かぐやの国のアリス

 門の内側のあきれ果てるほどの豪奢さに、隼はだらしなく開きそうになった口を慌てて閉じた。庭に立ち並ぶ金色の木々は作りもののように見えるが、風にしなる枝の動きは妙にリアルだ。

 もの珍しさについ目を奪われそうになるが、あまりきょろきょろしては舐められる気がして、隼は斜め前を先導するツクヨミの背中を見続ける。

 金の木立を抜け、池にかかる橋を渡って辿り着いた屋敷の建物は、都の家々と違って人に合った大きさがあった。ツクヨミが人の姿をしているのだから当然といえば当然だ。ただ、そうして見たとしても、丹塗りの柱が目を引く屋敷は、隼の生家である月乃浦神社の社殿よりずっと広大であることは、歴然としていた。

 寝殿(おもや)には、すでに食事の支度がされていた。板の間に敷かれた緋色の敷物の上に、お膳が二客置かれている。朱塗りの椀はまだすべて蓋がされていたが、できたての料理独特の温かな香りが立ちのぼっていた。


「さあ、そちらへ」


 ツクヨミがお膳の一方を示した。隼はそれには従わず、立ったままツクヨミをにらみ据えた。隼の強固な姿勢を見てとって、ツクヨミは息を漏らすように笑い、たいそう婉麗(えんれい)な動作でお膳の前に胡坐をかいた。

 誘うような流し目を向けられ、その雅やかさが妙に癇に触る。芽生えた対抗心から、隼は持ちうる最大限の上品さで、ツクヨミの向かいの膳についた。

 肩からはずしたスポーツバッグを隼が横に置くと、二人の着席を待ち構えていたように、奥の(ふすま)から数羽のウサギが出てきた。静々と進み出てきたウサギたちはお膳に乗った椀の蓋を丁寧に開いていく。餅の入った汁ものに、色鮮やかな香のもの。里芋の煮っころがしには胡麻入りの味噌がかかっている。


「召し上がれ。飲み交わしながらゆっくり話そう」


 ツクヨミが親しげに言い、そばにやってきたウサギが隼に盃を差し出した。一足先にツクヨミは盃を傾け、唇を湿らせている。隼はここまでくるまでにかなり喉が乾いていたが、出されたものを口にするわけにもいかず盃を断った。そうでなくても、高校生の身で酒類と思しきものを飲むわけにはいかない。

 隼はつばを飲み込んで喉の渇きと空腹を誤魔化しながら、膝の上で拳を握った。一方でツクヨミはウサギに脇息を持ってこさせ、体を斜めにしてごくくつろいだ様子で盃を空ける。


「それで、なんの用だったかな。(なれ)は、わたしに会いにきたのだろう」


 やおら、ツクヨミから切り出した。隼は握った手の平が汗ばむのを意識しながら、一語ずつはっきりと声にした。


「有理沙がここにいるって聞いた」


 ツクヨミの涼しい目元が素早く細まった。


「なるほど。それで?」

「有理沙を返してくれ」


 力を込めたあまり、隼の声は震えた。ツクヨミが、ほのかに笑った。けれどそれ以上の反応はせず、二杯目の盃を空け、なにごともないように里芋へと箸を伸ばす。


(なれ)も、冷めない内に食べなさい。とてもよい味だ」


 品よく、それでいて幸福そうにツクヨミは里芋を頬張り、隼は眼差しと声をさらに尖らせた。


「いい大人がはぐらかすな。有理沙を返せ」


 いら立ちを隠さない隼に、ツクヨミはため息のようなものをついた。


「落ち着きなさい。有理沙は確かにここにいる。だからこそ焦らずともよい。餅の数は足りるか。(なれ)のような育ち盛りの若者ならば、さぞたくさん食べるだろう」


 だんっ、と。隼は拳で床を叩いた。


「ここのものは食べない。そっちの作戦は知ってるんだ。早く有理沙を返せ。有理沙はどこにいるんだ」


 咀嚼したものを飲み込んだツクヨミは、なお余裕ありげに脇息に頬杖をついた。


「わたしを知っていたことといい、どうやら(なれ)になにか吹き込んだ者がいるらしい。人の世に知り合いはもういないと思っていたが、果たして――」

「ぼくが教えた」


 ツクヨミの言葉にかぶせて言う声があった。声の近さに驚いて隼が真横を見れば、並ぶ位置に有毅が正座していた。着ている制服の折り目が、姿を消した時よりも整っている気がする。


「出てくるならもっと早く出てこいよ」

「ごめん、ごめん。心の準備に時間がかかって」


 有毅はあっさりした声音で返し、隼は怪しんで目をすがめた。こうして軽口を交わしながらも、有毅は視線を正面からそらしはしなかった。声振りはともかく、緊張しているのは確かなのかもしれない。

 隼も改めて正面へ目線を戻すと、ツクヨミは相変わらずゆったりと脇息に身を預けていた。だがその眼差しは、推し量るような色で有毅へと注がれていた。

 ツクヨミが声を発する前に、有毅が先手を打った。


「お久しぶりです。今度は姉がお世話になっているようで」

「……なるほど」


 ツクヨミは呟く声量で言って、口の端を上げた。


「これは面白い。よく戻ってくる気になったものだ」

「戻ってきたわけではないです。姉を返して貰いにきました」


 有毅の声はあくまで平静だった。ツクヨミはくつくつと喉を鳴らし、やがて声をあげて笑った。


「どちらも姉への思いが強くて感心する。言っておくが、有理沙をここへ呼ぶことを望んだのは――ユウキだ」
 有毅が息をのんだのが、顔を見ずとも隼にも伝わってきた。ツクヨミの妙な言い方に反応したのだろうが、隼には言葉の意味がすんなり入ってこない。


「有毅が望んだ?」


 隼が怪訝に反復すれば、ツクヨミは鷹揚な仕草で盃をお膳に置いた。


「そう。ユウキが望み、その通りにことが運んだ。今起きているのは、それだけのことだ」


 ツクヨミの言うことは、隼を動揺させるには十分なものを含んでいた。もちろんとても信じられるものではなかったが、確かめないわけにもいかなかった。


「有毅、一体どういう……」


 ことだ、と続けようとして隼は声を途切れさせた。振り向いて見た有毅の顔が真っ青だったからだ。血の気の引いた顔は視点さえも虚ろで危うい。ただでさえ希薄な存在感がさらに遠退くように感じられ、隼は焦って引き留めるように有毅の二の腕をつかんだ。


