「やめろぉぉぉぉぉ!!」
突如、横から飛び出してきた少年に刀が触れたと思った途端、耳障りな音と共に、刀はその刃紋から地までを失った。
「リル!!」

葛原は、急に軽くなった刀を反射的に引き寄せて、切先を見る。
「な……何だ……これは……」
刃は、どろりと溶け落ちていた。

硬い物を斬れば、それは刃こぼれもするだろうし、場合によっては折れることもある。
しかし、今この刀は目の前で溶けた。火もない場所で。

葛原の背を、冷たい汗が伝う。

「フ、フリーに手を出すな!!」
葛原の目の前で、十にも満たないであろう少年は、精一杯両腕を広げて妖精を守ろうとしている。

理解できない状況に、頭が付いてゆかず、思わず後退る葛原。
それを目で追ったリルの視線が、ハッと地に縫い留められる。
そこ……葛原の後ろでは、久居が頭から血を流しうつ伏せに倒れていた。

(え……。久……居……?)
リルの瞳が、動揺に大きく揺れる。

(そんな……まさか……)
ドクン。と心臓の音以上の大きな何かが、少年の体で脈を打つ。
リルの脳裏には、久居と過ごしたあたたかな時間がよみがえっていた。

ボクの話を優しく聞いてくれた久居。
髪を結んでくれた久居。
そっと抱きしめてくれた久居。
笑って髪を撫でてくれた久居。

(久居がーー……)
チリッと胸の中で音を立てて、小さな炎が生まれる。
それはリルの胸の奥で、ゆっくりと、しかし大きく揺らめき、その幼い心を焼く。


葛原の目の前で俯いてしまった少年。
少年の頭には、黒茶の円錐のようなものが顔を覗かせている。
(角……なのか……? とすると、この子はまさか……!?)
葛原が、伝承でしか聞いたことの無い名前を浮かべようとする。

瞬間、目の前の少年から熱風が吹き上がった。
「何っ!?」
葛原は、あまりの熱気に顔を覆う。

炎は、リルの悲しみが怒りに変わると同時に、激しく渦を巻いて燃え上がった。

「ちょっと!! リル!? 私達まで焼けちゃうわよ!!」
フリーが必死に叫ぶも、その声はリルに届いていないらしく、少年は一歩ずつ葛原に近付いた。
「リル!!」
一歩。また一歩と近付く少年に、葛原が後退る。
「お前が……久居を……」
ゆらりゆらりと少年の周りで青白い炎が踊っている。
「お前なんか……」
葛原の全身から汗がふき出す。
「お前なんか……っ!」
葛原は必死だった。
今すぐ逃げなくては。分かっているのに、身体が動かない。
本能が告げている、このままでは危ない。と。
「死んじゃえばいいんだ!!」
葛原が動くより早く、リルが強く叫ぶ。
同時に、彼を包んでいた青白い炎が一斉に葛原へ飛び掛かった。
(な……!!)
一瞬の驚愕。
葛原は理解した。
自分は今、死ぬのだと。
聞いた事もないような音とともに、全てが溶けてゆく。

(……いけない)

父上から託された、この国を、あの城を、私が守ってゆかねばならないのに。
そうでなければ、何の為に今までずっと学問や剣術を学んできたのか……。
父上の第一子として、父上にとって恥ずかしくない世継ぎであるために、どれほど努力をして、虚勢を張って、今まで……。

(死ぬわけにはいかない……。死ぬわけには、いかないんです……、父上……)

国の紋が入った、首元の紋球が溶けて顔にかかる。
熱さはもう、全く感じなかった。
手足がどうなっているのかも、もう分からない。
葛原の視界は真っ白だった。

(あの世では、父上と加野伯母様が、菰野を迎えて楽しく過ごしているというのに……。そこへ私が行ってしまっては……)
葛原の心を、申し訳無さと不甲斐無さが埋め尽くす。
(父上は、私を見てどんなお顔をなさるだろうか……。あの城を……置いて来てしまった私を……どんな瞳で……)

葛原は、薄れゆく意識の隅で祈る。


(どうか、せめて……叱ってください…………)



(…………父……上………………)

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久居は、間近で起こった爆風にも似た衝撃波にその身を煽られ、近くの木の幹へ強か背を打ち付ける。衝撃に、久居は息を吐いた。

リルは、青白い炎を纏ったまま、立ち尽くしている。

「菰野……」
金色の瞳から涙を零しながら、フリーはその名を呼んだ。
菰野の傍にしゃがみ込むフリーは、両手で菰野の左手を包んでいた。
ぽかぽかとあたたかかったはずの手は、今その熱を失いつつある。
(菰野……)
フリーの心に、菰野の言葉が響く。
あの時、痛みを堪えて、笑顔を見せて、彼は優しく言った。

『言うなれば、運命だったって事なのかな?』

それは、彼との出会いを指していたはずだったのに。
フリーが心ときめいた言葉が、こんな別れを示していたなんて、少女には思いたくなかった。

(こんなのが運命だなんて、嫌だよ……)

どんどん冷たくなってゆく菰野をどうする事もできず、フリーはその手を引き寄せて、心で叫ぶ。

(こんな運命なら……っ、いらない!!)

明確に、フリーは拒否した。
この事実を、この現実を、私は決して受け入れない。と。

フリーの髪の左右に下がっていた一対の封具に、同時に亀裂が入る。

(お願い、菰野!! 死なないで!!!)

強い強い願いが、握り締めた手を中心に、球状に広がる。
それを抑え切れず、二つの封具は少女の背で砕け散った。

フリーが祈りを込めてギュッと閉じた瞳から、涙がもう一粒零れる。

けれどその雫は、胸の前で握り締める手に触れる前にピタリと空中で止まった。



「う……」
小さな呻きは、久居の口から漏れた。
「菰野様!!」
覚醒とともに叫んで立ち上がろうとした久居が、ふくらはぎを抉る痛みに息を詰める。
「っ!」
(菰野様は……)
よろめきながらも何とか自身の刀を支えに立ち上がり、見回すと、少し先に主人は倒れていた。
血の海に、沈むようにして。
(酷い怪我を……!!)
駆け付けた久居を、青緑色の膜が阻んだ。
(この膜のような物は一体!?)
菰野とフリーの姿は、淡い色のついた球体……と言っても半分は地面の下なので、半球状の中に閉じ込められているように見える。
そこには、扉のようなものは一切見当たらない。
(すぐ手当てをしなくては出血が……)
焦る久居の目に、フリーの零した涙らしき雫が映る。
(涙が空中で止まっている!?)
久居はその光景に、目を疑った。
(いや、涙だけでなく……)
よく見れば、フリーの髪は風もない空間で、ふわりと広がっている。
その髪で三つ編みを留めていたはずの筒状の装飾品は、砕け散った姿のまま、こちらも空中で動きを止めていた。
(まさか……この膜の中は……時間が止まっている!?)
久居は、凸凹の一切ないつるりとした膜へ手を触れたまま、静かに息を呑んだ。
(これは、妖精の力なのでしょうか……)
そう考えて、ハッと振り返る。
(リルなら何か知って……)