ヴァッサーゴの隻眼『雨の日の来訪者』

 ◇◇◇

 今日の天気は朝から雨。
 でも、来館者が少ないのは雨のせいじゃない。これが普通、日常的。この図書館はやたら来館者数が少ないのだ。それは何故か。理由は沢山あって……。
 一つ目。街の中心部には、ここよりはるかに大きい市立図書館がある
 二つ目。町のはずれ、しかも丘の上の私立図書館は利用には不便
 三つ目。置いてある本がマニアック(成瀬さん談)
 と、こんな感じなんだけど、私はやっぱり決定的な理由はこれだと思う。
 四つ目の理由。幽霊が出るともっぱらの噂
 図書館と隣に建つ住居の屋敷は、大正時代に建てられた洋館というアンティーク度の抜群さ。外観も内装も歴史の重みを受けてかなり雰囲気がある。
 だから、丘の上に人目を避ける様に建つ古い洋館――しかもそこには幽霊が……という噂がついてまわれば、避けられるのも納得かな。実際、私も初めてここを見た時は空気に圧倒されて言葉が出なかったし。
 ただの噂でしょ、そう言って笑う人は少なくない。ここに来る利用者の大半がそう(・・)だ。
 彼らは、噂だと思っているからこそ来る。

 雨は相変わらず降り続いてた。微かな雨音が、私の居るカウンターにも届く。
 成瀬さんが淹れてくれた紅茶で休憩した私達は、再び午後の静かで暇な時間から逃れる為に、お互いの作業に戻ることにした。
 成瀬さんは二階の司書カウンターへ。私は解読難のリストとにらめっこしながら貸し出しカウンターに。
 あまりにも難しい読書のせいで眠気と戦っていたその時だった。
「すみません」
 女性の声が頭上でする。
 いけない。戦ってた筈がいつの間に負けて居眠りしてたみたい。誰かが来館したのに全く気付かなかった。はっと我に返った私は顔を上げた。
「………あ」
「《ヴァッサーゴの隻眼》を探しているんです」
 目の前には俯いた女性。人が苦手なのか、私とは目を合わさず立っている。
「《ヴァッサーゴの隻眼》を探しているんです」
 彼女はもう一度同じ事を言った。雨の中やってきたその女性は、全身びしょ濡れだった。
「あの……大丈夫ですか? 傘は――」
「…………」
「寒くないですか?」
「…………」
 うーん……。
 無言の女性に、しかたなく館内案内図を取り出してカウンターに広げる。
 私がそれを指さすと、女性も長い髪を揺らし近づいてきて案内図を覗き込んだ。
 雨の香りが女性からした。濡れた土の香り。
「二階の一番奥、司書カウンターがありますからここへ。うちの司書がご案内します。すみません、私新人でまだちゃんとご案内出来ないもので……」
「……二階……司書……」
 カウンターの上にパタパタと滴が落ちる。自分の髪から落ちる水を気にもせず、女性は単語を繰り返した。
「あの」
 その状態で行くつもりなのかな? と私は困ってしまう。長いスカートからも滴は落ち続け、床だってすでに相当濡れてるっていうのに……図書館中を水浸しにするつもりだろうか、この女性は。
「ちょ、ちょっと待ってください。今タオルを」
 奥の事務室に確かあったはず。私は女性に声を掛け、タオルを取ろうと事務室へ振り返る。でも、その瞬間背後で声を聞いた。女性の「二階……」という呟き。低く抑揚の無い声に背筋が思わずぞっとした私は慌てて彼女を見た。
 女性が、いない。
「……!」
 今そこにいたはずの人が消えていた。それどころか、あんなに濡れていたカウンターや床も濡れていなかった。
 まるで時間を巻き戻したかの様にそこは綺麗で、誰か――雨に濡れた女性がいた形跡は全く無く。一分足らずの出来事が奇妙な記憶として私に残る。
 ああ……そうか、と奇妙なそれは納得いく理由に変わった。
「また、か……」
 脱力した私は椅子に勢いよく背中を預けた。カウンターから見える階段を見つめて、成瀬さんはどうしてるのかと考える。あの女性は、私の案内通り彼のところへ行った……?