「おい、有毅」


 耳元で呼びかけて、ようやく有毅は我に返った様子で隼を見た。


「有毅、大丈夫か」


 隼を見る有毅の瞳が、いまだ震えていて不安になる。有毅は隼の問いかけには答えず、不安定なままの眼差しをツクヨミへと戻した。


「……ぼくが、ここに?」

(なれ)のその姿がなによりの証左だ。いないとでも思っていたか」


 ツクヨミの嘲る声色に、有毅は口を引き結んだ。

 その時だった。寝殿(おもや)の奥から、小走りに近づいてくる足音が聞こえた。弾かれたように有毅が立ち上がり、突然のことに隼はぎょっとした。有毅の姿が透け、消え失せる――直前、ツクヨミがお膳の椀を投げた。朱色の汁椀が有毅に打ち当たり、冷めかけた中身が降りかかる。


「ああああっ」


 有毅は悲鳴をあげた。透けていた体の色が戻り、崩れるようにうずくまる。


「有毅!」


 隼は咄嗟に有毅を助け起こした。有毅はあがくように隼の腕を押しのけた。


「早くここを離れないと。でないと、ぼくが……」


 近づく足音がついに寝殿(おもや)の床板を震わせた。思わず身構える隼の前で、奥の襖が倒れる。そうして現れたのは、真っ白なウサギだった。

 白ウサギは息を切らせて肩を揺らしていた。見開かれた目は赤く、じっと隼たちの方を見ている――否、おそらく隼は意識に入っていない。有毅をだけ見ているのだ。

 有毅が怯えたようにしがみついてきた。しかし隼には、現れた白ウサギと他のウサギになんら違いはないように見えた。


「ユウキ」


 ツクヨミが呼んだ。彼の涼しい眼差しが注がれているのは、白ウサギだった。白い袖を持ち上げ、ツクヨミは隼たちを示した。


「有毅だ。挨拶しなさい」


 瞬間、白ウサギが大きくなったように見えた。純白の体毛が逆立ったのだ。白ウサギは赤い目をひたと有毅に合わせたまま、両前脚を床についた。


「ユウキー」


 また別の声が呼んだ。少々間延びしたそれはあまりにも耳に馴染んだ少女の声で、隼ははっとした。声は、白ウサギがやってきたのと同じ方向から聞こえた。


「ユウキってば、急にどうしたの。衣兎様が驚いてたよ」


 声と一緒に赤い柱の影から顔を覗かせたのは、もう一羽の白ウサギだった。隼は刹那、呼吸を忘れた。

 後からきた白ウサギは、先に現れた白ウサギへと小走りに寄った。二羽のウサギは毛並みも目も揃えたように同じ色で、体格もよく似ていた。


「あーあ。大きい音がしたからどうしたのかと思ったら、襖を倒すなんてなにしてんの。ほら、早く元通りにして」


 少女の声で世話を焼くように言ってから、二羽目の白ウサギは隼たちの方に向き直った。


「お客さんがきてたのに、騒がしくしてすみません。すぐに戻りま……」


 二羽目の白ウサギと、隼の視線が交差した。白ウサギは驚いたように目を見張ったが、隼も白ウサギから目を離せなかった。

 白ウサギの少女は数度、口を開け閉めした。それは発する言葉を迷うか、思い出そうとしている仕草のようだった。隼は嫌な予感に心臓が早鐘を打つのを感じながら、祈る心地で白ウサギを凝視した。

 時間をかけて、白ウサギの少女はやっとひねり出したように言った。


「……隼?」


 喧しかった心臓が一瞬鎮まり、背筋が冷えるのを隼は自覚した。


「有理沙、か?」


 白ウサギの少女が、返事のために口を開きかけた。

 その時、もう一羽の白ウサギが床を蹴った。

 隼がまばたきする間に、白ウサギは目前にいた。体当たりをさけるように、咄嗟に体をそらす。しかし白ウサギが真っ先に飛びかかったのは、うずくまっている有毅だった。


「ユウキ!」


 少女の声が叫んだ。けれどそれが、人とウサギどちらの有毅に向けられたものなのか隼には分からない。

 ウサギのユウキが、少年の有毅の胸へと全身でぶつかる。有毅が衝突の勢いのまま後ろへとひっくり返った。見た目は派手に床に打ち当たったが、音をたてたのは蹴倒されたお膳だけだった。画と音が合わぬ奇妙な光景に、隼は咄嗟に反応ができなかった。

 ウサギは有毅の胸を後脚で踏みしめ、首へと前脚を押しつけた。


「消えろ!」


 ウサギが有毅と同じ声を張り上げた。


「消えろ消えろ、消えろ!」

「いやだ!」


 首を押さえるウサギの前脚をつかんで、有毅も叫び返す。しかしその顔は、ますます血の気がなかった。

 一人と一羽の応酬を座したまま見ていたツクヨミがやおら立ち上がった。その口元に崩れぬ笑みがあり、隼は身構える。


「ユウキ、そこまで乱暴にする必要はない。ひとたび始まれば痛みもなくすぐに終わる」


 ツクヨミが一歩、組み合う有毅たちに歩み寄った。有毅の悲痛な叫びが一層高くなる。痙攣するようにのけぞった少年の体が、かすむように揺らいだ。歩み寄ったツクヨミの手が、有毅に向かって伸ばされる。


「触んな!」


 隼は我に返って叫び、かたわらに置いていたスポーツバッグを立ち上がりざまにツクヨミへ叩きつけた。手を引いたツクヨミに向かって、肩紐をつかんだバッグをさらに振り回す。


「威勢のいいことだ」

「うるせえ!」


 隼は力いっぱいバッグを振り切った。それをツクヨミは手で払うように跳ねのける。衝撃で、開きかけたバッグのファスナーの隙間から、小さな紙片がいくつかこぼれ出た。

 親指の先ほどの白紙が、花びらのように宙を舞う。降り注ぐそれにひるむように、ツクヨミが素早く後退した。ツクヨミの様子の変化に気づき、隼はファスナーの隙間から素早くバッグに手を突っ込んだ。鷲づかんだ紙片を思い切り投げつければ、ツクヨミは不快そうに顔を歪めてさらに後ずさった。

 その隙に隼は身を回転させ、有毅につかみかかっているウサギを蹴り飛ばした。ウサギは甲高い鳴き声をあげ、ボールのように軽々と庭の方へ吹っ飛んだ。小動物を蹴るのはあまりに心が痛んだが、今の隼には友人を助ける方が重要だった。


「有毅、おぶされ」


 スポーツバッグを腹側にかけて、隼は素早く有毅の腕を引いた。有毅に重さはないので、かつぎあげるのに力はいらない。両肩にかけさせた腕が波打つ水面のように揺らぐのを見て舌打ちする。駆け出した隼は簀子(ぬれえん)を飛び降り、素早くスニーカーを引っかけた。

 敷き詰められた玉砂利に足をとられそうになりながら、隼は必死で金の木々の間を駆け抜けた。背負った有毅に重さはなくとも、耳元で苦しげなうめきがあがるたびに心臓がぎりぎりと引き絞られる心地がした。

