(山を下りてくる気配が二つ……。菰野様と久居様でしょうか)
葵は、城からそう遠くない森の中で、木の上に潜み気配を窺っていた。
葵の指が木の葉を掠める音を、フリーの人間より大きくよく聞こえる耳が拾う。

キョロキョロとあたりを見回すフリーに、菰野が気付いた。
「どうかした?」
「うーん……何か音がした気が……」
(この辺まで来れば、動物もいるのかな……)
不安そうなその様子に、菰野が宥めるように告げる。
「もうこの辺でいいよ」
「う、うん……」
頷くフリーが、それでもまだ何か言いたげで、菰野は静かに次の言葉を待つ。
「……」
「……」
沈黙を破って、意を決したように、フリーがやや叫び気味に言った。
「あ、あのね菰野、握手しよう!!」
「え? うん……」
フリーの勢いにちょっと気圧された菰野が、それでもすぐに手を差し出した。
出された右手に、フリーは自分の右手を重ねて握る。
(わー……。フリーさんの手、柔らかいなー……)
菰野は、その手を傷付けることのないよう、そうっと優しく握り返した。
(菰野の手、あったかい……。ぽかぽかしてる……)
手を繋ぐ二人の頬に、それぞれ赤みが差す。
二人は恥ずかしさから、相手の顔ではなく握り合わされた手を見詰めながら、言葉を交わす。
「え……っと、じゃあ……行ってくるね」
「うん……」

((手……離したくないな……))


一方、木の上では、葵がフリーの声を聞き取っていた。
葛原皇の指示を胸中で繰り返す。
『菰野と親しくしている女がいれば、連れて来い』
葛原皇の仰っていた『女』とはこの子の事だと、葵は確信する。
しかし、この子を攫って、葛原皇はどうなさるおつもりなのか。
良いことであるとは思えなかったが、葵にはそういったことを考える権利はなかった。


「か、体に気をつけてね」
二人はようやく手を離したらしく、立ち去る菰野の背に、フリーが声をかけている。
「うん、ありがとう」
そんな何度目かの別れの言葉にも、菰野は振り返り、笑顔を添えて答えた。

(本当に……、無事に帰ってきてね……。ずっとずっと、待ってるから……)
遠ざかってゆく菰野の背中を、フリーはいつまでも見送っていた。
「……見えなくなっちゃった……」
木々の奥へ、完全にその姿が消えてしまうと、フリーはようやく振り返る。
「一年って長いよね……」
重い足取りで、一歩踏み出しつつも、フリーはその別れに涙を滲ませていた。
「これからもっと暑くなって、それから秋が来て……、寒い冬が終わったら、やっと春なんだよね……」
菰野に再び会えるまでの時間を思うフリーの元へ、葵は音もなく近付いた。
はずだった。

「何、この音……?」
フリーが聞き慣れない小さな音に振り返る。
その時には、葵はもうフリーの目の前まで迫っていた。

(人間!? こんな近くに!?)
「ーーい」
声をあげようとするフリーに、葵は強硬手段を取った。
「いやぁっ……!」
ほんの少しの悲鳴だけを残して、フリーは昏倒する。
葵はフリーの体を手早く縛ると、麻袋へと詰め込んだ。


リルが凄い勢いで山裾を振り返り、久居は異常を察する。
「どうしました!?」
「今の……フリーの……悲鳴……?」
真っ青な顔で呟くと、リルは駆け出した。
「フリーっ!!」
久居もすぐに、後を追って走り出す。
ここまでの自身の甘さを酷く悔いながら。
この少年の姉である、フリーが手遅れでない事を、切に祈りながら……。


一方で、菰野はようやく加野の墓前まで戻っていた。
少し離れたところに、まるで隠すようにして、馬が繋がれていることに気付く。
(こんな所に城の馬が? 久居か……?)
馬の顔を覗いてみるも、馬は菰野の知っている久居の馬ではなかった。
(城で何かあったんだろうか。この辺で俺を探してるとか?)
菰野が焦りとともに城へ向かって足を早める。

