兵達は松明の灯りを頼りに、暗い山道を登っていた。
けれど、一人、また一人と倦怠感に足を取られ、あるいは目眩に膝を付き、葛原に続く兵達の数は徐々に減っていた。
後方を確認し、葛原が忌々しげに舌を打つ。
後ろでは兵達が点々と、近くの木の幹へ縋り付いたり、蹲ったりしている。
(登ることのできた距離は先と変わらないか……)
葛原は、自らの感じている症状を確認しながら推測する。
頭痛、目眩、吐き気、激しい倦怠感……。
この一帯に無臭の有毒ガスが充満していると仮定しても、下山するとピタリと治るのは少々不自然ではないか?
……何ひとつ症状を残さず……。
考える葛原の視界に、奇妙なものが入る。
「お前達、大荷物を抱えているわりに、頑張っているじゃないか」
久居の体を二人がかりで運んでいた兵達が、その言葉に顔を上げる。
その顔色は共に良く、周りの兵達の比ではなかった。
謙遜や礼を述べる二人の言葉を流しながら、葛原は、二人の抱える久居に視線を落とす。
(久居。お前はこの山を登る方法を知っているのか……)
そこで葛原はようやく、気を失ってなお、握り締められていた久居の右手から、何か紐のようなものが飛び出している事に気付いた。
(何だ?何か握っている……?)
葛原はその手の平を強引にこじ開ける。
そこには小さな石のようなものが強く握り込まれていた。
(石……?)
そういえば、あの時葵が久居に何か手渡していたようだったな……。と葛原はおぼろげに思い浮かべながら、その石を取り上げる。
「うわっ!」
久居の両肩を支えていた男が悲鳴とともに姿勢を崩す。
「う……」
続いて、久居の両足を両腕に抱えていた男が膝を付いた。
対照的に、葛原は急にスッと体が楽になるのを感じる。
葛原は、目の前で苦しみだした兵達と、手の中の小さな石を見比べて思う。
(原理は分からんが何かのまじないが施してある物なのか……)
葵が一人無事だったのは、これを持っていたからに違いない。
だとすれば、これを自分が利用しない手は無かった。
(よし……)
葛原は、石をぐっと握り締めると懐の奥へ仕舞い、兵達に向けて命じた。
「お前達は、体が辛くない程度の場所までおりて待機していろ」
葛原は、今にも地に付きそうな久居を片手でぐいと引き上げる。
久居は薬が効いているのか、ピクリともしない。
(菰野はあの怪我だ。その上人質がいては、手も足も出まい……)
葛原は、今度こそ目的の達成を確信する。
「火を寄越せ」
「ハッ」
皇の声に、何とか動けた兵が松明を手渡す。
灯りに照らされた葛原は、じわりと笑みを滲ませていた。
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「お母さんっ、毛布出してーっ!」
リルが、家の戸をバタンと勢い良く開けるなり叫んだ。
走って来たらしい様子の弟に、姉がバタバタと駆け寄る。
「リル!? どうして戻って来……」
「コモノサマが熱出しちゃったんだよー」
「えっ、そ、それは大変だけど……、リルがちゃんと聞き耳立てておかないと……」
不安を隠し切れない様子のフリーに、リルはほんの少し、自分の行動が間違っていたかと不安を感じつつ答える。
「あ、うん。家に入らなければ、ここからでも叫び声くらいは聞こえるよ……?」
その答えにフリーが怒気を膨らませた。
「あの場所で叫び声が上がってからじゃ、遅いでしょ!?」
姉の両手がそれぞれ拳の形を作るのを見て、弟は後退る。
「い、急いで毛布持って帰……」
ピクリ。と小さくリルの耳が跳ねた。
バッと全力で振り返る弟の様子に、姉はただ事ではないと感じる。
「リル……? まさか、今……」
リルの表情が青くなるのを見て、フリーは返事を待たずに駆け出した。
「あっ! フリー!!」
リルが必死に伸ばした手は、フリーに届かない。
「ダメだよっ! 危ないよ! フリーっ!!」
リルの悲痛な叫びを背に、フリーは振り返らず駆けて行った。
フリーの心は、菰野の無事を祈る声でいっぱいになっているようだ。
リルは家を振り返るが、まだ母は玄関に姿を見せない。
(どうしよう……ボクの足じゃフリーに追いつけないよ……。でも……お母さんでも追いつけない……よね)
小さな少年は、瞳に不安を後悔を滲ませながらも、自分のわかる範囲の事を精一杯考え、決意する。
(やっぱり、ボクが追わなきゃ!!)