 なにより隼を打ちのめしていたのは、少女の声で隼の名を呼んだ白ウサギだった。声といい口調といい、ただのウサギがこんなにも幼馴染みの少女の印象と重なることがあるだろうか。その意味を考えるのはあまりに恐ろしく、隼は奥歯を噛みしめた。


「――くそっ」


 月の国にきてから水一滴さえも口にしていない。きっとそのせいで思考が鈍っているのだ。そう自身に言い聞かせて、隼は走ることだけに集中した。
 有理沙は放心して立ち尽くした。目の前で起きたことに思考が追いつかない。さっきそこにいたのは、隼だ。幼馴染みの少年を見間違えるはずもない。そしてその隣にいたのは、有毅だ。

 体が震えて、有理沙は立っていられずに膝をついた。有毅が現れた。誰よりも一緒にいて、誰よりも見慣れた双子の弟が。では、ウサギのユウキは誰なのだろう。その声も仕草も、昔から馴染んだものに違いないと感じるのに、胸の内でなにかが違うと叫ぶ。

 前脚へと視線を落とした。真っ白な毛に覆われた、ウサギの丸い前脚。自分はいつからウサギだっただろうか。生まれた時からうさぎだったはずだ。双子の弟が同じ白ウサギなのだから。

 では、隼は。隼は人だ。彼はずっとサッカーをやってきているから、蹴られたユウキは怪我をしているかもしれない。有理沙も顔にボールをぶつけられた時はとても痛かった。それで――。


「あ……」


 記憶が押し寄せてきて、有理沙は呟きとも言えない声を漏らした。

 生徒の声が飛び交う校舎。西日に熱せられたグラウンドと、そこを駆けまわる運動部員。それらを見ながら校門へ向かう途中でボールが飛んできた。

 有理沙は信じられずに顔を覆った。

 なぜウサギの自分に疑問も抱かなかったのだろう。否、最初は確かにおかしいと感じたはずだ。けれど、その違和感はすぐに消えてしまった。思えばその時には、人であった記憶が抜け落ちていた気がする。ここが自分の家で、ずっとここで暮らしていくことに、一切の疑いを持たなくなっていたのだから。

 衣擦れの音がして、有理沙はわずかに顔を上げた。

 床に散乱する椀と料理、紙片を避けるように、ツクヨミが庭の方角へ歩いていた。階を下って白砂を横切り、池の手前に横たわるユウキへと歩み寄る。有理沙が目を奪われるようにその後ろ姿に見入っていると、ツクヨミはぐったりとしたユウキを丁寧な動作で抱き上げた。


「ユウキ? 有理沙?」


 後ろから声がして、有理沙は膝をついたまま振り返った。衣の裾を引きずる音をさせて、柱の影から衣兎が顔を出した。衣兎は座り込む有理沙を見つけて、ほっとしたように眉を開いた。


「有理沙、大きな音がしたようでしたけれど大丈夫ですか?」

「衣兎様……」


 有理沙はどう返事をするべきか迷った。その間に衣兎が近くまできて、寝殿(おもや)の荒れようを目にとめて柳眉をひそめた。


「これは……なにがあったのですか?」


 やはり有理沙は答えられない。衣兎は有理沙の震えに気づき、労わるように毛並みを撫でた。


「大丈夫ですか? なにか、恐ろしいことが?」


 衣兎の手の平は優しく、有理沙は急に込み上げるものを感じて目を押さえた。


「衣兎様……あたし、あたしは……」

「衣兎。こちらへきてしまったのか」


 庭の方角からの声に、有理沙の言葉は遮られた。億劫に顔を向ければ、ユウキを抱いたツクヨミが、階を簀子(ぬれえん)へと上がってきたところだった。


「ユウキ!」


 衣兎が弾かれるようにツクヨミへと走り寄った。身を寄せるようにして、衣兎はツクヨミの腕で目蓋を閉じているユウキの頬に触れた。


「ユウキは、どうしたのですか?」


 悲痛な表情をする衣兎を安心させるように、ツクヨミが柔らかく笑んだ。


「心配はいらない。怪我はしているが、じきに目覚めるだろう。誰か、ここを片づけて(へや)の支度を」


 最後の一言は、寝殿(おもや)の奥に向かって発せられた。息をひそめて様子を窺っていたらしいウサギたちが慌てて走り出てきた。あっちへこっちへとウサギたちは走り回り、散らばった食事の残骸はまたたく間に掃除され、汚れた敷物は剥がされる。数羽がかりで床の水拭きを始める中で、一羽がツクヨミへと駆け寄った。


「あちらの対屋(はなれ)へ」


 ウサギは控えめな声で、屋敷正面から見て左手の対屋(はなれ)へと主人を導く。衣兎はすぐには続かず、有理沙の所へ駆け戻って膝をついた。


「有理沙も一緒に。顔色がとても悪いです」


 衣兎に前脚をとってうながされ、有理沙はやっと立ち上がった。ふらつく体を衣兎に支えられながら、無感情のまま歩を進める。歩きながら衣兎が労わる声を何度もかけてくれたが、有理沙は反応を返せなかった。今は、混じり合わない無数の記憶と感情の波を受け止めるだけで精一杯だった。
 ツクヨミと側仕えのウサギたちが退出し、(へや)には有理沙と、畳に寝かされたユウキ、そして衣兎だけが残った。ツクヨミは衣兎に自室へ戻るよううながしていたが、彼女は聞かなかったのだ。ユウキはまだ眠っている。憂う表情でユウキの白い毛並みを撫でる衣兎の手元を、有理沙は数歩さがった後ろから見ていた。


「ユウキ、かわいそうに」


 対屋(はなれ)に運び込まれたユウキに、大きな外傷は見られなかった。けれど打ちどころがよくなかったのか、なかなか目覚める気配がない。不安は拭えなかったが、呼吸は安定しており、苦しんでいる様子がないのがせめてもの救いだった。

 しかし有理沙の中の不安は、ユウキの容体とは別のところにあった。ユウキを心配する気持ちがまるでないではないが、このユウキの無事を祈るべきなのか迷いがある。

 有理沙は胸の内に渦巻くものの出口を探して、長い黒髪が艶めく衣兎の背中に目をやった。


「……衣兎様」


 ぽつりとこぼした有理沙の声に反応して、衣兎が振り向いた。衣兎の黒目がちな(まなこ)を見つめ返し、有理沙はなにを言ったものか逡巡してから細い声を発した。


「友達が、きてたんです」

「お友達が?」


 聞き返した衣兎に、有理沙はこくりと頷いた。


「友達が、多分あたしを探しにきて、それで……」


 再び動揺が押し寄せてきて、有理沙は身を震わせた。衣兎は体ごと向きを変えて、なだめるように有理沙の肩を撫でた。


「無理しないでください。ゆっくりで大丈夫です」


 どこまでも優しい声音に、有理沙はついに堪え切れず、衣兎の紅梅色の衣に縋りついた。


「衣兎様、あたし……ウサギじゃない」


 言った瞬間、衣兎の顔に動揺が走った。少女の大きく揺らいだ眼差しを見て、言うべきではなかったかもしれないという思いが有理沙の頭を一瞬よぎる。しかし自身だけ中にとどめておくにはあまりに不安が大きかった。ウサギのユウキは何者か分からない。ツクヨミは隼と有毅と対立しているようだった。他に話せる相手といえば、今の有理沙には衣兎しかいなかった。

