◇◇◇
「わあ……良い香りですね。アロマオイル?」
「僕が調合したオイルなんだ。眠れない時にはコレが一番効くと思う」
「調合? 凄いですね、そんな事までやっちゃうんだ……。というか、成瀬さんって本当に司書が本業?」
「え、どうして?」
「実は本業……保育士か看護師か執事でしょ。人の世話焼くのが完璧すぎるもの」
「まさか。司書一筋だよ。趣味が多いだけさ」
リビングのソファーに並んで座って。私達はアロマポットのキャンドルの灯りと、部屋の隅で灯るアンティークランプだけで過ごす。
雨音は断続的に。成瀬さんの低い声は優しく。
部屋にはアロマの、甘い花の様な香りが舞う。
少しだけ沈黙が流れて、その静かな数分が音の無い子守唄みたいで心地良い。
「雨は苦手だったよね?」
沈黙を破ったのは成瀬さんだった。
すぐ横に座る成瀬さんを見上げると、彼は窓の向こうに視線を投げたまま。 その目は、窓の向こうなんかよりもっと遠くを見ている気がした。
「うーん……苦手なのかな? そういえば苦手かも。なんかこういう日って、鬱々としちゃいますよね」
「天候も、精神的な部分に訴えかける要素の一つだから」
「はあ……。あれ?」
自然なようでいて、でもどこかに引っかかりを覚える会話。雨は苦手か、という話だったけど……成瀬さんの最初の言葉は確認みたいじゃなかった?
『雨は苦手だったよね?』――?
「私……前に雨が苦手とかどうとか、話しましたっけ?」
「ああ、うん」
成瀬さんは即答で頷いた。
そうだったっけ?
私は考えて、雨について語った記憶があるか探る。でも、どうしても思い出せなかった。ここにきて一か月……勿論その内に雨の日だって何日もあった。その日の事、行動、思い出せる範囲の出来る限りを考えても、やっぱり雨についての会話があったか思い出せない。たわいもない会話過ぎて、膨大な記憶の海に沈んでいるんだろう。
「よく覚えてますねぇ、成瀬さん」
「陽菜さんに関することは忘れないよ」
「え」
言葉が出てこなかった。かわりに頬が沸騰してしまう。私はそのまま「あ」とか「う」とか詰まった一文字しか出せず、しまいには視線まで泳いじゃって。
これじゃあ「動揺してます」とバレバレだ。勝手にどんどん熱くなる頬が恥ずかしい。たった一言で馬鹿みたいに意識しちゃう浅はかさが、恥ずかしい……。
「陽菜さんのことならどんなことでも覚えてるよ。初めて会った時の驚きと困惑に満ちた表情や、戻れる場所があったんだと静かに喜んでいた瞳。ここに来た時の不安、図書館で見せた好奇心――」
突然、成瀬さんの掌が私の頬に触れた。ひんやりした温度が熱くなっていたそこをふわりと包み、温と冷が混じり始める。
「な、成瀬さ、ん?」
「――僕を見る……澄んだ眼」
「あ、あの……」
心臓が止まるかと思った。
もともと成瀬さんは距離に躊躇しないところがある。彼自身のパーソナルスペースは随分と寛容らしく密接距離は当たり前で、その距離の近さに何度度肝を抜かれた事か……。でも、こんな風に触れられたのは初めてだ。
仄明かりの中でこちらを見つめる、前髪の奥に隠れがちな成瀬さんの目。目では何かを囁いてるのに唇から音は漏れない。そこから生まれた沈黙は、さっき感じた心地良さとははるかに違っていた。しっとりとした甘い気怠さ。何故こんな感覚を知ってるのか分からないけど、全身が蕩けそうになる。部屋に漂う甘い花の香りが、その感覚を更に強くさせていた。
……朦朧としてくるのは、のぼせ上った自分のせい? それとも、この部屋に蔓延する甘い香りと、成瀬さんが放つ妙な色気のせい?
どうしよう。クラクラする――。
「……ごめん。今のちょっと気持ち悪かったかも。忘れて」
私は無言で首を振った。
「……あ。か、香り」
「香り?」
「これって薔薇ですか?……すごく良い匂いですよね。アロマオイル……」
「うん。数種の薔薇をメインに誘眠作用のあるハーブ等を配合してる。それから――」
場を誤魔化そうと自分から話を振ったくせに、私はそれをぼんやりと聞いていた。成瀬さんの声が、近くて遠い。時々急降下する意識を感じて、どうやら今説明を受けている通り、成瀬さんの作ったアロマが効いているんだと分かった。
「効いてきた? いいよ、寝てしまっても。ちゃんと部屋までつれていってあげるから」
クスクスと小さな笑い声。え!? いま笑った? と、戸惑った瞬間にはもうソファーに転がっていた。成瀬さんに押し倒される格好で。
「あ、れ?」
「僕は陽菜さんの方がいい香りだと思う」
「……いや、それはないですね」
「自分では気付いていないだけだよ」
真上で微笑む成瀬さんを見上げつつ、眠気と怠さと気恥ずかしさに立ち向かう。駄目だ。あっさり負けそう……。
押し倒されてるという緊急事態なのに、思考がまとまらない。これは……自分で思ってるよりも私は成瀬さんに心を許してる……から?