 この図書館には幽霊が出る。
 それは単なる噂でしかないはずなのに、実際ここに近寄る人は少数でしかない。
 何故か?  多分、みんなは無意識の内に何か感じているんだと思う。
 ここは怖い ここは危険 近寄りたくない
 そんな感じのものを。
 最初私がこの洋館を見た時に感じた、言葉も出せないほどの圧倒的な重い空気を。
 この図書館には幽霊が出る。噂なんかじゃない。本当だった。
『彼ら』はここに現れる――。
 私がその目撃者だ。

 ベッドの上で何度も何度も寝返りを繰り返しているうちに、いい加減自分の行動にウンザリしてきた。眠れないのに寝ようと頑張るのは不毛だ。そして意外にストレスがかかる。無理なもんは無理。
 幸い明日は日曜日だし、大学も館長もお休みの日(成瀬さんは出勤だけど)だ。もうこうなったら……眠くなるまでとことん起きてるしかない!
 今度は「開き直ろう!」と頑張ってみる(?)事にした私は、ベッドを降りた。
 施設の時の部屋と違って、ここにはルームメイトもいない。二段ベッドが部屋の半分を占拠してる訳でもない。広々としていかにもお嬢様のお部屋という部屋。眠れない夜に友達とお喋りを楽しんだ小さな四畳半とは訳が違う。なんだか少しだけ……寂しい気分になった。
 昼間からずっと止まない雨は、弱いリズムを延々と繰り返している。
 しとしと……雨の音。じっとりとした、肌に触れる重い空気。
 広い部屋に一人でいると、寂しさとは似て非なるネガティブ思考に悩まされた。
――怖い……まさか、この私が?
 雨の音に混じって小さな声が聞こえた気がして私は窓に向く。誰かなんて居るはずない。カーテンを開けても暗い夜しか見えない。
 だけど、窓の向こうに何かがあるようなこの変な感じが……とても気味が悪かった。こんな事を思うのは昼間会ってしまった幽霊のせいだ、きっと。
 水が滴るほど濡れた姿。俯いて見えない顔……更にそれを隠すような長い髪。低い声は酷く気怠そうだった。
 幽霊を見たのは初めてじゃなかった。そういう体質なのか、私は昔からよく《生きていない人》を見ていたから。学校でも街中でも、私にはその人たちが普通の人と同じ様に見える。ただ少しだけ影や輪郭が薄く見えるから、自分とは違うのだと区別出来ただけ。うっかりすると気が付かずに接してしまい、その度に他人には気味悪がられた。
 そんな事を十数年繰り返してきたんだし。幽霊なんて実は慣れっこ。
「……のはず、なんだけどなぁ……」
 今日見たあの人は強烈だった。あんなのは初めてで。今もしっかり思い出せるくらい。
 五感に訴えてくる存在の強さは、下手したら影薄く生きてる人間よりも上。彼女が(まと)っていた濡れた土の匂いとか息遣いとか……全部がリアルに、耳と鼻と目に残ってる。
 部屋を出て私はキッチンに向かう事にした。
 何か飲もう。あたたかいものを飲んで鮮烈なネガティブイメージが弱まれば、眠気も諦めて出て来てくれるかもしれない。
 ◇◇◇

「陽菜さん? どうしたの、こんな夜中に」
 キッチンが明るかったので「もしかして……」と思ったけど、やっぱり。
