ウサギの群れに紛れるように、ユウキは目抜き通りの中央を歩いていた。留守番をすると有理沙に宣言はしたが、やはり気になって出かけてきてしまった。それでも一応はそれなりの時間を家で待ってはいたのだ。そろそろ衣兎との話が終わっていてもおかしくはないだろうし、迎えにいくという名目でなら輝夜殿の前までいっても構わないだろう。姉離れができないのかと、また有理沙に呆れられてしまうかもしれないけれど、ユウキにとっては気にするほどのことでもなかった。

 ユウキが有理沙と暮らした記憶は、彼女が月の都にやってくる以前には存在していない。それでも不思議とずっと、自分に双子の姉がいることはユウキの意識にあり続けていたし、自分とよく似た白ウサギを見て間違いなく有理沙だと思った。彼女がきて以来、都での暮らしで少なからず感じていた居心地の悪さがなくなり、ごく自然に会話を楽しめるようになっている。だからユウキは、他のウサギたちのように陽気になりきれなかったのは、姉が隣にいなかったからなのだと理解した。

 体の大きなウサギが前からきて、ユウキは柳の幹に身を寄せるように道を譲った。大きなウサギは笑って小さく会釈し、通り過ぎていく。気にする必要はないと言う代わりに会釈を返して、ユウキは歩行を再開した。

 月の国のウサギたちは総じて善良だ。誰も威張らないし、意地悪するような者もいない。すべてはツクヨミのお陰だ。ときおり新たに連れてこられるウサギが必ず善良であることはもちろんのこと、すべてのウサギが善良であれるように、ツクヨミは分け隔てなく心を砕いてくれている。そしてそれがすべて、奥方の衣兎のために行なわれていることも、ウサギたちはよく分かっていた。

 ふとユウキは、向かう先に白ウサギが立っているのに気づいた。柳並木を見上げている姿は姉に間違いない。いき違いにならずに会えたことにほっとして、ユウキは姉に声をかけようと右前脚を上げた。

 ところが、ユウキが声を出す前に、有理沙がこちらに背中を向けてしまった。姉はそのまま道を引き返すように駆け出し、置いていかれる形になったユウキは足を止めた。

 白ウサギの背中が遠ざかり、その他多くのウサギの合間へと消えていく。その光景に、ユウキはざらついた胸騒ぎを覚えた。脳裏をよぎるのは、輝夜殿に現れたもう一人の自分。

 姿が違っても、あれもまた自分の姿の一つであると、ユウキは見た瞬間に分かった。そして、有理沙を奪うものであることも確信した。だから決して、あれを近づけさせてはいけない。

 ユウキは髭を震わせると、有理沙を完全に見失う前に、その背中を追い駆けた。


 *☾


 全力疾走で輝夜殿まで引き返した有理沙は、案内を待つことなく黄金色の庭木の間を駆け抜けた。築地塀にそって大きく建物を回り込み、正面の池へと引かれた川を飛び越える。下仕えのウサギたちの目を避けて目指すのは、奥の対屋のある裏庭。

 裏庭から見た対屋(はなれ)は先ほど有理沙がいたときのまま、御簾が巻き上げられて室内まで見渡すことができた。有理沙が使った湯呑や円座は片づけられているようだったが、衣兎はまだ(えんがわ)に座り、物思いにふける様子で庭を眺めていた。

 有理沙が木の陰から進み出ると、白砂を踏む足音に気づいた衣兎が振り向いた。


「有理沙?」


 意外そうに呼びかけた衣兎に有理沙は頷いて、早足に歩み寄った。衣兎は立ち上がって有理沙を出迎え、庭へと降りる階まで進み出る。


「どうしましたか? なにか忘れものですか?」


 有理沙は首を横に振り、階をあがって衣兎の前に立った。


「いいえ。衣兎様と、どうしてもお話ししたいことがあって」


 有理沙の固い声に衣兎はびっくりした顔をして、視線を左右に巡らせた。


「では、改めて白湯でも用意させて……」

「大丈夫です。必要ありません。すぐに済むので」


 有理沙は失礼を自覚しながら衣兎の言葉を遮り、戸惑う黒い瞳を真っ直ぐに見上げた。


「衣兎様。衣兎様は、人の世に帰りたいんですよね」


 衣兎の目が見開かれ、瞳が大きく揺らいだ。


「それは……」

「あたしは、ツクヨミ様から逃れる希望なんですよね。それって、ツクヨミ様から逃げたいってことでしょう?」


 有理沙が迫るように畳みかければ、衣兎は怯えたように後ずさった。


「そうです。そうですが、でもそれは……」

「今なら逃げられるかもしれません」


 衣兎が息をのむのが聞こえた。今にも逃げ出しそうな少女の手を、有理沙は両前脚でつかんだ。


「隼が――あたしの友達が、まだ近くにいるはずです。それに、有毅も」

「ユウキ?」


 衣兎が問い返し、有理沙は手を握る前脚に力を込めて頷いた。


「どうして有毅と隼が一緒にいたのかはあたしにも分からないけど、二人が一緒にいることに、意味があると思うんです。人の世から有毅が消えた時、隼もそこにいたから。だからあたしは、これから二人を探します。二人と会うことができれば、帰る方法が分かる気がするんです」


 まくし立てる有理沙の言葉を、衣兎はじっと見詰める眼差しで聞き入っていた。有理沙は言葉と一緒に吐き切った息を、改めて吸い込んで続けた。


「あたしは、隼たちを見つけて人の世に帰ります。だからこれだけ、衣兎様に聞きにきました――衣兎様は、人の世に帰りたいですか?」


 衣兎は瞳の震えさえ止めて有理沙を凝視した。そこに映る感情を見逃すまいと、有理沙も正面から衣兎の目を見返す。

 刹那の沈黙。それは、少女の決意をうながすのに必要な間だった。

 有理沙の前脚を、衣兎の手が握り返した。見詰める少女の眼差しが力を帯びる。


「――帰りたいです」


 迷いを断ち切るように衣兎は言い、有理沙は頷く代わりに笑みを返して少女の手を引いた。