追放された最弱転生者ですが、幼女に聖女にお姫様付き!?無双生活はじめました【第一部完】

 ミーゲル町長の町を出た俺は、三日ほど徒歩で旅を続け、四日目に人口一万人規模の比較的大きな町に辿り着いていた。
 別段の意図があったわけではないが、たまたま取った宿の隣が孤児院で、絶えず聞こえてくる子供たちの声に引き寄せられるように足を運んでいた。
 孤児院の軒先で、小さな子供たち数人が輪になって遊んでいる中、ひときわ草臥れた服を着た水色髪の少女が輪を外れて一人、砂遊びをしているのに気づく。『砂遊び』と表現したが、少女は土属性の魔力を少量注ぎながら創作しているようで、遊びレベルではない精巧な作りの土像がいくつも並んでいた。
 ……ほう、これは面白い。
「お前はみんなと一緒に遊ばないのか?」
 興味を引かれた俺は、少女の元に歩み寄って問いかけた。
「わたしシンコなの。だからみんなとは遊ばない」
 少女は俺を見上げてぶっきらぼうに答えると、再び目線を地面に落とした。顔を伏せる直前、サファイアのような少女の瞳が悲しげに陰ったのを俺は見逃さなかった。
 ちなみに、シンコとは五属性の魔力を持つ者のこと。セイスほどではないにしろ魔力が弱く、セイスに次ぐ社会的弱者だった。
「そうか、弾かれ者か。俺と同じだな」
「え?」
 俺の告げた『同じ』という台詞に反応して、少女が顔を上げた。
「俺はセイスのセイ。小さい頃はお前のように一人で遊んでいた。だから、お前の気持ちはよくわかる」
 少女は『セイス』の件で、信じられないというように目を真ん丸にした。俺はあえて少女に見えるように、左手の甲を翳して見せた。
 少女は俺の左手の甲に浮かぶセイスの印を注視して、ゴクリと喉を鳴らした。
「名前はなんというんだ?」
「わたしはチナツ。シンコ以下の人に会ったのは初めてよ」
「そうだろう。俺だってシンコに会ったのは初めてだからな」
 シンコやセイスは発現する数が圧倒的に少ない。シンコで数年に一人、セイスに至っては数十年に一人といった発現頻度なのだ。
「ところで、これはチナツが作ったのか?」
「うん。ここに来てからずっと、一人で砂遊びをしてたから、こんなのならいくつでも作れるよ」
「そうか! 細かいところまでよく出来ていてビックリしたぞ。チナツはすごいな」
 チナツの頭を撫でながら、俺は彼女との出会いを神に感謝していた。
 出来上がった土像を見れば、チナツが繊細にコントロールしながら魔力を放出していることが瞭然だった。シンコゆえ保有する魔力こそ少ないが、彼女は実に優れた魔力制御の技術を持っている。
 ……いや。むしろ保有する魔力が少量だったからこそ、きめ細かく使いこなす術を身に着けられたのだろう。
「そんなこと言われたの初めて」
 チナツは頬を赤く染めて俯いてしまった。
「ははは、恥ずかしがることなんかない。すごいものはすごい。そうだ! たとえば、チナツはこういうのは作れるか?」
 荷物袋から丸めた紙を取り出すと、チナツに広げて見せる。
 それは、俺がずっと作りたいと思っていた武器の設計図だった。ライフルに近い形状だが、撃ちだすのは弾丸ではなく魔力だから、弾倉部分が魔力を装填する魔力倉に置き換わっている。
「これはなに?」
「昔好きだったロボットアニメに登場する兵器だ。見よう見真似で描いてみたんだが……。ここの引き金を引くと、ここに溜めてある魔力がこっちの先端から撃ちだされる仕組みだ」
「ロボ……アニ……? よくわからない」
 可愛らしくコテンと小首を傾げるチナツに、俺は苦笑いしてもう一度彼女の頭をポンッと撫でる。
「いや、すまん。そこはあまり重要じゃない。とにかく、溜めた魔力を撃ち出す仕組みだ。どうだろう、作れそうか?」
「うーんと……、やってみる! えいっ!」
 言うが早いか、チナツは両手を前に翳す。すると、あっという間に地面が大きく盛り上がる。
 ……なんだ!?
 そうかと思えば、盛り上がった砂が次の瞬間にはサラサラと散っていく。砂が散った後、中から現れたのは全長七十センチの小型ライフルだった。
「すごいじゃないか!」
 思わず叫び、目の前に現れたライフルを手に取って確認する。
 ……なんてことだ! このレベルなら、すぐにでも使えるぞ! 強度が気になるところだが、まずは一発撃ってみよう。
 さっそく試し撃ちしようと、ワクワクしながら魔力倉に魔力を装填していると、急に空が暗くなった。これは、次元獣が現れる前触れだった。
 チッ! 楽しい気分に水を差された俺は、内心で舌打ちした。眉間にも、クッキリと皺が寄った。
「な、なに!? セイさん、急にお空が真っ暗に!」
「シィッ。チナツ、大丈夫だから俺の言う通りにするんだ」
 兢々と叫ぶチナツの肩に手を置き、その目を真っ直ぐに見つめて言い含める。
「お前は体勢を低くして他の子供たちのところへゆっくり移動するんだ。それから、すまんが戦闘が終わるまでこれを預かっていてくれ」
「それはいいけど、セイさんは一緒に逃げないの?」
 チナツは俺が差し出したライフルを抱き締め、困惑気味に尋ねた。
「ああ、次元獣をやつけるのが俺の仕事だ」
「え、次元獣がくるの!? だったら、なおさら逃げなくちゃ! セイさんはセイスなんでしょう? 殺されちゃうよ!」
「あぁ、たしかに俺はセイスだ。でもセイスだからって弱いわけじゃない。今からそれを証明してやる」
 不安げに見つめるチナツを安心させるように、ゆっくりと伝える。
「さぁ、おしゃべりはここまでだ。お前は皆のところに行くんだ」
 パチパチと目を瞬いて俺を見上げるチナツの肩をトンッと押せば、彼女は意を決したようにコクンとひとつ頷いた。
「分かった!」
「いい子だ」
 チナツが足を踏み出すのと同時に、上空ではどす黒く染まった大気が渦を巻き始める。渦は見る間に威力を増し、竜巻のように地面へ向けて伸びてくる。
 竜巻は、孤児院前の広場に到達すると小さな爆発音と共に弾けた。霧状になって瘴気が拡散され、中から黒光りする次元獣が姿を現した。
 次元獣は二足歩行タイプで体長五メールくらいの中型。全身に青紫に怪しく輝る水晶のようなものを生やしていた。
 見た目こそ厳ついが、このタイプはそう強い部類ではない。
 安堵しかけた俺だったが、直後に、空を裂いて出現する二体目を認めて目を剥いた。
「なんだと!? 次元獣がもう一体……!」
 通常、次元獣が同じ地域に立て続けに現れることは稀で、二体が同時に出現するというのはさらに珍しいことだった。
 そして全容を露わにした二体目の次元獣は、一体目とよく似た見た目をしていたが、サイズがひと回り大きかった。
 ……大型次元獣か。一体ならどうということもないが、この場所で二体を相手にするのは少々骨が折れそうだ。
 次元獣と戦う上で、なによりやっかいなのが多くの子供たちがいるこの場所だった。戦闘中は、間違っても子供たちに害が及ばないよう、二体の動向に絶えず目を配っておかなければならない。しかし周囲に気を向けながらでは、どうしても防戦に偏りやすくなる。長期戦になれば、その分被害が拡大してしまう。
 それを避けるためにも、早急に一体目の中型を倒すことだ――!
 俺は脳内で素早く今後の展望を定めた。
「あいつ、パパとママを殺したやつ!」
 その時、皆の元に移動を始めていたはずのチナツが足を止め、上空の一点を見つめて叫んだ。彼女の目線は、二体目の次元獣に釘付けになっていた。
「なんだって!? どうしてわかる?」
「彫刻家だったパパが、わたしを逃がしてくれるときに投げたペンキ、あそこに付いてる!」
 チナツが指差す箇所を追えば、たしかに次元獣の左膝のあたりに金色のペンキが付いていた。
「そうか、あいつがお前の両親の仇なんだな。俺に任せておけ、パパとママの仇は俺がとる!」
 ……このタイプの弱点は首の後ろ。中型ならば、前回の戦闘時に次元操作で吸収し、そのまま別次元に溜めてある魔力で水晶ごと打ち砕けるはずだ。
 チナツに向かって叫びながら、俺は最初に現れた中型の次元獣に狙いを定めた。すかさず次元操作を発動して足裏から推進力として魔力を放出。次元獣の背後へ素早く回り込んで魔力を放つ。
 魔力は寸分の狂いもなく首の後ろに命中し、俺の予想通り表層を覆う黒い水晶を砕き、奴の首を貫通した。急所を一撃された次元獣は、断末魔の叫びを上げながら地面に倒れ、そのまま動かなくなった。
「わぁ! セイさん強い!」
 俺は即座に奴の瘴気を別次元に吸収し、二体目の大型獣に向き直る。
「チナツ、お前は早く避難を!」
「う、うん!」
 チナツが俺の声を受け、皆の元へと踏み出していくのを背中越しに気配で感じ取る。
 ……これで次元獣とは一対一だ。奴の動きに集中できるのはいいが、よほどの至近距離で魔力を打たなければ、こいつが生やす水晶は砕けないだろう。
 奴に接近するにしても、尖った大きな水晶が邪魔をして左右から回り込んで狙うことが難しい。かといって真後ろからの攻撃は長い尻尾で防がれてしまう。……よし、いつも通り足から攻めるか。
 足を負傷させて奴を地面に引き倒し、その上で首の後ろを狙う――!
 俺は奴の左足に狙いを定めた。
 ――グァアアア!! ところが、俺が魔力を撃ち出そうとした瞬間、次元獣が唸りをあげながら不規則な動きを見せる。
 何度か左足を狙って魔力を撃ち込むも、ことごとく躱されてしまう。
 クソッ! 思ったように足に当たらない!
 こいつ今までの奴よりも速い!
 先の読みに反し、俺はめずらしく苦戦を強いられていた。すばしっこい動きで、なかなか狙い通りの場所に魔力を撃ち込むことができない。
 しかも、吸収していた魔力の残量も少なくなってきていた。
 ……仕方ない。リスクはあるが、接近戦しかないな。
 意を決した俺は、地面を蹴るのとタイミングを合わせて足裏から魔力を放出し、ヤツの懐目がけて一気に飛び上がった。
 ――ガシャンッ。
 俺がヤツの懐に入り込む直前で、背後のチナツがいたあたりから物音があがる。
 なんだ!? 俺はここまでチナツや他の子供たちに被害が及ばぬよう、次元獣を意図的に誘導し、できるだけ子供たちがいた場所から引き離していた。しかしこの物音によって、次元獣は咆哮をあげながら一直線に音がした方向へと駆け出してしまう。
 ……まずい! 次元獣の向かった先には、呆然と立ち尽くすチナツがいた。
「チナツ、逃げろ!」
 声を張り上げるが、チナツは恐怖で身がすくんでしまっているのか、カタカタと小さな体を震わせるばかり。とてもではないが、逃げられそうになかった。
 次元獣はあっという間にチナツとの距離を詰め、彼女に向かって振り上げた前足を下ろす。
「い、いやぁ……!」
 俺は咄嗟にチナツと次元獣の間に次元障壁を展開する。
 そのまま次元障壁でヤツを囲って動きを封じ、すかさずチナツに指示を叫ぶ。
「チナツ! 俺が動きを封じているうちに、それでヤツを撃つんだ!」
「え……」
「俺は次元障壁を使っているから手が離せない。お前がやるんだ」
 再びの指示にも、チナツはカタカタ体を震わせて、なかなか動こうとしない。
 ……やはり、幼い彼女には難しいか。
 とはいえ、俺が攻撃に切り替えるには、一旦次元障壁を解かなければならない。次元障壁を解けば、次元獣は彼女に攻撃を仕掛けるかもしれない。
 ……さて、どうするか。
 脳内で今後の最善の道筋を探る。視界の端に、チナツがグッと瞼を瞑りライフルを抱き締めて震えているのが見えた。
 次の瞬間、チナツが閉じていた目をカッと見開いたかと思えば、小さな両手でライフルを構えた。立ち上がると次元獣目掛けてライフルを撃ち放った。
 ――ズガーーンッッ!!
