(はやと)は極力音をたてぬよう慎重にススキを掻き分け、その細い隙間から見えたものに息をのんだ。踏み固められた白い道を、ウサギが二本脚で歩いていた。

 隼はさらに慎重にススキの茎から手を離し、隣で隼と同じ体勢で身を屈めている有毅(ゆうき)少年を見た。


「ウサギって、二本脚の動物だったか?」


 声をひそめつつも、隼はつい問いただす口調になった。

 垣間見たウサギの三角形の鼻や、そよぐ長い耳、小さな尻尾は動物園や小学校の飼育小屋で見たものと一致する。けれどそれが二本脚で歩いているとなると、話は別だった。


「ここのウサギはみんな二本脚で歩けるんだ。人の言葉も話せば餅つきもするし、商売もする。姿がウサギってだけで、人と大して変わらない」


 有毅は少しも意外でないように言う。日本でない場所にきた以上は常識が通じないことは重々承知しているつもりだったが、隼は面白くないものを感じた。


「そういうことは言っておいてくれ。事前情報が少な過ぎやしないか」

「ぼくは言ったよ。月の国にいるのはツクヨミと奥方とウサギたちだけだって」

「そう言われても、二本脚のウサギだとは思わないのが普通だと思うぞ」

「そうかなぁ」


 本当に納得がいかなそうに有毅が言うものだから、隼はげんなりして目をすがめた。


「人から見えなくなって、人の常識も抜けたんじゃないか」

「んー、それは確かにそうかも」


 嫌味のつもりの言葉をあっさりと認めてしまうところがあまりに有毅らしい。月の国へくるまでに感じた頼もしさはなんだったのかと、隼は脱力した。

 有理沙をとり戻すために月乃浦(つきのうら)神社の竹林から月の国へとやってきた隼は、有毅に導かれるままススキの原を進んできた。銀色の野原は果てしなく見えたが、意外と早く終わりに着いた。方角も判然としないほど平坦だった野原がわずかに下り坂になったところで途切れ、今度は見渡す限りの田園が現れたのだ。

 碁盤の目のように規則正しく区切られた田んぼには水が張られ、ウサギたちが背中を丸めて田植えをしている。かと思えば、別の一面では黄金色の稲穂が頭を垂れていて、刈りとりの真っ最中だ。田んぼ一面ごとに季節が違っているとしか思えない光景は美しくはあったが、隼の中では奇妙さが上回った。

 とにかくまずは様子を窺おうと、隼たちは慎重に身を隠して坂を下り、今に至っている。


「それで、このまま出ていって大丈夫なのか。ウサギが攻撃してくることはないんだろう」


 有毅は少し唸るような声を出したが、そこに深刻そうな色はなかった。


「大丈夫だとは思うけど、ぼくは一旦、姿を消すよ。ぼくが近くにいると怪しまれるかもしれない」

「ウサギには有毅の姿が見えるのか」

「ここが本来ぼくがいるべき場所、とも言えるかもしれない。今のぼくは、存在としては隼よりもウサギに近いんだ」


 当然のような口調で有毅は言いながら、一度自身の手の平に目を落とし、また隼へと視線を戻した。


「ぼくは見つからないように、姿を消して少し離れたところをいくよ。ただ、そうするとなにかあったときに咄嗟に助けるのが難しくなる。さっきも言った通り、ここのものは絶対に食べてはいけない。ウサギたちは隼をもてなそうとするだろうけど、とにかくツクヨミの所へ案内して欲しいとだけ伝えるんだ。彼らなら、きっとそれでツクヨミのところまで連れていってくれる」

「そんなにうまくいくかねぇ」


 隼は危ぶんだが、有毅は自信があるようだった。


「大丈夫。月の都までもそれほど遠いわけじゃないし。それじゃあ、ぼくはもう消えるから」


 最後の言葉と同時に、有毅の体が透けた。隼は反射的に呼び止めようとしたが、伸ばした手は空をかいた。少年の姿は跡形もなくなり、隼はいき場をなくした手をそのまま持ち上げて頭をかいた。


「本当にマイペースなやつ」


 隼はぽつりとだけ呟いてから、意を決するように息を吐いてススキの隙間に手を入れた。

 勢いをつけてススキの間から隼が飛び出せば、田んぼを囲う道を歩いていたウサギが跳びあがって振り向いた。よほど驚いたのか、茶色の耳と髭をぴんと立てて隼を凝視する。体まで真っ直ぐに伸ばしたウサギがあまりにもつぶさに見てくるので、隼も思わず硬直して見返した。

 ウサギは体の大きさに見合わないほど大きな(すき)をかついでいた。人が普通に使う鋤と大差はないかもしれないが、ウサギの体が小さいので余計に大きく見える。有毅が大丈夫だと言っていたものの、隼は警戒しながら口を開いた。


「あの、ちょっと道を聞きたいんだけど……」


 隼の声に反応して、ウサギの耳が震えた。真っ黒いつぶらな目が、こんなに大きくなるのかと思えるほどに見開かれる。想定以上に驚かせてしまったらしく、もしやまずい事態になるのではと隼は焦った。けれど、それが杞憂であることはすぐに判明する。

 ウサギが、大きな後ろ足で強く地面を叩いた。

 たーん、と。毛に覆われた脚が奏でたとは思えない高い音が響き渡った。


「みんなぁ! お客様だ!」