男が顔を出した地面は、まるで水面のように波紋を作り出していた。
波立った土は、男が完全にこちらに姿を現すと一瞬で元の硬さに戻る。

現れたのは、橙色の髪をした、あまりやる気のなさそうな顔の男だった。
すらりと背の高い、けれど猫背で姿勢の悪いその男が、面倒そうに辺りを見回す。
しばし耳を澄ました後「入れ違ったか」と小さく呟くと、気怠げな仕草で、また地面へと姿を消した。

土から一切の揺らぎが消えて、シンと森が静まった途端、リルがプハーーーッと息を吐いた。

「息を止めていたのですか」
久居が、慌ててリルの口元を覆っていた手を離す。
「う、うん……つい……」
(ギュッと押さえられてたわけじゃないから、声を出さないようにって意味だったのは分かったんだけど、緊張しちゃって、つい……)
リルが、心の中で言い訳をしながら、息を整える。
あまりの緊張に、息をするどころじゃなかったようだ。

「すみません……」
久居が謝る。
「大丈夫大丈夫、久居のせいじゃないよ!」
と、リルは慌てて首を振った。

久居は、ずっと地面を強く押さえていた右手の指先を、紙が消えた場所から離す。
指先に残っていた淡い光がフワッと霧散した。

リルはこの術を以前にも何回か見たことがあった。
クザンと修行をしていた頃に。
確か、城の隠密から教えてもらったという気配を消す術を、久居がさらに改良した物……だったはずだ。
(ボク達みたいに耳が良い種族にも、音が伝わりにくくなるようになるとか、そんな感じの……)
思い出しながら、リルは先ほど男が消えていった地面を見る。

今は音も遠ざかり、何も聞こえなくなってしまったその地面を、足でトントン叩いてみる。
こんなところから出てくるなんて、不思議だとしか思えない。

リルが振り返ると、久居は、リルのせいで焦げたらしい掌や顔の周りを治していた。
「久居……熱かった?」
「いいえ、ちっとも」
リルの視線に顔を上げた久居が、優しく微笑む。
(焦げちゃったんだから、熱くないはず無いんだけどな……)
と、リルは思いながらも、仕方なく苦笑を返した。
「リルは、地下への移動を見るのは初めてですか?」
さらりと問われて、リルが思わず答える。
「うん、鬼以外には見せたらダメなんだって、ボクは、その、正式な鬼じゃないから……見たことなくて……」
クザンはよく地下へ行き来しているようだったが、リルや久居の前で出入りする事は一度もなかった。
「あっ、ていうか、鬼が地下に潜るのって内緒なんだった!」
リルが慌てて両手で口を押さえる。
「やはりそうなのですね。クザン様もその件について口にしないので、聞いてはいけないものと思っていました」
納得するように頷く久居。
(それなのに、ボクに聞くのはなんでなのさ……)
リルは、半眼で久居の顔を見ながらも、自分のうっかりさを情けなく思う。
「うー……」と呻く悔しげなリルに、久居は胡散臭いほどに整った笑顔を作ると、美しく微笑み返した。

---------

それにしても。と久居は思う。
(先ほどは何とかやり過ごせましたが、次また炎を使うと、気付かれるということでしょうか……)
顎に指を添え考え込む様子の久居を、リルは声をかけずに見上げている。
(けれど、相手が鬼ならば尚のこと、リルにも自身の炎で身を守れるようになってほしいですね)
久居が僅かに視線を下ろすと、久居を見上げるリルと視線が合った。
「……リルには、気配消しの術内で炎の練習をしていただいても良いですか?」
久居の言葉に、リルは薄茶色の瞳を瞬かせると「うん」と頷いて答えた。

念のために場所を少し変えてから、久居は周囲に杭を打つ。
指で押さえていた簡易的な術ではなく、今度は杭でしっかり紙片を打ち込み、広めに、かつ念入りに、気配消しの術で結界を張るつもりのようだ。
「準備ができました」
久居が術を無事完成させてリルを振り返ると、リルは結界の中央で、指先を見つめたまま、困ったような緊張したような表情をしていた。
その指先からは、つい先ほど、天を焦がすような火柱が立ち上った。
またあんな風に出てくるのではないか。
もし、自分では抑え切れない程に、炎が溢れてしまったら……。
そう思うと、リルは中々思い切れずにいた。
「……どうしました?」
久居に問われて、リルが顔を上げる。
薄茶色の瞳が、縋るように久居を見つめた。
「あの、ね……。手を繋いでも、いい?」

