一方で久居は、握り締めた拳を一層握り込んでいた。
「リル……」
声をかけられて、まだ鏡を握って自身の後ろ髪とぴょこぴょこ戯れていたリルが顔をあげる。
久居は、言わなければならないと、わかっていた。
「私は……、私は、もう……。ここへは……」
わかっているはずなのに、そこから先が、どうしても、久居には紡げない。
異様に静かな森に、ギリッと、自身の拳の軋む音だけが聞こえた。

「わっ、大変っ!! コモノサマもうすぐこっちに向かってきちゃう!!」
リルが手を耳の後ろにあて、慌てた様子で声をあげる。
「ご、ごめんねっ、鏡に夢中でぼーっとしてたみたいっ」
リルが鏡を、ありがとうと添えつつ久居に返す。
久居は何も言えず、それを受け取った。
村の方向へバタバタと駆け出したリルが、茂みの手前でピタと足を止め、振り返る。
「久居っ。また二日後にね!!」
嬉しそうなリルの笑顔が、久居の胸に痛みを伴って滲み込む。
迷いなく遠ざかる軽い足音に、久居はその背を見送った。
(リル……)
黒髪の従者は、城へ向かって足を動かしながらも、自分を慕ってくれる小さな少年へ、胸の中で謝罪を繰り返す。
(すみません……、どうしても、ダメなのです……)
最後の茂みを抜けると、加野の墓の隣へと出た。
久居はそこで足を止めると、後ろを……リル達の住む山を、振り返る。
(この山に、立ち入ることだけは……)

どのくらいそこに立ち尽くしていたのか。
後から下山してきた菰野が、茂みを抜けてすぐのところで久居に鉢合わせて、声をあげる。
「うわぁっ! ひひひ久居っ!? どうしたんだこんなとこでっ」
尋ねられ、久居は静かに目を伏せる。
「山を……見ていました……」
確かに、山を見ていた風ではあった。
けれど、それにしたって、少し様子がおかしいと菰野は思う。
(……久居……?)
力無い従者の声に、少年主人は彼を案じたが、これ以上尋ねる事は自身の首を絞めると分かっている。
頭の隅に過ぎる金色の笑顔に、菰野は喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込んだ。

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城に戻った二人は、新たな皇である葛原皇に、謁見の間へと呼ばれていた。
「葛原皇。菰野、只今参りました」
入室の許可を得て、二人は皇の前へと進み、膝を付く。
「喪が明けたそうだな」
「はい」
葛原は、かつて譲原皇が座していた場所に鎮座していた。
「まあ、お前からすれば叔父だからな。忌日が十日、服喪もひと月というところだが……。私にとっては実の父なのでな。忌日は五十日、服喪も十三ヶ月に亘るわけだ」
「はい」
葛原の、どこか菰野を軽んじるような言い振りにも、菰野は表情を変えることなく答える。
「一年以上も政をしないわけにはいかないが、せめて忌中はな……」
おもむろに、葛原は袂からずっしりと量のありそうな書簡を取り出した。
「菰野、今回お前には前皇の親類達へ、この書簡を持って葬儀の報告に行ってもらう」
葛原の指示に、伏せたままの久居と菰野の顔色が変わった。
けれど、それは誰にも見られる事はない。
「……はい……」
「多少なりとも血の濃い者が行く方が良いだろう。早くとも半年はかかる行程だ。まあ……一年だな。一年のうちに、この全てに回り挨拶を済ませてこい」
ポンポンと手の内で書簡を弄んでいた葛原が、菰野へそれを手渡す。
「はい……確かに承りました」
両手で慎重に押し頂いたそれを、菰野は丁寧に懐へと仕舞った。
菰野の帯の上で、小さなガラス玉がぶつかり合う音が僅かに聞こえて、葛原はその存在に気が付いた。
「出立はいつになる?」
「はい……明後日……いえ、明々後日の朝にはこちらを発ちます」
面をあげる許可のないまま、菰野は地を見つめて思う。
(せめて明後日、フリーさんに事情を話してから行きたい……)
葛原は、そんな菰野の言葉に引っ掛かりを感じた。
玉座に座り直しながら、考えを巡らせる。
(身寄りもなく従者も一人のこいつのどこに、そんな支度の時間がかかる?)
思いながら許可を出す。
「そうか。まあ長旅だ。しっかり準備を整えて行け」
「ありがとうございます」
礼とともに深く頭を下げる菰野の腰で、帯飾りが小さく音を立てる。
「下がっていいぞ」
「はい」
葛原の言葉に立ち上がる菰野の動きで、帯飾りが揺れて煌めくのを、葛原は射抜くような目で捉えた。
あれはおそらく手作りの品だろう。と葛原は判断する。
ボロボロではあったが、間違いなく、葛原が今まで見た事のない品だ。
葛原は加野が亡くなって以降、菰野が紋球以外の装飾品を身につけているところを初めて目にした。
(女か。いつの間に……)
葛原は内心驚いたが、それ以上に湧き上がる暗い悦びに、口端を歪ませる。
(……だが、これは……使えるな……)
ニヤリと、葛原の口元に浮かび上がる異質な笑みは、謁見の間に在って良いような物ではなかった。

それに、久居だけが気付く。

菰野は既に葛原に背を向けており、後ろで控えていた久居も菰野に続いて立ち上がる。
けれど、久居には一瞬目にしてしまった葛原皇の表情が焼き付いて離れない。
(今の表情は……あの時と同じ……)
久居は前にも一度、今と同じ葛原の暗い笑みを見たことがあった。
それは、葛原が菰野に『妖精の呪い』という言葉を教えた時だ。
あれから、全てが変わってしまった。良くない方向へと……。
(かなり……嫌な予感がしますね……)

謁見の間から葛原以外の姿が完全に消えると、葛原は一声、名を呼んだ。
「葵」
途端、天井裏からふわりと床へ、音もなく舞い降りる影。
「お呼びでしょうか」
応えた声は、思うよりずっと若い、女性のそれだった。
「菰野を見張っておけ」
葛原の指示に、床に膝を突く影から、即座に短く返事が戻る。
葵と呼ばれた隠密らしき人物は、全身を黒に近い色で覆っていて、暗がりの中では一瞬でも目を離すと闇に溶け込んでしまいそうだった。
「それと、菰野と親しくしている女がいれば、連れて来い」
新たな主人である葛原皇の、思いも寄らない要求に、隠密は俯いたまま目を見開いた。
しかしその瞳は暗く濁っていて、光を宿していないようにも見える。
肩につかない程度の長さに切り揃えられたサラリと揺れる黒髪と、目を覆い隠すほど伸ばされた長い前髪のせいで、葵と呼ばれた隠密の表情は誰にも見えないようになっていた。
「返事はどうした」
促され、葵は深く頭を下げる。
「御意……」
そんな葵の態度に、葛原は苦笑を噛み殺す。
しかし、これからのことを考えると、後から後から込み上げる感情が、堪えきれず葛原の口元から漏れる。
「ふふふ……これは、面白くなりそうだな……」
眼裏に浮かぶ愛しい父の、喜んでくださる様を思うと、葛原は緩む頬を引き締めきれなかった。