 なっ!? 俺は、突然のチナツの行動に度肝を抜かれ、彼女と彼女に撃ち抜かれて倒れ込む次元獣を食い入るように見つめていた。
 さらに、この時俺を驚かせたのはチナツが取った行動ばかりではない。どんな偶然か、チナツの撃ち放った魔力の砲はヤツの首に命中していた。急所を一撃された次元獣は地面に倒れ、ビクンビクンと二、三度体を震わせた後、動かなくなった。
「チナツ!」
 俺が銃身の砕け散ったライフルを握りしめたまま肩を上下させるチナツに声を張れば、彼女はギシギシと軋む動きで首を巡らせる。
「お兄ちゃん!」
 チナツは俺を認めると、こちら向かって一直線に走ってきて俺にガバッと抱きついた。
「よくやった、チナツ! 次元獣を倒し、お前がこの孤児院のみんなを守ったんだ! お前は立派だ!」
 俺は胸にしっかりとチナツを受け止めて、ギュッと抱き締めて小さな勇者を労った。
「本当はあの時ね、怖くて動けなかった。でも、目を閉じたらパパとママの声が聞こえたの」
 興奮したチナツが、途切れ途切れに語りだす。俺は急かさず、彼女の言葉に耳を傾けた。
「パパは『チナ、お前は生きろ』って言ってた。家があの次元獣に襲われて、パパが一瞬の隙を作って私を逃がしながら、最後に叫んだ言葉と同じだった。ママは『チナ、あなたならできる』って、励ましてくれた。……ずっと聞きたかったふたりの声が、力をくれた」
「パパとママは、ずっとお前を見守ってくれていたんだな。きっとふたりは、今頃『よくやった』とお前の勇姿を喜んでいるさ」
「うん! パパとママはわたしの自慢よ! それで、ぜったい『よくやった』って、言ってくれてる!」
「ああ」
 俺は嬉しそうに微笑むチナツの頭をクシャクシャと撫で、彼女を片腕に抱いたまま骸と化したヤツに歩み寄る。
「……これは!」
「こんなところにもパパのペンキ!」
 俺とチナツが声をあげたのは同時だった。それは、水晶と水晶の間の窪みとなって見難い奥の奥。水晶が砕け落ちてなくなった今でなければ絶対に気づくことができない、ほんの小さなシミだった。しかし、たしかにチナツが撃ち抜いた首の後ろの体表にピンク色の飛沫が付着していた。
 なるほど。チナツが奇跡のような確率で急所を撃ち抜いたのは、両親の導きだったか。
 目にした瞬間、出来過ぎた一連の流れにも全て納得がいった。
「やっぱりパパが力を貸してくれたんだ」
 チナツが声を震わせる。
「ああ、そうだな」
 チナツは潤んだ目をギュッと手の甲で拭い、俺の言葉にクシャリと笑って頷いた。
「うん!」
 俺は深くチナツを抱き直すと、次元獣の表面を覆うように拘束していた次元障壁を解いて手を翳す。そうして、奴の体に残った瘴気を吸い上げていく。次元獣の瘴気は、そのまま次元操作のための魔力となる。
 ……よし、こんなものだろう。
 余さずに吸い上げると、青紫に光る体から手をスッと手を引いた。そのままヤツに背を向けようとして、ふいに思い至って足を止める。
「どうしたの?」
 瘴気を失ったことで、ヤツから禍々しさはなくなっていた。同様に、ヤツの体を覆うようにビッシリと生えた水晶も、今はただ美しいだけの宝石のようだ。
 俺はヤツの左膝から金色のペンキが付いた水晶をひとつ取り上げて、チナツに手渡す。
「これはお前が持っているといい」
「え?」
「これはお前が打ち勝った証だ。そして、これにはパパのお前への思いがいっぱいに詰まっている」
「……うん」
 チナツはコクンと頷いて、金色に染まった水晶を小さな手のひらにそっと握り込んだ。
「ねぇ、セイさん。わたしのことチナって呼んで?」
「ん? どうしたんだ、チナ」
 俺が『チナ』と呼ぶと、チナツはそれはそれは嬉しそうに笑った。
「それからね、わたしもセイさんのこと、お兄ちゃんって呼んでもいい?」
「もちろん、構わないが。……そういえば、さっきもチナは俺のことを『お兄ちゃん』と呼んでいたな」
「パパとママが死んじゃって、わたしにはもう家族がいない。だけど、もしお兄ちゃんがいたら、きっとセイさんみたいなんだろうなって思ったの」
「チナの兄貴か、それは光栄だ。だがチナ、血縁である家族はなくともお前にはここに親代わりの先生と、兄弟のように暮らす多くの仲間たちがいるだろう?」
 俺のこの言葉に、チナは表情を陰らせた。
 そうして俺の腕からトンッと地面に下りると、俺を手招くような仕草をした。
「急にどうした?」
「シィッ。……付いてきて」
 チナは声をひそめて言うと、足音を忍ばせて孤児院の裏手へと回り込む。今は使われていない古井戸と思しき場所に辿り着くと、蓋を開けぬまましゃがみ込んで耳を寄せた。
 俺も彼女を習い、耳を澄ませた。
「子供たちは……?」
「全員奥に避難させております」
 どうやらここは古井戸を利用した避難豪のようで、中から子供たちの避難状況を報告し合う、大人たちの声が聞こえてきた。
「そうか。このままここに籠もっていれば、その内に次元獣もいなくなるだろう。子供たちが無事なのだ、家屋や畑への多少の被害はやむを得ん」
「それにしても、院長先生がチナツに向かってガラス瓶を投げつけた時は驚きました。しかし、実に素晴らしい判断でした」
 なんだと!? にわかには信じ難い台詞に、思わずビクンと肩が跳ねた。チラリと目線をチナに向けるが、彼女は特段驚いた様子も見せず、中から聞こえてくる会話に静かに耳を傾けていた。
「チナツには申し訳ないが、これも他の子らを守るための尊い犠牲だ。ここには小さな子も多い。全員を安全に屋内に退避させるため、時間を稼ぐ必要があったのだ」
 俺には避難豪の中で繰り広げられている会話が、とても信じられなかった。
 たしかに突然あがった物音を不思議に思っていたが、まさか院長が彼女に向かってガラス瓶を投げていたなど想像もしなかった。
 次元獣の視野は広い。そして次元獣は光る物に敏感に反応する。
 ガラス瓶がチナの脇に落ちるのを見て、ヤツの気はそちらに向いてしまったのだ。俺は内から湧き上がる怒りに、きつく拳を握り締めた。
「素晴らしいご判断です。当孤児院には、現在トレスばかりでなくドスの子を三名とウノの子を一名養育しております。その子らになにかあっては、町長はもちろん聖魔法教会にだって申し訳がたちません。チナツも能力に優れた他の子らの犠牲となれたのですから、本望でしょう」
 黙って聞いているのが限界に達し、物申そうと口を開きかける。ところが俺が声を発するより一瞬早く、ここまで静かに聞いていたチナが、突然直径一メートルほどの上蓋に手を掛けてずらしだす。俺は咄嗟に重そうな蓋に手を添え、チナが蓋を取り外すのを手伝った。
「先生。次元獣は退治できました」
 避難豪の中にいた院長と思しき初老の男性と、中年の女性教師がギョッとした様子でこちらを見上げる。そんなふたりに、チナは特に恨み言をこぼすでもなく、端的に外の状況を伝える。
「だからもう、外に出ても大丈夫ですよ」
「チナツ!? ……お、お前、生きていたのか!?」
「なんと! シンコでありながら次元獣に襲われて生き延びるとは、なんと気味の悪い!」
「お前たち、その言い草は――」
 さすがに聞き捨てならず、声を荒らげる俺の前に、チナがスッと手を差し伸ばして止める。
「いいのよ、お兄ちゃん。それより、今の言葉を聞いたでしょう? お兄ちゃんはわたしが『この孤児院を守った』って言ってくれたけど、ここのみんなは誰もそんなふうには思わない。たとえ次元獣を倒しても、みんなにとってわたしは気味が悪い子。だけど、わたしだって同じよ。わたしにとってここのみんなは、親代わりにも、兄弟のような存在にもなり得ない」
「チナ……」
 小刻みに震える小さな背中が切なかった。
「……でもね、もういいの。わたしには、お兄ちゃんがいるもの」
「そうだな、チナには俺がいる。……チナ、俺と一緒に来い」
 俺が肩を抱き締めて告げた瞬間、これまで気丈にこらえていたチナが、目から大粒の涙を迸らせて俺に縋りついた。
「わたし、お兄ちゃんといたい! お兄ちゃんに着いていく!」
 チナは俺の肩に顔を埋め、わんわんと泣き続けた。俺は彼女が落ち着くまでその肩を撫でて慰めてから、目を丸くしてこちらを見上げる院長に言い放った。
「お前たちにチナツは任せられん。こいつは俺がもらっていく。……最後にひとつだけ、この孤児院を次元獣から救ったのはチナツだ。お前たちにほんの少しでも良心があるのなら、この事実を肝に銘じて今後も残る子らの養育に励めよ」
 院長はこの言葉に、静かに頭を垂れることで応えた。
 俺はチナツを片腕に抱き、孤児院を後にした。


 孤児院を出た後、俺はチナを伴って衣装小物屋に立ち寄った。
 購入した着替えに靴、リボンや櫛、石鹸といった身の回りに必要な品々を店主が丁寧に包んでいくのを、チナは目をキラキラと輝かせて見つめていた。
 嬉しそうなチナを横目に、俺まで嬉しい気分になった。もしかすると、兄妹というのはこういうものなんだろうか。
 ところが、彼女が突然はたと気付いた様子で俺に声をひそめた。
「ねぇお兄ちゃん、わたし、こんなに買ってもらっちゃってよかったの? その、お金とか……」
「なに、子供が余計な気を回さなくていい。金の心配はない」
「だけど……、ほら? わたし、お金持ってないし。それに、これからの旅では、わたしの分ごはん代とか余計に掛か……ぅぷっ」
 俺の懐事情に気を回し、必死で言い募るチナは健気で可愛い。しかし『余計』のひと言は聞き捨てならず、俺はチナの唇にツンッと人差し指をあて、彼女の言葉を遮った。
「こーら。チナは『余計』なんかじゃないだろう。俺の大事な妹分だ」
 チナはハッとしたように目を見開いた。
「それに俺は、これまで冒険者をしながら結構な額を稼いでいる。チナひとり食わせるくらいは造作もない。さっき倒した次元獣だってギルドが素材として高値で買い取ってくれる。だから金のことは心配ない」
「……う、うん!」
 俺が続けて告げると、チナは照れたように頬を真っ赤に染め、大きく頷いて答えた。
「よし、いい子だ。だから、これからも足りない物や、必要な物があれば遠慮せず言ってくれ」
 俺にワシャワシャと頭を撫でられて、チナはくすぐったそうに笑った。
 宿に着くと部屋をツインで取り直し、チナを伴って客室に向かう。
「わぁ! わたし、宿にお泊りって初めて!」
 チナは奥のベッドにボフッとダイブして、楽しそうな声をあげた。
「そうか。とはいえ、大きな都市ばかりを選んで旅しているわけではないから、毎回宿があるとは限らん。すまんが、今後は野宿で過ごす晩もでてしまうだろう」
「お兄ちゃんとお外で夜明かしなんて楽しみ!」
「はははっ、そうか。チナはなかなか肝が据わっているな。頼もしい限りだ」
 俺は荷物を自分のベッドの脇に置くと、壁掛け時計に目を向ける。
「さて、晩飯にはまだ間があるな。風呂でも入りにいくか」
「え? お風呂?」
「ああ、この宿には時間制で利用できる風呂があるんだ。利用客が少ないこの時間なら、十中八九空いている」
「わぁ、行く行く!」
 チナは嬉しそうに、買ったばかりの新品の石鹸とタオルを抱えた。
 俺は微笑ましい思いで、チナを片手に抱き上げて歩きだす。
「お兄ちゃん、わたし自分で歩けるよ?」
「俺がこうしたいんだ」
「へへっ」
 チナは嬉しそうに俺の肩に抱きついた。そのまま、客室を出て宿の廊下を進む。
 親もなく、孤児院でも弾かれ者……。そんな境遇にあってチナは明るさを失わず、どこまでも健気だ。
 彼女を前にすると、胸が切なくなるような不思議な心地を覚える。
 この感情は、親が子に抱く庇護欲のようなものだろうか。とにかく、肩にかかる重みと、子供特有の少し高い人肌の温度が、とても大切に感じられた。守ってやりたいと、強く思った。
「お兄ちゃん、どうかした?」
 頭上から掛けられたチナの声で、束の間の物思いは終わりをみた。俺は緩く首を横に振り、目の前に並んだ貸し風呂の扉の前で足を止めた。
「いいや、なんでもない。……さて、ここだな」
 幾つか並ぶ貸し風呂の扉は、ほとんどが【空】の札になっていた。
「お、これは運がいいぞ、選び放題だ。チナ、せっかくだ。露天にするか?」
「え? う、うん」
 チナは小首を傾げ、次いでコクコクと縦に振った。
 幾つかある貸し風呂の中から、石組みの露天を選ぶと扉の札を【満】に変え、中に入った。
 脱衣所で手早く衣服を脱いで籠に押し込むと、さっそく風呂に飛び出した。
「わー! お風呂がお外にある!」
 チナの反応を見て、先の彼女の態度にも合点がいく。チナは、露天風呂の意味がわかっていなかったのだ。
「夜に月を眺めながら浸かるのもオツだが、昼間にお天道様を浴びながら風呂に入るのも悪くない。これが、なかなかクセになる。さぁチナ、先に体を流してやろう」
「えー? わたし、自分で洗えるよ」
「そうだったか。ところで、チナは幾つだ?」
 並んで流し場に腰掛け、体を洗いながらふと気になって尋ねた。
「五歳よ」
 チナは水色の髪を泡立てた石鹸で洗いながら答えた。
 耳にして、俺の肩がピクンと揺れる。
 ……五歳。
 その見た目以上にチナが聡いからつい忘れてしまいそうになるが、本来彼女はまだ親の庇護下にあるべき年齢なのだ。
「そうか」
「お兄ちゃんは、なん歳?」
「俺は十八だ」
 一拍の間を置いて、この世界での実年齢を答える。
「ずっとひとりで旅をしているの?」
 モコモコにした泡で頭のみならず、全身を洗いながら、チナはさらに質問を重ねてくる。
「ああ」
「へぇ~。旅はいつまで続けるの? もしかして、なにか目的があるの?」
 チナは、きっとなんの気なく尋ねただけ。しかし、彼女からされたこの質問に、俺の胸の奥が熱く疼いた。
 俺の旅には目的がある。……それは、両親の死の真相を知ること。
 そして両親の死に関与した者がいたのなら、仇を討つ。これこそが、俺の旅の最終的な目的だった。
 三年前、村に戻った俺はずっと自分が思い違いをしていたことを知った。それに気づかせてくれたのは両親の日記で、二人は次元獣に殺されたのではなかった。両親はこの世界のタブーを知り、葬り去られたのだと俺は確信した。
「そうだな、ある程度情報が集まったら、いったん旅は終え王都オルベルハイドに行く」
 適当に誤魔化すこともできたが、チナに嘘はつきたくなかった。
 だから、事実の部分だけをかいつまんで伝えた。
「オルベルに!? いいなぁ~、白亜のヴィルファイド王宮を見てみたいな。だけど王宮より、豪華だって評判なのは聖魔法教会よね。わたし、綺麗なステンドグラスを持つ教会を絵はがきで見た……っ、いたたたたっ!」
 チナが興奮気味に目を丸くして叫ぶが、どうやら途中で泡が目に入ってしまったようで、わたわたと手探りで桶を探し始める。
「ほら、お湯をかけるぞ」
「うん……! ふぁ~、助かったぁ」
 俺が桶でお湯をかけ、泡を流してやると、チナはプルプルと子猫みたいに首を振って飛沫を散らした。
「目はゴロゴロしないか?」
「もう平気!」
「そうか。それじゃあ、風呂に浸かるか」
「うん!」
 自分の全身にもお湯をかけて泡を流すと、俺たちは石組みの露天風呂に向かった。
「ふぁぁ、気持ちいい」
「はははっ、チナは風呂が好きか?」
 湯に体を沈め、気持ちよさそうな声をあげるチナに水を向ける。
「大好き! パパもお風呂が好きで、よく一緒におうちのお風呂に入ったの。もちろん、ママとも。……だけど、孤児院のみんなと入るお風呂はあんまり好きじゃなかった」
 チナは台詞の後半で表情を曇らせた。俺はポンポンッと彼女の背中を撫でると、あえて軽い調子で口にする。
「そうだったか。なら、俺と入る風呂はどうだ?」
「もちろん大好き! しかも今日は、お兄ちゃんとお空の下のお風呂をふたり占めだもん。贅沢すぎちゃう」
 チナはパァッと表情を明るくし、力強く言い募る。
「そうか。ならば今後、風呂付の宿に泊まった時はまた一緒に入ろう」
「約束よ!」
「ああ、約束だ」
 俺はチナから差し出された小指に、自分の小指を絡めた。
 前世と同じように、この世界でも約束の証に小指を絡める習慣があることは、なくなった両親に代わって俺を育ててくれていた祖母から教わった。
 愛情深く優しい祖母と祖父がいたから、俺の幼少期は決して孤独ではなかった。しかし、幼い俺は想像せずにはいられなかった。
 母の手に頭を撫でてもらうのは、どんな心地がするのだろう。
 父と一緒にする遊びは、どれほど楽しいのだろう。
 俺から両親を奪った者がいるのなら、俺は絶対に許さない。真実を白日に晒し、必ず裁きを受けてもらう――。
「さっきの話だけど、お兄ちゃんは以前にオルベルに行ったことがあるの?」
「小さい頃に、祖父に連れられて行ったことがあるな」
 俺の記憶にあるのはその時の訪問だけ。しかし、俺はヴィルファイド王国の王都・オルベルハイドで生まれ、両親が祖父母を頼って居住を移すまで王都で暮らしていたのだという。
「へー! 聖魔法教会も見た? 立派だった?」
 興味津々のチナに、俺は苦笑しながら答える。
「たしかに教会は、とても立派だった。幼いながらにその豪華さに唖然としたのを覚えている」
 魔法世界エトワールにおいて、教会の影響力は甚大だ。
 聖魔法教会の本部を抱えるエトワールの中心国家ヴィルファイド王国もそれは例に漏れず……いや、むしろ教会の総本山だからこそ教会の及ぼす力は他国よりも強い。
 事実、幼い頃に見た聖魔法教会は、その優位性を示すかのように王宮よりはるかに豪奢だった。
 その頃の俺はまだ、両親の死に教会が絡んでいようなどとは想像もしていなかった。ただ、両親の勤め先であったという美しい教会に感嘆の息をこぼしながら見入った。
「そっか。楽しみ!」
「ははっ、そう逸るな。オルベルに行くのはまだ先だ。もうしばらくは旅を続けるつもりでいる」
「うん」
 喜色を浮かべるチナの頭をサラリと撫で、この話題はこれで一旦終わりになった。
 これ以降はチナとふたり、心地いいお湯に浸かって寛いだ。

 客室に戻り、ふとチナの方を見たら、彼女の水色の髪が湿り気を残していることに気づく。
「おい、チナ。まだ髪が濡れているじゃないか」
「え?」
 タオルを掴むのと逆の手で、キョトンとした顔をしたチナを手招く。
「ほら、こっちに来い。拭いてやる」
「うんっ」
 俺はチナを椅子に座らせると、手にしたタオルでトントンと叩くように水気を残す部分を丁寧に拭いていく。
 チナはくすぐったそうに、俺のするに身を任せていた。
「チナは綺麗な髪をしているな。まるで透き通る泉のようだ」
 この世界にあって、人々の色彩は実に多種多様だ。それでも、腰まで届く長さのチナの艶やかで美しい水色の髪は目を引いた。
