ウッズは教会を出てすぐに、大通りを曲がり細い横道へに入った。
「あそこです!」
「あの煙か……!」
 ウッズが示したのは、昨日、セリシアが少年の治療をしてやっていた場所の近くだった。既に火は消し止められていたが、隣接する三軒ほどが黒焦げになっており、いまだ煙を燻らせていた。
 火元は三軒の真ん中に建つ木造家屋のようだった。
「……この匂い、油か?」
「料理屋の揚げ油に、火が回っちまったんです! 料理屋の夫婦と、仕込みを手伝ってたうちの家内が大やけどを負ってます。他にも、何人かがやけどを……!」
 俺の問いにウッズが涙ながらに答えた。
「ウッズ!」
 その時、人だかりの中にいた女性が俺たちの姿を認め声をあげた。
「すまん、やはり聖女様は来てはくれなかった。だが、代わりにセリシアが――」
「そんなんはいい、それより早くこっちへ! あんたの奥さんが、ずっとうわ言であんたを呼んでる!」
 女性はウッズの言葉を割って、叫ぶように口にした。
「なんだって!」
 ウッズが転がるように走りだす。俺もウッズに続き、女性が手招きする方へ走っていく。
「……っ!」
 隣のセリシアが息を呑んだのが気配で分かった。俺も、一瞬呼吸が止まった。
 それくらい目の前には、厳しい現実が広がっていた。
「メアリ……! しっかりしろ!!」
 道端に敷かれた毛布の上に、数人の負傷者が寝かされていた。ウッズが真っ直ぐに駆け寄ったのは、負傷者の中でも特段重篤な女性のところ。ウッズは必死で呼びかけるが、女性はもう苦し気な息を漏らすばかりでまともな言葉を紡がない。
 瞼にもやけどを負っていて、その瞳が開かれることもない。
 他の負傷者の枕辺でも、同じような光景がみられた。料理屋の主人と思しき男に、老婆が縋って泣いていた。
 俺はその光景を食い入るように眺めながら、踏み出すことができなかった。
 ……セリシアの調薬は、間違いなく効き目がいい。しかし、軟膏と湿布薬では、死に瀕した重度熱傷者の救命には役立たない。
 迫りくる死の足音に、人々は絶望していた。俺もなす術なく腕に抱えた荷物を握り締め、無力感にギリギリと奥歯を噛みしめた。
 その時、ウッズの呼びかけに答えるように、メアリの指がピクリと動く。
「メアリ!」
「あぁ。……あな……た。最期に会えて、よかっ……」
 掠れ掠れにメアリが声を発するが、最後まで言い切る前に言葉は不明瞭に途切れる。彼女の命の灯が、今まさに消えゆかんとしていた。
「っ、逝かないでくれ!」
 ウッズが悲痛に叫び、周囲からはすすり泣く声があがった。
「どうか俺ひとり置いて逝ってくれるな……なぁ、メアリ?」
 ウッズの眦から零れた涙が、頬を伝ってパタンとメアリの額に落ちる。
「……もう、諦めろ」
 人の輪の中から老婆が一歩進み出て、ポツリと口にする。
 皆の視線が老婆に集まる。老婆の手には、握りこぶしほどのサイズの瓶が握られていた。
「これだけのやけどを負って、聖女様にも見捨てられ、もう全員助かりゃしない。ここにいる負傷者は皆、これが寿命だったんだ。……やけどで死んでいくのは大変な苦痛だよ。せめてこれ以上苦しまぬよう、ひと思いにあの世に送ってやるのが人の情けってもんだ」
 老婆の言葉に周囲はシンッと静まり返り、負傷者の苦し気な呼吸音だけが響いていた。
 老婆は、手前に横たえられていた重傷者の夫人の元に行くとしゃがみ込んで、瓶の中身を飲ませようと口を開く。
「おい、なにをしている!?」
 老婆が明確な意思を持って、夫人の命を絶とうとしているのは明らかだ。それなのに声をあげたのは俺だけで、夫人の親族と思しき者達は老婆のなすがまま止めようとはしない。
「やめるんだ!」
「……死なせない!」
 俺が老婆の腕を取るのと、セリシアが鋭く言い放つのは同時だった。
「これが寿命だなんて、そんなことない! 私が皆を死なせない……!」
 振り返ると、セリシアが全身に光の粉を纏わせてキラキラと発光していた。
 これは、光の魔力か!? それも通常の魔力の放出ではあり得ない、……まさか新魔創生をなし得たか!!