 夜中のキッチンに現れた私に、パジャマ姿の私と違ってまだ私服のままの成瀬さんが驚き顔で振り向く。
 薄暗い廊下を歩いてきた私には、成瀬さんの真っ白なシャツはキッチンの明るさよりも眩しかった。思わず数回、大袈裟なまばたきをしてしまう。
「いやあ……ちょっと眠れなくて」
「初めてじゃない? こんな事」
「あ、そ……そうですね」
 夜中にキッチンで鉢合わせ。確かにこんな事は初めてだ。そして、これは一つ屋根の下に暮らしてるからこそのシチュエーションなのだと気付き、私は急に恥ずかしくなった。
 成瀬さんは私がここに来る前から、お祖父ちゃんとこの屋敷に住んでいた。住み込みで司書をしていた彼は、祖父の仕事や身の回りの手伝いなんかもしていたらしい。
 司書兼秘書。成瀬さんの肩書はそんな所だ。
 ついでに言うと、昼間は家政婦の(みやび)さんが屋敷内を管理してくれてる。成瀬さんに負けず劣らずの、整った顔を持つ敏腕家政婦さん。
 彼女は住み込みではないのかいつの間にか姿を消すので、夜はこうして成瀬さんと私……広い屋敷に二人きりになる。
「成瀬さんは? その格好……もしかしてまだ仕事してたとか?」
「急遽片付けなきゃならない仕事が出来てね」
「こんな夜中まで!? 働き過ぎですよ、ちゃんと休んでください!」
「はいはい、館長。仰せの通りに。でも今は、眠れない陽菜さんに付き合いたいな。駄目?」
「それは……。駄目じゃない、ですけど」
「良かった」
 成瀬さんは頷いて、二つのカップにお茶を淹れてくれた。カフェインレスなハーブティーから落ち着く香り。この人は本当に……何から何まで親切で優しい人だ――。
 ◇◇◇

「わあ……良い香りですね。アロマオイル?」
「僕が調合したオイルなんだ。眠れない時にはコレが一番効くと思う」
「調合? 凄いですね、そんな事までやっちゃうんだ……。というか、成瀬さんって本当に司書が本業?」
「え、どうして?」
「実は本業……保育士か看護師か執事でしょ。人の世話焼くのが完璧すぎるもの」
「まさか。司書一筋だよ。趣味が多いだけさ」
 リビングのソファーに並んで座って。私達はアロマポットのキャンドルの灯りと、部屋の隅で灯るアンティークランプだけで過ごす。
 雨音は断続的に。成瀬さんの低い声は優しく。
 部屋にはアロマの、甘い花の様な香りが舞う。
 少しだけ沈黙が流れて、その静かな数分が音の無い子守唄みたいで心地良い。
「雨は苦手だったよね?」
 沈黙を破ったのは成瀬さんだった。
 すぐ横に座る成瀬さんを見上げると、彼は窓の向こうに視線を投げたまま。 その目は、窓の向こうなんかよりもっと遠くを見ている気がした。
「うーん……苦手なのかな? そういえば苦手かも。なんかこういう日って、鬱々としちゃいますよね」
「天候も、精神的な部分に訴えかける要素の一つだから」
「はあ……。あれ?」
 自然なようでいて、でもどこかに引っかかりを覚える会話。雨は苦手か、という話だったけど……成瀬さんの最初の言葉は確認みたいじゃなかった?
『雨は苦手だったよね?』――?
「私……前に雨が苦手とかどうとか、話しましたっけ?」
「ああ、うん」
 成瀬さんは即答で頷いた。
 そうだったっけ?
