有毅が息をのんだのが、顔を見ずとも隼にも伝わってきた。ツクヨミの妙な言い方に反応したのだろうが、隼には言葉の意味がすんなり入ってこない。
「有毅が望んだ?」
隼が怪訝に反復すれば、ツクヨミは鷹揚な仕草で盃をお膳に置いた。
「そう。ユウキが望み、その通りにことが運んだ。今起きているのは、それだけのことだ」
ツクヨミの言うことは、隼を動揺させるには十分なものを含んでいた。もちろんとても信じられるものではなかったが、確かめないわけにもいかなかった。
「有毅、一体どういう……」
ことだ、と続けようとして隼は声を途切れさせた。振り向いて見た有毅の顔が真っ青だったからだ。血の気の引いた顔は視点さえも虚ろで危うい。ただでさえ希薄な存在感がさらに遠退くように感じられ、隼は焦って引き留めるように有毅の二の腕をつかんだ。
「おい、有毅」
耳元で呼びかけて、ようやく有毅は我に返った様子で隼を見た。
「有毅、大丈夫か」
隼を見る有毅の瞳が、いまだ震えていて不安になる。有毅は隼の問いかけには答えず、不安定なままの眼差しをツクヨミへと戻した。
「……ぼくが、ここに?」
「汝のその姿がなによりの証左だ。いないとでも思っていたか」
ツクヨミの嘲る声色に、有毅は口を引き結んだ。
その時だった。寝殿の奥から、小走りに近づいてくる足音が聞こえた。弾かれたように有毅が立ち上がり、突然のことに隼はぎょっとした。有毅の姿が透け、消え失せる――直前、ツクヨミがお膳の椀を投げた。朱色の汁椀が有毅に打ち当たり、冷めかけた中身が降りかかる。
「ああああっ」
有毅は悲鳴をあげた。透けていた体の色が戻り、崩れるようにうずくまる。
「有毅!」
隼は咄嗟に有毅を助け起こした。有毅はあがくように隼の腕を押しのけた。
「早くここを離れないと。でないと、ぼくが……」
近づく足音がついに寝殿の床板を震わせた。思わず身構える隼の前で、奥の襖が倒れる。そうして現れたのは、真っ白なウサギだった。
白ウサギは息を切らせて肩を揺らしていた。見開かれた目は赤く、じっと隼たちの方を見ている――否、おそらく隼は意識に入っていない。有毅をだけ見ているのだ。
有毅が怯えたようにしがみついてきた。しかし隼には、現れた白ウサギと他のウサギになんら違いはないように見えた。
「ユウキ」
ツクヨミが呼んだ。彼の涼しい眼差しが注がれているのは、白ウサギだった。白い袖を持ち上げ、ツクヨミは隼たちを示した。
「有毅だ。挨拶しなさい」
瞬間、白ウサギが大きくなったように見えた。純白の体毛が逆立ったのだ。白ウサギは赤い目をひたと有毅に合わせたまま、両前脚を床についた。
「ユウキー」
また別の声が呼んだ。少々間延びしたそれはあまりにも耳に馴染んだ少女の声で、隼ははっとした。声は、白ウサギがやってきたのと同じ方向から聞こえた。
「ユウキってば、急にどうしたの。衣兎様が驚いてたよ」
声と一緒に赤い柱の影から顔を覗かせたのは、もう一羽の白ウサギだった。隼は刹那、呼吸を忘れた。
後からきた白ウサギは、先に現れた白ウサギへと小走りに寄った。二羽のウサギは毛並みも目も揃えたように同じ色で、体格もよく似ていた。
「あーあ。大きい音がしたからどうしたのかと思ったら、襖を倒すなんてなにしてんの。ほら、早く元通りにして」
少女の声で世話を焼くように言ってから、二羽目の白ウサギは隼たちの方に向き直った。
「お客さんがきてたのに、騒がしくしてすみません。すぐに戻りま……」
二羽目の白ウサギと、隼の視線が交差した。白ウサギは驚いたように目を見張ったが、隼も白ウサギから目を離せなかった。