 もっというと、チナは幼いながらにとても整った容姿をしていた。透けるように白い肌に、パッチリとした青色の目。スッと鼻筋が通り、唇は少し薄めでとても形がいい。そこに、サラサラと流れる水色の髪が加わり、文句なしに美少女と言ってよかった。
「わたしの髪と目はママ譲りなの。パパもよく『綺麗だ』って言ってくれた」
「なるほど。チナのママは美しい人だったんだな。だが、チナだってママに負けない美人になるぞ」
「やだ。お兄ちゃんったら、そういうのは軽々しく口にしちゃいけないのよ」
「ははは、だがチナが美しいのは事実だ」
 ここで何故か、ここまで大人しく身を委ねていたチナが、スススッと前屈みになって俺から距離を取ろうとする。
 動きに呼応して、俺の手から水色の毛束がサラリと逃げていく。
「おいおい、急にどうした?」
「だって、パパがいつも言ってた。『口がうまい男には気をつけろ』って。それから、『そういう男には近寄っちゃいかん』とも」
 チナは唇を尖らせて、早口で告げる。その頬は、パッと見でもわかるくらい真っ赤に染まっていた。
「チナ、お前のパパは実にいい助言をしてくれたな。だが、俺はチナの兄貴分だからな、パパのいう『男』の括りには入らないんだ」
「それもそっか! お兄ちゃんは、お兄ちゃんだもんね」
 すんなりと納得したチナは、前方に倒していた半身を起こし、深めに座り直した。
 俺は再び、チナの髪を拭き始めた。
 ……これまでは気に留めたこともなかったが、これからの道中では、よからぬ考えを持つ悪い大人にチナがかどわかされぬよう目を光らせておかなければならないな。
 それに、美貌ばかりではない。ライフルをいとも簡単に創出したチナの魔力制御の能力も、知られては厄介だ。今後は、人前で見せるのは避けなければ。
 奇麗事ばかりでなく、旅は常に盗賊や人攫いといったリスクと隣合わせだ。最強の冒険者を自負する俺は恐れることもないが、チナには脅威だ。
 改めて認識した俺は、気を引きしめた。
「よし、これでいいだろう」
 最後に手櫛で梳き、サラサラとした滑らかな感触を確認し、チナの肩をトンッと叩いて終了を伝える。
 洗い上がりの水色の髪は、まるでそれ自体が発光しているかのような艶を放っていた。
「ありがとうお兄ちゃん!」
 チナは微笑んで礼を告げ、ピョンッと椅子を下りると自身の寝台脇のナイトテーブルに向かい、新品の櫛を取り上げて梳かしだす。
 嬉しそうに髪を整える彼女を横目に見ながら、俺は今後の道程について考えていた。
 俺は一年前から冒険者として各地を回り、次元獣を倒しながらその生態や特性について多くの情報を集めてきた。おかげで次元獣についてはかなり詳細にデータが取れてきていた。
 しかし、肝心の聖魔法教会についての情報が少なすぎた。ガイア隊長から聞かされた『加護』がいい例だった。
 俺は両親が残した日記の存在に慢心していたが、ふたりが教会に所属していたのは今から二十年近くも前のことだ。もっと言えば、下級魔導士だった両親が知り得る情報には限界もあっただろう。日記に記された情報は、きっと教会という組織のほんの一端にすぎない。
 彼の組織の全貌を知ることはできなくとも、俺はより核心に切り込みたかった。そしておそらく、それらは教会と所縁のある場所に行ったり、内情を知る人と接触することでしか得られない。
 ここでふと、十カ月前に立ち寄った酒場で聞きかじった話題が俺の脳裏をよぎった。
 その酒場はヴィルファイド王国北方、隣国との国境の町にあった。
 国境では常に隣国との小競り合いが絶えない。その酒場では、隣国との小競り合いに雇われて参戦し、任期を終えた傭兵たちが多く集まっていた。
 彼らはエールを片手に『癒しの力を持つ聖女』について熱く語っていた。彼らの話をかいつまむと、戦場で瀕死の重傷を負った兵士が、グルンガ地方教会から派遣された聖女の治療を受け、見る間に回復したということだった。ちなみに、地方教会というのは王都の聖魔法教会から派遣された魔導士が運営する教会の地方拠点だ。
 酒の席での話題ゆえ、事の真偽などわからない。多分な誇張を含み、話が広まっただけかもしれない。事実、あの時の俺は話半分に聞き流し、早々に次の町に移った。
 ……だが、行ってみる価値はある。グルンガ地方教会に行ってみるか。
 ――カラン、カラーン。
 その時、階下から鐘の音が響く。
「あ! お兄ちゃん、これって夕食の開始だよね?」
 二連の鐘は、宿泊者に準備が整ったことを告げる合図だ。
「ああ。食堂に夕飯を食いに行くか」
「うん」
 俺とチナは客室を出て、食堂に向かった。

 翌日。
 俺とチナはグルンガ地方教会を目指し、日の出からさほど間を空けずに宿を出発した。
 ここから地方都市グルンガまで、徒歩なら一カ月以上はかかる。幼いチナの足ならば、倍以上かかるかもしれない。
 俺はこれまで父と母の仇を討つという最終的な目的はあれど、行く先々で次元獣を倒しデータを積むことを目下の目標としていたから、あえて徒歩以外の移動手段を使ったり、先を急いだりはしてこなかった。
 だが、チナが一緒となれば話は別。俺は地方都市グルンガまでの移動手段に、長距離の乗合馬車を選んでいた。途中の都市で何度か乗り換えが必要だが、旅程は三日ほどに短縮できる。
「お兄ちゃん、馬車の停留所はあっちだよ?」
 二股に分かれた道を右に曲がろうとしたら、隣を歩いていたチナが俺の袖を引いた。
「停留所に行く前にギルドに寄る」
「あ、そっか。昨日倒した次元獣を売りに……あれ? そういえば、肝心の次元獣ってどこにいるの!? 宿にも連れてきてなかったし、置きっぱなしじゃ、他の人に横取りされちゃったりしてないかな?」
 チナは合点した様子で頷きかけ、途中ではたと思い至ったようで声を大きくした。
「大丈夫だ。次元獣は次元操作で別次元に収納してある。あの大きさを運ぶのは大変だからな」
「うそ! お兄ちゃんってそんなこともできちゃうの!? どんな重たい荷物でも手ぶらで運び放題って、すごすぎる!」
 チナは目を真ん丸にして興奮気味に口にした。
 ……なるほど。重たい荷物を運び放題とは面白い着眼点だ。
「ふむ。もしこの世界から次元獣がいなくなり、冒険者が軒並み廃業となったら、その時は荷運びや引っ越しを生業とするのも悪くないか」
「わっ! 楽しそう! その時はわたしに梱包とか荷解きを手伝わせて?」
「もちろんだ」
「……いいなぁ、次元獣のいない世界。わたしみたいに悲しい思いをする子がいなくなったら、なんて幸せだろう」
 軽口を言い合っていたら、チナがふいに遠く空を見つめて零す。
「なるさ」
「え……?」
 チナの頭にポンッと手を乗せて告げると、彼女はゆっくりと俺に目線を移した。
「いつか、次元獣に脅かされることのない平和な世界に必ずなるさ」
「不思議ね。お兄ちゃんが言うと、本当にそうなりそうな気がする。……あ、ギルドの看板が見えてきたよ!」
 チナは二、三度パチパチと目を瞬き、次いでクシャリと微笑んで通り沿いの大きな建物を指差した。
 ――ギィイイ。
 重厚な両開きの扉を押し開き、チナと共にギルドに入る。
「ごめんください」
 早い時間に来たのが功を奏し、見回すギルド内に人はまばらだ。
「よし、チナ。買取の列に並ぼう」
「うん!」
 買取の列に待ち人はおらず、今は五人組のパーティがカウンターで価格交渉をしていた。
 ……ん? 俺から見えるのは、五人組のうしろ姿だけ。しかし、そのうしろ姿に猛烈な既視感を覚える。
 五人の真ん中にいるのは一際豪奢な装備を身にまとった、茶髪の男。その脇を固めるのは、防御を度外視した露出過多な恰好をした二人の女冒険者と、ひょろりとした痩身とずんぐりむっくりとした巨漢の男冒険者の二人。
 ……まさか。嘘だろう?
「オイ、ふざけるなよ!? 俺の持ち込んだこの素材がそんなはした金なわけがあるか!」
「算定表通りだ。むしろ顔馴染みのお前に免じて、少し色まで付けている」
 ……いや、いけ好かないあの風体とスタッフに対する不躾な態度は間違いない。
「お前の目は節穴だ! もっと上のスタッフと代われ!」
 漏れ聞こえてくる下品な物言いに眩暈を覚えながら、俺は確信した。あれは、アレックだ……。
「いったい、どんな運命の悪戯だ? まさか、こんなところで再び奴らと見えることになろうとは……」
 俺が特大のため息と共に小さくこぼせば、聞き付けたチナが首を傾げた。
「どうしたのお兄ちゃん? 並ばないの?」
「いや、なんでもない。並ぼう」
 奴らと顔を合わせたからと、今さらどうということもない。俺はチナを連れ、奴らの後ろに立った。
 カウンター越しにアレックたちの対応をしていたスタッフが、やれやれといった様子で顔をあげる。俺とスタッフの目線がぶつかる。
 ん? 彼は……!
 なんと、目が合ったカウンタースタッフは、既知のギルドマスターだった。
 まさか、ヴィルファイド王国全土のギルドを統括する長のギルドマスターが、自ら地方ギルドでカウンター業務にあたるとは……。いや、実に彼らしい。
 彼がギルドマスターだとは知らないアレックが零した『上のスタッフと代われ』の台詞に、今さらながら笑いが込みあげてくるのを、口角に力を込めて堪えた。
「アレック、次のお客様も控えている。うちとの価格交渉は決裂だ。その素材は他に持ち込んでくれ」
 俺に気付いたギルドマスターが、毅然とした態度でアレックに言い放つ。
 ちなみに、俺とギルドマスターの初対面は三年前の中核都市エフェソスのギルド……俺がアレックたちのパーティに同行を決めた、あのギルドだ。
 あの時、俺に『弱き者』と言い放った男がギルドマスターだと知ったのは、それからさらに二年後。俺が次元操作を体得し、火の筆頭侯爵アルバーニ様の後援を得て冒険者登録をしに地方ギルドを訪ねた時だ。そこから一年、俺が討伐した次元獣の換金に行く先々で彼とは頻繁に顔を合わせ、いつしか共に酒を酌み交わす仲になっていた。
 三年前の話も、今ではすっかり酒の肴になっている。
「な、なんだと!?」
 アレックは顔を真っ赤にして叫ぶが、ギルドマスターはもう一瞥だってしなかった。
「次の方、こちらにどうぞ」
「チッ!! ……後で見てろよ! 今日の一件はしっかり親父に言いつけてやるからな!」
 アレックは悪態をつきながらカウンターの前からずれ、踵を返して俺の横を通り過ぎた。
「今日はなにをご希望かね?」
「手持ちの次元獣を売りたい」
 チナを連れて颯爽とカウンターに進み出て、用件を端的に告げる。
「おい!? お前、セイじゃねえか!?」
 その時、アレックがガバッと俺を振り返って叫んだ。
「次元獣は中型と大型の二体。どちらも急所への攻撃痕を除けば、ほぼ欠損のない完全体だ」
 わざわざ答えてやる義理など無い。俺はアレックを視界にすら入れず、ギルドマスターとの会話を続けた。
「ほう、完全体が二体とは。して、その次元獣はどこに?」
 ギルドマスターもアレックの存在などないかのように応じた。
「ここは手狭だからな、表に転がしてある」
「オイ!! 無視してんじゃねえぞ!」
 ――ガンッ。
 完全に存在を無視されて、激昂したアレックがカウンターを蹴る。さらになにを勘違いしたか、汚い手で俺の胸ぐらを掴んだ。
 ……三年の月日が経ってもまるで変わらぬアレックの粗暴っぷりに、怒りより呆れが先に立つ。
「その手を離せ」
 低く告げ、アレックの腕を振り払う。
「テメェ、セイスの分際でなにしやがる!?」
 俺からの反撃にアレックはすっかり頭に血が上ったようで、場所も弁えず拳を振り上げてくる。
 三年前ならいざ知らず、今となってはアレックなど恐れるに足らん。
 俺は軽くいなそうとしたのだが、ここで予想外のことが起こった。
「やめて! お兄ちゃんに乱暴しないで!」
 なんと、チナが俺を庇おうと両手を広げ、俺とアレックの間に立ちはだかった。
「ん? なんだ、このチビ……って、その手の印はシンコか!?」
 アレックはチナの左手の甲に浮かぶ印を認め、馬鹿にしたように指摘した。
「そうよ。わたしはシンコだけど、それがなに?」
「ハッ! 気の強いチビだ。……だが、俺は気の強い女は嫌いじゃないぜ。それに珍しい色の髪をしてる。なにより、可愛い顔立ちをしてるじゃねえか」
 アレックはチナの頭の天辺から足先までを舐め回すような目つきで眺める。その顔はニヤけきり、あまりの気色悪さに全身の産毛が逆立った。
「おい、チビ。お前、セイの連れか? でかい口叩いてるが、どうせコイツは今もどこぞのパーティで靴を舐めているんだろ。こんな最下層のクズと一緒にいたって先は知れてる。どうだ、特別に俺のパーティで下働きをさせてやってもいいぜ? なに仕事は簡単だ。少しばかり俺をいい気持ちにさせてくれりゃ、他に難しいことはない」
 さらにアレックはしゃがみ込み、チナと目線の高さを揃えると、こんな戯言をのたまった。
 ……勘弁してくれ! アレックの女好きは知っていたが、年端もいかない幼女までが守備範囲とは、どこまで性根の腐った気持ち悪い奴なんだ。
「おい! チナに――」
「触らないでっ!! わたし、あなたみたいな人、大嫌い!」
 アレックがチナに触れようとするのを目にし、俺が制止の声をあげるのと、チナがアレックに向かって力いっぱい足を蹴り上げるのは同時だった。
 なっ!?
「っ、@*◇&%$▼#――!!」
 股間を抱えて悶絶するアレックと、腕組みして鼻息を荒くするチナを、信じられない思いで交互に眺める。
「……ねぇ、ギルドのおじさん。ここ、ちょっとガラが悪いんじゃない?」
「すまないな、お嬢ちゃんの言う通りだ。今度から、マナーの悪い輩はスタッフが早々に追い出すことにするよ」
「それがいいわ!」
 いまだヒューヒューと浅い呼吸を繰り返しながら床に伏すアレックと、衝撃が冷めやらず固まったままの俺を余所に、チナとギルドマスターは二人で楽しげに話し始める。
「あ、それよりもおじさん! 早くお兄ちゃんの次元獣を査定して? わたしたち、この後馬車に乗る予定なの」
「おぉ、そうかだったか。それはすまなかったね。たしか次元獣は表と言っていたかな」
「うん!」
 チナとギルドマスターは蹲るアレックの脇をゴミでも避けるように通り過ぎ、扉の外に消えていく。
 ――ギィイイ。バタン。
 扉の閉まる音にハッとして、俺も慌てて二人の後を追う。アレックは俺たちを追って来なかった……いや、とても追って来られるような状態ではなさそうだった。
「――いやぁ、稀に見るいい状態だな」
 ギルドでは、即金での買取が基本だ。表で次元獣の状態を確認したギルドマスターは、ほくほく顔でカウンターの奥にいき、溢れるほどの金貨が詰まった革袋を卓上にどんどんと積み上げていく。
「えー、こんなに!?」
「いや。二体とはいえ、さすがにこの額はもらいすぎではないか?」
 嬉々とした声をあげるチナとは対照的に、俺は積まれた金額にギョッと目を向いた。
「なに。あんなに状態のいい二体分なのだから、決して高すぎる金額ではない。それに今回は、お嬢ちゃんに嫌な思いをさせてしまった迷惑料も込みだ。お嬢ちゃん、これに懲りず、またギルドに寄っておくれ」
「うんっ!」
「そういうことなら、今回はありがたく貰っておこう。だが、次回は通常査定で頼む」
「はははっ。お前のそういう真面目なところは嫌いじゃない。次も期待している、ガンガン大型次元獣を倒して持ち込んで来い。それから、その時はまた一緒に酒でも飲もう」
 アレックは蹲った体勢のまま目線だけ上げ、卓上に山と積まれた金貨と、親し気にギルドマスターと会話する俺を、狐にでもつままれたみたいに見つめていた。
「うっそ~。なんかあの子、三年前より恰好よくなってない?」
「うん。それにめっちゃ金持ちになってんじゃん。……てか、うちのリーダーなんかダサくね?」
「あれだけの稼ぎって、あいつどんだけ強えんだよ? 少なくとも、うちのパーティじゃ一生かけても稼げないよな……」
「オイラ、セイのことあんまりいじめなくてよかったぁ……」
 背中に四者四様の呟き(+荒い呼吸と呻き声)を聞きながら、俺は右手に大量の金貨、左手にチナの手を取ってギルドを後にした。
 抜けるような晴天に恵まれた朝、オルベルの邸宅で珠のような男子が産声をあげた。
「おぎゃ~! おぎゃ~!」
 これが初めての出産であったメイリは、我が子の元気な産声を聞き、ベッドの上で疲労の滲む顔に安堵の表情を浮かべた。
 長時間に及んだ出産で、肩まであるウェーブがかかった茶色の髪は汗でぐっしょり濡れていた。
「メイリ、よく頑張った! 立派な男の子だぞ!」
 目頭にしずくをたたえ、出産を終えたばかりの妻へ労いの言葉をかける男はアスラ。メイリよりひとつ年上の二十四歳。
 スラリとした長身に短く整えられた黒髪の青年で、優しい人柄を表すような少し垂れた目はとても印象が良かった。
「あなた、よく見せてください」
「あぁ、ほら」
 アスラは真っ白なおくるみに包まれて元気に泣き声をあげる息子を、まだ起き上がれない彼女にそっと抱かせてやった。
 彼女は茶色の目を細め、慈しむように息子に頬を寄せた。
「ふふっ、なんて愛しい子。ねぇあなた、私、この子の名前を決めました。セイ、この子はセイです」
「セイか……良い名前だ。二人で立派に育てよう」
 アスラは決意と共に、妻と息子をグッと胸に抱き締めた。ここまでなんとかこらえていた涙があふれ、アスラの頬を伝った。

 翌日。聖魔法教会で祝福の儀を終え帰宅すると、セイをベッドに寝かせたアスラはうつむいたままのメイリをソファへ促し、隣に並んで座った。
 祝福の儀は、別名エトワールの儀とも呼ばれ、生後7日以内に受ける。
 エトワールの儀では、子が健やかに成長できるよう神父から祝福を授かるのだが、この時に何属性の魔力を持っているかが判明する。
『この子は"セイス"です』
 アスラの脳裏に神父から告げられた言葉が蘇り、意図せず表情が陰る。
 メイリも気持ちは同じだろう。その表情からは、いまだ真実を受け入れきれない困惑と動揺、そしてセイの今後に対する不安が見て取れた。
 静まり返った室内に、セイの小さな寝息だけが響いていた。
 アスラはやるせない思いで、健やかに眠るセイの小さな左手の甲を見つめた。そこにはセイスの印がクッキリと浮かんでいた。
 静寂を破ったのはメイリだった。
「この国はセイスが生きやすいようにはできていません」
 小さいが、毅然としてハリのある声だった。
 アスラがハッとしてメイリを見ると、真っ直ぐに前を向いた彼女の目から既に困惑の色は消えていた。
