有理沙は放心して立ち尽くした。目の前で起きたことに思考が追いつかない。さっきそこにいたのは、隼だ。幼馴染みの少年を見間違えるはずもない。そしてその隣にいたのは、有毅だ。

 体が震えて、有理沙は立っていられずに膝をついた。有毅が現れた。誰よりも一緒にいて、誰よりも見慣れた双子の弟が。では、ウサギのユウキは誰なのだろう。その声も仕草も、昔から馴染んだものに違いないと感じるのに、胸の内でなにかが違うと叫ぶ。

 前脚へと視線を落とした。真っ白な毛に覆われた、ウサギの丸い前脚。自分はいつからウサギだっただろうか。生まれた時からうさぎだったはずだ。双子の弟が同じ白ウサギなのだから。

 では、隼は。隼は人だ。彼はずっとサッカーをやってきているから、蹴られたユウキは怪我をしているかもしれない。有理沙も顔にボールをぶつけられた時はとても痛かった。それで――。


「あ……」


 記憶が押し寄せてきて、有理沙は呟きとも言えない声を漏らした。

 生徒の声が飛び交う校舎。西日に熱せられたグラウンドと、そこを駆けまわる運動部員。それらを見ながら校門へ向かう途中でボールが飛んできた。

 有理沙は信じられずに顔を覆った。

 なぜウサギの自分に疑問も抱かなかったのだろう。否、最初は確かにおかしいと感じたはずだ。けれど、その違和感はすぐに消えてしまった。思えばその時には、人であった記憶が抜け落ちていた気がする。ここが自分の家で、ずっとここで暮らしていくことに、一切の疑いを持たなくなっていたのだから。

 衣擦れの音がして、有理沙はわずかに顔を上げた。

 床に散乱する椀と料理、紙片を避けるように、ツクヨミが庭の方角へ歩いていた。階を下って白砂を横切り、池の手前に横たわるユウキへと歩み寄る。有理沙が目を奪われるようにその後ろ姿に見入っていると、ツクヨミはぐったりとしたユウキを丁寧な動作で抱き上げた。


「ユウキ? 有理沙?」


 後ろから声がして、有理沙は膝をついたまま振り返った。衣の裾を引きずる音をさせて、柱の影から衣兎が顔を出した。衣兎は座り込む有理沙を見つけて、ほっとしたように眉を開いた。


「有理沙、大きな音がしたようでしたけれど大丈夫ですか?」

「衣兎様……」


 有理沙はどう返事をするべきか迷った。その間に衣兎が近くまできて、寝殿(おもや)の荒れようを目にとめて柳眉をひそめた。


「これは……なにがあったのですか?」


 やはり有理沙は答えられない。衣兎は有理沙の震えに気づき、労わるように毛並みを撫でた。


「大丈夫ですか? なにか、恐ろしいことが?」


 衣兎の手の平は優しく、有理沙は急に込み上げるものを感じて目を押さえた。


「衣兎様……あたし、あたしは……」

「衣兎。こちらへきてしまったのか」


 庭の方角からの声に、有理沙の言葉は遮られた。億劫に顔を向ければ、ユウキを抱いたツクヨミが、階を簀子(ぬれえん)へと上がってきたところだった。


「ユウキ!」


 衣兎が弾かれるようにツクヨミへと走り寄った。身を寄せるようにして、衣兎はツクヨミの腕で目蓋を閉じているユウキの頬に触れた。


「ユウキは、どうしたのですか?」


 悲痛な表情をする衣兎を安心させるように、ツクヨミが柔らかく笑んだ。


「心配はいらない。怪我はしているが、じきに目覚めるだろう。誰か、ここを片づけて(へや)の支度を」


 最後の一言は、寝殿(おもや)の奥に向かって発せられた。息をひそめて様子を窺っていたらしいウサギたちが慌てて走り出てきた。あっちへこっちへとウサギたちは走り回り、散らばった食事の残骸はまたたく間に掃除され、汚れた敷物は剥がされる。数羽がかりで床の水拭きを始める中で、一羽がツクヨミへと駆け寄った。


「あちらの対屋(はなれ)へ」


 ウサギは控えめな声で、屋敷正面から見て左手の対屋(はなれ)へと主人を導く。衣兎はすぐには続かず、有理沙の所へ駆け戻って膝をついた。


「有理沙も一緒に。顔色がとても悪いです」


 衣兎に前脚をとってうながされ、有理沙はやっと立ち上がった。ふらつく体を衣兎に支えられながら、無感情のまま歩を進める。歩きながら衣兎が労わる声を何度もかけてくれたが、有理沙は反応を返せなかった。今は、混じり合わない無数の記憶と感情の波を受け止めるだけで精一杯だった。