 私は考えて、雨について語った記憶があるか探る。でも、どうしても思い出せなかった。ここにきて一か月……勿論その内に雨の日だって何日もあった。その日の事、行動、思い出せる範囲の出来る限りを考えても、やっぱり雨についての会話があったか思い出せない。たわいもない会話過ぎて、膨大な記憶の海に沈んでいるんだろう。
「よく覚えてますねぇ、成瀬さん」
「陽菜さんに関することは忘れないよ」
「え」
 言葉が出てこなかった。かわりに頬が沸騰してしまう。私はそのまま「あ」とか「う」とか詰まった一文字しか出せず、しまいには視線まで泳いじゃって。
 これじゃあ「動揺してます」とバレバレだ。勝手にどんどん熱くなる頬が恥ずかしい。たった一言で馬鹿みたいに意識しちゃう浅はかさが、恥ずかしい……。
「陽菜さんのことならどんなことでも覚えてるよ。初めて会った時の驚きと困惑に満ちた表情や、戻れる場所があったんだと静かに喜んでいた瞳。ここに来た時の不安、図書館で見せた好奇心――」
 突然、成瀬さんの掌が私の頬に触れた。ひんやりした温度が熱くなっていたそこをふわりと包み、温と冷が混じり始める。
「な、成瀬さ、ん?」
「――僕を見る……澄んだ眼」
「あ、あの……」
 心臓が止まるかと思った。
 もともと成瀬さんは距離に躊躇しないところがある。彼自身のパーソナルスペースは随分と寛容らしく密接距離は当たり前で、その距離の近さに何度度肝を抜かれた事か……。でも、こんな風に触れられたのは初めてだ。
 仄明かりの中でこちらを見つめる、前髪の奥に隠れがちな成瀬さんの目。目では何かを囁いてるのに唇から音は漏れない。そこから生まれた沈黙は、さっき感じた心地良さとははるかに違っていた。しっとりとした甘い気怠さ。何故こんな感覚を知ってるのか分からないけど、全身が蕩けそうになる。部屋に漂う甘い花の香りが、その感覚を更に強くさせていた。
……朦朧としてくるのは、のぼせ上った自分のせい?  それとも、この部屋に蔓延する甘い香りと、成瀬さんが放つ妙な色気のせい?
 どうしよう。クラクラする――。
「……ごめん。今のちょっと気持ち悪かったかも。忘れて」
 私は無言で首を振った。
「……あ。か、香り」
「香り?」
「これって薔薇ですか?……すごく良い匂いですよね。アロマオイル……」
「うん。数種の薔薇をメインに誘眠作用のあるハーブ等を配合してる。それから――」
 場を誤魔化そうと自分から話を振ったくせに、私はそれをぼんやりと聞いていた。成瀬さんの声が、近くて遠い。時々急降下する意識を感じて、どうやら今説明を受けている通り、成瀬さんの作ったアロマが効いているんだと分かった。
「効いてきた? いいよ、寝てしまっても。ちゃんと部屋までつれていってあげるから」
 クスクスと小さな笑い声。え!? いま笑った? と、戸惑った瞬間にはもうソファーに転がっていた。成瀬さんに押し倒される格好で。
「あ、れ?」
「僕は陽菜さんの方がいい香りだと思う」
「……いや、それはないですね」
「自分では気付いていないだけだよ」
 真上で微笑む成瀬さんを見上げつつ、眠気と怠さと気恥ずかしさに立ち向かう。駄目だ。あっさり負けそう……。
 押し倒されてるという緊急事態なのに、思考がまとまらない。これは……自分で思ってるよりも私は成瀬さんに心を許してる……から?
――いや、違う、単に眠い。とにかく、眠い。ただそれだけ。効き過ぎだ、成瀬さんのアロマ…… 。
 完全に夢の世界へ落ちそうになっていた私。瞼の重さに耐えきれなくなってきた時、耳へ急に強く降り出した雨音が飛び込んできた。風もあるのか窓に打ち付ける雨粒の音が聞こえる。
 ああ、そうか。そう言えば今日はずっと――
「あめ……」
 ぼそりと呟いた私に、成瀬さんはピクリと反応した。
「私……本当は雨苦手っていうより……キライなんですよね」
 眠れない夜のお喋り会は、いつも雨の日開催だった。雨の日にはいつもヨクナイコトが起きて、気分は落ち込み、そして心のどこかで「ああ、やっぱり」と思った。
 ジンクスはついてまわる。重なれば重なる程、呪いなんじゃないかと一人で頭を抱えた。だから眠れなくて。はしゃぎ疲れてルームメイトが寝てしまうと、私はひたすら眠りが来るのを待った。
 待つことを諦めたのはとっくの昔なのに。
 エンドレスに続く嫌な気分。