「どうか助かって……!」
 セリシアは横たわる重傷者らの前へ進み出て、固く両手を組み合わせる。直後、彼女の全身を包む光がふわりと広がる。全員が固唾を呑んで、セリシアの一挙手一投足を見守った。
 ところが、それっきりセリシアにも負傷者たちにも変化はみられない。
 見れば、瞼を閉じ唇を引き結んだセリシアの表情は苦し気で、苦握り合わせた拳も小刻みに震えている。その様子にピンとくる。
 おそらく、セリシアは発現した魔力の使い方が掴めずにいるのだ。
「セリシア、己の源に祈れ」
 俺は彼女に歩み寄り、そっと耳元で囁いた。
「え?」
 セリシアは薄く瞼を開き、俺を見上げた。
「そして、イメージするんだ。損傷した皮膚細胞の再生、穏やかな呼吸と適正体温の維持。それらのイメージを彼らに注ぎ込め」
 新魔創生は祈りと、そして想像力が全てだ――!
「……はい!」
 セリシアは俺の声に力強く答え、再びグッと目を瞑る。次の瞬間、彼女から眩いほどの光の粒子が舞い上がる。
 セリシアの隣にいた俺は、光の粒子をもろに浴びる恰好になった。
 ……これは、ものすごい魔力だ!
 光に触れた部分が柔らかな熱を帯び、皮膚細胞が活性化していく感覚があった。咄嗟に露出している手の甲に視線を落とすが、健康な皮膚ゆえに目に見えての変化はなかった。
 しかし広がった光が負傷者らを包み込んだ瞬間、全員が息を呑んだ。
 水ぶくれが破れ、肉の色を晒していた患部が新たな皮膚に覆われていく。赤黒くただれた広範囲の熱傷も、キラキラと発光しながら肌本来の色を取り戻してゆく。
 熱風で気管を焼かれて浅い呼吸を繰り返していた患者は、これまでの苦悶の表情が嘘のように穏やかな笑みをたたえ、大きくひと息吐き出した。
「メアリ……!」
 やけどで上下の瞼が張り付いてしまっていたメアリも、光の粒子がふわりと触れた瞬間に瞼を開いた。
「あなた? ……やだ、泣いているの?」
 その瞳にウッズを映すと、メアリは小さく微笑んで彼の涙を拭おうと手を伸ばす。一度は焼け落ちてなくなってしまったはずの手指で、彼女はそっとウッズの目尻を撫でた。
「っ、メアリ!!」
「え? あらあら」
 ウッズが大量の涙を迸らせ、メアリは驚いたように目を瞠った。
 集まっていた人々は目の前で繰り広げられる奇跡に言葉を失くし、瞬きすら忘れてただただ見入った。
 ――カシャン。
 地面になにかがぶつかって割れるような音があがる。
 見れば、俺が腕を取って薬殺を止めた老婆が、目を真ん丸にして立ち尽くしていた。彼女の手から瓶はなくなっていて、代わりに足元に割れたガラス片が散らばっていた。
「あたしゃ今、奇跡をこの目で見ているよ。そしてこれこそが、聖女の御業さ」
 老婆が震える唇で紡いだ『聖女』の一語。耳にして、俺の中でストンと嵌まる。
 発現にどんな力が起因しているのかはさておき、グルンガ地方教会の聖女イライザが癒しの魔力を持っているのは事実だ。しかし、富権力によって力を使い惜しむ彼女のやり方は、聖女には到底相応しいものではない。
 真の聖女は、イライザではない。セリシアだ――。
 負傷者の回復と共に発光は段々と弱まっていった。
「……っ」
「大丈夫か!」
 光が完全に消えた瞬間、セリシアの体がカクンと頽れるのを、すんでのところで支える。
「は、はい。大丈夫です、ありがとうございます」
 セリシアの息はすっかりあがり、表情にも疲労が色濃い。そして言葉とは裏腹に、彼女は自分の足で立つことも難しい様子だった。
 初めての新魔創生でこれだけの魔力を使ったのだから無理もない。
 ただし、ふらふらの体を俺に支えられながらも、その目には達成感と強い決意が透けてみえた。
「……セイさん、昨日の言葉はまだ有効でしょうか?」
 俺を見上げ、セリシアが迷いのない口ぶりで尋ねる。
「もちろんだ」
「ではセイさん、改めてお願いします。どうか私を、旅にご一緒させてください」
「喜んで。セリシア、君の同行を心から歓迎する」