「その通りだ。とはいえ、隠したところですぐにばれてしまう。セイスはトレスの半分の力しか出せないんだ。受け入れるしかない……」
「いえ、私はセイスの事実を隠し立てする気はありません。そうではなく、セイスのセイでも生きていける道を探しましょう」
 決意を込めて告げるメイリに、アスラは首を横に振った。
「そんな道……あるはずがない」
 アスラだって本当はその道を探したい。だが、そんな道は存在しないのだ。
 少しの間をおいてメイリが続ける。
「……ひとつだけあるかもしれないわ」
 アスラは期待を込め、隣に座るメイリに続きを促した。
「それはいったい……」
「最近になって発見された古文書の存在は知っているわね。実は、その調査を最初に担当したのは私なの」
「君が!?」
 これは、アスラにとって初耳だった。
 メイリとアスラは共に聖魔法教会に所属する初級魔導士で、メイリは古い文献の研究や編纂を職務としていた。とはいえ、職務には守秘義務があり、通常は夫婦といえど安易に業務内で知り得た情報を共有することはない。
「ええ。もっとも、内容が明るみなってきた段階で続きの調査からは外されて、大魔導士に引き継がれてしまったけれど」
 教会の魔導士にはランクがある。初級魔導士、中級魔導士、上級魔導士と続き、最上位には大魔導士が存在する。
 上級魔導士と大魔導士は一属性持ちの"ウノ"が独占し、初級魔導士、中級魔導士は大多数が二属性持ちの"ドス"だ。そんな中にあって、共に三属性持ちの"トレス"でありながら初級魔導士まで登りつめたアスラとメイリの二人は、トレスの中では抜きんでて優秀と言えた。
「その中にこんな記述があったわ」
 メイリは瞼を瞑って僅かに俯き、古文書の一節を諳んじ始めた。

――数多の源を統べし者、新たなる源を得るであろう。
 例えるなら、数多の源泉より湧き出でた小さき主流同士が合流し、ひとつの大きな主流へと変わるがごとく。しかしそれは同時に、世界に混乱をもたらす火種にもなろう。初めは小さき火なれども、くすぶりながら燃え続け、終にはこの世を焼き尽くすほどの業火とならん。肝に銘じよ。そして考えよ。新たな源を欲するわけを。何かを得れば何かを失う。それがこの世の理なのだから――

 アスラは息をのみ、メイリから紡がれる一言一句に耳を傾けた。
「これは魔力同士を掛け合わせた新たな魔力の可能性を示唆していると思うの。そしてその力は、ウノに匹敵するかもしれないということも」
 静かに目を開けたメイリは、アスラの黒い瞳を見つめて言った。
「たしかにこの国は、生まれながらにしてスタート地点が違う。しかしそれを努力次第で同じにできるとしたら……」
「えぇ、セイスのこの子でも生きやすくなるかもしれないわ」
 ふたりはベッドで健やかな寝息を立てる息子を見つめた。二対の目には、我が子への溢れるほどの想いと決意がこもっていた。
 かくしてアスラとメイリは、セイスとして生まれた我が子・セイのため、"新たなる魔力"の可能性に一縷の望みをかけたのだった。

 セイの誕生から一年が経った。
 この間にアスラは両親を頼り、メイリとセイを連れて故郷の村に住居を移した。両親にセイの養育を手伝ってもらいながら、アスラはメイリとふたり、村端の山中で新たな魔力の実験を続けていた。
「メイリ、できたぞ! 見てくれ!」
 声を張るアスラの右掌から、黒い炎が立ち昇っていた。
 彼の持つ三つの魔力――火・風・闇――を掛け合わせた新しい魔力、《黒炎の風》の発動に初めて成功した瞬間だった。
「あなた、ついにやったのね!」
「あぁ、新たな魔力は存在したんだ!」
「こんな魔力を目にしたのは初めてよ」
「魔力を掛け合わせることで、既存の魔力を超える新たな魔力が生まれる。これは新魔創生と名付けよう! セイの未来は明るいぞ!」
 ふたりは息子の明るい未来を思い、喜び合った。
「ええ。セイのためにも、次は必ず六属性で新魔創生を成功させてみせましょう」
 メイリは水・土・光の三属性を有し、偶然にも彼らふたりで六属性が揃う組み合わせだ。ふたりはセイスである息子・セイのため、ここから六属性の新魔創生に挑んでいった。
 そうして数カ月後、事件は起こった。
 両手を前に伸ばして互いに向かい合い、六属性で新魔創生の実験を行っていたふたりは、魔力を暴走させてしまった。
「いつもと同じはずなのに、どうして今日は制御ができない! なぜだ!?」
「っ、あなた……!」
 ふたりが向かい合う空間に黒い亀裂が走った。
「ぃ、ぃやぁあああ――!」
「メイリ、セイ――!」
 必死の抵抗も空しく、アスラとメイリは瞬く間に広がった黒い裂け目に吸い込んまれて消えた。
 その瞬間、祖父母の元で無邪気に笑うセイは、愛しい両親の眼差しや優しい手の温もりを感じる機会を永遠に失った――。

***

 時同じくして、ヴィルファイド王国の王都オルベル。
 重苦しく淀んだ空気が充満する地下施設の一室に、暗褐色のローブを纏った男たちが集い、台座に設えられた黒水晶を興奮気味に覗き込んでいた。直径五十センチほどの黒水晶は球体に磨き上げられており、禍々しい光を放つ。
 広い室内には、この水晶の他に光源が無い。怪しげな黒光だけが支配する室内は、なんとも不気味な様相であった。
「教祖様。例の作戦に成功いたしました。奴らは自らが裂いた空間に吸い込まれ、消え去りましてございます」
「おぉ! 我らが神、デラ様が力を貸してくださったのだ! 我らウノ教徒にデラ様の加護あれ!!」

 揺り籠で無邪気に笑う赤ん坊のセイは、両親の死も、この時男たちが叫んだ言葉もまだ知らない。
 セイが両親の死の真相と男たちの悪しき野望を知り、男たちの欲望で歪められたこの世界を正すのはここから十八年後のことである。
 次元獣の換金を終えギルドを出た俺とチナは、『癒しの力を持つ聖女』がいるグルンガ地方教会に向かうべく、乗合馬車に乗り込んだ。
「わー! いい景色~」
 チナは馬車が走り出してから、ずっと車窓に張り付いて移ろう景色を眺めながらはしゃいでいた。
 彼女の嬉しそうな様子を見ていると、俺の頬も自然と緩んだ。
「チナ、これを尻の下に敷いておくといい。まだまだ先は長い。あんまりはしゃぎすぎると、体力がもたないぞ」
 俺は荷物袋から敷物を取り出して、隣のチナに差し出した。
 座ったまま目的地まで早く行ける馬車は快適ではあるが、長時間の乗車となればそれなりに疲れるものだ。特に小さな子供なら、なおさらだろう。
「全然平気! お兄ちゃんと一緒に馬車にのって、外の景色を眺めて、わたし、こんなに楽しいのは初めてよ」
 チナは俺の心配をよそに、元気いっぱいで答えた。
「……でも、敷物はありがとう。本当はちょっとお尻が痛かったの」
 はにかんだ笑顔でされたカミングアウトと、敷物に向かっていそいそと伸ばされた小さな手がとても可愛らしい。
 俺は片腕でチナの脇腹をヒョイと掴んで軽々と持ち上げると、反対の手で彼女の座席の上に敷物を置く。
「わっ! ふわふわで快適」
 敷物の上にそっと下ろしてやれば、彼女はにっこりと笑ってみせた。
「そうか」
 チナの頭をワシャワシャと撫でながら、口角の緩みを自覚していた。
「……チナ、俺もお前と同じだ」
「え?」
「お前と並んで、こうして車窓から移ろう景色を眺める。こんなに楽しいことはない」
「お兄ちゃんったら、わたし、言ったじゃない。……そういうのは、簡単に言っちゃいけないんだから」
 言葉とは裏腹、チナは俺の腕に甘えるようにすり寄った。どこか小動物を思わせる彼女の仕草に、思わず笑みがこぼれた。
 チナとふたりで旅を始めてから、無機質な俺の日常は一変し、笑顔があふれていた。

 二日後。
 乗合馬車を乗り継ぎ、俺たちは地方都市グルンガに降り立っていた。
「ここが地方都市グルンガか……」
 停車場は街の端だが、それでも多くの人々が行き交って活気が伝わってきた。中央の広場に向かえば、さらに賑わっているのだろう。
「大きい街! 人がいっぱい! それに、お店も!」
 地方教会があるのは、往々にして大都市だ。逆を言えば、教会があることで人や物が集まって来るのだ。
「街の散策もいいが、ひとまず今晩の宿を確保するか。これだけの都市だ、きっと部屋に風呂の付いた宿もあるぞ」
「やったぁ!」
 今にもひとりで駆け出してしまいそうなチナの腕を取って、飲食店や宿が軒を連ねる通りへと足を進める。
 古びた外観の小間物屋の前を通りがかった時、ちょうど中から扉が開け放たれた。
 見るともなしに視線を向ければ、店内から中年の夫婦と草臥れたワンピースの少女が姿を現した。
「急に呼び止めちまって悪かったね。だが、あんたの薬で娘はずいぶんと呼吸が落ち着いてきた」
 引き開けた扉に手をかけたまま、婦人が丁寧に礼を告げる。
「本当にあんたは娘の命の恩人だよ。それなのに礼にこんな物しか持たせてやれなくて、すまないな」
 婦人の隣に立った男性も続ける。
「とんでもない。私の薬草は症状を和らげる手助けをするだけです。これも全ては、お嬢さんが備えていた生命力と体力によるところです。こんなにいただいてしまって、逆に申し訳ないです」
 最初に認識したのは澄んだ声。次いで、扉を潜って通りに現れた少女を認め、その眩いほどの金髪に息を呑んだ。
 年の頃は十六、七歳。少女はほっそりとした体形に、整った目鼻立ちをしていた。だけどなにより目を引いたのは、澄んだ菫色の瞳と月光を溶かしたみたいな金髪。
 そうして少女からは、不思議な気品のようなものを感じた。
「セリシア、なにを言ってるんだい。たとえそうだとしても、あんたの薬が咳の発作で苦しむあの子を楽にしてくれたよ」
「そうだ。分かっちゃいたが、やはり聖女はこっちの足元を見て、娘のために薬ひとつ調合しちゃくれなかった」
「おばさん、おじさん……。本音を言うと、いただいた道具類はとてもありがたいです。ちょうだいして、今後の調薬に使わせてもらいます」
 セリシアと呼ばれた少女は、そう言って腕の中の紙袋を大切そうに抱え直した。
「ああ。ぜひ、そうしとくれ」
「あの、それではすみませんが私はこれで失礼いたします」
「気を付けてお帰りよ」
「はい」
 ふたりに挨拶を済ませるとセリシアは店を飛び出し、俺たちの横をすり抜けて走って行った。
 その時に一瞬だけ見えた彼女の横顔は、パッと見にも相当焦っているように見えた。
「失礼。彼女はこの街の薬師かなにかか?」
 彼女の素性が気になった俺は、店の扉が閉ざされる前に夫婦の元に歩み寄って尋ねた。
「いや、セリシアは教会の下働きの娘だ。別に薬師を謳ってるわけじゃないが、ちょっとの不調や怪我ならあの子の薬で治っちまう。富裕層を除けばこの街の者は皆、あの子に助けられているよ」
「教会? それは『癒しの力を持つ聖女』がいると噂のグルンガ地方教会か?」
「あんたたち、この街の者じゃないね。もしかして、聖女様の癒しを求めてやって来たクチかい? 可哀想だが、聖女の治療は受けられないよ」
「なぜだ? 聖女が瀕死の重傷を負った兵士を回復させたというのはデマだったのか?」
 夫婦は俺たちを聖女の治療を求めてやって来た巡礼者と思ったようで、声を低くして教えてくれる。
「その噂は間違いじゃないが、聖女様の癒しは金と権力のある者限定だ。治療を受けるには、教会幹部からの紹介状を持って訪ねるか、金を積むかしかない。ただし、あたしら一般市民にゃ到底用意できないほどの大金を用意せにゃ、見向きだってしてもらえない」
 夫人は憤慨した様子でさらに続ける。
「うちも一昨日、なけなしの金を持っていって教会の門戸の前で頭を下げたが門前払いされた。セリシアはその時の様子を見ていたようで、さっそく自作した薬草を持って訪ねてきてくれたんだ。それで一旦症状が落ち着いたんだが、今日は今朝から娘の調子が悪くてね。そうしたら偶然セリシアが通りがかってね、声をかけたらこうしてわざわざ追加の薬を持って来てくれたんだよ」
 亭主は夫人の言葉にうんうんと頷き、セリシアへの感謝を滲ませて口を開いた。
「貰った薬を飲ませたら、娘の激しい咳の発作があっという間に静まった。セリシアには頭が下がる。とはいえ、ちょっとした軟膏や湿布薬ならいざ知らず、まさか咳止めまで作っちまうとは思わなかったけどな」
 薬草を素材とした天然成分だけで咳を止めることはなかなか難しい。だから腕のいい薬師でも、咳止め薬は気休め程度の効果しか発揮しないことも多かった。
 これを聞くに、彼女がかなり調薬の技術に優れているのは瞭然だった。
「ほう。薬師を生業にしている者でも咳止め薬の調合は難しいと聞く。……まさか、彼女は調薬に光魔力を使っているのか?」
「はははっ、それはない。光属性は持っているそうだが、セリシアはシンコだ。調薬に使うほどの魔力はないだろうよ」
「え? あのお姉ちゃんもシンコなの!?」
 セリシアがシンコという事実に、チナが真っ先に反応した。
「ああ、シンコというのを理由にあの子は教会でも肩身の狭い思いをしているよ。両親を亡くして教会に引き取られてから、朝から晩までずっと聖女の世話や家事仕事にこき使われている。だがね、たとえ癒しの力がなくたって、あたしらに言わせりゃ教会の奥で金と権力に胡坐をかいて座ってる聖女より、セリシアの方がよっぽど聖女の名に相応しいさ」
「その通りだな」
「そう言えば、前にあの子が教えてくれたっけ。薬剤の調合をする時は、いつだって心の中で光の魔力に祈りながらしてるってね」
「ほう、彼女がそんなことを」
 ……祈り。
 俺はこの一語を耳にすると、いつだって思わずにいられない。
 祈りというのは、皆が想像するよりも遥かに大きな力と可能性を秘めている。
 ……そう。俺が新魔創生をなし得、次元操作の使い手となったように。
 強い意志で希う、それこそが全ての源となるのだ。
「病の娘さんがいるというのに引き止めてしまってすまなかったな。だが、色々聞かせてもらえてよかった」
「なに、かまいやしないよ。それより、さっきも言ったように目玉が飛び出るほどの大金を持っているんじゃなけりゃ、聖女の治療は諦めて腕のいい薬師でもあたった方がいい。セリシアを頼るにしても、たぶん今日はもう難しい。夕方から夜は夕食の支度から聖女の身の回りの世話だなんだって、あの子は大忙しだ」
「そうか。ならば明日、改めて彼女を訪ねるとしよう」
 夫婦に別れを告げ、再び通りを進み始める。
 通り沿いの宿屋を数軒素通りしたところで、チナが俺の袖を引いた。
「お兄ちゃん、今晩の宿を取らないの?」
「別れ際の彼女の様子が少し気になる」
「え?」
 婦人は、セリシアは夕方から夜にかけて忙しいと言っていたが、今はまだ正午を回ってさほど時間が経っていない。それにしては、俺の横をすり抜けていく彼女はひどく慌てていた。
「宿は後にして、地方教会に行ってみよう」
 もしかすると、なにか特別な用事が控えていたり、言いつけられた用事の途中で帰りを急いでいたりしたのではないか。
 帰りが遅くなったことで聖女や魔導士たちから叱責を受けていなければいいが……。
「わっ!?」
 俺はチナを掬うように片腕に抱き上げると、地方教会へと続く大通りを走りだす。
 地方教会の場所は、誰に尋ねるまでもなかった。
 大通りの先には、他の家々や商店より頭ひとつ抜きんでた地方教会の建物が見て取れた。王都オルベルの聖魔法教会には及ばないが、煌びやかな装飾の尖塔が一際存在感を放っていた。
 教会までの距離は、目算でおよそ一キロ。うまくすれば、セリシアに追いつけるかもしれん。
「チナ、少し急ぐぞ」
「っ、うん」
 チナがキュッと肩を掴むのを確認し、俺は一気に速度を上げた。
「ありがとう、セリシアお姉ちゃん」
 ところが、大通りをほんの数十メートルほど進んだところでセリシアの名前を耳にして足を止めた。
 声は大通りに繋がる細い横道から聞こえてきた。俺は即座に大通りを曲がり、横道へと駆け出した。
「どういたしまして。これからも錆びた鉄くぎや金属屑なんかを踏んじゃった時は、すぐに言ってちょうだい。ちゃんと消毒をしないと、後々大変なことになってしまうから」
 横道を少し行くと、道の端にしゃがみ込むセリシアと七、八歳くらいの少年の姿を認めた。俺はチナを一旦地面に下ろし、二人のやり取りを注視した。
 少年は裸足で、その右足には真っ白な包帯が巻かれていた。どうやらセリシアは、帰り道で行き合った子供の足の怪我を治療してやっていたらしい。
 治療に使った道具類を鞄にしまいながら、優しげな笑みで少年に伝えていた。
「うん! それじゃあセリシアお姉ちゃん、本当にありがとう!」
「気を付けて」
 セリシアは少年を見送ると鞄を掴み、スックと立ち上がって大通りに向かって走り出す。
 俺たちの横をすれ違いざま、彼女の唇がほんの微かに動いた。
「……だめだわ、もう間に合わない」
 悲愴感の篭もった小さな呟きが耳を打った次の瞬間、俺は動いていた。
「失礼、ずいぶん急いでいるようだ。俺が教会まで送らせてもらう」
「えっ!? き、きゃあっ!」
 セリシアに並び、ひと声かけてから膝裏と背中に手をあてて掬うように横抱きにする。
 初めは目を丸くしていたセリシアだったが、浮遊感にハッとした様子で俺の肩を掴んだ。
「あ、あなたたちはいったい!?」
 困惑を全面にするセリシアに、チナが足元から声をあげる。
「大丈夫だよ、セリシアお姉ちゃん! お兄ちゃんは、誰よりも信頼できる人よ」
 元気よく言い募るチナを認め、セリシアがパチパチと目を瞬く。
「すまんが、詳しい説明は後だ。チナ、お前も俺にしっかり掴まっていろ」
「うん!」
 俺が体勢を低くすると、チナはピョンッと跳び上がって俺の肩に両手を回し、背中にしっかりと掴まった。
 俺はセリシアを抱き、チナを負ぶって、次元操作を発動した。
 ――ブワァアアーーッ。
 魔力が俺たちを包み込み、全身がふわりと宙に浮き上がる。浮遊感はほんの一瞬で、再び足が地面を踏みしめる感覚が戻る。
 次元操作の効力は絶大だ。
 セリシアを抱き上げてほんのひと呼吸の後には、俺たち三人は教会の正門の前に立っていた。
「……嘘でしょう?」
 目の前の光景が信じられないというように、セリシアが腕の中で呆然と呟いた。
「刻限が迫っているんだろう? さぁ、急いで行くんだ」
 俺は彼女を丁寧に地面に下ろし、トンッとその背を押した。
「セリシアお姉ちゃん、早く早く」
 チナも俺の背中から身軽に地面に下り、セリシアに発破をかける。
「あの、お名前はなんとおっしゃるのですか!?」
「俺はセイ、もしかすると君とはまた会うこともあるかもしれん」
「は、はい。セイ様、ありがとうございました。このお礼は必ずさせていただきます。お言葉に甘え、今は失礼いたします!」