 数度深く呼吸した衣兎は、眠るユウキの様子を窺うようにちらとだけ視線を動かして、有理沙の前脚をとった。


「話の続きは向こうでしましょう。有理沙のお友達の話、わたくしに聞かせてください」


 衣兎は軽く手を添えて支えるようにして有理沙を立たせ、(へや)の外へと連れ出した。

 今いる対屋(はなれ)には、寝殿(おもや)と繋がる廊とは別に、屋敷正面の方向に真っ直ぐ伸びる渡殿(わたりろうか)があった。それはそのまま池の上まで長く伸び、その先は水上に造られた釣殿(つりどの)となっている。四隅に柱を立てて屋根を乗せただけの釣殿は、建物の裏以外は屋敷内のどこからでも見える場所ではあったが、近づく者がいればすぐに気づける場所でもあった。

 釣殿へと移った衣兎は側仕えのウサギに白湯だけを用意させて、すぐにさがらせた。向かい合って座った衣兎にすすめられるまま、有理沙はおそるおそる茶碗に口をつけた。白湯で胃が温まると、身の内で波立っていたものが緩やかに鎮まるのが分かった。水上を流れる風が毛並みを撫でていくのも心地よく感じられ、ほっと息をつく。

 有理沙が落ち着いたのを見てとって、衣兎は慎重に本題を切り出した。


「さっききていたというお友達のこと、聞かせていただけますか」


 有理沙は茶碗を置き、時間をかけて言葉を選んだ。


「幼馴染みがきていたんです。隼って名前で、家が近くて、高校までずっと同じところに通っている」

「それは、男の子?」


 問われて、有理沙は深く頷いた。


「男の子です――人間の」


 衣兎は驚くだろうと有理沙は思った。だが実際には彼女はゆっくりまばたききしただけで、じっと話に耳を傾けていた。一呼吸置いて、有理沙は続けた。


「それから、隼と一緒に有毅がいたんです。人間の有毅が。ウサギのユウキが、人間の有毅に向かって、消えろって言ったんです」


 今度こそ衣兎が目を見開いた。有理沙は前脚をついて、衣兎に向かって身を乗り出した。


「衣兎様、あたし人間なんです。人間の友達と弟がいる。でも、ウサギのユウキも確かに弟なんです。あたし、なにがどうなってるのか全然分からなくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からないんです」


 まくし立てるように一息で有理沙は言った。あまりに分からないことが多すぎる。

 なぜ自分はウサギになってしまったのか。なぜ人の有毅とウサギのユウキがいるのか。人の有毅とて、本当に人と表現していいのかさえよく分かっていない。考えてみれば、有理沙以外には見えなかったはずの有毅が当たり前のように隼と一緒にいたのもおかしいのではないか。

 考えれば考えるほどに分からないことが増えるばかりで、有理沙は次第に身動きがとれなくなっていた。

 思考の迷宮にはまり込む有理沙の頬に、衣兎がふわりと触れた。


「分かりました。よく分かりましたから、落ち着いてください」


 逆立った毛並みを整えるように、衣兎が繊細な手つきで頬や額を撫でる。衣兎にそうされると、眠気をもよおすような心地よさがあるのが有理沙には不思議だった。


「わたくしも、有理沙にお話ししたいことがあります。でも、今はできません。ツクヨミが屋敷にいますし、ユウキもいつ起きるか分かりませんから」


 有理沙は首を傾けて、衣兎の目を覗き込んだ。


「ツクヨミ様とユウキに知られてはいけない話なんですか」


 ゆっくりと、衣兎は頷いた。


「ひとまず、ユウキの近くにいて差し上げてください。ツクヨミが出かけたら遣いをやります。その時には、必ずきてください。すべてお話ししますから。だから、今は辛いかもしれないけれど、少しだけ待ってください。もしかしたら有理沙は――」


 衣兎は真正面から有理沙の瞳を見据えて、続きを言った。


「わたくしの、希望になるかもしれないのですから」
 半ば這うように、隼はススキの斜面をのぼった。常ならば苦もなく駆け上がれるだろう緩い傾斜だが、有毅を背負って走り続けた果ての坂はやはり苦しいものがある。有毅に重さはないとは言っても、人を一人背負う体勢は腕の自由が効かず、想定以上に体への負担が大きかった。

 隼はウサギに襲われて消えかかる有毅を見て、どうにか引き離さなければと輝夜殿を逃げ出した。有毅は普段から自身の意思で消えたり現れたりということはしていたが、それとは明らかに様子が違うことが隼にも分かったからだ。有毅の体はときおり揺らぐように透け、そのたび抗おうとするようにうめきを漏らす。幼馴染みのこのような姿は見たことがなく、隼を余計に焦燥させた。

 ウサギで混み合う中を縫うように都を駆け抜け、驚くウサギたちに見向きもせず畦道を突っ切った。誰にも追われず、他者の目にもつかない場所を求めて走り続けた結果、隼が辿り着いたのは最初に降り立ったススキの原だった。

 息を切らせて斜面をのぼり切り、民家が見えなくなるところまで歩いたところで、隼は力尽きるように倒れ込んだ。途端に、どっと全身から汗が噴き出す。渇き切った喉が貼りついて呼吸もままならない。体の水分が足りず目が回る。ペットボトル飲料の一つでも持ってくるべきだったと今更ながら後悔した。

 どうにか有毅を背中から地面に降ろすと、隼は覗き込むように両手をついて顔色を窺った。輝夜殿から離れたことでうめく頻度は減ったようだが、目を伏せた有毅の輪郭はやはり不安定にかすんで見えた。


「有毅、消えるな……頼むから、消えないでくれ」


 請うように呼びかけるも、有毅の目は開かない。むしろ有毅の姿が徐々に薄らぐようで、隼は唇を噛んだ。


「くそっ、どうしたら」


 考えろ、と隼は自身に言い聞かせた。有毅が神隠しにあったとき、不完全ながらも呼び戻せたのだ。ならば今回も、できることがあるはずだ。

 隼はスポーツバッグを下ろし、なにか使えるものはないかとファスナーを開いた。バッグの中から小さな紙片がいくつかこぼれ落ちた。逃げ出す際にツクヨミに投げつけた、切幣(きりぬさ)だった。