炎を出すのが怖いのか、半ベソで訴えてくる小さな少年の懇願に、久居は思わず言葉を詰まらせる。
リルと手を繋いでいたら、リルの炎が出た時、久居の手は溶けてしまうだろう。
「あっ……そうだよね。ごめん、なんでもない!」
リルが慌てて目を伏せる。
久居は、ほんの一瞬の躊躇いで傷つけてしまったであろう少年の、小さな手を取った。
「かまいませんよ」
と答えて、久居はまだ少し柔らかさを残した少年の手を、しっかり握る。
(たとえ障壁で炎が防げずとも、肘までの負傷でしたら、今日一日休めば明日には動けるようになることでしょう)
久居は心の内で覚悟を決めながら、柔らかく微笑む。
(菰野様のためにも、焦りは禁物です。確実に。勝率を上げてゆかなくては……)

「だっ、ダメだよ、久居が焦げちゃうもん!」
慌てて振り解こうとするリルの手を、久居はしっかり掴んで離さない。
「焦げても治せます」
落ち着いた声で静かに答えられて、リルの大きな薄茶色の瞳が揺れる。
互いに、焦げる程度で済むとは思っていなかったが、久居が既に覚悟を決めている事は、リルにも分かった。
「服は、リリー様から耐火の加護をいただいていますから、大丈夫ですよ」
久居は片目を閉じると、悪戯っぽく微笑む。
思わぬウインクに、リルも肩の力が抜けたのか、ふふっと小さく笑った。

「……じゃあ、危なくなったら離してね。最初だけ、ちょっとだけ。握っててくれたら嬉しい……」
そう言って、儚げに笑う少年の手が震えていることに、久居は手の力を抜いてようやく気付いた。
それと同時に、そんな少年が自分を素直に頼って、甘えてくれる事を、久居はとても有り難いと感じていた。

リルは、ほんの少し目を閉じて、呼吸を整える。
それからゆっくり瞼を開いて、指先に集中し始めた。
小さな耳がぴょこんと飛び出すが、本人は気付いていないようなので久居は黙している。
熱を感じたら即座に離れようと身構えていた久居だが、彼が熱を感じる事はなかった。

ポッと小さな音を立ててリルの指先に微かに火が灯る。

薄水色の美しい輝きに一瞬二人が見惚れて、次の瞬間、揃って繋いだままの手を見た。
「あれ?」
「熱くない……ですね」
顔を見合わせる二人。思ってもいなかった展開に、久居も驚いた様子だ。
「よかったー」と呟いて、リルがパッと手を離した途端、久居が障壁を展開しながら跳び離れた。
リルに背を向けた久居の、指先と思わしきところから黒い煙が上がり、嫌な臭いが立ち込める。
「久居!! 大丈夫!?」
「大、丈夫……です。……っ、少し、待って、下さい」
久居の返事に、駆け寄ろうとしていたリルは足を止めて、静かに炎を引っ込める。

久居は決して声を上げなかったが、リルには、必死に耐える久居の荒い息がどうしても聞こえてしまう。
リルは、その痛みを想像すると涙が滲んだ。
(……でも、痛い目に遭わせたのはボクだ。久居が見せないようにしてくれてるのに、ボクが泣いてちゃダメなんだ……)
少年は、少し考えてから、指を一本立てると炎を出す練習をもう一度始めようとする。
それが『今自分がやるべき事』で、『久居が一番嬉しい事』だとリルは思った。
(ごめんね久居……ごめんね……)
じわり。と滲みそうになる涙を、グッと力を込めて堪える。
(ボク頑張るからねっ)

リルはもう一度、父に言われた言葉を思い起こす。
三人で修行をしていた頃、いつまでも術が使えるようにならないリルに、クザンは言った。
『いいか、リル。久居は強い』
『うんっ』
『けどな、それは「人間にしては強い」って事だぞ?』
『うん?』
『俺や、お前みたいな化け物が出てきてみろ。あいつじゃ太刀打ちできなくなる』
『ボク化け物じゃないよー?』
首を傾げるリルの頭を、クザンが撫でながら言う。
『その時のために、お前はちゃんと修行しないといけないんだぞ? 分かってんのか?』
『うんっ。ボク頑張るよっ』

(……そう、約束した。ボクが頑張るって)
炎から逃げてばかりじゃ、いつまで経っても久居の助けにはなれない。
今度の敵も、人じゃないなら……。
リルの眼裏に、あの日の傷だらけの久居の姿が過ぎる。

(だから、怖いけど…………っ、怖いけど! もう、ボクはボクの炎から逃げない!!)
リルは、小刻みに震えてしまう右手を、左手でギュッと押さえる。
(小さな小さな……、小さな火でいい。ボクにもどうか、久居やクリスやフリーを、守れるだけの力を……!)