 セリシアは俺を見上げ早口で礼を告げると、弾かれたように駆け出した。彼女の姿は正門ではなく、その数メートル先にある従業者用の通用門に消えた。
「チナ、すまんが今晩風呂の付いた部屋には泊まれそうにないがいいか?」
「もちろんよ」
 俺の問いかけに、チナはしたり顔で頷いた。どうやら彼女は今の台詞で、俺の意図を全て察したようだった。
 ……とても五歳とは思えんな。俺は内心で、チナの聡明さに舌を巻いた。
 チナの頭をワシャワシャと撫でてから、迷いのない手つきで正門の横に設えられた呼び鈴を鳴らす。
 すると、幾らもせず中から応答があった。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「巡礼で教会を回っている。今夜の宿泊をこちらでお願いしたい」
「当教会は、事前に紹介のあった巡礼者様以外の宿泊を全てお断りしております。お帰りください」
 居丈高に言い放たれるが、別段気を悪くすることもない。むしろ、けんもほろろな対応は端から想定していた通りだ。
「事前紹介はないが、火の筆頭侯爵・アルバーニ様の紋状ならば持っている」
 僅かな逡巡の後、俺は一年前に出会ったアルバーニ様の名前を出した。
「なんと!? しばしお待ちくださいませ」
 ――ギィイイイ。
 俺が『アルバーニ様の紋状』と口にした直後、重厚な両開きの門戸が中から引き開けられていく。
 チナはギョッとしたように俺の足に縋り、ゆっくりと開かれていく門戸と俺を交互に見つめていた。
 ヴィルファイド王国民なら、火・水・風・土・光・闇の六つの魔力属性を冠し、王族と並ぶ権威と権限を有する筆頭六侯爵の存在をほんの幼子でも知っている。そうして筆頭六侯爵が真に信頼を置いた者にのみ託す紋状の存在もまた周知だ。
 珍しいことに筆頭六侯爵の爵位というのは世襲ではない。そうして、侯爵が己の紋状を託せる者は、生涯においてただひとり。紋状は侯爵からの厚い信頼の証であり、お墨付きなのだ。だからこそ、その紋状を授かった者は、有事において筆頭六侯爵その人と同等の権力行使まで認められている。同様に、これを明かせば平時にあっても様々な優遇が受けられることは想像に難くない。
 蛇足だが、かつて俺が一週間だけ所属したパーティにいた勇者・アレックは、風の筆頭侯爵の息子だ。奴のことを思い出す度、つくづく筆頭侯爵の爵位が世襲でなくてよかったと、俺は安堵の胸を撫で下ろす。
 門戸が完全に開ききると、中から教会職員を示す白いローブに身を包んだ初老の男が姿を現した。俺はすかさず胸ポケットから紋状を取り出して翳す。
「私は当教会の初級魔導士・フレンネルと申します。アルバーニ様の紋状をお持ちとは知らず、大変失礼をいたしました」
 紋状を認めた瞬間、フレンネルと名乗った男は先ほどまでの態度とは一転し、平身低頭で俺たちを出迎えた。
「俺はセイ、これは連れのチナツだ。巡礼途中ゆえこのような旅装束のままだが許せよ。見ての通り俺は縁あってアルバーニ様より紋状を託されている。今晩の宿泊を頼めるな」
 常とは異なる俺の口調と態度に、チナはますます驚きが隠せない様子だった。
「もちろんでございます。長旅でさぞお疲れでございましょう。急なことゆえ至らぬ部分もありましょうが、精一杯お迎えさせていただきます。どうぞ心ゆくまでお過ごしください。また、教会長と聖女からも一度ご挨拶をさせていただきたく――」
「たしかに疲れた。早く腰を下ろし、熱い茶で一服がしたい」
 セリシアの様子が気が気でなく長口上に焦れていた俺は、フレンネルの言葉尻を割って尊大に言い放つ。
「これは長々と立ち話を失礼いたしました! ささ、どうぞ中にお入りください」
 フレンネルは頭を下げ、即座に俺たちを招き入れた。
 ――パシンッ!
 俺が教会の敷地内に一歩踏み出したその時、周囲になにかを打つような鋭い音が響いた。
「セイ様!? お待ちください!」
 背中にかかるフレンネルの制止を無視し、素早く音があがった方向に駆ける。教会の建屋を回り込み、裏側に回り込む。
 俺が仁王立ちになった赤毛の女性とその足元に伏したセリシアの姿を認めるのと同時に、厳しい叱責の声が響く。
「遅い! どれだけ待たせたと思っている!?」
 上等な絹地をふんだんに用いた派手なドレスを見るに、女性はおそらくこの教会の聖女だろう。聖女はセリシアに向かい髪を振り乱し、悪鬼のごとき表情で喚き立てる。
 その姿はまさに醜悪のひと言につき、品位もなにもあったものではない。さらに聖女はドレスだけでなく、全身を過剰なほどの宝飾品でゴテゴテと飾り立てていた。
「イライザ様、申し訳ございません」
 俺は憤慨を露わにするイライザと呼ばれた聖女と地面に額を擦り付けて詫びるセリシアを前にして、一瞬で状況を理解する。
 謝罪を口にする彼女の頬は赤く腫れ、あろうことか唇の端が小さく切れてしまっていた。その傷はおそらく、小さな突起物かなにかが当たってできた物。そうして、派手な出で立ちの聖女イライザの両手の指の幾つかには、輝石が煌く指輪が嵌まっていた。
 これらから導き出される答えはひとつだ――。
「お前は言いつけられた用事ひとつ満足にこなせないのか、このグズが!」
 っ、いかん!!
 激昂した女性が大きく手を振りかぶるのを目にし、俺はすかさず前に飛び出した。ふたりの間に割って入り、セリシアをしっかりと背中に庇いながら、わざと大仰な口ぶりと仕草で語る。
「おぉおぉ! なんと煌びやかなお姿か! よもや、あなた様が巷で噂の『癒しの聖女様』では!?」
「なんだお前は!? なんの許可があってここにいる!?」
 突如割り込んで現れた俺に、イライザは虫けらでも見るような目を向けた。
「これはこれは。私は今宵の宿をこちらにお願いしたくまいった次第で」
「ほざけ! ここはお前のような薄汚い貧乏人が使える場所ではない! 早々にここを退き、安宿にでも移れ!」
「ふむ。よもやこちらに滞在するに、金銭が必要とは思わなかったが……。どれ、これくらいで足りようか?」
 言うが早いか、俺は懐から金貨が詰まった革袋を二、三袋取り出して彼女の前に積み上げる。
 大量の金貨を前に、イライザはまさに鳩が豆鉄砲を食ったよう、そんな様相で立ち尽くした。
 普通に旅をしている中で、こうもあからさまに金銭を要求される状況などそうそうあるものではない。この街に来る前に折よく次元獣をギルドに持ち込んで換金していたが、まさかこんな用途で役立とうとは思ってもみなかった。
「せ、聖女様っ! そちらはセイ様と申しまして、筆頭六侯爵のおひとりアルバーニ様の紋状を授かったお方でございます!」
「なんだと!?」
 息を切らしながら遅れてやって来たフレンネルが慌てて耳打ちすれば、イライザはギョッと目を剥いた。
「巡礼中ゆえ、このような薄汚い旅装束のまま訪れてしまったことは、平にご容赦を」
「まぁまぁ! 『薄汚い』など、めっそうもない。セイ様は紋状を授かるに相応しい気品に溢れているというのに、私としたことがとんだ早とちりをしてしまいました。先の私は少々目をおかしくしていたのです。どうかお許しくださいませ」
 金と権力を前に、イライザはコロッと態度を一転させた。彼女の変わり身は、いっそ清々しいほどだった。
「なに。こちらが事前連絡もなしに急に押しかけてきたのだ、謝罪には及ばん」
「えぇっと、こちらはどういたしましょう? お返しさせていただいた方が……?」
 イライザは金貨の詰まった袋を手に形ばかりの問いを口にするが、俺に返そうとする素振りはない。
「それは既にそちらにお渡ししたもの。俺は一度出したものを引っ込めるほど器の小さな人間ではない」
「まぁ! それではありがたくちょうだいいたします。天主は全て見ておられるのです。ですから、きっとセイ様には天からの加護がございますわ!」
 イライザがどこまで本気で語っているのかはわからんが、その言葉通り天主が金銭によって忖度を与える存在ならば、世界は終わりだ。
 先に告げた通り、差し出した金を惜しいとは思わない。しかし、それらは彼女の贅沢のためではなく、窮する民草のために使われて欲しい。
「そう言えば、道中で小耳に挟んだのだが、去年の長雨の際に街の西を流れる大川の川縁が大量の土石流によってかなり浚われてしまったとか。近隣住民らは、次に大雨が降ったら川が決壊してしまうのではないかと心配していた」
「はっ?」
 俺が道中の馬車内で小耳に挟んだ話題を口にすれば、イライザは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして俺を見返した。
「その金額があれば川の護岸工事が叶う。自然災害による被害は、当然天主も望むまい。ふむ、きっとお喜びになるな!」
 大金が自由に使えると思い喜びかけていたのだろう、イライザの聖女の顔が見る間に苦々しげに歪む。
 そうかといって、彼女が俺の正論に異議を唱える余地はない。
「な、なるほど。……さっそく、手配をいたしましょう」
 結局、イライザは強張った笑みを浮かべ不承不承に頷いた。
「なにをぐずぐずしている!? 早う客間を整えてこんか」
 俺とイライザの後ろで、フレンネルが地面に膝を突いたままのセリシアを怒鳴りつける声にハッとして振り返る。
「申し訳ございません」
「待て! セリシアと言ったな、俺たちの客間は最低限の寝具が揃っていればいい。部屋の整えは不要だから、このまま客間に案内せよ」
 即座に立ち上がり駆けていこうとするセリシアを制止し、案内を命じる。
 あえてセリシアとはこれが初対面のふうを装った。
「し、しかし……」
 セリシアは戸惑いを滲ませ、俺とフレンネルを交互に見つめた。
「フレンネル、長旅で連れも疲れている。早々に部屋で腰を下ろし、ひと息つきたい。不足の物があれば、部屋でセリシアに申し伝える。下がらせてもらうぞ」
「セイ様がそうおっしゃるのであれば、ぜひそのように。……セリシア、セイ様とチナツ様にくれぐれも失礼のないようにご案内するのだぞ」
 俺がこんなふうに言い切れば、フレンネルが否やを唱えられるわけもなく、セリシアに向かって居丈高に案内を命じた。
「承知いたしました。どうぞこちらへ」
 セリシアの先導でイライザとフレンネルの前をすり抜け、教会の正面玄関をくぐる。そうして回廊を進み、突き当たった一等豪華な両開きの扉の先に続く客間へと通された。
 客間に入るや、扉をピタリと閉めきって鍵をかける。
「セリシア、頬を打たれたのだな!? 見せてみろ!」
 すぐにセリシアに向き直り、頤に右手をあててクイッと上を向かせる。
「っ!」
 ふたりの目線が間近に絡むと、セリシアは大仰なほど体をビクンと跳ねさて体を硬直させる。目にした俺は、顎に添えた指の力を緩めた。
 そんなに強く掴んだつもりはなかったが、もしかすると口もとの傷に響いたのかもしれない。
「すまん。傷が痛んだか?」
「い、いえ……っ。大丈夫です! 傷も大したことはありませんので、どうかお気になさらず」
 セリシアは伏し目がちに床へと視線を落とし、早口に言い募る。しかし『大丈夫』という言葉とは裏腹に、上向かせて固定したままの頬はひと目でそれと分かるくらい赤くなっているし、滲んだ血こそ拭い取られていたが口の端に走った傷口は今もしっかりと見て取れる。
「そう深くはなさそうだが、念のためこれを貼っておくといい。……どれ」
「えっ……?」
 俺は荷袋から医療キットを取り出すと、消毒液を含ませた絆創膏を取り出して、手早く彼女の頬に貼る。
 セリシアは驚いたようにパッと目線を上げて、自身の指先でツツツッと口もとに触れる。絆創膏の感触を確認した彼女は、恐縮しきりで頭を下げた。
「すみません! 私などに、畏れ多いことです!」
「やめてくれ。君にそんなふうに畏まった態度を取られると落ち着かない。先ほどは聖女やフレンネルの手前、やむなくあんな横柄な対応をしたが決して本意ではなかった。実を言うと、俺は路地裏で会う前に、小間物屋で君を見ているんだ」
「小間物屋のおじちゃんとおばちゃん、セリシアお姉ちゃんのことすっごく褒めてた! それで本物の聖女様より聖女様に相応しいって言ってたけど、私もそう思う。派手で怖いあの聖女様より、セリシアお姉ちゃんの方がずっと聖女様みたいだもの!」
 ここでチナが嬉々とした声をあげた。耳にしたセリシアはパチパチと目を瞬いて、答えに困った様子だった。
「小間物屋の夫婦から、君が手製の軟膏や湿布薬、果ては咳止めまで調薬していると聞き、一度話をしたいと思ったんだ。それで教会の下働きをしているという君を追って来たわけだが……」
 俺は一旦言葉を途切れさせると、しっかりとセリシアの目を見て再び口を開く。
「なぁセリシア、君はこの教会でずっとこんな扱いを受けているのか? 住み込みの下働きは、賃金などの労働条件で待遇が劣る傾向がある。とはいえ、殴られたり暴言を吐かれたりというのは普通じゃない。待遇改善を申し出て、それで改善が見込めなければ早急に他の働き口を探した方がいい」
「……いえ。教会には両親亡き後、引き取ってもらった恩があります。それに私はシンコですから、働き口は限られます。ここでの扱いが不当とは思いません」
「君さえよければ俺たちと一緒に来ないか。この場ではあえて俺たちの旅の目的については伏せるが、君は薬草の知識とその調薬に造詣が深い。俺たちと共に旅をしながら、その技にもっと磨きをかけていくこともできる」
「とんでもないことです。私の持つ薬剤の知識は今は亡き街の薬師から授かったものが全てで、特段秀でたものではありません。ご一緒しても、足手まといにしかなりません。それに今は、これでも街唯一の薬師を兼ねております。私がいなくなってしまっては、多少なり困る人たちも出てきます。セイ様のお気持ちだけ、ありがたくちょうだいいたします」
 固辞するセリシアを前に、これ以上同行を持ち掛けることはしなかった。
「そうか。もし、気が変わったら言ってくれ。俺たちはいつでも歓迎する。それから、ひとつ確認させてくれ。君は『街の薬師から授かったものが全て』と言ったが、君が調合した薬の効果はその薬師のものと同じか?」
「……少し、効果が強く出ているように感じます。ただ、薬効というのは患者の状態によって変わってきますから、薬がうまく利いたケースがたまたま複数件認められただけです」
「なるほど」
 彼女の弁解は俺を納得させるに足るものではなかったが、セリシアを困らせるのは本意でなく頷くにとどめた。
「もう! セリシアお姉ちゃんてば、ほんとに人がいいんだから」
 チナがぷぅっと頬を膨らませながら零した呟きに、声には出さずとも内心で同意する。
 セリシアはこれに曖昧に微笑んで、腰を屈めてチナと目線の高さを合わせた。
「チナツちゃんはいいわね。私は両親を亡くしてしまったし、もともと一人っ子で兄弟もいなかった。こんなに頼もしいお兄さんがいて、羨ましいわ」
「だったら私もセリシアお姉ちゃんと同じだよ」
「え?」
 セリシアは小さく首を傾げた。
「お兄ちゃん、本当のお兄ちゃんじゃないんだ」
「そうだったの……。『お兄ちゃん』と呼んでいたからてっきり、兄妹なんだと思っていたわ。ごめんなさい、私の勘違いだったわね」
「ううん、全然! 私、お兄ちゃんのこと兄妹とか関係なく大好きだし、兄妹に見えたなら嬉しい!」
「こう見えて、チナと出会ったのも一緒に旅を始めたのもつい最近のことなんだ。だが、なかなかどうして。これが不思議とうまくやれている」
 俺への好意を隠そうとしないチナの素直な言動は好ましく、彼女の水色の頭をクシャリと撫ながら、セリシアに補足する。
「まぁ、とてもそうは見えませんでした。てっきり、おふたりはずっと以前から一緒にいらっしゃるのだとばかり」
「俺たちは共に弾かれ者で、似たもの同士。気が合わないわけがない。そしてそれはセリシア、君にも当て嵌まる」
「おふたりが弾かれ者? それに、私にも……とは一体どういう意味でしょう?」
「君はさっき『シンコだから』と己を卑下した物言いをしていたな。だが、チナツもシンコだ。そして、俺に至ってはセイスだ」
 セリシアは信じられないというように、目を真ん丸に見開いた。
「セイスやシンコへの差別は根強く、就業や生活面でのハンディも否定しない。だが、それが全てではないことは、街の人たちとの交流する中で君とて承知しているはずだ。習得した調薬の技術や君自身の人柄によって、君は多くの人に慕われている。君はもっと、自分に自信を持っていい」
 セリシアは困惑した様子でパチパチと目を瞬かせ、俺を見上げていた。
「それから、俺たちはいつでも君を歓迎する。これだけ覚えておいてくれ」
「セリシアお姉ちゃん。私もね、お兄ちゃんに会うまでずっと『シンコの私なんて』って自分に自信がなかった。でも、今は『シンコの私だって』って思ってる。私も、いつだってセリシアお姉ちゃんを大歓迎よ!」
「セイさん、チナツちゃん、……ありがとう」
 セリシアは顔をクシャクシャにして、絞り出すように声にした。
 その後、セリシアは夕食の支度のため、慌ただしく厨房に向かっていった。
 聞けば、専属の料理人が別にいるのに、セリシアは毎食の下ごしらえや後片付けに駆り出されているらしかった。察するに、彼女のここでの生活は息つく暇もない忙しさだろう。
 セリシアが出ていくと、客間には俺とチナのふたりが残った。
「わっ! このベッド、とってもふかふか」
 チナは奥の寝台にボフンとダイブして、嬉しそうな声をあげた。
「あ、そうそう。この間のやつだけど……」
 そのままベッドの上をゴロゴロと転がっていたチナが、思い出したように声をあげた。
「こんな感じ?」
 手前の寝台脇で荷解きしていた俺が手を止めて振り返るのと、彼女がポシェットの中から土色の塊を取り出したのは同時だった。
 俺は荷解きもそっちのけでチナツに歩み寄った。
「ほぅ、早いな。もうでき……っ!? な、なんて完成度だ!!」
 チナツの手に握られた土色の塊……土製の武器を目にした瞬間、俺はその完成度の高さに度肝を抜かれた。
 俺が前世の知識をもとに、旅の始まりにチナツに手渡したのは、リボルバー式小型拳銃の設計図。孤児院でチナツが作ったライフルは威力や精度は申し分なかったが、強度が不足していた上、連射ができないため都度魔力を装填する必要があった。
 小型拳銃ならそれらを全てカバーできるが、反面、構造はライフルと段違いに複雑で、特に肝となる回転部分のチャンバーは精緻な魔力制御によって細部まで繊細に作り上げていく必要があった。
 それをまさか、この短期間で形にしてしまうとは……!