 切幣は半紙と麻を細かく切ったものに米と塩を混ぜたもので、神前に撒いて祓い清めるのに使用する。人でないものを相手にするならは使えることもあるかもしれないと、社務所に作り置いてあったものを適当な菓子箱に詰めて持ち出してきたのだ。ツクヨミにバッグを叩きつけた際に、紙製の箱がひしゃげて中身が出てしまったらしい。こぼれただけの切幣をツクヨミが嫌うそぶりを見せたということは、穢れに相当するものを持つ者なのかもしれない。

 切幣はまたツクヨミと対決するときに使えるかもしれないなどと少し考えながら、今すぐ使えるものを求めて隼はスポーツバッグの中をあさった。

 拝殿と社務所から、とりあえずバッグに入るものは色々と持ち出してきてはいた。気休めくらいにはなるだろうかとご神札(しんさつ)とお守りも入れてきたが、今は役に立ちそうもない。こういう時に役立たないのなら、毎日参詣して信仰する意味を考えてしまう。平穏な暮らを続けるために祈っているのだから、平穏に暮らさせて欲しいものである。隼の場合、日々境内を掃き清め、宮司の父に(なら)って過ごしているのだから、苦しい時の神頼みとはならないはずだ。

 そんなことを愚痴のようにつらつらと考えながらバッグをひっくり返したところで、隼はふと手を止めた。


「信仰の意味……」


 呟いてみて、隼は口を引き結んだ。

 それは、降って湧いたひらめきのようなものだった。今の隼に果たしてできるのかは賭けでしかない。有毅が嫌がる可能性もなくはなが、完全に消えてしまうよりはずっとましなはずだ。それに有毅は言っていたはずだ。有理沙のそばにいられればいいのだと。そのためならば、受け入れてくれるだろう。

 問題は必要な道具が揃っていないことと、正式な手順がよく分からないこと。隼の父とて、ここまでのことはしたことはあるまい。過去に例があったとしても、やすやすと行なわれることではないのだから。


「ああ、くそっ」


 悪態をつくことで、隼は悩みを振り払おうとした。根本的に分からないことを考えても、答えなど見つかるはずもない。その間に有毅が消えてしまったら終わりなのだから、できることがあり、そこに可能性があるのなら縋るしかないのだ。

 隼はバッグからスポーツブランドの筆箱と、丸ごと放り込んできたロールタイプの和紙を引っ張り出した。さらに筆箱をあさるのがもどかしく、逆さまにして中身をすべてばらまく。散らばった文房具の中から筆ペンと(はさみ)を拾い上げて、地面に広げた真っ白な和紙に向かった。

 鋏で長方形に割いた和紙に、叩きつけるように筆先を置く。下敷きすらもないまま、草の茂る地面の上でまともな文字など書けるわけもない。しかしこの急場で文字の乱れを気にするような相手ならば、信仰する意味はないと隼は本気で考えていた。


「有毅は、絶対に消えさせない」


 決意を込めて口にしながら、隼は筆を走らせた。
 衣兎は一人で(へや)の中央に座り込み、小さな石の鉢に盛られたヤマモモを一粒つまみ上げた。深紅に熟した果実は噛めば口内でほどけ、甘酸っぱい果汁が舌の上を滑っていく。本当は採れたてのヤマモモをユウキたちと楽しむつもりだったのだが、すっかりそれどころではなくなってしまった。けれど、石の鉢に入れておけば決して傷むことはないから、ユウキが元気になるまでこのまま置いておいて構わないだろう。

 紺青をした石の鉢の表面は少しの曇りもなく磨き上げられていて、近くで見れば星空のようにぽつぽつと光の粒が散りばめられていた。この鉢に入れた食べものはいつまでも腐敗することなく瑞々しく、金物ならば曇りも錆もせずに輝き続ける。片手で持てるほどの小さく摩訶不思議なこの鉢も、ツクヨミからの贈りものの一つだった。

 つい先頃のことを思い出し、衣兎は小さくため息をついた。

 有理沙と釣殿での話を終えて(へや)に戻ったときには、ユウキが目を覚ましていた。やはり怪我が痛むのか動くのがややつらそうではあったが、普通に会話ができる程度には回復していた。有理沙はその場に残し、下仕えのウサギに後を任せて、衣兎は自室へと戻った。

 すべて話すと約束した時、有理沙は瞳に怯えと戸惑いを映しながらも頷いてくれた。どのように話すべきか、その時がくるまでに考えておく必要があった。万一このことがツクヨミの知るところとなれば、衣兎とてどうなるか分からないのだから。


「衣兎」


 (へや)の外から呼ばれ、もの思いにふけっていた衣兎の心臓は跳ねあがった。どうにか平静を装って振り向けば、御簾(みす)を袖でのけながらツクヨミが(へや)に入ってくるところだった。胸元の珠飾りをさらりと鳴らし、ツクヨミ自身で贈った雑多なものの隙間を抜けて歩み寄ってくる。衣兎が十二単の裾を引き寄せるように座る位置をやや移動すれば、ツクヨミは空いた場所に足を組んで座った。


「先ほどは騒がしくして申しわけなかった。衣兎にも心配をかけてしまった」


 いつでも涼やかに聞こえるツクヨミの声で優しく言われると、胸の内をくすぐられるような心地がする。だが今は彼を裏切ろうとしている後ろめたさが大きく、衣兎は誤魔化すように憂い気な眼差しを夫から斜め下へとはずした。


「有理沙のお友達がいらしたのだと、お聞きしました。わたくしも、ぜひお話ししてみたかったです」


 あえて甘さを声音に乗せて、ねだるように衣兎は言ってみた。大抵のことは、これだけでツクヨミは叶えてくれる。しかしこのわがままだけは難しいだろうと、衣兎は予想していた。その通り、ツクヨミはふつりと黙り込んでしまった。

 沈黙は長く、衣兎は焦れたように夫へと目線だけを送った。そうして見たツクヨミは、表情を消して衣兎を見詰めていた。


「それはできない」


 ようやくツクヨミが言葉を発し、衣兎はあどけなく首を傾けた。


「なぜですか」

「あれは衣兎にはよくないものだ。ユウキも怪我をした」

「でも……」


 言いよどんで、衣兎はそっと自身の胸に手の平を押しあてた。


「わたくしも人です。だからきっと、楽しくお話しできます」


 衣兎が言い切ると、ツクヨミの目が見開かれ、しかしすぐに細まった。


「有理沙に聞いたのか」


 ツクヨミの声が一段低くなり、衣兎はひやりとしたものを感じた。夫の内心を引き出すために意図して核心に触れたが、やはり有理沙に累を及ばせたくない心理が働いた。動揺を面に出さぬよう気をつけながら、衣兎は世間話として続けた。


