――彼の最初の記憶は、暗闇だった。

 音もなく、風もなく。近くに自分以外の誰かがいるのかも分からず、自身の姿すら闇に埋もれて判然としなかった。ただ一つ、仰ぎ見た頭上に青く大きな丸い星だけが見えていた。

 綺麗だ、と彼は思った。あれが欲しい、と彼は願った。

 願った途端、彼の体は青い星を目指して真っ直ぐに飛び上がっていた。

 星は、彼の手に収まるものではなかった。けれど降り立ったその場所は、やはり美しかった。視界は暗くはあったが完全な闇ではなく、淡く青い光で満ちていた。光の正体を求めて顔を上げれば、深い群青の空に、今にも落ちてきそうなほどたくさんの輝きが散らばっている。その中心にぽっかりと浮かぶ、丸く青白い月があった。一帯を浸す光はそこから降っていた。同時に、自分はあそこからきたのだ、と直感的に理解した。

 足元には白い砂が敷き詰められていた。青い闇の中でなお明るく見える白砂は、足裏で踏みしめればざくざくと音をたてた。

 数歩先には池があった。丸く刈り込まれた低木に囲われた池は、少しの波もなく頭上の月を鏡面のように映し、そこにもう一つの空があるようだった。

 風が吹き、水鏡の月が花散るように乱れた。池のそばにたたずむ柳が枝をなびかせる。草の匂いをはらんだ風の冷たさが心地よく、彼はうっとりと目を細めた。

 不意に声がした。


「そこにいるのは誰ですか」


 振り返ると背後には建物があった。建物は首を巡らせねば全容が見えぬほど大きく、黒い影となって白砂の上にうずくまっていた。

 闇に沈む建物中央の階の上に、ぽつんとだけ鮮やかな色彩がある。それは花弁のように無数の衣を重ねて着た少女だった。一番上に重ねられた茜色は、薄闇の中でも褪せることなく彼の目を引きつけた。


「誰なのですか」


 先ほど聞こえたのと同じ声で、少女は言った。

 彼は答える言葉を持っていなかったので黙っていると、少女はこちらをよく見ようとするように首を傾けた。動きに合わせて、ごく淡い月光を浴びた少女の黒髪が艶めき流れる筋を描く。まるで澄んだ清流のようだと思って彼がそれを見詰めていると、少女はほの白い容貌を困ったように少しだけ歪めた。


「屋敷の者ではありませんね」


 やはり彼は答えられなかった。少女はさらに考え込む様子で、小さな口元に手を当てた。


「お名前は、なんとおっしゃるのですか」


 これにも彼は答えられない。じっと黙りこくるばかりの彼に、少女は数度首をひねって小さく唸り、さらに問いを重ねた。


「どちらから、いらしたのですか」


 黙ったまま彼は腕を持ち上げ、頭上で青白い光を撒いている月を指差した。彼の示す先を見た少女が、やや目を大きくした。


「月?」


 呟いて、少女は彼と月を見比べるように瞳を動かした。


「月から、いらしたのですか?」


 ゆっくりと、彼は頷いた。少女はしばらく不思議そうに彼を見詰めていたが、やがてなにか思いついたように眉を開いた。


「ツクヨミ様ですか?」


 今度は彼が驚く番だった。少女の言葉の意味は分からなかったが、なぜか自分の内側をなにかでくすぐられたような気がした。初めての感覚に彼が呆然と立ち尽くしていると、少女はごく淡く笑んだ。


「月の神様のお名前です。もし違うのだとしても、月からいらしたのでしょう? 呼び名がないのは不便ですから、あなたが本当のお名前を教えてくださるまでは、ツクヨミ様とお呼びすることにします」


「ツクヨミ……」


 この時初めて、彼は声を発した。声を発せられることに気づいた、と言う方が正しいかもしれない。


「ツクヨミ……わたしが?」


 慣れぬ発声でか細く反復する彼に、少女は笑みを深めた。


「はい。あなたは、ツクヨミです」


 呼ばれた瞬間、温かな熱が体内を駆け巡った。闇に解け消えそうなほど朧げだった自身の体が、輪郭を得ていくのを感じる。視線を落とせばすらりと指の長い手がはっきりと見え、その手で顔に触れればくっきりとした目鼻があるのが分かった。手の甲を、風に煽られた髪がなぶった。

 少女はびっくりした表情で彼の変化を見詰めていたがやがて花開くように笑った。


「本当に、月の神様のようですね」


 しみじみと言った少女に、彼は自然と笑みを返した。


 *☾


 ふと意識が引き戻され、ツクヨミは目を開いた。天井の木目が視界を埋め、自分が眠っていたことに気づく。心とらわれたように、ツクヨミはぼんやりと天井を見詰めた。

 ずいぶんと古い記憶の夢を見ていたらしい。眠る前に、衣兎(いと)と人の話をしたからかもしれない。

 肌に触れる温もりを感じて、ツクヨミは顔をかたわらへと向けた。ツクヨミの肩に、衣兎が白い頬をぴたりと寄せて眠っていた。あどけない妻の寝顔を間近に見て、つい口元が緩む。衣兎が眠っているのとは反対側の腕を伸ばして、ツクヨミは妻の黒髪をすき、白い頬を撫で、色づく唇に触れた。

 いく度肌を重ねても、そっとしなければ壊しそうな気がしてしまう。それほどに、少女の肌はどこに触れても柔らかくきめ細かい。それでも、ツクヨミは衣兎を欲さずにはおれなかった。

 小さな唇を、指先で優しくなぞった。その唇が、初めて彼の名を紡いだ日を思い出す。

 ツクヨミ。そう名づけられた瞬間、何者でもなかった彼は今の姿と力を得た。なぜそうなったかはツクヨミにも分からなかったが、彼が欲せばなんでも手に入るようになった。そして、衣兎も手に入れた。


「……衣兎」


 吐息と共に囁いてみたが、衣兎の眠りは深く目覚めない。ツクヨミは唇に触れていた手をさらに伸ばして、妻の体を抱き寄せた。

 欲してやまない少女は確かにこの手の中にある。にもかかわらず、淡い不安が常に胸に巣くっている。だから、衣兎にあらゆるものを与え続けてきた。彼女の意識が、外へと向かぬように。

 人が近くにいては、かつて人の世にいた衣兎は懐かしさから興味を持つだろう。


(これ以上、近づかせはしない……)


 ツクヨミは衣兎のこめかみに口づけて腕を緩めた。少女を起こさぬよう慎重に身を離し、そろそろと寝床からも抜け出る。着物を整えたツクヨミは、惜しむように衣兎の顔を眺めてから、音をたてぬように(へや)を出た。