 当然、移動中の馬車内や宿、人目が無いところでチナがコツコツと作っていたのは知っていた。しかし、チナが製作途中の状態を見せることをよしとしなかったのだ。
 チナから受け取った小型拳銃を、表裏ひっくり返して検分していく。もちろん素材は土だから、スカンジウムなどの軽量で硬度に優れた素材と比べるべくもなく脆い。
 もし、本物のリボルバー式小型拳銃と同等の強度を備えたら完璧だが……いいや、そこまでは望むまい。
 実際にこの拳銃に装填するのは俺の魔力だ。強度を見ながら発射威力に折り合いをつけていけばいいだけのこと。
「チナ、完璧な仕上がりだ! これをここまで形にするのは大変だったろう。想像以上だ、ありがとう」
「ほんと!? よかった!」
 ワシャワシャとチナの頭を撫でながら労えば、チナは満面の笑みを浮かべた。
「作り方はもう覚えたから、もっと欲しかったり、改良したいところがあったら教えて。やってみる」
 チナがあっさりと続けた台詞に、俺は思わず舌を巻いた。
 魔力量だけで言えば、シンコのチナツはトレスにも劣る。実際、土魔力をぶつけ合うような状況では、彼女はひとたまりもないだろう。
 ところが、彼女は少ない魔力を繊細に注ぐことで、こんなにも強力な武器を生み出した。
 俺の次元操作にしてもそうだ。各々の属性でみれば極僅かな魔力、しかしそれらを掛け合わせて発現させることで何倍もの力を生じさせる。
 そう考えると、保有する魔力の大小は問題ではなく、むしろ弱者とされるシンコやセイスにこそ、具現の方法や掛け合わせの相乗効果といった意味では可能性が持てる。
「チナ、もしかするとお前ならできるかもしれん」
「任せて! 今度はもっと難しい物を作ればいいの?」
 チナは俺の言葉を先回りして、胸を張った。
「いいや。いずれは新しい創作も頼むが、今お前にやって欲しいのはそれではない」
「え?」
「これを、俺が力いっぱい魔力を注いでも耐えうる素材にしたい」
 コテンと首を傾げるチナに告げたのは、属に"錬金術"と呼ばれる技で、歴史上ペテンや詐欺の代名詞として語られることがほとんど。しかし俺は、チナの土・火・水・風・闇の五属性を掛け合わせて発生した魔力に、彼女だけが持つ優れた魔力制御を加えれば決して夢ではないと考えていた。
 コツさえ掴めば、彼女は間違いなく土を金に変えることができる。
「うーんと、それって固く丈夫にすればいいってことだよね……」
「その通りだ」
 案の定、呑み込みが早いチナは、すぐに俺の意図を理解する。そうして悩んだ様子ながらさっそく右手を前に翳すと、気合の入った掛け声と共に俺の両手に握られた小型拳銃目掛けて魔力を放った。
「えいっ!」
 次の瞬間、小型拳銃が俺の手の上でボンッという音を立てて爆発する。
「ウッ!!」
 俺は低く呻きをあげながら咄嗟に手を引く。
 小型拳銃は見る間に原形をなくし、サラサラとした砂になって落ちていき、足元の床に小さな山を作った。
「きゃああっ! お兄ちゃん大丈夫!?」
 チナは目の前で起こった出来事に取り乱し、泣きながら俺に縋りついた。
「ああ、大丈夫だ。反射的に放したから大事ない」
 この言葉に嘘はない。とはいえ魔力が注がれた際、小型拳銃は瞬間的にかなりの熱を持ったから、すぐに放さなかったら危なかった。危機一髪のタイミングで難を免れた俺は、内心で安堵の息をついた。
 一方で、今回の一件によってひとつ嬉しい発見もあった。熱して土の形状を変えようという意図でこのような発現の仕方になったのだろうが、チナが放ったのは火と土の混合魔力。言うなれば、彼女がしたのは魔力の足し算のようなもの。これを掛け算にすると新魔創生になる。
 たった一度で二属性の同時発動を成し遂げてしまうあたり、チナの素質は極めて高い。彼女が新魔創生を体得する日はきっとそう遠くない。
 幾度も失敗を重ねながら二年の月日をかけて次元操作体得した俺としては、舌を巻かずにはいられなかった。
「っ、よかった! よかったよ!」
 泣きじゃくって震える細い背中をトントンと抱きしめながら、シンコのチナ、そしてセリシア、このふたりとの巡り合わせに天の意志を感じずにはいられなかった。
 ……いや、天というよりは、両親の悲願といってもいいかもしれん。
 新魔創生に初めに目を付けたのは、俺の両親だった。そうして彼らは、それを体得しかけていた最中、事故によってこの世を去ったのだ。
 ただの偶然なわけがない、絶対に何者かの作意がある。両親の試みを頓挫させようとする何某かの力が働いたのだ。
 では、その力とはなにか――。教会、あるいは、そこに組する勢力か。どちらにせよ、敵は手強い。奴らに打ち勝つために、さらに情報を集め、対策を練らなければ。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。私、とんでもないことを……。一歩間違えば、お兄ちゃんに大やけどを負わせていた」
「いいや、お前が謝ることはない。むしろ、俺は感心しているんだ」
「え?」
 チナが涙に濡れた目を向ける。
「お前の能力は俺の想像を遥かに超えている。この調子なら、きっとお前はじきに成し遂げてしまうだろう」
「私、頑張る! 絶対に素材を変えてみせるから!」
「頼もしいな。ただし、ひとつだけ約束してくれ。材質変化の練習はひとりでは行わず、必ず俺に声をかけてくれ。そうすれば、仮に魔力暴走が起こっても俺が抑える」
「分かった、約束する!」
 チナは力強く頷いて答え、涙の残る目尻を手の甲で拭ってスックと立ち上がった。
「それじゃあお兄ちゃん、さっそく練習するから見てて!」
「ん? だが、肝心の小型拳銃が砂になってしまったからな」
「大丈夫よ! ……えいっ」
 俺が、元は小型拳銃だった足元の砂山を見下ろして零せば、チナが即座に砂山に向かって元気のいい掛け声をあげた。
 すると、見る間に小山は再び小型拳銃の形をとった。
 これには、さすがの俺も声を失くした。
「はい! できた……って、お兄ちゃん? どうかしたの?」
 驚きに目を丸くする俺に、チナが小首を傾げる。
「チナ、お前は凄いな。こんな精緻な仕組みを一瞬で作り上げてしまうのか」
「一度作った物ならすぐよ。もちろん初めて作る時は、ああでもないこうでもないってやり直すけどね」
「そうか。……いや、驚いた」
「えー? こんなの普通よ。へんなお兄ちゃん」
 触れもせず、緻密な構造の拳銃を一瞬にして再現してしまうチナの能力。決して『普通』ではあり得ないが、チナはなんでもないことのようにカラカラと笑った。
 そうして、ここから俺とチナは材質変化の練習を開始した。
 チナは幾度か魔力を暴走させたが、俺が難なく全てを止めた。事前の予想と気構えさえできていれば、爆発や炎上にももう驚くことはなかった。
 とはいえ、新魔創生による錬金術は、やはり一朝一夕でなせるものではない。土が色を変えたように見えても、なかなかその先に進んでいかない。
 夕食に呼ばれたので、この日の練習は終わりになった。
「全然だめね……」
「なに、落ち込むことはない。簡単にこれがなせてしまっては、今頃この世は金銀財宝で溢れていただろう。それくらい、チナが挑んでいるのは難しいことなんだ。焦らず地道にいこう」
「うん、分かった」
 肩を落とすチナを励ましながら食堂に向かい、待ち構えていた教会長と聖女イライザと夕食を共にした。
 ふたりはしきりに俺とアルバーニ様の関係、そして紋状を授かるに至った経緯を聞きたがった。他にも俺の仕事や交友関係、果ては金回りについてまで尋ねてくる始末だった。
 当然、俺がまともに答えてやる義理はない。答えられるところだけ答え、後はのらりくらりと適当に躱しながら、俺からも教会についての質問を重ねていく。特にイライザは単純な性格をしているようで、俺が能力や美貌を褒めてやれば、気をよくして饒舌に語ってくれた。
「いやいや、聖女様は実に得難いお方だ」
「まぁ。ほほほ」
「たしかに光属性の魔力は癒しと回復の効果に優れている。とはいえ、治癒まで叶えてしまうのだから、あなたは奇跡の人だ。……だが、もしかするとその奇跡は生まれつきではなく、体得したのではありませんか?」
「なぜ、そのように思われるのですか?」
 俺のこの問いには、イライザが口を開くよりも先に教会長が質問で返してきた。
「なに、アルバーニ様をはじめ人脈はわりと広い方でな。俺のところには、なにかと情報が集まってきやすい。だが、俺が聖女様のことを知ったのは、北の国との戦で負傷した兵士を治療して『癒しの力を持つ聖女』と呼ばれているのを耳にしたのが最初だ。こんなに素晴らしい能力の使い手がいたら、もっと早くに俺の耳に入っているはず。それらを鑑みるに、治癒が可能となったのは最近のことかと思ったんだが。もし、違っていたらすまない」
「さすがセイ様ですわ! 国内の要人に多くお知り合いがいるのですね。それでは隠せませんわね」
 俺の説明にイライザは喜色に声を弾ませて、教会長も納得した様子で頷いた。
「おっしゃるように、私が治癒の力を持ったのは最近のこと。生まれつき光属性の魔力は強かったのですが、さすがに傷を塞いだりはできませんでした。これが可能になったのは、デラ様の祝福を受け――」
「聖女様!!」
「っ!」
 教会長が鋭い声をあげ、イライザの言葉をピシャリと遮る。彼女はビクリと肩を跳ねさせて、慌てた様子で口を閉ざした。
「……と、とにかく! セイ様のご指摘の通り、後から身に着けましたの」
 イライザは取ってつけたように早口で答えた。
「ほう、やはりそうだったか」
「すみませんが、明日は早朝から予定が入っておりますの。そろそろ、自室に下がらせていただこうかしら」
 彼女はそれ以上の会話を避けてか、間髪入れずに申し出る。
 ……かなり警戒している。これ以上会話を続けても、なにも聞きだすことはできないだろう。
「なに、俺たちももう下がらせてもらう。馳走になった。……チナ、行くぞ」
「うん! ご馳走様でした!」
 俺は早々に席を立ち、チナを伴って食堂を後にした。
 ……イライザが口にしかけた『デラ様』というのは何者だ?
 あの口振りだと『祝福』というのによって治癒の能力が発現したかのようだ。
 頭の中で考えを巡らせながら客間に戻り、扉を閉める。
 扉が完全に閉まり切ったところで、チナが俺の袖を引いた。
「どうした?」
「お兄ちゃん、私、孤児院にいた時に『デラ様』って聞いたことがある」
「なんだって! それはいつだ? 詳しく教えてくれ」
 チナの口からその名前が飛び出したことに驚きは隠せない。
「聞いたのは、二週間くらい前よ。うちの孤児院には一人だけウノの子がいたんだけど、その子はウノの中でも比較的強い闇の魔力を持っていたみたいなの。その子の近況を確認しに、定期的に教会の人が来てた。その日は珍しく二人組でやって来ていて、院長との面会を終えて門を出た後『あの様子なら、問題なくデラ様の祝福を受ける器となれるだろう』って話しながら帰っていった」
 ……器? なるほど。ここの聖女もその器に選ばれ、デラ様の祝福によって癒しの魔力を発現させるに至ったのだ。
 デラ様というのが何者かは分からんが、後付けで魔力を付加、あるいは、増幅させることのできる存在がいる。そしてそれを可能にするのは、考えるまでもなく人の範疇を超えたなにかだ。
「あ、あとね。『闇の器が見つかってひと安心だ。これで無事に器が全て揃った』って言ってた」
「これを俺以外の誰かに話したか?」
「ううん。お兄ちゃんにしか話してないよ」
 最後の器に闇の魔力が注がれた時、いったいなにが起こる? 教会はその六名に、なにをさせようとしている?
「そうか、今後もこの件は絶対に口外してはだめだ。それから、お前がその会話を聞いていたことは、その二人に気づかれていないか?」
「それは大丈夫! たまたま通り沿いの生垣の下で遊んでて聞いたんだけど、二人は気付いた素振りすらなかったもん」
 往来に人がいないことで油断したのだろうが、子供は時に思いもよらない行動を取る。思わぬ場所にいることも、またしかり。
「はははっ。生垣の下か、それはいいところに隠れていたな」
「ふふっ。いいでしょう?」
 その後はチナとたわいもない話をしていたが、彼女が小さくあくびを噛み殺すのを目にし、早々に床についた。健やかなチナの寝息を聞きながら、俺もいつの間にか眠っていた。

 事件は、早朝に起こった。
 ――ガシャン。ガシャン。
 ……なんだ? 最初は夢うつつの中で、門戸を叩いていると思しき音を聞いた。
 幾らもせず、音は一旦止んだ。
 ――ガシャン! ガシャンッ!