「仲のよいお友達に会えたと、有理沙は喜んでいました。有理沙はまだ月の国にきたばかりで、こちらにお友達がおりませんから」

「そうか……」


 思案する表情で口を閉ざし、ツクヨミは宙を見詰めた。今度の沈黙はさほど長くはならず、彼は衣兎に向かって右手を伸ばした。


「こちらへおいで」


 柔らかく言われ、衣兎は一瞬のためらいのあとに左手を持ち上げた。指先が触れ合ったと思ったときには手を握られ、引き寄せられる。抗わずに身を寄せれば、ツクヨミの纏う香りに包まれた。彼の口元が耳元に寄せられ、声が直接鼓膜へと注がれる。


「確かに、さっききていたのは人だ。しかし衣兎を、人と会わせるわけにはいかない」

「……わたくしも、人の世におりました」


 小さな反論をすれば、抱きすくめる力が強まり、すっと鼻の奥へ抜ける香りが濃くなった。


「だからこそだ。人の世にはもう、衣兎を知る者はいない。人と話せば人の世も恋しくなるだろう。それでつらい思いをするのは衣兎だ。そんな姿を、わたしは見たくはない」

「ツクヨミ……」


 衣兎が切なく顔を見上げると、ツクヨミは腕をほどいた。慈しむように頬を撫でられ、深い色をした真摯な眼差しが近くなる。衣兎は自然と目を閉じて、彼の口づけを受け止めた。

 ツクヨミの愛情は全身で感じられるし、衣兎も彼を夫として愛しいと思っている。だのに胸の内に落ちる冷たいものを、衣兎はどうしても拭い去ることができなかった。

 衣兎の体は初潮も迎えぬまま人の(ことわり)から抜け出て、成長を止めてしまった。そのような道を選んだのは間違いなく衣兎自身だ。けれどこの身の時が止まる意味など、幼い心にはまるで理解できていなかった。

 だからなのだと思う。愛する者に愛され、触れられる距離にいるというのに、寂しさが隙間風のように身の内に吹き込んで消えてくれない。

 そんな衣兎の心を知ってか知らずか、ツクヨミが哀れげに囁く。


「衣兎……わたしの衣兎……」


 声に応えるように夫の背に腕を回しながら、衣兎は身の内の隙間風が温度を下げるのを感じた。


(わたくしは……ツクヨミの……)



 第二章 了
 ――彼の最初の記憶は、暗闇だった。

 音もなく、風もなく。近くに自分以外の誰かがいるのかも分からず、自身の姿すら闇に埋もれて判然としなかった。ただ一つ、仰ぎ見た頭上に青く大きな丸い星だけが見えていた。

 綺麗だ、と彼は思った。あれが欲しい、と彼は願った。

 願った途端、彼の体は青い星を目指して真っ直ぐに飛び上がっていた。

 星は、彼の手に収まるものではなかった。けれど降り立ったその場所は、やはり美しかった。視界は暗くはあったが完全な闇ではなく、淡く青い光で満ちていた。光の正体を求めて顔を上げれば、深い群青の空に、今にも落ちてきそうなほどたくさんの輝きが散らばっている。その中心にぽっかりと浮かぶ、丸く青白い月があった。一帯を浸す光はそこから降っていた。同時に、自分はあそこからきたのだ、と直感的に理解した。

 足元には白い砂が敷き詰められていた。青い闇の中でなお明るく見える白砂は、足裏で踏みしめればざくざくと音をたてた。

 数歩先には池があった。丸く刈り込まれた低木に囲われた池は、少しの波もなく頭上の月を鏡面のように映し、そこにもう一つの空があるようだった。

 風が吹き、水鏡の月が花散るように乱れた。池のそばにたたずむ柳が枝をなびかせる。草の匂いをはらんだ風の冷たさが心地よく、彼はうっとりと目を細めた。

 不意に声がした。


「そこにいるのは誰ですか」


 振り返ると背後には建物があった。建物は首を巡らせねば全容が見えぬほど大きく、黒い影となって白砂の上にうずくまっていた。

 闇に沈む建物中央の階の上に、ぽつんとだけ鮮やかな色彩がある。それは花弁のように無数の衣を重ねて着た少女だった。一番上に重ねられた茜色は、薄闇の中でも褪せることなく彼の目を引きつけた。


「誰なのですか」


 先ほど聞こえたのと同じ声で、少女は言った。

 彼は答える言葉を持っていなかったので黙っていると、少女はこちらをよく見ようとするように首を傾けた。動きに合わせて、ごく淡い月光を浴びた少女の黒髪が艶めき流れる筋を描く。まるで澄んだ清流のようだと思って彼がそれを見詰めていると、少女はほの白い容貌を困ったように少しだけ歪めた。


「屋敷の者ではありませんね」


 やはり彼は答えられなかった。少女はさらに考え込む様子で、小さな口元に手を当てた。


「お名前は、なんとおっしゃるのですか」


 これにも彼は答えられない。じっと黙りこくるばかりの彼に、少女は数度首をひねって小さく唸り、さらに問いを重ねた。


「どちらから、いらしたのですか」


 黙ったまま彼は腕を持ち上げ、頭上で青白い光を撒いている月を指差した。彼の示す先を見た少女が、やや目を大きくした。


「月?」


 呟いて、少女は彼と月を見比べるように瞳を動かした。


「月から、いらしたのですか?」


 ゆっくりと、彼は頷いた。少女はしばらく不思議そうに彼を見詰めていたが、やがてなにか思いついたように眉を開いた。


「ツクヨミ様ですか?」


 今度は彼が驚く番だった。少女の言葉の意味は分からなかったが、なぜか自分の内側をなにかでくすぐられたような気がした。初めての感覚に彼が呆然と立ち尽くしていると、少女はごく淡く笑んだ。


「月の神様のお名前です。もし違うのだとしても、月からいらしたのでしょう? 呼び名がないのは不便ですから、あなたが本当のお名前を教えてくださるまでは、ツクヨミ様とお呼びすることにします」


「ツクヨミ……」


 この時初めて、彼は声を発した。声を発せられることに気づいた、と言う方が正しいかもしれない。


「ツクヨミ……わたしが?」


 慣れぬ発声でか細く反復する彼に、少女は笑みを深めた。


「はい。あなたは、ツクヨミです」


 呼ばれた瞬間、温かな熱が体内を駆け巡った。闇に解け消えそうなほど朧げだった自身の体が、輪郭を得ていくのを感じる。視線を落とせばすらりと指の長い手がはっきりと見え、その手で顔に触れればくっきりとした目鼻があるのが分かった。手の甲を、風に煽られた髪がなぶった。