「雨はキライ」
「陽菜さん……」
 成瀬さんの声を聞きながら、私の意識は落ちていく。
「ふふっ……でも可笑しいんです。今日は成瀬さんのおかげで待ってない。嫌な日だったのもついさっまで忘れてた。効きすぎですよ、成瀬さんのアロマ」
「待ってない?」
 微睡む時間はほとんど無かった。不思議そうに呟く成瀬さんの表情はもう見れなかった。でも、そのかわりに優しい音が目を閉じた闇の中に降ってきて。
「おやすみ。陽菜さん」
 おでこに、あたたかな温度が触れたような気が、する――。

 翌朝は前日と打って変わって快晴だった。廊下へ差し込む朝の光がキラキラと光っている。窓に残った雨粒もスワロフスキーみたいで綺麗。長い廊下の途中、私は大きく伸びをして清々しい空気を吸い込んだ。
「おはよう、雅さん」
「陽菜ちゃん、おはよう。お休みなのに今日はとっても早起きね」
 ダイニングには焼きたてのパンの香りが漂っていた。
「美味しそう! 今日はクロワッサン!」
「プレーンとメープル、二種類焼いてみたのよ。どっちにする?」
 雅さんはこうして毎朝パンを焼く。高級ホテルの様な朝メニューは施設暮らしの私には中々刺激的だった。当初は戸惑いもあったけど、近頃は普通に食卓につくようになっていて、慣れってすごいな……なんて思う。
「うーん……両方」
「言うと思った。すぐ用意するわね」
「あ。私も手伝う」
 雅さんの料理の腕前はプロ級で、パンだけではなくその技は様々な料理に反映されていた。和食、洋食、中華……どれもすごく美味しい。
 てきぱきと用意をする雅さんの横で、私は「さてどうしよう」と思案する。手伝うと言ったものの、私の出番は無いようだ。
 でも食器類くらいは並べられるよね、と思ったところで、目に飛び込んできたのは……イチゴジャム。
 これも雅さんの手作りだと思う。冬に手に入れた良品の苺を冷凍しておいて料理に使うのだと聞いたことがあったし。この間シフォンケーキを作ってくれた時のブルーベリーソースは秀逸だった。だからきっと、これもビックリするほどの出来に違いない。
 ルビー色の芸術品みたい……。誘惑に勝てない私の素直な人差し指は、ジャムをすくった。
「コラ、陽菜ちゃん。ダメでしょ」
「わ、ごめんっ」
「しょうがないわねぇ……。でも、可愛いから許しちゃおっと」
「え!?」
 雅さんの艶っぽい声が瞬時に近づいてきて、耳元で止まる。手首を捕まえられた私はあっという間に壁際に追いつめられていた。
 し、しまったっ!  思った時には時すでに遅し。背中に壁の固さを感じ、逃げ場が塞がってしまった事を悟る。じわりと背中に汗が浮かんだ。
「ねぇ……陽菜ちゃん?」
 雅さんは私の手首を掴んだままニッコリとこちらを見下ろし笑っていた。その含んだ笑顔がとっても意味ありげで、とっても艶美。この人は、成瀬さんとは違う種類のフェロモンが常に全開なのだ。
「お休みの日に寝坊してる陽菜ちゃんを起こしに行くのが楽しみなのに……。今日はどうして起きちゃったの? ワタシ、陽菜ちゃんの無防備な寝顔が大好きなのよ」
「み、みみみ雅さん……落ち着いてっ」
「でも、日頃の行いが良いとラッキーは舞い込むのね。陽菜ちゃんが唇の端にジャム付けてるなんて神シチュ、滅多にお目にかかれない……」
「は?」
 神シチュって何!? っていうか雅さんの顔すっごい近いんですけど!
 陶酔しきって危ない目になってる雅さんに、私は身の危険を感じながらも固まった。ヘビに睨まれたカエルってこういう状態の事を言うんだろう。
 雅さんは、本人いわく「可愛いものフェチ」らしい。日々可愛いものへの探究心を忘れず、可愛いものだけに囲まれて生きていたいのだと言う。特に、周りに「可愛いひと」がいないのは何より嘆くべき事なんだとか。
『耐えられない状況を打破するには、これがベストなのかもしれない』
 そう考えた雅さんは、自分を「可愛いひと」にする事にしたそうだ……。
 つまり。つまり、だ。ネタバラシしてしまうと、実は彼女……本来『彼』な訳で。
 まあ……色々雅さんなりの葛藤とかあったんだよね、と推測したいけど、すっかり「可愛いひと」ぶりが板に着いちゃってるくせに、時々それを忘れて欲望を男性的に暴走させる。
 なので私は「超絶キレイなお姉さんは、たまにやばいので注意が必要です」と、認識することにしていた。油断は禁物――! 