「そんなっ! お待ちくださいませ! どうかお助け下さい!」
 次いであがった閉ざされた門戸を強く叩く音と悲痛な叫び声で、俺は完全に目覚めた。
 いったいなにごとだ!? 折よく客間は中庭に面し、窓からは正門が見下ろせる。俺は寝台から飛び起きると、大股で窓に向かいカーテンを開け放つ。
 なっ!? 目にした瞬間、即座にただならぬ事態を悟った。東から薄っすらと白み始めた空の下、必死に門を掴んで乞う男の着衣はところどころ焼け焦げ、剥き出しになった肌の一部が熱傷でただれているのが確認できた。
「……お兄ちゃん、なあに?」
「チナ! どうやら街で火災が発生している。俺は行くが、お前はこのまま部屋にいるんだ」
「えっ」
 瞼を擦りながら起き出してきたチナに言い置き、俺はマントを掴んで客間から駆け出した。
「何度言われても同じこと。どんなに懇願されたところで我々に火消しは出来ぬ。他をあたれ」
 玄関の扉を押し開けると、必死の形相で門の格子に縋る訪問者をフレンネルがけんもほろろに追い返そうとしているのが目に飛び込んできた。
「消火作業は街の者が協力しております! そうではなく、お願いしたいのは重傷者の治療でございます!! 現場では家内をはじめ、複数名が大やけどを負って、動かすも出来ぬ状況でございます。今回ばかりはどうか、聖女様の癒しの魔力を使っていただきたいのです!」
「しつこいぞ」
「っ、聖女様!! そちらで聞いておられるのでしょう! どうか、此度だけはお願いいたします!」
「馬鹿を言うな。聖女様は近隣領主様の腰痛の治療のために発たれるところなのだ。そのように掴んでいては門が開けられんだろうが、さっさとそこを退け!」
 驚くべきことに門と目と鼻の先の庭に、聖女イライザが乗った馬車が停車していた。車窓からは、煩わしそうにそっぽを向く彼女の横顔が見て取れた。
「聖女様! どうか――」
「あぁ、煩い」
 さらに言い募る男に、ついにイライザが口を開いた。
「汚い貧乏人に言葉を許した覚えはない。その上、私に癒しを所望するなどなんという思い上がりか。ドブを這うネズミが一匹や二匹焼け死んだからなんだというのだ? 早くそこをどけ、領主様との約束に遅れたらどうしてくれる」
 しかし、その発言は到底"聖女"が語ったとは思えない、聞くに堪えないものだった。
 男の戦慄く両手が格子から離れ、ガクリと地面に膝を突く。
 門から男が離れたタイミングでフレンネルが即座に門を開き、御者に発車を指示を出す。
「早く馬車をお出ししろ」
「ハッ!」
 御者が馬車を発進させるより一瞬早く、俺は馬車に駆け寄っていき、車窓越しのイライザに声を張った。
「聖女様!」
「あら、セイ様? 申し訳ありません、煩くして起こしてしまいましたわね。まだ朝も早いですわ。もう静かになりましたから、お部屋に戻ってお休みくださいませ」
「私からもお願いいたします。此度ばかりは領主様へは事情を説明し、街の負傷者の治療にあたっていただけませんか。重傷のやけどとなれば、薬師の手には余る。差し出がましくも、腰痛の治療とは違い、事は命に関わります。聖女様のお力がこれほど必要とされる場面はありません」
「まぁ、セイ様までなにをおっしゃっているやら。ここで治療の内容は問題になりませんわ。だって、ネズミと領主様を同じ天秤で量ることがそもそもあり得ませんでしょう。セイ様は前提からして間違っておりますわ。……あら、いけない。時間が押しておりますから、もう行かせていただきますね」
 言うが早いかイライザは御者に発車の合図を送り、あまりの言い草に言葉を失くして立ち尽くす俺の横を颯爽と走り抜けていった。
 その直後、玄関から大量の荷物を抱えたセリシアが転がるように飛び出してくる。
「ウッズおじさん! しっかりしてください」
「セリシア……」
 セリシアは男と顔見知りのようで、一直線に地面に力なく膝を突いて項垂れる男の元に向かった。
「お気持ちはわかります。しかし、今は肩を落としている場合ではありません!」
 腕をグッと取ると、セリシアはその目を真っ直ぐに見つめて叱咤する。
「大至急、負傷者の元に案内してください! こうしている間にも、患者さんはやけどで苦しんでいます。聖女様がいなくとも、今ある人手と薬でできる限りの処置をしましょう!」
 セリシアの言葉を受け、男……ウッズはハッとしたように目を見開いた。
「そうだなセリシア、あんたの言う通りだ! 火事は……負傷者はこっちだ!!」
 ウッズはスックと立ち上がり、先頭になって駆け出した。セリシアもそれに続く。
「俺も行こう! セリシア、荷物をこちらに!」
「待てセリシア、勝手は許さんぞ! ……セイ様も、どうかお戻りください!」
 セリシアが抱えた大量の荷物を取り上げると、背中に掛かるフレンネルの制止を無視して門を飛び出した。
 ウッズは教会を出てすぐに、大通りを曲がり細い横道へに入った。
「あそこです!」
「あの煙か……!」
 ウッズが示したのは、昨日、セリシアが少年の治療をしてやっていた場所の近くだった。既に火は消し止められていたが、隣接する三軒ほどが黒焦げになっており、いまだ煙を燻らせていた。
 火元は三軒の真ん中に建つ木造家屋のようだった。
「……この匂い、油か?」
「料理屋の揚げ油に、火が回っちまったんです! 料理屋の夫婦と、仕込みを手伝ってたうちの家内が大やけどを負ってます。他にも、何人かがやけどを……!」
 俺の問いにウッズが涙ながらに答えた。
「ウッズ!」
 その時、人だかりの中にいた女性が俺たちの姿を認め声をあげた。
「すまん、やはり聖女様は来てはくれなかった。だが、代わりにセリシアが――」
「そんなんはいい、それより早くこっちへ! あんたの奥さんが、ずっとうわ言であんたを呼んでる!」
 女性はウッズの言葉を割って、叫ぶように口にした。
「なんだって!」
 ウッズが転がるように走りだす。俺もウッズに続き、女性が手招きする方へ走っていく。
「……っ!」
 隣のセリシアが息を呑んだのが気配で分かった。俺も、一瞬呼吸が止まった。
 それくらい目の前には、厳しい現実が広がっていた。
「メアリ……! しっかりしろ!!」
 道端に敷かれた毛布の上に、数人の負傷者が寝かされていた。ウッズが真っ直ぐに駆け寄ったのは、負傷者の中でも特段重篤な女性のところ。ウッズは必死で呼びかけるが、女性はもう苦し気な息を漏らすばかりでまともな言葉を紡がない。
 瞼にもやけどを負っていて、その瞳が開かれることもない。
 他の負傷者の枕辺でも、同じような光景がみられた。料理屋の主人と思しき男に、老婆が縋って泣いていた。
 俺はその光景を食い入るように眺めながら、踏み出すことができなかった。
 ……セリシアの調薬は、間違いなく効き目がいい。しかし、軟膏と湿布薬では、死に瀕した重度熱傷者の救命には役立たない。
 迫りくる死の足音に、人々は絶望していた。俺もなす術なく腕に抱えた荷物を握り締め、無力感にギリギリと奥歯を噛みしめた。
 その時、ウッズの呼びかけに答えるように、メアリの指がピクリと動く。
「メアリ!」
「あぁ。……あな……た。最期に会えて、よかっ……」
 掠れ掠れにメアリが声を発するが、最後まで言い切る前に言葉は不明瞭に途切れる。彼女の命の灯が、今まさに消えゆかんとしていた。
「っ、逝かないでくれ!」
 ウッズが悲痛に叫び、周囲からはすすり泣く声があがった。
「どうか俺ひとり置いて逝ってくれるな……なぁ、メアリ?」
 ウッズの眦から零れた涙が、頬を伝ってパタンとメアリの額に落ちる。
「……もう、諦めろ」
 人の輪の中から老婆が一歩進み出て、ポツリと口にする。
 皆の視線が老婆に集まる。老婆の手には、握りこぶしほどのサイズの瓶が握られていた。
「これだけのやけどを負って、聖女様にも見捨てられ、もう全員助かりゃしない。ここにいる負傷者は皆、これが寿命だったんだ。……やけどで死んでいくのは大変な苦痛だよ。せめてこれ以上苦しまぬよう、ひと思いにあの世に送ってやるのが人の情けってもんだ」
 老婆の言葉に周囲はシンッと静まり返り、負傷者の苦し気な呼吸音だけが響いていた。
 老婆は、手前に横たえられていた重傷者の夫人の元に行くとしゃがみ込んで、瓶の中身を飲ませようと口を開く。
「おい、なにをしている!?」
 老婆が明確な意思を持って、夫人の命を絶とうとしているのは明らかだ。それなのに声をあげたのは俺だけで、夫人の親族と思しき者達は老婆のなすがまま止めようとはしない。
「やめるんだ!」
「……死なせない!」
 俺が老婆の腕を取るのと、セリシアが鋭く言い放つのは同時だった。
「これが寿命だなんて、そんなことない! 私が皆を死なせない……!」
 振り返ると、セリシアが全身に光の粉を纏わせてキラキラと発光していた。
 これは、光の魔力か!? それも通常の魔力の放出ではあり得ない、……まさか新魔創生をなし得たか!!
「どうか助かって……!」
 セリシアは横たわる重傷者らの前へ進み出て、固く両手を組み合わせる。直後、彼女の全身を包む光がふわりと広がる。全員が固唾を呑んで、セリシアの一挙手一投足を見守った。
 ところが、それっきりセリシアにも負傷者たちにも変化はみられない。
 見れば、瞼を閉じ唇を引き結んだセリシアの表情は苦し気で、苦握り合わせた拳も小刻みに震えている。その様子にピンとくる。
 おそらく、セリシアは発現した魔力の使い方が掴めずにいるのだ。
「セリシア、己の源に祈れ」
 俺は彼女に歩み寄り、そっと耳元で囁いた。
「え?」
 セリシアは薄く瞼を開き、俺を見上げた。
「そして、イメージするんだ。損傷した皮膚細胞の再生、穏やかな呼吸と適正体温の維持。それらのイメージを彼らに注ぎ込め」
 新魔創生は祈りと、そして想像力が全てだ――!
「……はい!」
 セリシアは俺の声に力強く答え、再びグッと目を瞑る。次の瞬間、彼女から眩いほどの光の粒子が舞い上がる。
 セリシアの隣にいた俺は、光の粒子をもろに浴びる恰好になった。
 ……これは、ものすごい魔力だ!
 光に触れた部分が柔らかな熱を帯び、皮膚細胞が活性化していく感覚があった。咄嗟に露出している手の甲に視線を落とすが、健康な皮膚ゆえに目に見えての変化はなかった。
 しかし広がった光が負傷者らを包み込んだ瞬間、全員が息を呑んだ。
 水ぶくれが破れ、肉の色を晒していた患部が新たな皮膚に覆われていく。赤黒くただれた広範囲の熱傷も、キラキラと発光しながら肌本来の色を取り戻してゆく。
 熱風で気管を焼かれて浅い呼吸を繰り返していた患者は、これまでの苦悶の表情が嘘のように穏やかな笑みをたたえ、大きくひと息吐き出した。
「メアリ……!」
 やけどで上下の瞼が張り付いてしまっていたメアリも、光の粒子がふわりと触れた瞬間に瞼を開いた。
「あなた? ……やだ、泣いているの?」
 その瞳にウッズを映すと、メアリは小さく微笑んで彼の涙を拭おうと手を伸ばす。一度は焼け落ちてなくなってしまったはずの手指で、彼女はそっとウッズの目尻を撫でた。
「っ、メアリ!!」
「え? あらあら」
 ウッズが大量の涙を迸らせ、メアリは驚いたように目を瞠った。
 集まっていた人々は目の前で繰り広げられる奇跡に言葉を失くし、瞬きすら忘れてただただ見入った。
 ――カシャン。
 地面になにかがぶつかって割れるような音があがる。
 見れば、俺が腕を取って薬殺を止めた老婆が、目を真ん丸にして立ち尽くしていた。彼女の手から瓶はなくなっていて、代わりに足元に割れたガラス片が散らばっていた。
「あたしゃ今、奇跡をこの目で見ているよ。そしてこれこそが、聖女の御業さ」
 老婆が震える唇で紡いだ『聖女』の一語。耳にして、俺の中でストンと嵌まる。
 発現にどんな力が起因しているのかはさておき、グルンガ地方教会の聖女イライザが癒しの魔力を持っているのは事実だ。しかし、富権力によって力を使い惜しむ彼女のやり方は、聖女には到底相応しいものではない。
 真の聖女は、イライザではない。セリシアだ――。
 負傷者の回復と共に発光は段々と弱まっていった。
「……っ」
「大丈夫か!」
 光が完全に消えた瞬間、セリシアの体がカクンと頽れるのを、すんでのところで支える。
「は、はい。大丈夫です、ありがとうございます」
 セリシアの息はすっかりあがり、表情にも疲労が色濃い。そして言葉とは裏腹に、彼女は自分の足で立つことも難しい様子だった。
 初めての新魔創生でこれだけの魔力を使ったのだから無理もない。
 ただし、ふらふらの体を俺に支えられながらも、その目には達成感と強い決意が透けてみえた。
「……セイさん、昨日の言葉はまだ有効でしょうか?」
 俺を見上げ、セリシアが迷いのない口ぶりで尋ねる。
「もちろんだ」
「ではセイさん、改めてお願いします。どうか私を、旅にご一緒させてください」
「喜んで。セリシア、君の同行を心から歓迎する」
「ありがとうございます。私はこれまで、あまりにも狭い世界で生きていました。あなたと旅に出て、広い世界をこの目で見ます。その上で、私になにができるのか考えます」
 嫋やかな佇まいは、たしかに昨日までの彼女と同じ。それなのに、凛とした眼差しで前を見据える姿はまるで別人のようだ。
 もしかすると新魔力のみならず、彼女の心の中にもなにかしら"新たな変化"があったのかもしれないと感じた。
 その時、人垣から一人の女性が進み出て、俺たちに歩み寄る。
 女性は小間物屋の夫人で、気づいたセリシアは俺の腕から抜け出して自分の足で立ち、彼女に向き直った。
「セリシア、この人たちと行くんだね?」
「はい。……お嬢さんの回復を最後まで見守らずに出ていってしまい、すみません」
「なに言ってんだい! 娘はもう、ほとんど治ってる。それに、多めに貰った薬の残りだってある、心配はいらない。だからあんたは、ここにいちゃいけないよ。ここにいたら、その能力も教会の奴らにいいようにされちまう。あんたの能力は、あんたの心が望むまま使えばいい。この人たちと一緒に行って、広い世界を見ておいで」
 夫人は、申し訳なさそうに頭を下げるセリシアの肩をトンッと抱き、彼女の旅立ちを後押しする。
「おばさん、ありがとうございます」
「道中、くれぐれも体には気を付けるんだよ。それからね、この街はあんたの故郷さ。恋しくなった時は、いつだって帰っておいで。街のみんながあんたの帰りを待ってるよ」
「その時はぜひ、うちに泊まってくれ! 妻を死の淵から取り戻し、こうして抱きしめていられるのも、全部セリシアのおかげだ! こんなのは礼にもならんが、せめて帰郷した時くらいは心づくしのもてなしであんたを迎えさせてほしい」
「いいや、その時はぜひうちに来てくれ! 嫁いだ娘の部屋が空いているんだ。なんだったら、ずっとうちにいてくれたっていい」
 ウッズが全身やけどを負っていたのが嘘のように滑らかな肌を取り戻したメアリを胸に抱きしめて口にすれば、他の負傷者やその家族からも次々に同様の声があがった。
「皆さん……」
 セリシアは感極まった様子で目を潤ませた。そんな彼女に、件の老婆が進み出て感謝を口にする。
「セリシア、あたしからも改めて礼を言わせてもらうよ。あたしは、自分が取ったあの行動を後悔はしていない。野蛮なやり方だってことは誰よりも承知してるが、やけどで苦しむ負傷者にとってあれが最善だと疑っていなかった。それがこの街の長老としての責任だとも思っていた。だけど、あんたの起こした奇跡を目の当たりにして、今後はもう同じ行動は取れないだろう」
 老婆の語った台詞で、俺は初めて彼女がこの街の長老なのだと知った。
 長老は街の最高齢者の意であり、そこに権力的な意味は含まれない。しかし、この世界にあって年長者を敬う心は前世の日本より根強く染み付いている。
 街の人々は、長い人生経験を積んだ彼女の言葉に耳を傾け、その行動に一定の敬意を払う。これが全てとは思わないが、彼女が毒殺を主張した時に反論の声がでなかったのには、こういった側面もあったのだろう。
「今度似た状況になった時に、また奇跡が降ってくる保証なんてどこにもない。だけどたしかに奇跡はあった。そして奇跡は、命あってこそ。その可能性の芽を摘むことは、あたしにはもうできんよ」
「長老……」
「それから、これからお前の周りにはありとあらゆる思惑を持った者が近寄ってくるだろう。だが、最後に従うのは己の心だ。さぁ、広い世界へいっておいで、グルンガの真の聖女・セリシア。道中の幸運を祈っているよ」
「……はい。いってきます!」
 長老の餞の言葉に、セリシアはしっかりと前を見据え、力強く答える。
 周囲はセリシアの新たな門出を祝う温かな拍手で包まれていた。

 温かな拍手を受けながら、俺とセリシアは街の人々に別れを告げ路地裏を後にした。
「おそらく、フレンネルは既に君が新魔創生をなし得たことを把握しているだろう」
 教会に足を向けながら、隣の彼女に切り出す。
「はい。教会は複数の情報屋を抱えていますから……」
 教会にはチナが一人で留守番をしており、俺が戻らない選択はない。だが、セリシアはフレンネルと顔を合わせない方がいい。
「君の能力を知れば、なんとしても教会に留めようとするはずだ。君は、教会には立ち入らない方がいい。旅に際し、必要な物は新たに購入すればいい。多くは無理だが、もしどうしても必要な物があれば俺が持ち出す。なにかあるか?」
 俺もフレンネルと顔を合わさずに教会を出られれば最善だが、おそらく外部からの出入りは逐次監視されている。