白ウサギの少女は数度、口を開け閉めした。それは発する言葉を迷うか、思い出そうとしている仕草のようだった。隼は嫌な予感に心臓が早鐘を打つのを感じながら、祈る心地で白ウサギを凝視した。
時間をかけて、白ウサギの少女はやっとひねり出したように言った。
「……隼?」
喧しかった心臓が一瞬鎮まり、背筋が冷えるのを隼は自覚した。
「有理沙、か?」
白ウサギの少女が、返事のために口を開きかけた。
その時、もう一羽の白ウサギが床を蹴った。
隼がまばたきする間に、白ウサギは目前にいた。体当たりをさけるように、咄嗟に体をそらす。しかし白ウサギが真っ先に飛びかかったのは、うずくまっている有毅だった。
「ユウキ!」
少女の声が叫んだ。けれどそれが、人とウサギどちらの有毅に向けられたものなのか隼には分からない。
ウサギのユウキが、少年の有毅の胸へと全身でぶつかる。有毅が衝突の勢いのまま後ろへとひっくり返った。見た目は派手に床に打ち当たったが、音をたてたのは蹴倒されたお膳だけだった。画と音が合わぬ奇妙な光景に、隼は咄嗟に反応ができなかった。
ウサギは有毅の胸を後脚で踏みしめ、首へと前脚を押しつけた。
「消えろ!」
ウサギが有毅と同じ声を張り上げた。
「消えろ消えろ、消えろ!」
「いやだ!」
首を押さえるウサギの前脚をつかんで、有毅も叫び返す。しかしその顔は、ますます血の気がなかった。
一人と一羽の応酬を座したまま見ていたツクヨミがやおら立ち上がった。その口元に崩れぬ笑みがあり、隼は身構える。
「ユウキ、そこまで乱暴にする必要はない。ひとたび始まれば痛みもなくすぐに終わる」
ツクヨミが一歩、組み合う有毅たちに歩み寄った。有毅の悲痛な叫びが一層高くなる。痙攣するようにのけぞった少年の体が、かすむように揺らいだ。歩み寄ったツクヨミの手が、有毅に向かって伸ばされる。
「触んな!」
隼は我に返って叫び、かたわらに置いていたスポーツバッグを立ち上がりざまにツクヨミへ叩きつけた。手を引いたツクヨミに向かって、肩紐をつかんだバッグをさらに振り回す。
「威勢のいいことだ」
「うるせえ!」
隼は力いっぱいバッグを振り切った。それをツクヨミは手で払うように跳ねのける。衝撃で、開きかけたバッグのファスナーの隙間から、小さな紙片がいくつかこぼれ出た。
親指の先ほどの白紙が、花びらのように宙を舞う。降り注ぐそれにひるむように、ツクヨミが素早く後退した。ツクヨミの様子の変化に気づき、隼はファスナーの隙間から素早くバッグに手を突っ込んだ。鷲づかんだ紙片を思い切り投げつければ、ツクヨミは不快そうに顔を歪めてさらに後ずさった。
その隙に隼は身を回転させ、有毅につかみかかっているウサギを蹴り飛ばした。ウサギは甲高い鳴き声をあげ、ボールのように軽々と庭の方へ吹っ飛んだ。小動物を蹴るのはあまりに心が痛んだが、今の隼には友人を助ける方が重要だった。
「有毅、おぶされ」
スポーツバッグを腹側にかけて、隼は素早く有毅の腕を引いた。有毅に重さはないので、かつぎあげるのに力はいらない。両肩にかけさせた腕が波打つ水面のように揺らぐのを見て舌打ちする。駆け出した隼は簀子を飛び降り、素早くスニーカーを引っかけた。
敷き詰められた玉砂利に足をとられそうになりながら、隼は必死で金の木々の間を駆け抜けた。背負った有毅に重さはなくとも、耳元で苦しげなうめきがあがるたびに心臓がぎりぎりと引き絞られる心地がした。
なにより隼を打ちのめしていたのは、少女の声で隼の名を呼んだ白ウサギだった。声といい口調といい、ただのウサギがこんなにも幼馴染みの少女の印象と重なることがあるだろうか。その意味を考えるのはあまりに恐ろしく、隼は奥歯を噛みしめた。
「――くそっ」