 その「やばいお姉さん」は今、絶好調で暴走中だ。
「陽菜ちゃん……そのジャム、ワタシが……ふふっ……とってあげます!」
「今の笑い何っ!? 結構ですっ!」
「大丈夫……優しくするから」
「優しくの意味が分からないー!」
 無駄に美しく無駄にいやらしい雅さんが更に近づいて。ああ……もう私ダメだ 。最大の危機に泣く。
 その時だった。
「朝から変態菌をばら撒くのやめてくれるか?」
 成瀬さんの低い声。
 ドカッと大きな音と共に雅さんが横に飛んで行った。飛んで行った? あ、なるほど。成瀬さんが雅さんに蹴りを……
「いってええ! おい祥一朗! 朝っぱらから何すんだよ!」
 雅さん口調! 口調が!
「それはこっちの台詞だけど? 全く……ちょっと目を離せばすぐこれだ。油断も隙もありゃしない。いいか、陽菜さんに変な事したら承知しないから。彼女はこの屋敷の新しい主人なんだ。お前は雇ってもらってる立場だという事を忘れない様に」
「変なコトなんかする訳ないだろ。ただ可愛い陽菜ちゃんを愛でてるだけだよ」
「一度死んでみるか?」
「スミマセン」
 眉を顰めて怖い事を言う成瀬さんに、雅さんが速攻で土下座謝罪。この光景は日常茶飯事だった。
 長い間お祖父ちゃんをサポートしながら一緒に過ごして来た二人はいわば同僚でもあるんだけど、こうして力関係を見る限り、立場は圧倒的に成瀬さんが上だ。
 でも、この二人のやり取りは見てるとなんだか笑ってしまう。揉めてるというより、じゃれ合ってるという表現の方がしっくりくるから。結構仲良しな二人。男の人同士の友情は不思議だ。……見た目は男女だけど。
「大丈夫? 陽菜さん?」
「あ、はい!」
「良かった。それから……あの後はぐっすり眠れたみたいだね」
「おかげさまで。ありがとうございました」
 私の言葉に成瀬さんは「いいや、こちらこそ。役得だったしね」と少し表情を緩めた。
 それはもしかして私が考えている事を指している?――でも、恥ずかしくて「何が?」と聞く事は出来なかった。かわりに雅さんがかなりしつこく真相を迫っていたけど、成瀬さんは何も言わず。ホッとした様な……ちょっぴり残念な様な……? うーん……。
「あら、電話だわ」
「え、電話?」
 複雑な乙女心を遮断した雅さんの声。私も耳を澄ましてみた。
 廊下の奥、遠くの方で聞こえるのは確かに電話の音。多分とても価値があるだろうアンティークの西洋風電話が、この屋敷唯一の電話だった。どんなに広くても、ファックス機能付き親子電話なんて便利なものはこの屋敷には無い。まあ、特に必要としていないからだと思う。
 広い屋敷のリビングに忘れられた様に置いてあるそれは、飾り物と間違うくらい滅多に鳴る事はなかった。その電話が珍しく、上品なベルの音を響かせている。
「僕が出るよ。陽菜さんは先に朝食をどうぞ」
 成瀬さんがそう言って。私と雅さんはその彼の背中を見送る。足早に行く成瀬さんを見つつ、雅さんが色の無い声で言った。
「それにしても……いつ見ても無駄に長い脚ね。なんかムカつくわ」
 雅さん……それって嫉妬?