 少女はびっくりした表情で彼の変化を見詰めていたがやがて花開くように笑った。


「本当に、月の神様のようですね」


 しみじみと言った少女に、彼は自然と笑みを返した。


 *☾


 ふと意識が引き戻され、ツクヨミは目を開いた。天井の木目が視界を埋め、自分が眠っていたことに気づく。心とらわれたように、ツクヨミはぼんやりと天井を見詰めた。

 ずいぶんと古い記憶の夢を見ていたらしい。眠る前に、衣兎(いと)と人の話をしたからかもしれない。

 肌に触れる温もりを感じて、ツクヨミは顔をかたわらへと向けた。ツクヨミの肩に、衣兎が白い頬をぴたりと寄せて眠っていた。あどけない妻の寝顔を間近に見て、つい口元が緩む。衣兎が眠っているのとは反対側の腕を伸ばして、ツクヨミは妻の黒髪をすき、白い頬を撫で、色づく唇に触れた。

 いく度肌を重ねても、そっとしなければ壊しそうな気がしてしまう。それほどに、少女の肌はどこに触れても柔らかくきめ細かい。それでも、ツクヨミは衣兎を欲さずにはおれなかった。

 小さな唇を、指先で優しくなぞった。その唇が、初めて彼の名を紡いだ日を思い出す。

 ツクヨミ。そう名づけられた瞬間、何者でもなかった彼は今の姿と力を得た。なぜそうなったかはツクヨミにも分からなかったが、彼が欲せばなんでも手に入るようになった。そして、衣兎も手に入れた。


「……衣兎」


 吐息と共に囁いてみたが、衣兎の眠りは深く目覚めない。ツクヨミは唇に触れていた手をさらに伸ばして、妻の体を抱き寄せた。

 欲してやまない少女は確かにこの手の中にある。にもかかわらず、淡い不安が常に胸に巣くっている。だから、衣兎にあらゆるものを与え続けてきた。彼女の意識が、外へと向かぬように。

 人が近くにいては、かつて人の世にいた衣兎は懐かしさから興味を持つだろう。


(これ以上、近づかせはしない……)


 ツクヨミは衣兎のこめかみに口づけて腕を緩めた。少女を起こさぬよう慎重に身を離し、そろそろと寝床からも抜け出る。着物を整えたツクヨミは、惜しむように衣兎の顔を眺めてから、音をたてぬように(へや)を出た。
 月の国には、昼も夜もない。空の色は移ろうことなく常に暗い。ゆえに、そこに暮らすウサギたちは好きな時に寝起きし、好きな時に食べ、好きな時に働いている。

 それで日々の営みがつつがなく巡っているのが有理沙(ありさ)には不思議に感じられたが、時間に縛られないというのも、それはそれで案外うまくいくものなのかもしれない。

 そんな場所であるから、月の国にきてどれくらい時間が経ったのか、有理沙にはまったく分からなかった。身に起こったことがあまりにも目まぐるしく、一日経っているのかいないのか、あるいはもう数日経っていることもあるかもしれない。

 親に心配をかけているだろうか。(はやと)がここに来たということは、少なくとも彼には気を揉ませているのだろう。それが分かったところで、今の有理沙にできることはなにも思いつかないけれど。

 そうして頭の中を駆け巡る思いを追い駆けながら、有理沙は目の前で傷の手当を受けているユウキを見詰めていた。

 銀灰色をしたやや年かさのウサギが、ユウキの背中の擦り傷に薬を塗っている。続いて正面に回って口の中を観察すると、銀灰ウサギは、うむ、と小さく唸った。


「問題なさそうですね。あとは、それだけ飲んでおいてください」


 銀灰ウサギは枕元に置いてある丸い盆を示した。そこには小振りの湯呑があり、緑に濁ったお茶に似た飲料が入っていた。


「またどこか痛むようなら言ってくださいね」


 事務的で淡々とした言葉にユウキが静かに頷くと、銀灰ウサギは立ち上がり、軽く会釈をして(へや)を出ていく。有理沙は会釈を返してそれを見送った。

 ちょっと息を吐いて有理沙が顔を戻せば、ユウキがさっそく湯呑をとり上げて口をつけていた。


「うっ……まずい」


 よほど飲めた味ではないだろうことが、ユウキの表情から伝わってきた。耳を垂れ、目をしばたかせながら、ちびちびと湯呑のふちを舐めている。やがて、らちが明かないと判断したのか目を閉じて、湯呑の中身を一気に喉へ流し込んだ。


「ううう……」


 ユウキが薬の味に身もだえする姿に、有理沙は思わずふと笑いをもらした。彼の子供っぽい仕草は、本当によく知る弟のものだ。よそいきに大人びた顔を見せはしても、やはりこうして一緒にいると内面の幼さが目につくように思う。


「ねえ、ユウキ」

「ん?」


 口をすぼめたおかしな表情のまま、ユウキが振り向いた。有理沙は今度は笑うことなく、慎重に言葉を選びながら続けた。


「さっきのことなんだけど」

「さっき?」

「隼が、きてたでしょ」


 もだえ震えていたユウキの動きが、ぴたりと止まった。つかの間、どこか気まずい沈黙が落ちる。有理沙がひるまずに見詰め続けていると、ユウキはまだ舌に違和感がある様子で口をもごもごさせながら湯呑を置いた。


「そうだね……うん、そうだ」


 まるで今思い出したような口振りで、ユウキは言う。有理沙は小さないら立ちを覚え、体の前に前脚をついて身を乗り出した。


「ユウキが飛びかかったのは、有毅(ゆうき)だった。ねえ、なにが起きてるの?」


 ユウキは有理沙を見詰め返した。ユウキが目を細めると、頬の毛がふっさりと膨らむ。


「うん。あれはぼくだ。でも大丈夫。あのぼくに有理沙は渡さない。分は、ぼくの方にあるんだ。ぼくが本物だから」


 有理沙は目をぱちくりした。


「どういうこと?」


 わけが分からない、と有理沙が眼差しでうったえると、ユウキは体ごと向かい合うように座り直した。


「向こうのぼくには体がない。ぼくから抜け出たものだから。お互いをはっきり認識したからには、もう同時に存在はできないけど、消えるのは向こうだ」


 ユウキは自身で理解してしまっているから、説明になっていないことに気づいていないらしい。しかしそれを問いただすより先に、有理沙は一つの言葉が引っかかった。


「消える? 有毅が消えるの?」


 ユウキが小さく笑った。


「消えるといっても、元に戻るだけだ。ぼくの中にあったものが、ぼくの中に戻るだけ。ぼくはずっと独りだったんだ。だから今度は、ぼくが有理沙と暮らす番。偽物はもう終わり」

「偽物……」


 確かに、有毅の姿は有理沙以外の人には見えなかった。けれど間違いなく、有理沙にとって唯一無二の双子の弟だった。そこへもう一人――もう一羽の弟が現れただけでも衝撃だというのに、ずっと弟と思って接していた相手が偽物だと言う。なにを信じて、どう感情を表現したらよいか、有理沙は分からなくなっていた。