決意に反して、じわりと不安が涙となるが、それに構っている時間はない。
「フリーっ! 待ってーっ!!」
少年は震える手を握り締め、一人、姉を追って走り出す。
暗い、夜の森へ。
少年の駆けた後には、小さな涙の雫だけが残った。
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葛原は、松明を掲げて行先を照らすと、また歩き出した。
あれからどのくらい登っただろうか。
石を手にしてから、体調は随分と楽になった。
行手に、ぼんやりとほの明るい場所が見え隠れする。
(明かりか?)
葛原は、自身の持つ火とは違う白っぽい色の光を、どこか不気味に感じつつも、松明をおろした。
(あそこに菰野が、いるのだろうか……)
喜びと悲しみが同時に湧き上がる。
混ぜ合わさると、それは葛原のよく知る、深い寂しさに似ていた。
久居を草の上におろすと、葛原は岩を寄せ、簡易的な置き場を作り、松明をそこに立てた。
そっと近付くのに灯りは邪魔だが、帰る時には必要だ。
葛原は、目を閉じると、深く深呼吸をする。
菰野とは、今日で別れよう。
寂しくないなどとは、とても言えそうにないが、きっと私よりも、父上の方がずっとお寂しいだろうから。
全ては、父上のために……。
葛原は目を開く。
右手に久居の括られている髪を掴むと、左手を刀に添え、光を目指した。
がさり。と、近くで聞こえた足音に、菰野は目を覚ました。
「久居、遅かっーー……」
口にしながら菰野がそちらを見ると、血に濡れた久居の姿があった。
菰野の視線を受けて、葛原が久居の髪から手を離す。
久居は受け身をとる様子も無く、地に伏した。
「久居!?」
菰野には怪我の程度までは分からなかったが、少なくとも足や頭に出血があるのは見て取れる。
「久居に何を!」
「動くな!!」
叫んで上半身を起こした菰野に、葛原の鋭い声が刺さった。
「こいつには、ちょっと眠ってもらっただけだ」
そう告げながら、葛原はすらりと刀を抜くと、久居の首へと刃を向ける。
「この眠りが永遠のものになるかどうかは、お前次第だが……な」
「くっ……」
視線を送られ、菰野は、枕元の刀へと伸ばした腕を止めた。
「両手はあげておけ。立ち上がらず、そのまま刀をこっちに蹴り寄越せ」
葛原の言葉に、菰野は逡巡する。
(どうする……どうすればいい?)
熱のせいか、頭がうまく回転しない。
(久居だけが生き残るようなやり方では、後を追わせてしまいかねないか……)
答えの出ないもどかしさに歯噛みしながら、菰野がゆっくりと両手を上げる。
「早くしろ!!」
久居の首に当てられた刃に力が込められる。
引かれれば、血が吹き出すだろう。
菰野は迷いを捨て、瞬時に刀を蹴った。
カシャンと音を立てて、菰野が蹴った刀は、横たわる久居に当たって止まる。
久居の片足には矢が刺さったままになっていた。
(久居は薬で寝かされているのか……? 片足は使えそうにないな……)
普段の久居なら、これで無反応という筈はない。
菰野はじっと目を凝らして、久居が息をしている事を確かめる。
その間に葛原は、菰野の刀を拾いあげると、自身の腰へと差した。
「待たせたな、菰野」
葛原は、久居の髪の結び目を掴んで引き摺りながら、座する菰野の前まで近付くと、無造作に久居を手離した。
「今、あの世に送ってやろう」
抜き身の刀を、菰野へと真っ直ぐ構える葛原。
菰野は、死の気配に背筋を震わせた。