「ありがとうございます。私はこれまで、あまりにも狭い世界で生きていました。あなたと旅に出て、広い世界をこの目で見ます。その上で、私になにができるのか考えます」
 嫋やかな佇まいは、たしかに昨日までの彼女と同じ。それなのに、凛とした眼差しで前を見据える姿はまるで別人のようだ。
 もしかすると新魔力のみならず、彼女の心の中にもなにかしら"新たな変化"があったのかもしれないと感じた。
 その時、人垣から一人の女性が進み出て、俺たちに歩み寄る。
 女性は小間物屋の夫人で、気づいたセリシアは俺の腕から抜け出して自分の足で立ち、彼女に向き直った。
「セリシア、この人たちと行くんだね?」
「はい。……お嬢さんの回復を最後まで見守らずに出ていってしまい、すみません」
「なに言ってんだい! 娘はもう、ほとんど治ってる。それに、多めに貰った薬の残りだってある、心配はいらない。だからあんたは、ここにいちゃいけないよ。ここにいたら、その能力も教会の奴らにいいようにされちまう。あんたの能力は、あんたの心が望むまま使えばいい。この人たちと一緒に行って、広い世界を見ておいで」
 夫人は、申し訳なさそうに頭を下げるセリシアの肩をトンッと抱き、彼女の旅立ちを後押しする。
「おばさん、ありがとうございます」
「道中、くれぐれも体には気を付けるんだよ。それからね、この街はあんたの故郷さ。恋しくなった時は、いつだって帰っておいで。街のみんながあんたの帰りを待ってるよ」
「その時はぜひ、うちに泊まってくれ! 妻を死の淵から取り戻し、こうして抱きしめていられるのも、全部セリシアのおかげだ! こんなのは礼にもならんが、せめて帰郷した時くらいは心づくしのもてなしであんたを迎えさせてほしい」
「いいや、その時はぜひうちに来てくれ! 嫁いだ娘の部屋が空いているんだ。なんだったら、ずっとうちにいてくれたっていい」
 ウッズが全身やけどを負っていたのが嘘のように滑らかな肌を取り戻したメアリを胸に抱きしめて口にすれば、他の負傷者やその家族からも次々に同様の声があがった。
「皆さん……」
 セリシアは感極まった様子で目を潤ませた。そんな彼女に、件の老婆が進み出て感謝を口にする。
「セリシア、あたしからも改めて礼を言わせてもらうよ。あたしは、自分が取ったあの行動を後悔はしていない。野蛮なやり方だってことは誰よりも承知してるが、やけどで苦しむ負傷者にとってあれが最善だと疑っていなかった。それがこの街の長老としての責任だとも思っていた。だけど、あんたの起こした奇跡を目の当たりにして、今後はもう同じ行動は取れないだろう」
 老婆の語った台詞で、俺は初めて彼女がこの街の長老なのだと知った。
 長老は街の最高齢者の意であり、そこに権力的な意味は含まれない。しかし、この世界にあって年長者を敬う心は前世の日本より根強く染み付いている。
 街の人々は、長い人生経験を積んだ彼女の言葉に耳を傾け、その行動に一定の敬意を払う。これが全てとは思わないが、彼女が毒殺を主張した時に反論の声がでなかったのには、こういった側面もあったのだろう。
「今度似た状況になった時に、また奇跡が降ってくる保証なんてどこにもない。だけどたしかに奇跡はあった。そして奇跡は、命あってこそ。その可能性の芽を摘むことは、あたしにはもうできんよ」
「長老……」
「それから、これからお前の周りにはありとあらゆる思惑を持った者が近寄ってくるだろう。だが、最後に従うのは己の心だ。さぁ、広い世界へいっておいで、グルンガの真の聖女・セリシア。道中の幸運を祈っているよ」
「……はい。いってきます!」
 長老の餞の言葉に、セリシアはしっかりと前を見据え、力強く答える。
 周囲はセリシアの新たな門出を祝う温かな拍手で包まれていた。

 温かな拍手を受けながら、俺とセリシアは街の人々に別れを告げ路地裏を後にした。
「おそらく、フレンネルは既に君が新魔創生をなし得たことを把握しているだろう」
 教会に足を向けながら、隣の彼女に切り出す。
