見せる。筆文字で有毅の名前の書かれたそれを見やって、隼は観念したように口を開いた。


「有毅を祭った」