月の国にきてから水一滴さえも口にしていない。きっとそのせいで思考が鈍っているのだ。そう自身に言い聞かせて、隼は走ることだけに集中した。
「有毅が望んだ?」
隼が怪訝に反復すれば、ツクヨミは鷹揚な仕草で盃をお膳に置いた。
「そう。ユウキが望み、その通りにことが運んだ。今起きているのは、それだけのことだ」
ツクヨミの言うことは、隼を動揺させるには十分なものを含んでいた。もちろんとても信じられるものではなかったが、確かめないわけにもいかなかった。
「有毅、一体どういう……」
ことだ、と続けようとして隼は声を途切れさせた。振り向いて見た有毅の顔が真っ青だったからだ。血の気の引いた顔は視点さえも虚ろで危うい。ただでさえ希薄な存在感がさらに遠退くように感じられ、隼は焦って引き留めるように有毅の二の腕をつかんだ。
「おい、有毅」
耳元で呼びかけて、ようやく有毅は我に返った様子で隼を見た。
「有毅、大丈夫か」
隼を見る有毅の瞳が、いまだ震えていて不安になる。有毅は隼の問いかけには答えず、不安定なままの眼差しをツクヨミへと戻した。
「……ぼくが、ここに?」
「汝のその姿がなによりの証左だ。いないとでも思っていたか」
ツクヨミの嘲る声色に、有毅は口を引き結んだ。
その時だった。寝殿の奥から、小走りに近づいてくる足音が聞こえた。弾かれたように有毅が立ち上がり、突然のことに隼はぎょっとした。有毅の姿が透け、消え失せる――直前、ツクヨミがお膳の椀を投げた。朱色の汁椀が有毅に打ち当たり、冷めかけた中身が降りかかる。
「ああああっ」
有毅は悲鳴をあげた。透けていた体の色が戻り、崩れるようにうずくまる。
「有毅!」
隼は咄嗟に有毅を助け起こした。有毅はあがくように隼の腕を押しのけた。
「早くここを離れないと。でないと、ぼくが……」
近づく足音がついに寝殿の床板を震わせた。思わず身構える隼の前で、奥の襖が倒れる。そうして現れたのは、真っ白なウサギだった。
白ウサギは息を切らせて肩を揺らしていた。見開かれた目は赤く、じっと隼たちの方を見ている――否、おそらく隼は意識に入っていない。有毅をだけ見ているのだ。
有毅が怯えたようにしがみついてきた。しかし隼には、現れた白ウサギと他のウサギになんら違いはないように見えた。
「ユウキ」
ツクヨミが呼んだ。彼の涼しい眼差しが注がれているのは、白ウサギだった。白い袖を持ち上げ、ツクヨミは隼たちを示した。
「有毅だ。挨拶しなさい」
瞬間、白ウサギが大きくなったように見えた。純白の体毛が逆立ったのだ。白ウサギは赤い目をひたと有毅に合わせたまま、両前脚を床についた。
「ユウキー」
また別の声が呼んだ。少々間延びしたそれはあまりにも耳に馴染んだ少女の声で、隼ははっとした。声は、白ウサギがやってきたのと同じ方向から聞こえた。
「ユウキってば、急にどうしたの。衣兎様が驚いてたよ」
声と一緒に赤い柱の影から顔を覗かせたのは、もう一羽の白ウサギだった。隼は刹那、呼吸を忘れた。
後からきた白ウサギは、先に現れた白ウサギへと小走りに寄った。二羽のウサギは毛並みも目も揃えたように同じ色で、体格もよく似ていた。
「あーあ。大きい音がしたからどうしたのかと思ったら、襖を倒すなんてなにしてんの。ほら、早く元通りにして」
少女の声で世話を焼くように言ってから、二羽目の白ウサギは隼たちの方に向き直った。
「お客さんがきてたのに、騒がしくしてすみません。すぐに戻りま……」
二羽目の白ウサギと、隼の視線が交差した。白ウサギは驚いたように目を見張ったが、隼も白ウサギから目を離せなかった。
白ウサギの少女は数度、口を開け閉めした。それは発する言葉を迷うか、思い出そうとしている仕草のようだった。隼は嫌な予感に心臓が早鐘を打つのを感じながら、祈る心地で白ウサギを凝視した。