そんな菰野の耳に、馬を繰る者の掛け声が聞こえた。
振り返ろうとした菰野とすれ違うようにして、馬は菰野の背後を駆け抜ける。
馬の後ろ姿から分かったことは、乗っていたのが城の隠密だったらしいことと、何か大きな袋を抱えていたことくらいだった。
「城の隠密……? の割には行動が派手だが……。今、山から出てこなかったか?」
そこまで呟いてから、菰野は気付く。
(……山から!?)
途端、血の気が引いてゆく。

「菰野様!!」
そんな菰野を引き戻すように、久居が力強く叫んで茂みから飛び出す。
「久居!?」
驚く主人に、全力で走ってきたらしい従者は荒い息を整えながらも、必死に告げた。
「フ、フリーさんが……、攫われました……」
「……え……? 何……だって……?」
突然のことに、菰野は思わず聞き返したが、先ほど隠密の抱えていた大きな麻袋がハッと脳裏に浮かぶ。
(あの袋か!!)

「久居……フリーは……?」
ガサガサと茂みを割って、小さな少年が顔を出す。
「リル!!」
少年に、久居が慌てて駆け寄った。
「出てきてはいけません! この辺には人が……」
「で、でも……。フリーが……、フリーが……」
ぼろぼろと大粒の涙を零す少年の頭には、見た事もない黒っぽい何かが生えている。
耳も、フリーのものとは違ったが、やはり人とは似つかない形をしていた。
そんな少年を、久居が迷いなく胸元に抱き寄せるのを見て、菰野は内心驚いた。
「大丈夫です。フリーさんは私達が連れ戻します。ですから、リルは山の中で待っていてください」
久居は少年を抱き締めると、大事そうに撫でながら諭し、言い含める。
「久居、その子は……」
菰野の言葉に、久居はまだ泣いている少年を主人に示すと紹介した。
「フリーさんの双子の弟、リルです」
菰野は(双子にしては、随分小さいようだが……)と思いながらも、それを表に出すことなく、その少年の両肩を自身の両手で優しく支える。
リルは、突然触れてきた菰野へ、驚いたような顔を向けた。
「リル君、君のお姉さんを、その……巻き込んでしまってすまない」
自責の念からか、菰野のあたたかな栗色をした瞳が陰る。
「必ず無事に助け出すから、待っていてもらえるかい?」
菰野は真っ直ぐ、誓うように、真剣な目でリルを見つめた。
「う、うん……」
(この人……ボクと同じくらいの歳なんだよね……?)
リルは、目の前の少年の落ち着いた様子と、その強い意志に、思わず彼の年齢を疑ってしまう。
「ありがとう」
リルの返事に、菰野がふわりと花を散らして微笑んだ。
その顔は、確かに、同じくらいの歳の少年の笑顔に見えた。

「久居、行くぞ!」
「はいっ」
城へと駆け出す菰野に応えて久居も駆け出そうとしたが、ぼんやりしているリルを見て、足を止める。
リルは(コモノサマって何だかすごいなぁ……)とまだ惚けていた。
「リル!」
「な、何!?」
ハッと我に返ったリルの手に、久居は素早く自身の首に巻かれていた布を解くと、押し付ける。
「どうしても山に戻らないなら、せめてこれで頭を覆っていてください。この辺りは人がいますので」
「う、うん」
久居はそう伝えると、先へ走る主人の元へ急ぐ。
走りながらも、久居はチラと振り返り「出来る限り、山に入っていてくださいね!!」と、まだこちらを見送っている少年に伝えた。

菰野は、背後に従者が追いついた気配を感じると、足を緩めぬままに口を開く。
「久居……、お前、首元気をつけるんだぞ」
「はい」
久居は、主人の忠告に一瞬沈鬱な面持ちを浮かべ、支給服の僅かな襟をできる限り引き上げた。


リルは、久居に渡された長い布に顔を埋めていた。
(久居の首巻き、ふかふかだ……。けど、今、初夏だよね……?)
僅かな疑問は置いて、リルはもう一度二人の向かった城を……、姉が捕らえられているであろう城を、見上げる。
(フリー、無事でいて……)
まだこの時、祈る他に、リルに出来ることはなかった。

