「危ない!」


 叫び声に、吉野有理沙(よしのありさ)は反射的に振り向いた。西日を背に、黒々とした丸い影がこちらに向かってくるのが見えた。影が震えるように揺れた気がして目を凝らすと、長い耳が二本、影の上部にひょこりと現れた。


「ウサギ?」


 有理沙が思わず呟いた瞬間だった。顔面を衝撃が襲った。


「あだぁっ!」


 たまらず叫んで、尻餅をつく。有理沙の顔を直撃したものは、頭上へと跳ねあがり、やがて落ちて地面を数度跳ねて転がった。


「いったぁ……」


 顔のど真ん中にくらったせいで、視界がくらくらする。血の匂いはしないので鼻血は出てはないようだが、すぐには立てそうになく、有理沙は両手で顔を押さえてうずくまった。スカートの下は体操着を履いているので多少変な体勢になるのは平気だけれど、紺の制服と鞄が砂で真っ白になるのは、いかんともしがたかった。


「有理沙!」


 グラウンドで練習していたサッカー部員の一人が、こちらへ走ってくるのが指の間から見えた。なぜ彼が、と考えながらかたわらを横目に見やれば、白黒模様のサッカーボールが転がっていた。

 奇妙に思って有理沙が首をひねっていると、青い縞のユニフォームが視界を占めた。


「大丈夫か」

「……(はやと)


 気遣うように顔を覗き込んでくる幼馴染みに、有理沙はちょっと眉をしかめる。隼が手を差し出してきたので、左手は鼻を押さえたまま、右手で彼の手をとった。


「危ないって言ったのに、なにぼーっとしてんだよ」


 助け起こしながら隼が言い、有理沙はむっとして、彫りの薄い彼の顔をにらみつけた。


「ボールをぶつけてきたのはそっちなんだから、謝るのが先でしょうが。嫁入り前の顔に傷がついたらどうしてくれんの」


 下ろした手を腰に当てて有理沙が上目に詰め寄れば、隼はなだめるように両手をかざして苦笑した。


「悪い悪い。おれが悪かったって。それより有理沙、鼻が真っ赤だぞ」


 指摘され、有理沙は思い切り隼の腰を蹴りつけた。


「いてっ」


 よろめく隼に向かって、有理沙は憤然と仁王立ちする。


「ばか隼! それが怪我させた女子に言うこと? デリカシーないにもほどがあるんじゃないの?」


 声を大きくした有理沙に、隼は腰をさすりながらちょっと片眉を上げた。


「違うって。おれなりに心配をだな……」

「おーい」


 今にも言い争いを始めようとする二人を、別の声が遮った。顔を向ければ、他のサッカー部員たちがこちらを見ていて、二人に一番近い一人が手を振っていた。


「痴話喧嘩するのは構わないけど、先にボールをとってくれないか」


 これが、有理沙の怒りに油を注いだ。むかっ腹を立てたまま、有理沙はボールを拾い上げた。そのまま駆け出すと同時に、前方へとボールを放る。


「これでもくらえ!」


 ワンバウンドしたボールを、力いっぱい蹴り飛ばした。

 怒り任せの剛速球はサッカー部員の頭上を飛び越え、コートを横切り一直線にゴールへ向かう。皆の視線が注がれる中、ボールは美しい放物線を描き、ゴールポストの上を通り過ぎた。


「あ」


 ロングシュートを決める気満々だった有理沙の口から、間抜けた声が出る。

 ボールはさらに飛距離を伸ばし、フェンスまでをも越えた。がさりと、クマザサの藪が大きく揺れた。


「やば」

「あーあ」


 有理沙の呟きに、隼の呆れ声が重なる。数歩進み出た隼は腕を組んで、横目に有理沙を見下ろした。


「とってこいよ」


 有理沙は唇を尖らせた。


「えー。あそこは隼んちでしょ。隼がとってきたらいいじゃん」

「ボール飛ばしたのは有理沙だろうが。入って怒られるような場所じゃねえんだから、さっさといってこいって」

「ちぇー」


 不満に頬を膨らませつつ、有理沙は鞄をその場に置いてグラウンドを駆けた。

 新たに出してきたボールで練習を再開するサッカー部員を横目に見ながら、有理沙は走り込みをする陸上部のわきをすり抜けて、学校の敷地を囲うフェンスにとりついた。きしむ音を立てる金網をローファーで蹴るように、一息にのぼり切る。軽々とフェンスを乗り越え飛び降りた先は、幼馴染みの隼こと松本隼(まつもとはやと)の自宅――月乃浦(つきのうら)神社の敷地だった。

 月乃浦神社の歴史は紀元前にまで遡れると、隼が言っていたように記憶している。さして関心がなかったので詳細は忘れてしまったが、切妻屋根の社殿は古ぼけているし、高校の校舎がまるごと入りそうなほど広大で遠目にもこんもりと茂る鎮守の森は、確かに歴史がありそうだというのが有理沙の印象だった。

 着地した体勢から体を伸ばした有理沙は、見える限りの地面を覆うクマザサを見て頭を掻いた。

 ひと抱えはありそうな大木が立ち並ぶ森は、複雑に重なり合って茂る枝葉に日差しが遮られ薄暗かった。ぽつぽつとした黄色いまだらを描く木漏れ日は、クマザサの葉の上で揺れるばかりで地面に届きようもない。この暗い薮を掻き分けてのボール捜索となると、勝手知ったる場所とはいえ、なかなか骨が折れそうである。


「……やるしかないか」


 息を吐いて軽く気合を入れ、有理沙は泳ぐように藪を掻き分けた。


「有理沙」


 ボール捜索を開始した矢先に呼ぶ者があり、有理沙はすぐに顔を上げた。真正面に細身の少年が立ち、身を屈めている有理沙を見下ろしていた。糊のきいた白のワイシャツに紺ズボンとストライプ柄のネクタイを合わせたその装いは、有理沙が所属する高校の制服だ。


有毅(ゆうき)。いたの」


 少年は色素の薄い瞳を細くして、ふと笑んだ。


「ぼくはいつだっているさ」

「それもそっか」


 つられるように、有理沙は少年と同じ色の瞳を細めて笑い返した。

 有毅は有理沙の双子の弟だ。生まれる前からずっと一緒で、離れていたことがあるのは、たった一度だけ。そしてその一度以来、有毅の姿は――有理沙にしか見えない。