――いや、違う、単に眠い。とにかく、眠い。ただそれだけ。効き過ぎだ、成瀬さんのアロマ…… 。
完全に夢の世界へ落ちそうになっていた私。瞼の重さに耐えきれなくなってきた時、耳へ急に強く降り出した雨音が飛び込んできた。風もあるのか窓に打ち付ける雨粒の音が聞こえる。
ああ、そうか。そう言えば今日はずっと――
「あめ……」
ぼそりと呟いた私に、成瀬さんはピクリと反応した。
「私……本当は雨苦手っていうより……キライなんですよね」
眠れない夜のお喋り会は、いつも雨の日開催だった。雨の日にはいつもヨクナイコトが起きて、気分は落ち込み、そして心のどこかで「ああ、やっぱり」と思った。
ジンクスはついてまわる。重なれば重なる程、呪いなんじゃないかと一人で頭を抱えた。だから眠れなくて。はしゃぎ疲れてルームメイトが寝てしまうと、私はひたすら眠りが来るのを待った。
待つことを諦めたのはとっくの昔なのに。
エンドレスに続く嫌な気分。
「雨はキライ」
「陽菜さん……」
成瀬さんの声を聞きながら、私の意識は落ちていく。
「ふふっ……でも可笑しいんです。今日は成瀬さんのおかげで待ってない。嫌な日だったのもついさっまで忘れてた。効きすぎですよ、成瀬さんのアロマ」
「待ってない?」
微睡む時間はほとんど無かった。不思議そうに呟く成瀬さんの表情はもう見れなかった。でも、そのかわりに優しい音が目を閉じた闇の中に降ってきて。
「おやすみ。陽菜さん」
おでこに、あたたかな温度が触れたような気が、する――。
「わあ……良い香りですね。アロマオイル?」
「僕が調合したオイルなんだ。眠れない時にはコレが一番効くと思う」
「調合? 凄いですね、そんな事までやっちゃうんだ……。というか、成瀬さんって本当に司書が本業?」
「え、どうして?」
「実は本業……保育士か看護師か執事でしょ。人の世話焼くのが完璧すぎるもの」
「まさか。司書一筋だよ。趣味が多いだけさ」
リビングのソファーに並んで座って。私達はアロマポットのキャンドルの灯りと、部屋の隅で灯るアンティークランプだけで過ごす。
雨音は断続的に。成瀬さんの低い声は優しく。
部屋にはアロマの、甘い花の様な香りが舞う。
少しだけ沈黙が流れて、その静かな数分が音の無い子守唄みたいで心地良い。
「雨は苦手だったよね?」
沈黙を破ったのは成瀬さんだった。
すぐ横に座る成瀬さんを見上げると、彼は窓の向こうに視線を投げたまま。 その目は、窓の向こうなんかよりもっと遠くを見ている気がした。
「うーん……苦手なのかな? そういえば苦手かも。なんかこういう日って、鬱々としちゃいますよね」
「天候も、精神的な部分に訴えかける要素の一つだから」
「はあ……。あれ?」
自然なようでいて、でもどこかに引っかかりを覚える会話。雨は苦手か、という話だったけど……成瀬さんの最初の言葉は確認みたいじゃなかった?
『雨は苦手だったよね?』――?
「私……前に雨が苦手とかどうとか、話しましたっけ?」
「ああ、うん」
成瀬さんは即答で頷いた。
そうだったっけ?