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そこは、城の敷地の端にある、以前太鼓櫓として使われていた小さな櫓だった。
葛原は自身が改造させた重い鉄製の扉を閉めると、内から打掛錠を下ろした。
重い金属のぶつかり合う音が、狭い櫓に響く。
床には大きな麻袋が一つ転がされている。
そばには葵が控えていた。
葛原は麻袋へと歩を進めながら確認する。
「これが菰野の女だな?」
「はい」
と答えて、葵が続ける。
「薬を嗅がせていますので、しばらくは目覚めないものと思われます」
「そうか」
葛原はその答えに、ほんの少しだけ満足げに目を細めた。
袋を開くと、見た事もないような明るい黄色が目に入る。
(ん?黄色い……これは、髪か……?)
見たことはなくとも、異国の人々は髪色が様々なのだと、葛原は知っていた。
まさか、菰野が隠れ逢っていたのは異国の女なのだろうか、と疑問に思いながらも、葛原は麻袋を完全に取り払う。
(こ、これは……!!)
想像をこえた異質なその姿に、葛原は目を見開いた。

葛原は息を呑むと、側に黙って控えている小柄な隠密を見る。
「……葵。お前、目は全く見えないのか?」
全く動じる様子もなく、葵は答えた。
「はい、城仕えの隠密は皆目を潰しておりますゆえ……」
「不相応なものを見ない事も仕事のうち……か」
「はい」
変わらぬ調子の答えに、葛原は口端を弛ませる。
「くだらん風習だと思っていたが……、意外と役に立つものだな」
その言葉に、ようやく葵が動揺する。
「お前が連れてきたものが何なのか教えてやろう」
葛原は、横たわる黄色の髪の少女を見下ろしながら、どこか楽しそうに告げた。
「こいつは紛れもない本物の妖精だよ」
葵の伏せたままの顔が、驚愕に歪む。

葛原は、自分と全く違った形をしたその耳に触れてみる。
それは思ったよりもずっと柔らかく、ひやりとして心地良かった。
「加野叔母様の話は、真実だったと言うことか……」
小さく呟かれた声には、どこか懐かしげな響きが混ざっていたが、それに気付く者はここには居ない。

「よ……、妖精というのは……その……死の呪いをもたらすと言う……」
葵の戸惑いと怯えの混じった声に、葛原は思わず嘲笑を漏らす。
「お前まで、その話を信じているとはな」
(え……?)
驚きに言葉を失っている葵を余所に、葛原はあの頃の菰野を思い出す。
今よりも柔らかくもちもちとした頬に、明るくあたたかい、父上と同じ栗色の髪と瞳。
人懐こい笑顔を振りまいて、私の後ろをどこまでもついてくる、可愛い可愛い義弟……。
(菰野はすっかり信じていたようだったが……)
葛原は、懐かしさと愛しさに弛んでしまった眼差しを引き締め直すと、床に横たわる菰野と同じ歳頃の少女をじっくりと眺める。

ふと、その大きく開いた服の背を隠すように挟まれた布に気が付いた。
気を失ったままの腕を掴み、ぐいと引くと、流れるような髪の合間から、隠されていた背が露わになる。
……翅を隠しているのか?
もしかして、この妖精は、正体を隠して菰野に会っていたのだろうか。
姿を偽って……?
耳はどう隠していたのか分からなかったが、よく見れば触角のような物も、同じく隠されているようだった。

葛原の胸が躍る。
菰野は騙されていたのだ。
あの、人の良い義弟は、この妖精に欺かれていた……。
それを知った時、菰野はどんな顔をするだろうか。

「目覚める前に、頑丈な鎖でしっかり繋いでおけ」
言われ、葵は慌てて答える。
「はい」
「くれぐれも目を離すなよ」
「はっ」

葛原は、サラサラと床に広がる長い金髪を指で掬う。
張りのある生き生きとした髪は、手の中で光を返し元気に跳ねた。

(この妖精がいれば、たとえ城内で菰野を片付けようと、十分話が通る……)

期待に、葛原は知らず笑みを浮かべていた。
敬愛する父の為、父に喜んでもらえるその日を待ち望むその顔は、普段の彼の険しい表情しか知らぬ者が見れば驚くほどの、純粋な笑顔だった。

(父上……、もうまもなくです……)