 ◇◇◇

――お休みの日なのにごめんね。しかも、まだ慣れてないところに……。
――大丈夫です! 任せてください。私も少しでも早くココの事覚えたいし。
――うん……例のごとく来館者はいないと思うんだけど。なるべく早く戻るよ。

 朝の珍しい電話の主は、本を寄贈したいと前から連絡をくれていた人だった。引き渡しの約束日をどうしても今日に変更してほしい、という連絡。何やら他にも話があるらしく、急遽成瀬さんが取りに行くことになった。
 私はその間、図書館のお留守番役を。臨時休館にすると言う成瀬さんに私が自ら買って出たのだ。
「それにしても……こうしてると私、図書館の人! って感じだよね」
 蔵書リスト片手に本棚を調べて歩いてる最中、私は自己満足な独り言を零す。誰かに聞かれたら苦笑されそうな言葉でも、成瀬さんの言った通り来館者はいないので問題無し、だ。
 大きな窓から降り注ぐ太陽の日差しは、少しずつ季節の変化を伝えている。柔らかな光から力強い光へ。深まる緑、風に揺れる木々の葉――初夏はもうそこ。
 自分の肩で光が跳ねるのを感じながら、私は本棚の間を歩き、お祖父ちゃんの不器用な字を追いかけつつ古い本を何冊も探していた。
 リストから気になるタイトルを拾い、その本を見つけ出す。
 この作業は、来館者からの検索依頼を想定したシュミレーションだ。ちょっとしたゲーム感覚でもあり、今日の私はずっとこんな事を繰り返していた。
「そういえば……」
 本棚の横に置かれている椅子に座ってリストを見ていて、ふと思い出した。
 昨日の出来事。眠れなかった原因について、私は成瀬さんに聞く事がまだ出来ずにいる。どう聞いていいのか躊躇しているのもあった。
 だって、いきなり「ずぶ濡れの女性の幽霊見たんですけど! 成瀬さんは?」って……聞けるか?
 第一、幽霊が見えるって告白して、良いことなんかなかったし。
 この図書館にそういう噂があるのは成瀬さんだってもちろん知っている。来館者が少ないのも噂が少なからず影響しているのは明白だ。そこに、私がそんな事を言い始めたら彼はどう思うのだろう。やっぱりあまりいい気分はしないかもしれない。
 成瀬さんが幽霊の噂について一切口にしないから、余計に聞けない部分もあった。思えば雅さんもその件に関しては何も言わない。もしかしてココではその噂が禁句とか?
 だとしたら、なおのこと聞ける訳ない。
「《ヴァッサーゴの隻眼》か……。でも、それらしいの無いんだよね」
 ブツブツ一人こぼしながら、リストをめくった。
 何度見ても一階のリストにはそんな名前の本は載っていなかった。となると、考えられるのは二階。洋書だ。
 私は洋書リストをもって二階に上がる事にした。幽霊が探す本が一体どんなものなのか、なんだかすごく気になるのだ……。
 二階は一階よりも静かに感じられた。自分の足音が奥の奥まで響きそうな静寂。改めて二階を探索すると、古い洋館を改築した図書館の独特な雰囲気が強く感じられた。遠い過去へ旅している気分になる。
 洋書ばかりのフロアーは異国の図書館みたいで、アンティークの調度品類がさらにそれを際立たせていた。ここだけが別世界。溜息を誘う懐古的な空間。
 綺麗に整頓された司書カウンターの前に立つと、そこに座る成瀬さんの姿が目に浮かんだ。カウンター横の窓から差し込む光に反射してキラキラ光る彼の黒髪。書庫の整理や本の修復作業が無い暇な時は読書をしているらしく、細くて長い指がページをめくり、黒い瞳はじっと文字を見つめて。
 絵画と間違いそうな完成されたビジュアルには、それこそ溜息が漏れた。成瀬さんの存在はこの別世界を作り出す要素の一つだ。そう思えるくらい、ここに座る彼の雰囲気は謎めいていて美しかった。
 一瞬、本来の目的を忘れて記憶の成瀬さんに見とれてしまった私はハッと我に返る。
 いけないいけない。妄想が好奇心を上回ってしまうとは。
 気を取り直してカウンターに座るとリストを開いた。日本語でも読みづらいお祖父ちゃんの字は英語になると余計に読めない。これはちょっと大変かも。
 そんなこんなで、英語に疎い頭をフルに回転させながら英訳と字の解読に悩むことしばらく。だけど、やっぱり《ヴァッサーゴの隻眼》なる本は見つけられなかった。
 何処にあるんだろう?