「はい。教会は複数の情報屋を抱えていますから……」
 教会にはチナが一人で留守番をしており、俺が戻らない選択はない。だが、セリシアはフレンネルと顔を合わせない方がいい。
「君の能力を知れば、なんとしても教会に留めようとするはずだ。君は、教会には立ち入らない方がいい。旅に際し、必要な物は新たに購入すればいい。多くは無理だが、もしどうしても必要な物があれば俺が持ち出す。なにかあるか?」
 俺もフレンネルと顔を合わさずに教会を出られれば最善だが、おそらく外部からの出入りは逐次監視されている。
 もっとも、俺ひとりなら最悪、チナを抱えて制止を振り切ってしまえばいいだけのことだ。
「いえ、どうしても必要な物などなにも。……けれど、恥ずかしながら私には先立つものがありません。正直、旅支度を購入品で賄うのは難しく、やはり着替えなど最低限の物は持っていきたいです」
「旅の仲間となったのだから打ち明けるが、俺は次元操作の使い手だ」
「次元操作……?」
 セリシアは反復しながら、小さく首を傾げる。
「君は保有する五属性を掛け合わせて再生の魔力を発現させたろう? 光魔力で傷を治癒し、回復を促す力を持つ者はいる。しかし、細胞を再生し、快癒まで導く――この再生快癒は君だけがなせる技だ。そして、次元操作も俺だけがなせる技だ」
「なんと……! セイさん自身も、新たな魔力を創生していたのですね」
 セリシアは目を丸くした。
「ああ。俺は保有する六属性を掛け合わせることで新魔力を発現させる。これが莫大な力を持つ次元操作で、俺はこの攻撃力を武器にこの身一つで多くの次元獣を討伐している」
「……驚きました。けれど、これであの時セイさんが下さった的確な助言に合点がいきました。あの言葉は、セイさん自身の経験に則っていたんですね」
「ああ。属性の数に違いはあれど、両者の根幹は同じだ。どちらも祈りと、そして想像力が肝になる」
「なるほど。あなたのおかげで、己の内に燻る力を治癒魔力として具現化することができました。本当に、ありがとうございました」
「なに、初めて力を発現させたのだ。使い方に戸惑うのは当然だ。むしろ、あの助言だけで再生快癒を使いこなしたのは大したものだ」
 なにを隠そう俺自身、次元操作を自在に操るようになるまでに二年を費やしているのだ。そう言った意味でも、セリシアは破格に筋がいい……いや、セリシアだけではないな。チナもいまだ制御はできていないが、既に二属性の同時発動を果たしている。
 このふたりが一層技を磨いたら……。想像すれば、ゴクリと喉が鳴った。
「あの。今のお話でセイさんの身の上はよく分かりました。けれど、私が無一文という部分は、なにひとつ解決していないのでは……?」
 セリシアが遠慮がちにあげた声が、束の間の物思いから俺の意識を今に戻す。
「ああ、それなら――」
「それなら大丈夫よ! 次元獣ってね、ギルドが素材として目玉が飛び出ちゃう高値で買い取ってくれるの。だからお兄ちゃんって、こう見えてすっごいお金持ち。セリシアお姉ちゃんの旅支度を揃えるくらい、どうってことないわ!」
 俺が口を開くのと同時に、街路樹の後ろから大荷物を背負ったチナが飛び出してきて、セリシアの質問に元気よく答えを返した。
「チナ!! お前、どうしてここに……!?」
「だって、お兄ちゃんがあんなに慌てて出ていったのよ? なにもないわけがないじゃない。それでなにかあれば、当然、街を出ていくことになるでしょう?」
 チナの受け答えに舌を巻く。
「教会からお兄ちゃんの荷物も全部持ってきたわよ!」
「フレンネルにはなんと言って出てきた?」
 誇らしげに俺の荷物を掲げてみせるチナに眩暈を覚えながら尋ねる。
「なにも。あの後も教会には聖女様に助けを求めて街の人が何人かやって来て、私はフレンネルさんが正門で対応してる隙に通用門から出てきちゃった。だから、フレンネルさんには会ってないの」
「あら、通用門には鍵がかかっていなかった? よく開けられたわね」
