ツクヨミと側仕えのウサギたちが退出し、(へや)には有理沙と、畳に寝かされたユウキ、そして衣兎だけが残った。ツクヨミは衣兎に自室へ戻るよううながしていたが、彼女は聞かなかったのだ。ユウキはまだ眠っている。憂う表情でユウキの白い毛並みを撫でる衣兎の手元を、有理沙は数歩さがった後ろから見ていた。


「ユウキ、かわいそうに」


 対屋(はなれ)に運び込まれたユウキに、大きな外傷は見られなかった。けれど打ちどころがよくなかったのか、なかなか目覚める気配がない。不安は拭えなかったが、呼吸は安定しており、苦しんでいる様子がないのがせめてもの救いだった。

 しかし有理沙の中の不安は、ユウキの容体とは別のところにあった。ユウキを心配する気持ちがまるでないではないが、このユウキの無事を祈るべきなのか迷いがある。

 有理沙は胸の内に渦巻くものの出口を探して、長い黒髪が艶めく衣兎の背中に目をやった。


「……衣兎様」


 ぽつりとこぼした有理沙の声に反応して、衣兎が振り向いた。衣兎の黒目がちな(まなこ)を見つめ返し、有理沙はなにを言ったものか逡巡してから細い声を発した。


「友達が、きてたんです」

「お友達が?」


 聞き返した衣兎に、有理沙はこくりと頷いた。


「友達が、多分あたしを探しにきて、それで……」


 再び動揺が押し寄せてきて、有理沙は身を震わせた。衣兎は体ごと向きを変えて、なだめるように有理沙の肩を撫でた。


「無理しないでください。ゆっくりで大丈夫です」


 どこまでも優しい声音に、有理沙はついに堪え切れず、衣兎の紅梅色の衣に縋りついた。


「衣兎様、あたし……ウサギじゃない」


 言った瞬間、衣兎の顔に動揺が走った。少女の大きく揺らいだ眼差しを見て、言うべきではなかったかもしれないという思いが有理沙の頭を一瞬よぎる。しかし自身だけ中にとどめておくにはあまりに不安が大きかった。ウサギのユウキは何者か分からない。ツクヨミは隼と有毅と対立しているようだった。他に話せる相手といえば、今の有理沙には衣兎しかいなかった。

 数度深く呼吸した衣兎は、眠るユウキの様子を窺うようにちらとだけ視線を動かして、有理沙の前脚をとった。


「話の続きは向こうでしましょう。有理沙のお友達の話、わたくしに聞かせてください」


 衣兎は軽く手を添えて支えるようにして有理沙を立たせ、(へや)の外へと連れ出した。

 今いる対屋(はなれ)には、寝殿(おもや)と繋がる廊とは別に、屋敷正面の方向に真っ直ぐ伸びる渡殿(わたりろうか)があった。それはそのまま池の上まで長く伸び、その先は水上に造られた釣殿(つりどの)となっている。四隅に柱を立てて屋根を乗せただけの釣殿は、建物の裏以外は屋敷内のどこからでも見える場所ではあったが、近づく者がいればすぐに気づける場所でもあった。

 釣殿へと移った衣兎は側仕えのウサギに白湯だけを用意させて、すぐにさがらせた。向かい合って座った衣兎にすすめられるまま、有理沙はおそるおそる茶碗に口をつけた。白湯で胃が温まると、身の内で波立っていたものが緩やかに鎮まるのが分かった。水上を流れる風が毛並みを撫でていくのも心地よく感じられ、ほっと息をつく。

 有理沙が落ち着いたのを見てとって、衣兎は慎重に本題を切り出した。


「さっききていたというお友達のこと、聞かせていただけますか」


 有理沙は茶碗を置き、時間をかけて言葉を選んだ。


「幼馴染みがきていたんです。隼って名前で、家が近くて、高校までずっと同じところに通っている」

「それは、男の子?」


 問われて、有理沙は深く頷いた。


「男の子です――人間の」


 衣兎は驚くだろうと有理沙は思った。だが実際には彼女はゆっくりまばたききしただけで、じっと話に耳を傾けていた。一呼吸置いて、有理沙は続けた。


「それから、隼と一緒に有毅がいたんです。人間の有毅が。ウサギのユウキが、人間の有毅に向かって、消えろって言ったんです」


 今度こそ衣兎が目を見開いた。有理沙は前脚をついて、衣兎に向かって身を乗り出した。


「衣兎様、あたし人間なんです。人間の友達と弟がいる。でも、ウサギのユウキも確かに弟なんです。あたし、なにがどうなってるのか全然分からなくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からないんです」


 まくし立てるように一息で有理沙は言った。あまりに分からないことが多すぎる。

 なぜ自分はウサギになってしまったのか。なぜ人の有毅とウサギのユウキがいるのか。人の有毅とて、本当に人と表現していいのかさえよく分かっていない。考えてみれば、有理沙以外には見えなかったはずの有毅が当たり前のように隼と一緒にいたのもおかしいのではないか。

 考えれば考えるほどに分からないことが増えるばかりで、有理沙は次第に身動きがとれなくなっていた。

 思考の迷宮にはまり込む有理沙の頬に、衣兎がふわりと触れた。


「分かりました。よく分かりましたから、落ち着いてください」


 逆立った毛並みを整えるように、衣兎が繊細な手つきで頬や額を撫でる。衣兎にそうされると、眠気をもよおすような心地よさがあるのが有理沙には不思議だった。


「わたくしも、有理沙にお話ししたいことがあります。でも、今はできません。ツクヨミが屋敷にいますし、ユウキもいつ起きるか分かりませんから」


 有理沙は首を傾けて、衣兎の目を覗き込んだ。


「ツクヨミ様とユウキに知られてはいけない話なんですか」


 ゆっくりと、衣兎は頷いた。


「ひとまず、ユウキの近くにいて差し上げてください。ツクヨミが出かけたら遣いをやります。その時には、必ずきてください。すべてお話ししますから。だから、今は辛いかもしれないけれど、少しだけ待ってください。もしかしたら有理沙は――」


 衣兎は真正面から有理沙の瞳を見据えて、続きを言った。


「わたくしの、希望になるかもしれないのですから」