 呆然とする有理沙の前で、ユウキは背筋を伸ばしてすっくと立ち上がった。


「帰ろう有理沙。いつまでもお邪魔してたらツクヨミ様に申しわけない」


 ユウキにうながされ、有理沙は頭がよく働かないままゆるゆると立ち上がった。前脚を引かれて、ユウキの白い背中についていく。


「ユウキ」


 寝殿(おもや)へ繋がる渡殿(わたりろうか)とぼとぼと歩きながら、有理沙はつい呼びかけていた。


「ん?」


 ユウキは足を止めることなく、声だけで応える。有理沙は一瞬だけためらって、問いを続けた。


「どこに帰るの?」


 今度こそユウキは立ち止まって、不思議そうな(まなこ)で振り返った。


「家に帰るんだよ?」


 よどみない赤色の眼差しに有理沙は軽く息をのみ、慌ててとりつくろった。


「うん、そうだよね。ごめん、変なこと聞いて」


 ユウキはちょっと首をひねったが、特になにも言わずに進行方向に向き直って再び歩き出した。有理沙は気づかれぬよう、そっとため息をついた。

 ユウキの言う家とは、有理沙がウサギになって最初に目覚めたあの家以外にない。有理沙自身もあれが自宅だと認識してはいる。けれど本当に帰る場所であるかと言われれば、途端に自信がなくなってしまう。

 胸の内のもやもやは、どうしようとも晴れそうにない。今は、すべてを話すと言った衣兎の言葉を待つしかないのだろうと、有理沙は覚束なく考えるのだった。
 衣兎の使者がやってきたのは、帰宅してほどなくだった。


「有理沙様はご在宅ですか」


 玄関の方から呼びかけられて有理沙が土間に顔を出すと、黒の毛に白の襟巻模様のあるウサギが戸口に立っていた。


「はい。ここにいますけど」


 有理沙が返事をすれば、襟巻模様のウサギは前脚を揃えてぺこりとお辞儀をしてから用件を告げた。


「衣兎様のお使いできました。お話ししたいことがあるそうで、有理沙様に輝夜殿までお越しいただきたいそうです」


 思っていたよりもずっと早い呼び出しに、有理沙は軽く瞠目した。慌てて返事をしようと口を開きかけ、ところが後ろから顔を覗かせたユウキに遮られてしまった。


「有理沙、出かけるの?」


 来客の姿を見ようとしてか、背中に貼りつくように身を乗り出してくるユウキを、有理沙は鬱陶しく押しやった。


「衣兎様がお話ししたいことがあるからきて欲しいんだって」


 引き剥がすように有理沙に部屋へ押し込まれたユウキは、機嫌を損ねることもなく髭をそよがせた。


「ぼくもいく」

「だめ」


 間髪入れずに有理沙が拒絶すると、さすがのユウキも気に障ったらしく口元を歪めた。


「なんで」

「なんでも」


 頬を膨らませるユウキにいかにも粗雑に返しながら、有理沙は内心で冷や汗をかいていた。うまく言いくるめて、ユウキの同行を阻止しなくてはいけない。


「空気読みなさい。衣兎様があたしを指名したってことは、女の子同士だからできる話がしたいってこと。女子トークに男子が参加するなんて野暮野暮。それとも、ユウキも女子になる? ユウキはあたしとそっくりだから、女の子になってもかわいいかもなぁ」


 なにせ双子だから、と思いながら有理沙は人間の有毅の女装に少しばかり思いを馳せてみた。有毅は同世代の男子にしては線が細いから、実際かなり似合うのではなかろうか。

 有理沙のよからぬ想像を察してか、ユウキは渋い顔をして沈黙すると、見るからに不満げながら引き下がった。


「……留守番してる」


 有理沙は作戦の成功を確信してにこりと笑んでみせた。


「そうそう。怪我してるんだから家で大人しくしてたらいいの。それじゃあ、ちょっといってくるね」

「いってらっしゃい」


 ユウキの見送りを受けて、有理沙はお使いウサギと共に家を出た。

 月の都は昼夜の感覚がないためその時々で開いている店が少しずつ違っていたが、通りの賑わいはいつでも変わらぬものだった。いき交うのはウサギばかりであるが、その言葉や立ち振る舞いは人となんら違ってはいない。その理由を考えて有理沙はぞっとしたものを感じ、歩きながら身震いした。

 輝夜殿に着くと、そのまま真っ直ぐ奥の対屋(はなれ)へと通された。途中で横切った寝殿(おもや)は整然としていて、確かにツクヨミは不在であるようだ。

 衣兎の(へや)は裏庭に面した御簾が巻き上げられていた。室内は相変わらず雑多なものであふれていたが、障屏具(しょうへいぐ)がないだけでずいぶんと開放的な印象になる。

 衣兎は、裏庭を見渡せる(えんがわ)に円座を敷いて有理沙を待っていた。床に広がる衣兎の衣は、春の若葉を思わせる萌葱(もえぎ)色をしていた。


「よかった。きていただけて」


 やってきた有理沙を見て、衣兎はほっとしたように頬を緩めた。

 お使いウサギにうながされるまま有理沙が衣兎の隣に座れば、別の側仕えのウサギがやってきて衣兎と有理沙の前に白湯を置いていく。側仕えの二羽がさがるのを待って、衣兎はさっそく有理沙へと体を向けた。


「あれから、なにかお口にされましたか」

「いいえ。飲みもの以外はなにも」


 質問の意図が分からなかったが、有理沙は素直に答えた。自宅でユウキからはあれこれと食べものをすすめられたが、考えることが多くてあまり食欲を感じなかったのだ。それを伝えれば、衣兎は息をつくように、そうですか、と呟いた。


「ここのものは、あまり食べない方がよいかもしれません。もちろん、無理はよろしくありませんが」

「もしかして、あたしがウサギになったことと関係が?」


 恐る恐る問えば、衣兎は憂うように眉間を曇らせた。しばらくためらうような間があり、有理沙が辛抱強く待ってようやく口を開いた。


「月の国のものを食べれば、体は月の国のものになっていきます。有理沙は、もうお気づきかもしれませんが……ここのウサギたちは皆、元は人です。誰もそのことを覚えていませんし、ここで生まれた子もおりますから全員ではありませんけれど」


 やはり、と思うと同時に驚きが胸の内に広がり、有理沙はつかの間息を止めた。有理沙も、隼の姿を見るまで人であったことを忘れかけていた。同じようにここのウサギたちも、ウサギとして過ごす内に人としての記憶が消えてしまったのだろう。


「どうして、ウサギに」


 かろうじて続けた問いは、息が足りずかすれた。それでも衣兎は聞きとれたらしく、ややうつむいて瞳を翳らせた。


「……わたくしのせいなのです」


 絞り出すようなか細い声で言い、衣兎は胸の前で両手を組んだ。


「すべて、わたくしが悪いのです。ツクヨミを止められない、わたくしが」