 俺が二の句を失くしていると、セリシアが不思議そうに口にする。
 これにチナはビクンと肩を揺らし、バツが悪そうに目線を泳がせた。
「ええっと。悪いなぁとは思ったんだけど、壊しちゃった」
「え!? 壊したって、鉄製の錠前を?」
 セリシアは訝しげに首を捻っていたが、俺は歯切れの悪いチナの口ぶりでピンときていた。
「……チナ、材質変化を行ったな?」
 問いかける俺の声は自ずと低いものになった。
「約束を破ってごめんなさい! だけど私、昨日の夜眠る前にずーっとイメージしていたの。そうしたら、体の奥がぽかぽか熱を持ってくるのに気付いたの。この熱に、土の拳銃が固い金属に変化していく様子を念じたら、今度は絶対成功するって思った。起きたら一番にお兄ちゃんに見てもらおうってワクワクしながら寝たんだ。……だから、つい」
 チナは治まり悪そうに、言葉の最後を言い淀む。
「鍵のかかった通用門を前にして、一人で試したんだな」
「……うん」
「それで、お前のイメージした通りになったか?」
「うん! 寝る前に想像した通りになった! 体の奥の熱に『土になれ』って念じたら、金属の鍵があっという間に、ボロボロ崩れていったんだよ!」
 チナはこの質問には一転、キラキラと目を輝かせて答えた。
 ……恐れ入った。チナは一夜にして、……それも、実際の訓練ではなくイメージトレーニングによって新魔創生を体得してしまったのだ。
 金属を土に。そして、土を金属に――。
 もちろん、金属を土に変えるのとは異なり、土を金属に変えるにはさらに精緻な魔力制御を加える必要はある。しかしチナならば、それもじきに可能とするだろう。
 彼女は新魔創生による錬金術を可能にしたのだ。
「ぅううっ。ごめんなさい、怒らないで……」
 黙りこくってしまった俺に、チナはすっかり委縮して再び謝罪を口にした。
「チナ、俺は怒っていない。ただ、今回は魔力暴走も起こらずいい結果になったが、毎回ことが上手く運ぶとは限らない。俺はチナが怪我をしたり、危ない目にあったりするのが心配だったんだ」
「お兄ちゃん……!」
「ただし、次からは約束通り俺と一緒に練習だ」
「うん!」
 俺はチナの頭をワシャワシャと撫で、彼女の手から荷物を取り上げて左肩に引っかけた。そうして空いた右腕でヒョイッとチナを抱き上げた。
「えっ?」
「正直、教会に戻らずに済んだのは助かった。ひとりでこの大荷物を抱えてくるのは大変だっただろう、こうしていろ」
「うんっ!」
 パチパチと目を瞬かせていたチナは、俺の言葉に上機嫌で頷いてキュッと肩に縋った。
「あら。いいわね」
 隣で見ていたセリシアが微笑んで目を細くした。
「へへっ、いいでしょう」
「チナツちゃん、改めて私も二人と一緒に旅をさせてもらうことになったの。これから、どうぞよろしくね」
「セリシアお姉ちゃんなら大歓迎よ!」
 仲良さそうに笑い合う二人はまるで本当の姉妹のようで、俺の頬も自然と緩んだ。
「……あ、でもお兄ちゃんのことは狙っちゃ駄目よ」
 チナがポツリと零した台詞に、疑問符が浮かぶ。セリシアも、小さく首を傾げていた。
「お兄ちゃんは、私のなの!」
 チナが続けた子供特有の独占欲が滲む台詞に、俺は思わず噴き出した。
「お兄ちゃんってば、どうして笑うの!?」
「すまんすまん」
 不満げに頬を膨らませるチナがなんとも可愛らしく、謝罪を口にしながらも、油断すれば笑みが零れそうになる。
「あー! お兄ちゃんってば、まだ笑ってる!」
 チナの指摘にドクンと鼓動が跳ねる。
「お口がヒクヒクしてるもん! もう、お兄ちゃんなんて知らないっ!」
 彼女の鋭い観察力にぐうの音も出ない。
「チナ、この通りだ。俺が悪かった。だから機嫌を直せ」
 ふくれっ面でそっぽを向いてしまったチナを宥めるのに必死の俺は、俺たちを見つめるセリシアの表情がほんの少し強張っていたことも、その目が僅に翳りを帯びていたことも気づかなかった。
 こうして俺たちは各々の思いを胸に、グルンガの街を後にした。