私は考えて、雨について語った記憶があるか探る。でも、どうしても思い出せなかった。ここにきて一か月……勿論その内に雨の日だって何日もあった。その日の事、行動、思い出せる範囲の出来る限りを考えても、やっぱり雨についての会話があったか思い出せない。たわいもない会話過ぎて、膨大な記憶の海に沈んでいるんだろう。
「よく覚えてますねぇ、成瀬さん」
「陽菜さんに関することは忘れないよ」
「え」
言葉が出てこなかった。かわりに頬が沸騰してしまう。私はそのまま「あ」とか「う」とか詰まった一文字しか出せず、しまいには視線まで泳いじゃって。
これじゃあ「動揺してます」とバレバレだ。勝手にどんどん熱くなる頬が恥ずかしい。たった一言で馬鹿みたいに意識しちゃう浅はかさが、恥ずかしい……。
「陽菜さんのことならどんなことでも覚えてるよ。初めて会った時の驚きと困惑に満ちた表情や、戻れる場所があったんだと静かに喜んでいた瞳。ここに来た時の不安、図書館で見せた好奇心――」
突然、成瀬さんの掌が私の頬に触れた。ひんやりした温度が熱くなっていたそこをふわりと包み、温と冷が混じり始める。
「な、成瀬さ、ん?」
「――僕を見る……澄んだ眼」
「あ、あの……」
心臓が止まるかと思った。
もともと成瀬さんは距離に躊躇しないところがある。彼自身のパーソナルスペースは随分と寛容らしく密接距離は当たり前で、その距離の近さに何度度肝を抜かれた事か……。でも、こんな風に触れられたのは初めてだ。
仄明かりの中でこちらを見つめる、前髪の奥に隠れがちな成瀬さんの目。目では何かを囁いてるのに唇から音は漏れない。そこから生まれた沈黙は、さっき感じた心地良さとははるかに違っていた。しっとりとした甘い気怠さ。何故こんな感覚を知ってるのか分からないけど、全身が蕩けそうになる。部屋に漂う甘い花の香りが、その感覚を更に強くさせていた。
……朦朧としてくるのは、のぼせ上った自分のせい? それとも、この部屋に蔓延する甘い香りと、成瀬さんが放つ妙な色気のせい?
どうしよう。クラクラする――。
「……ごめん。今のちょっと気持ち悪かったかも。忘れて」
私は無言で首を振った。
「……あ。か、香り」
「香り?」
「これって薔薇ですか?……すごく良い匂いですよね。アロマオイル……」
「うん。数種の薔薇をメインに誘眠作用のあるハーブ等を配合してる。それから――」
場を誤魔化そうと自分から話を振ったくせに、私はそれをぼんやりと聞いていた。成瀬さんの声が、近くて遠い。時々急降下する意識を感じて、どうやら今説明を受けている通り、成瀬さんの作ったアロマが効いているんだと分かった。
「効いてきた? いいよ、寝てしまっても。ちゃんと部屋までつれていってあげるから」
クスクスと小さな笑い声。え!? いま笑った? と、戸惑った瞬間にはもうソファーに転がっていた。成瀬さんに押し倒される格好で。
「あ、れ?」
「僕は陽菜さんの方がいい香りだと思う」
「……いや、それはないですね」
「自分では気付いていないだけだよ」
真上で微笑む成瀬さんを見上げつつ、眠気と怠さと気恥ずかしさに立ち向かう。駄目だ。あっさり負けそう……。
押し倒されてるという緊急事態なのに、思考がまとまらない。これは……自分で思ってるよりも私は成瀬さんに心を許してる……から?
――いや、違う、単に眠い。とにかく、眠い。ただそれだけ。効き過ぎだ、成瀬さんのアロマ…… 。
完全に夢の世界へ落ちそうになっていた私。瞼の重さに耐えきれなくなってきた時、耳へ急に強く降り出した雨音が飛び込んできた。風もあるのか窓に打ち付ける雨粒の音が聞こえる。
ああ、そうか。そう言えば今日はずっと――
「あめ……」
ぼそりと呟いた私に、成瀬さんはピクリと反応した。
「私……本当は雨苦手っていうより……キライなんですよね」
眠れない夜のお喋り会は、いつも雨の日開催だった。雨の日にはいつもヨクナイコトが起きて、気分は落ち込み、そして心のどこかで「ああ、やっぱり」と思った。
ジンクスはついてまわる。重なれば重なる程、呪いなんじゃないかと一人で頭を抱えた。だから眠れなくて。はしゃぎ疲れてルームメイトが寝てしまうと、私はひたすら眠りが来るのを待った。
待つことを諦めたのはとっくの昔なのに。
エンドレスに続く嫌な気分。
「雨はキライ」
「陽菜さん……」
成瀬さんの声を聞きながら、私の意識は落ちていく。
「ふふっ……でも可笑しいんです。今日は成瀬さんのおかげで待ってない。嫌な日だったのもついさっまで忘れてた。効きすぎですよ、成瀬さんのアロマ」
「待ってない?」
微睡む時間はほとんど無かった。不思議そうに呟く成瀬さんの表情はもう見れなかった。でも、そのかわりに優しい音が目を閉じた闇の中に降ってきて。
「おやすみ。陽菜さん」
おでこに、あたたかな温度が触れたような気が、する――。