穴の底に着いた隼は、一面のススキの原に感嘆の息をもらした。


「すっげぇ……」


 ススキが波打つたび銀の野原をきらめきの走るさまは、この場所にきた目的をつかの間忘れさせるものだった。隼がつい景色に見入っていると、隣に並ぶように有毅が姿を現した。


「綺麗な場所だよね」

「本当に月なのか、ここは」

「そうだよ」


 有毅は腕を掲げ、頭上を指差した。


「あれが地球。ぼくらは、あそこからきた」


 有毅が示す先を追って、隼は空を仰ぎ見た。普通の夜空ならあるだろう濃淡がまるでない真っ黒な空。そこに満月のように円を描く大きな星があった。表面で渦を巻いている白い模様は雲だろうか。


「まじか……」


 隼の中で月へいくといえば、アポロ11号の月面着陸映像なのだが、竹林の穴を通ってきたことといい、どうもかなりイメージと違う場所らしい。根の国という言葉がつい頭に浮かび、縁起でもない、と隼は考えを振り払うように首を振った。死者の国とまで言わなくとも、概念的に近い空間ではありえるかもしれないが。


「有理沙は、どこにいるんだ」


 言いながら、隼はススキの原へと視線を戻した。前後左右、見渡す限りの銀の野原に起伏はなく果てもない。だからこそ他に誰かいれば見えそうなものなのだが、人らしき影は見えなかった。


「きっと、ツクヨミのところにいる」

「ツクヨミ?」


 聞き捨てならず、隼は眉間を厳しくして有毅を見た。


「ツクヨミって、古事記に出てくる、月神の?」


 慎重に問うた隼に、有毅は首を横に振った。


「ツクヨミとは名乗ってるけど、彼は神様とか、そういうものじゃない。人ではないことは確かだけど。ツクヨミ自身も、自分がなんなのかは分かっていないんだと思う」


 淡々と語る有毅の表情が強張っている。それで隼は、ツクヨミとやらがどんな存在かおおよそ察した。


「それで、有理沙はそのツクヨミにつかまって閉じ込められてるってことか」


 有毅はまた首を横に振った。


「閉じ込められているってことはないと思う。むしろ歓迎されて、もてなされてるんじゃないかな」

「は? ツクヨミっていうのは悪いやつじゃないのか?」

「ぼくにははっきり分からない。ただ……」


 言いよどむように、有毅は言葉を途切れさせた。わずかに唇を噛み、考え込む様子で沈黙する。隼が言葉の続きを待っていると、有毅は息を吐いてこちらを見た。


「隼、これからぼくが言うことは、絶対に守って欲しい」


 有毅が声色を変えたので、隼は体ごと向き直った。ここが隼の知らない場所である以上、頼りになるのは有毅しかいない。

 有毅は言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を発した。


「ここの食べものを、絶対に口にしてはいけない」

「食べたら、どうなるんだ」


 訝しむ隼に、有毅は一呼吸置いてから続けた。


「月の国のものを食べた生き物は、月の国のものになってしまう――帰れなくなるんだ」


 隼は、有毅の言葉の意味が咄嗟に入ってこなかった。ただ、胸の内でざわりとしたもの恐ろしさが首をもたげた。血の気が引くのを感じながら隼は有毅を見詰めた、次の瞬間には眼差しを鋭いものにした。


「そのこと、有理沙は知ってるのか」


 有毅は気まずそうに瞳をさまよわせ、隼から目線をそらした。


「有理沙は知らない。伝える余裕がなかった」


 反射的に距離を詰めて、隼は有毅の襟をつかんだ。


「有理沙はツクヨミにもてなされてるって言ったな。それって当然、食事も出されてるんじゃないか」

「……おそらく」


 目を合わせないまま呟くほどの声で有毅が言い、隼は頭に血がのぼった。


「有理沙はもう帰れないとか言わないよな」


 突き飛ばすよう襟を離せば、有毅が尻餅をついた。触れる質量が感じられないので、どうにも気持ち的なすわりの悪さを伴う。有毅に怒るのはお門違いだとはどこかで思いながら、隼は憤りを抑えられなかった。様々な悪態が頭をよぎったが、それを口にするのだけはどうにか堪えた。


「……ごめん。でも、戻す方法があると思うんだ」


 囁くように有毅は言い、シャツの襟を整えながら立ち上がった。


「まだ有理沙はこちらにきたばかりだから、食べ物が完全に体に馴染む前なら、きっと間に合う。でも、隼まで月の国のものになってしまったら、もうぼく一人ではどうにもできない」


 有毅は、うつむけていた顔を上げた。


「月の国にはツクヨミと、その奥方、それからツクヨミが集めたウサギしかいない。ウサギたちは善良だから攻撃してくることはない。でも、だからこそ、ここでは一番危険なんだ。彼らは悪意なく、色々なものを食べさせようとしてくるから」


 進み出た有毅は隼の横を通り過ぎ、数歩いった先で振り返った。


「これからぼくらは、ツクヨミのいる輝夜殿(かぐやでん)に向かう。輝夜殿のある月の都の住民はみんなウサギなんだ。だから、本当に気をつけて」


 有毅がいく先を示す。隼はまだ憤然として納まらないものを感じていたが、深く息を吐いて冷静さをとり戻す努力をした。有毅の言う通りであるなら、内輪でもめている余裕はない。


「……分かった。十分に気をつける」


 自分をとり戻して隼が了解すれば、有毅は口元に薄く笑みを見せた。


「心配だな。隼は優しいから」

「どこがだよ」


 隼は本心から返したが、有毅は笑い声を立てただけだった。


「悪かったな。乱暴なことして」


 気をとり直すように隼が謝罪すれば、有毅は目を伏せてから首を横に振った。


「ううん。ぼくも悪かったんだ。さっきも言った通り、きっとまだ間に合うと思うけど、ゆっくりしてもいられない。急ごう」


 有毅が先行して歩き出し、隼はすぐにあとを追った。

 ススキをどんなに掻き分け進もうとも、有毅の足音がすることはない。それでも一生懸命に地面を踏みしめるように歩く背中に、隼はある種の頼もしさを感じると同時に、自分も頼られているのだと実感した。

 有毅だけならば、歩く必要などないはずだ。それでもあえて隼に合わせて歩いている。それほど有毅は、隼の力を必要としてくれているのだ。

 有理沙と有毅、必ず二人とも助けてみせると改めて誓って、隼は銀の野原を突き進んだ。