時間をかけて、白ウサギの少女はやっとひねり出したように言った。
「……隼?」
喧しかった心臓が一瞬鎮まり、背筋が冷えるのを隼は自覚した。
「有理沙、か?」
白ウサギの少女が、返事のために口を開きかけた。
その時、もう一羽の白ウサギが床を蹴った。
隼がまばたきする間に、白ウサギは目前にいた。体当たりをさけるように、咄嗟に体をそらす。しかし白ウサギが真っ先に飛びかかったのは、うずくまっている有毅だった。
「ユウキ!」
少女の声が叫んだ。けれどそれが、人とウサギどちらの有毅に向けられたものなのか隼には分からない。
ウサギのユウキが、少年の有毅の胸へと全身でぶつかる。有毅が衝突の勢いのまま後ろへとひっくり返った。見た目は派手に床に打ち当たったが、音をたてたのは蹴倒されたお膳だけだった。画と音が合わぬ奇妙な光景に、隼は咄嗟に反応ができなかった。
ウサギは有毅の胸を後脚で踏みしめ、首へと前脚を押しつけた。
「消えろ!」
ウサギが有毅と同じ声を張り上げた。
「消えろ消えろ、消えろ!」
「いやだ!」
首を押さえるウサギの前脚をつかんで、有毅も叫び返す。しかしその顔は、ますます血の気がなかった。
一人と一羽の応酬を座したまま見ていたツクヨミがやおら立ち上がった。その口元に崩れぬ笑みがあり、隼は身構える。
「ユウキ、そこまで乱暴にする必要はない。ひとたび始まれば痛みもなくすぐに終わる」
ツクヨミが一歩、組み合う有毅たちに歩み寄った。有毅の悲痛な叫びが一層高くなる。痙攣するようにのけぞった少年の体が、かすむように揺らいだ。歩み寄ったツクヨミの手が、有毅に向かって伸ばされる。
「触んな!」
隼は我に返って叫び、かたわらに置いていたスポーツバッグを立ち上がりざまにツクヨミへ叩きつけた。手を引いたツクヨミに向かって、肩紐をつかんだバッグをさらに振り回す。
「威勢のいいことだ」
「うるせえ!」
隼は力いっぱいバッグを振り切った。それをツクヨミは手で払うように跳ねのける。衝撃で、開きかけたバッグのファスナーの隙間から、小さな紙片がいくつかこぼれ出た。
親指の先ほどの白紙が、花びらのように宙を舞う。降り注ぐそれにひるむように、ツクヨミが素早く後退した。ツクヨミの様子の変化に気づき、隼はファスナーの隙間から素早くバッグに手を突っ込んだ。鷲づかんだ紙片を思い切り投げつければ、ツクヨミは不快そうに顔を歪めてさらに後ずさった。
その隙に隼は身を回転させ、有毅につかみかかっているウサギを蹴り飛ばした。ウサギは甲高い鳴き声をあげ、ボールのように軽々と庭の方へ吹っ飛んだ。小動物を蹴るのはあまりに心が痛んだが、今の隼には友人を助ける方が重要だった。
「有毅、おぶされ」
スポーツバッグを腹側にかけて、隼は素早く有毅の腕を引いた。有毅に重さはないので、かつぎあげるのに力はいらない。両肩にかけさせた腕が波打つ水面のように揺らぐのを見て舌打ちする。駆け出した隼は簀子を飛び降り、素早くスニーカーを引っかけた。
敷き詰められた玉砂利に足をとられそうになりながら、隼は必死で金の木々の間を駆け抜けた。背負った有毅に重さはなくとも、耳元で苦しげなうめきがあがるたびに心臓がぎりぎりと引き絞られる心地がした。
なにより隼を打ちのめしていたのは、少女の声で隼の名を呼んだ白ウサギだった。声といい口調といい、ただのウサギがこんなにも幼馴染みの少女の印象と重なることがあるだろうか。その意味を考えるのはあまりに恐ろしく、隼は奥歯を噛みしめた。
「――くそっ」
月の国にきてから水一滴さえも口にしていない。きっとそのせいで思考が鈍っているのだ。そう自身に言い聞かせて、隼は走ることだけに集中した。