 リスト管理されていない書庫の本だったらお手上げだ。成瀬さんじゃないと、それについては全く分からないもの。早くも行き詰ってしまった私はカウンターに頬杖をつきながら「うーん」と唸った。
 そもそも、この本に関しては謎だらけだ。
 どうしてあの幽霊はこの本を探しているんだろう? 死してなお探すという事は、相当思い入れがあるとか、未練が残っているとか、理由があるはず。それに《ヴァッサーゴの隻眼》のヴァッサーゴって何? 誰かの名前?
「わっかんないなー。面白い本なら私も読んでみたいのに」
 成瀬さんには聞きづらいから自分で書庫を探してみようかな、そう思い書庫の鍵を取りに行こうとした時だった。
 階段の方で何か音がした。
「……成瀬さん? 戻って来たの?」
 声を掛けると、微かな音がまた。
 相手の返事を聞こうと黙って音に耳を傾けた。
 コツン
 本棚の向こうから聞こえてきたのは成瀬さんの声ではなく、足音だった。ただ、彼のものではないとすぐに解った。この足音は男性のものじゃなく女性だ。ヒールの靴音。
「……え、ちょっとまって……」
 それに混じる他の音に気付いた私は、椅子から思わず立ち上がった。
 音は近づいてくる。ゆっくりと。
 ヒールの音、そして……水の滴る音。
 静かなフロアーに異様な気配。私にはすぐに解った、それが何なのか。誰なのか。 昨日の、あの女性の霊だ。
「二階……司書……」
 昨日と同じ、抑揚の無い声が聞こえた。低くかすれた霊の声に全身が凍る。明るいフロアーに一つの大きなシミの様な影。じっとりと濡れた気配をまとうその影が、靴音と水音を出しながらこちらに向かって来ている。
 ゆっくりと響く音から逃れようと足を動かそうとした。だけど、嘘みたいに身体は動かなくて。金縛り? 恐怖からか声も出せない。
「《ヴァッサーゴの隻眼》を探しているんです」  
 目の前に現れた彼女は前と同じことを言った。
 濡れた衣服と長い髪から落ちる滴が私の足元を濡らす。それくらい、私と彼女の距離は不自然なほど近い。こんなに近いのに、髪に隠れ表情が見えないのが恐怖を倍増させる。
「さがして」
 濡れた土の香りとひんやりした空気が鼻先に触れた。あまりの近さと恐怖に私の身体はガタガタ震え始める。今までこんな怖い思いをした事はなかったのだ。それは幽霊を見慣れた自分が初めて経験する、異種の者への恐怖だった。
 私は司書じゃない
 言いたい言葉は全く音にならず。私は、少しだけ動く首を小刻みに横に振って自分の意を伝えようとした。
 だけど、強張る私の顔とその動きを、彼女は違う意味で捉えたらしい。私が拒否したと思った様だ。
 ピクリと肩で反応した彼女は「何故?」と呟いた。低い低い声で。
「おしえて……おしえてください」
 伸びてきた黒い指。指先も掌も、泥で黒く。爪の数枚は剥がれてしまっているのか赤黒く見えた。
 その指先が私に触れようと近づく。
「……っ……!」
「さがして。……おしえて」
 一瞬だけ、隠れていた彼女の瞳が見えた。虚ろなそれは、命の輝きを失った、ただの黒。
「いやあぁっ!」
 震える身体に思い切り力を込める。
 助けて
 冷たい空気を声で跳ねのけようと、私は叫んだ。
「助けて……! 誰か……」
 へたり込んだ私に黒い女が覆いかぶさってこようとした。
 寒い。
「成瀬さん……」
 このまま闇に包まれて、ゆるやかに命が消えていくのだろうか――。