 もっとも、俺ひとりなら最悪、チナを抱えて制止を振り切ってしまえばいいだけのことだ。
「いえ、どうしても必要な物などなにも。……けれど、恥ずかしながら私には先立つものがありません。正直、旅支度を購入品で賄うのは難しく、やはり着替えなど最低限の物は持っていきたいです」
「旅の仲間となったのだから打ち明けるが、俺は次元操作の使い手だ」
「次元操作……?」
 セリシアは反復しながら、小さく首を傾げる。
「君は保有する五属性を掛け合わせて再生の魔力を発現させたろう? 光魔力で傷を治癒し、回復を促す力を持つ者はいる。しかし、細胞を再生し、快癒まで導く――この再生快癒は君だけがなせる技だ。そして、次元操作も俺だけがなせる技だ」
「なんと……! セイさん自身も、新たな魔力を創生していたのですね」
 セリシアは目を丸くした。
「ああ。俺は保有する六属性を掛け合わせることで新魔力を発現させる。これが莫大な力を持つ次元操作で、俺はこの攻撃力を武器にこの身一つで多くの次元獣を討伐している」
「……驚きました。けれど、これであの時セイさんが下さった的確な助言に合点がいきました。あの言葉は、セイさん自身の経験に則っていたんですね」
「ああ。属性の数に違いはあれど、両者の根幹は同じだ。どちらも祈りと、そして想像力が肝になる」
「なるほど。あなたのおかげで、己の内に燻る力を治癒魔力として具現化することができました。本当に、ありがとうございました」
「なに、初めて力を発現させたのだ。使い方に戸惑うのは当然だ。むしろ、あの助言だけで再生快癒を使いこなしたのは大したものだ」
 なにを隠そう俺自身、次元操作を自在に操るようになるまでに二年を費やしているのだ。そう言った意味でも、セリシアは破格に筋がいい……いや、セリシアだけではないな。チナもいまだ制御はできていないが、既に二属性の同時発動を果たしている。
 このふたりが一層技を磨いたら……。想像すれば、ゴクリと喉が鳴った。
「あの。今のお話でセイさんの身の上はよく分かりました。けれど、私が無一文という部分は、なにひとつ解決していないのでは……?」
 セリシアが遠慮がちにあげた声が、束の間の物思いから俺の意識を今に戻す。
「ああ、それなら――」
「それなら大丈夫よ! 次元獣ってね、ギルドが素材として目玉が飛び出ちゃう高値で買い取ってくれるの。だからお兄ちゃんって、こう見えてすっごいお金持ち。セリシアお姉ちゃんの旅支度を揃えるくらい、どうってことないわ!」
 俺が口を開くのと同時に、街路樹の後ろから大荷物を背負ったチナが飛び出してきて、セリシアの質問に元気よく答えを返した。
「チナ!! お前、どうしてここに……!?」
「だって、お兄ちゃんがあんなに慌てて出ていったのよ? なにもないわけがないじゃない。それでなにかあれば、当然、街を出ていくことになるでしょう?」
 チナの受け答えに舌を巻く。
「教会からお兄ちゃんの荷物も全部持ってきたわよ!」
「フレンネルにはなんと言って出てきた?」
 誇らしげに俺の荷物を掲げてみせるチナに眩暈を覚えながら尋ねる。
「なにも。あの後も教会には聖女様に助けを求めて街の人が何人かやって来て、私はフレンネルさんが正門で対応してる隙に通用門から出てきちゃった。だから、フレンネルさんには会ってないの」
「あら、通用門には鍵がかかっていなかった? よく開けられたわね」
 俺が二の句を失くしていると、セリシアが不思議そうに口にする。
 これにチナはビクンと肩を揺らし、バツが悪そうに目線を泳がせた。
「ええっと。悪いなぁとは思ったんだけど、壊しちゃった」
「え!? 壊したって、鉄製の錠前を?」
 セリシアは訝しげに首を捻っていたが、俺は歯切れの悪いチナの口ぶりでピンときていた。
「……チナ、材質変化を行ったな?」
 問いかける俺の声は自ずと低いものになった。
「約束を破ってごめんなさい! だけど私、昨日の夜眠る前にずーっとイメージしていたの。そうしたら、体の奥がぽかぽか熱を持ってくるのに気付いたの。この熱に、土の拳銃が固い金属に変化していく様子を念じたら、今度は絶対成功するって思った。起きたら一番にお兄ちゃんに見てもらおうってワクワクしながら寝たんだ。……だから、つい」
 チナは治まり悪そうに、言葉の最後を言い淀む。
「鍵のかかった通用門を前にして、一人で試したんだな」
「……うん」
「それで、お前のイメージした通りになったか?」
「うん! 寝る前に想像した通りになった! 体の奥の熱に『土になれ』って念じたら、金属の鍵があっという間に、ボロボロ崩れていったんだよ!」
 チナはこの質問には一転、キラキラと目を輝かせて答えた。
 ……恐れ入った。チナは一夜にして、……それも、実際の訓練ではなくイメージトレーニングによって新魔創生を体得してしまったのだ。
 金属を土に。そして、土を金属に――。
 もちろん、金属を土に変えるのとは異なり、土を金属に変えるにはさらに精緻な魔力制御を加える必要はある。しかしチナならば、それもじきに可能とするだろう。
 彼女は新魔創生による錬金術を可能にしたのだ。
「ぅううっ。ごめんなさい、怒らないで……」
 黙りこくってしまった俺に、チナはすっかり委縮して再び謝罪を口にした。
「チナ、俺は怒っていない。ただ、今回は魔力暴走も起こらずいい結果になったが、毎回ことが上手く運ぶとは限らない。俺はチナが怪我をしたり、危ない目にあったりするのが心配だったんだ」
「お兄ちゃん……!」
「ただし、次からは約束通り俺と一緒に練習だ」
「うん!」
 俺はチナの頭をワシャワシャと撫で、彼女の手から荷物を取り上げて左肩に引っかけた。そうして空いた右腕でヒョイッとチナを抱き上げた。
「えっ?」
「正直、教会に戻らずに済んだのは助かった。ひとりでこの大荷物を抱えてくるのは大変だっただろう、こうしていろ」
「うんっ!」
 パチパチと目を瞬かせていたチナは、俺の言葉に上機嫌で頷いてキュッと肩に縋った。
「あら。いいわね」
 隣で見ていたセリシアが微笑んで目を細くした。
「へへっ、いいでしょう」
「チナツちゃん、改めて私も二人と一緒に旅をさせてもらうことになったの。これから、どうぞよろしくね」
「セリシアお姉ちゃんなら大歓迎よ!」
 仲良さそうに笑い合う二人はまるで本当の姉妹のようで、俺の頬も自然と緩んだ。
「……あ、でもお兄ちゃんのことは狙っちゃ駄目よ」
 チナがポツリと零した台詞に、疑問符が浮かぶ。セリシアも、小さく首を傾げていた。
「お兄ちゃんは、私のなの!」
 チナが続けた子供特有の独占欲が滲む台詞に、俺は思わず噴き出した。
「お兄ちゃんってば、どうして笑うの!?」
「すまんすまん」
 不満げに頬を膨らませるチナがなんとも可愛らしく、謝罪を口にしながらも、油断すれば笑みが零れそうになる。
「あー! お兄ちゃんってば、まだ笑ってる!」
 チナの指摘にドクンと鼓動が跳ねる。
「お口がヒクヒクしてるもん! もう、お兄ちゃんなんて知らないっ!」
 彼女の鋭い観察力にぐうの音も出ない。
「チナ、この通りだ。俺が悪かった。だから機嫌を直せ」
 ふくれっ面でそっぽを向いてしまったチナを宥めるのに必死の俺は、俺たちを見つめるセリシアの表情がほんの少し強張っていたことも、その目が僅に翳りを帯びていたことも気づかなかった。
 こうして俺たちは各々の思いを胸に、グルンガの街を後にした。
 グルンガの街を出て辿り着いた隣町で、ふと思い立ってセリシアに尋ねる。
「乗馬はできるか?」
 人の口に戸は立てられない。彼女の能力が吹聴されて広まる前に、できるだけグルンガから離れたかった。チナと二人なら乗合馬車の移動でもよかったが、三人での移動はなにかと目立つ。
 馬車でも悪くはないが、乗馬の方が小回りが利く。セリシアが馬に乗れれば、ここからは馬で移動するのがいいかもしれん。
「はい。教会に引き取られる前、両親と暮らしていた頃は家で馬を飼っていましたから」
 俺の問いかけにセリシアが即答する。
「そうか。では、ここからは馬で……ん?」
 袖を引かれて見れば、チナが所在なさげに見上げていた。
 その目には薄く涙の膜が滲んでいた。
「どうした、チナ?」
 驚いて尋ねると、チナは顔をクシャクシャにして口を開いた。
「私、馬に乗ったことがないの。だけど、これから頑張って覚えるから……! だから、置いていかないで!」
 チナがしゃくりあげながら告げる。彼女の不安や心細さが痛いくらい伝わってきて、胸が苦しくなった。俺はしゃがみ込むと、チナと目線を合わせて告げる。
「馬鹿なことを。俺がお前を置いていくはずないだろう?」
「本当!?」
「ああ、本当だ。もとよりチナをひとりで乗せる気などない、相乗りするつもりだった」
「よかったぁ!!」
 チナは、まだ五歳というのを忘れそうになるくらい賢く、言動もしっかりしている。しかし今、俺の肩にしがみ付いて安堵の表情を浮かべる彼女は年相応に幼げで、守るべき存在なのだと再認識させられる。
 チナを抱き上げるのと逆の左手で、細い背中をあやすようにトントンと撫でた。
 俺たちはその足で厩舎を抱える町人を訪ね、さっそく馬を二頭譲り受けた。
 セリシアの旅装も全て買い揃え、この晩の宿を取った。
 客室はふた部屋取って、ひと部屋をセリシアが、もうひと部屋をこれまで通り俺とチナが二人で使うことになった。
「次の行き先はもう決まっているのですか?」
 食堂で夕食を取りながら、セリシアが尋ねてきた。
「とりあえず、ギルドのある街に行きたい」
 グルンガの街にギルドはなかった。ギルドは、次元獣の出現情報の提供、就労斡旋から次元獣の素材の買取、装具の販売まで一挙にこなす冒険者や守備隊員の活動拠点だ。
 当然、次元獣が現れない場所にギルドはない。
「なるほど。グルンガとその隣接領にギルドはありませんから、少し足を伸ばさなければなりませんね」
「なぁセリシア、君はどうしてグルンガにギルドがないか分かるか?」
「ええっと、ギルドの利用者は冒険者や守備隊員です。次元獣が出ない場所に冒険者や守備隊といった方たちは来ませんから、ギルドを置く必要性がないのだと思います」
「では、なぜグルンガに次元獣が現れないと言い切れる? 次元獣はその名の通り、次元を割ってどこからだって現れるはずだろう?」
 この質問に、セリシアは目を見開いた。
「たしかにそう言われると……」
 セリシアは俯き加減になって考え込んでいたが、ふいになにかを思い出したように目線を上げた。
「おそらく、私は魔導士たちの会話を聞いて、無意識のうちに知っていたんだと思います。教会がこの街の守りとなっていることを……。もちろん、当時は次元獣から守られているとは思ってもみませんでしたが」
「魔導士らは、なんと言っていた?」
「彼らはよく『この地は我らのおかげで脅かされることなく平穏な日々を過ごせている』とこんなことを話していました。そして、ふたつ隣の町が寄付金の打ち切りを伝えてきた時には『我らを蔑ろにするから加護を失くすのだ。これからあの地は苦しむことになる』とこんなふうに。……思い返すと、その町は翌年、次元獣が現れて甚大な被害を被っています」
「……『加護』か。俺はここまで要所要所で幾度かこの単語を耳にしてきた。教会はこの『加護』というのを用い、次元獣の襲来場所のコントロールが可能なのだろう」
 セリシアとチナは困惑した様子で顔を見合わせた。
「けれど、どうして教会が……? 決して庶民の味方とは言えませんが、グルンガ地方教会でいえば聖女の派遣をしていますし、他の教会も災害などの有事には魔導士を派遣して早期収束に務めています。人々の暮らしを守る立場の教会が、なぜ次元獣の襲来場所に関与など……」
「セリシア、これはまだ俺の想像の域を出ない。だが、教会は次元獣の襲来場所に関与しているのではなく、次元獣の襲来そのものに関与しているのではないかと考えている。もっと言うと、教会は何某かの意図を持って次元獣に人を襲わせている」
「そんな!?」
「……いや、教会と一括りにするのは正しくない。セリシアの言うように、日々魔力の研究と研鑽に励み、災害時の救済や支援を率先して行う魔導士がいるのも事実だ。教会に所属していた俺の両親も、そんな善良な魔導士だった。……だが、ふたりは教会が秘しておきたい重大な秘密に気づき、葬られてしまった」
 俺の告白を受けて、セリシアとチナの顔つきが引きしまる。
 眉間にクッキリと皺を寄せ、チナが震える唇を開く。
「お兄ちゃんの両親にそんなひどいことをしたのは、教会の悪い人なの?」
 俺が生前の両親について知る唯一の手掛かりは、ふたりが残した日記。
 この日記には、ふたりが赤ん坊の俺を連れて父の故郷に移った日から亡くなる前の日まで、一日も空くことなくその日行った魔力実験の内容や俺の様子などが事細かに綴られている。
「間違いなく、実行したのは教会内部の人間だ。俺の両親は実験中に魔力を暴走させ、次元の狭間に落ちて死んだ。要は魔力実験の失敗による事故死だ。……だが、これは事実ではない」
 二人が残した日記を見れば、生前の両親の慎重で思慮深い人柄がよく分かる。実際、二人は小規模な魔力暴走を端から想定していた。周囲への被害を考えてわざわざ実験用の小屋まで建てる念の入れようで、実験はその小屋でのみ慎重に順を踏みながら行われた。
 そうして実験中に幾度か小規模な魔力暴走を起こしているが、その都度、二人は適正に対処していた。
 そんな二人が、手に余るほどの魔力実験をそもそも行うはずがないと、俺は確信していた。
「魔力暴走を装って、両親は口封じをされたのだ」
 同時に、祖父母が俺に両親の死について「次元獣に殺された」と伝えていた理由について、今は一定の理解をしていた。
 日記の存在を知り、二人の死の真相を追及する俺に、祖父は「こうなることが怖かった。お前まで失いたくなかったのだ」と、こう口にした。
 祖父母はおぼろながら両親の死に教会が関わっていることに気付いていたのだろう。そうして最弱のセイスの俺が復讐に走ることを危惧し、真実を秘したのだ。
 だが、今となってはその心配こそが杞憂だ。新魔創生を手にした俺が、教会の悪しき勢力なんぞに負けるものか――。
「魔力暴走を装って二人の魔導士を次元の狭間に……。そんなことができるのは、教会でも相当な実力者だけ。大魔導士、もしくは上級魔導士か。かなり、限られてくるのではありませんか?」
「その通りだ。おそらく、これを命じたのは聖魔法教会の長である教祖だ」
「教祖様が直々に動くというのはただごとではありません。セイさんのご両親が知った教会の秘密とは、いったいなんだったのですか?」
 一拍の間を置いて、俺はゆっくりと口を開いた。
「両親は"新魔創生"と呼んでいた」
「新魔創生?」
 耳慣れない単語に、セリシアとチナが首を捻りながらたどたどしく反復する。
「複数の魔力を掛け合わせ、既存の六属性とは別の新たな魔力を生み出すことだ。俺の次元操作、チナの錬金術、そしてセリシアの再生快癒は全てこれに相当する。この新魔力の存在こそ、聖魔法教会が世に伏せておきたいタブーなのだ」
「けれど、より大きな魔力を得ることは、次元獣などの被害抑制にも繋がる慶事ではありませんか? どうしてこれが、秘しておきたいタブーなのでしょう」
「うん! わたしもお兄ちゃんの次元操作で次元獣から助けてもらったもの! みんなのためになる力だわ!」
「社会全体でみれば、たしかに有益となろう。だが、国内外に最強の魔力保有を謳い、階級ピラミッドの頂点で胡坐をかくウノの教会幹部たちはそうとは捉えなかった」
 俺の言葉で二人はピンときたようだった。
「これが明るみなれば、単一属性のウノをピラミッドの頂点とする階級社会が覆る。しかも、教会の有する特権が脆くも崩れるだけでなく、最下層と蔑んできたセイスが最強の力を有するのだ。教会としては、この秘密を知った両親をなんとしても葬り去る必要があったのだろう」
「……そんなの、ひどすぎる」
 目に涙を溜め、唇を噛みしめるチナの頭をポンポンッと撫でて慰める。
「セイさんは、どのようにこの事実を知ったのですか?」
「両親が残した日記からだ。両親は共にトレスだったが、たまたまふたりで六属性が揃う組み合わせだった。死亡の前夜に父の筆で綴られた【明日、再び六属性の新魔創生に挑む。大分感覚は掴めてきている。きっと明日こそ成功する――】という一文が、日記の最後だった。新魔創生の実証実験の成功を確信しながらも、両親は万が一の事態もまた想定していたのかもしれない。彼らの日記は、単なる日常の記録というには不可解なほど詳細だった」
「下働きとして長く教会にいましたから、私も魔導士たちのある種異様なほどの特権意識はよく知っています。彼らの特権意識は凄まじく、そして、それを侵されることにはひどく敏感です。彼らなら、やりかねない。……いえ、彼らは間違いなくやったのでしょう。けれど、魔力によって民草の生活をよりよく導くのが、本来の教会の在り様です。これでは教会の存在意義とはなんなのでしょう」
 セリシアは膝上で拳を握りしめて、やるせなさを滲ませる。
「……ねぇお兄ちゃん、わたし、なんだがスッキリした」
 俯いていたチナが、顔をあげてこんな台詞を口にした。
「孤児院ではずっと、先生たちから『教会のおかげで私たちの生活が成り立っている。教会への感謝を忘れるな』って言われてきたの。だけど、たまに視察にやって来る教会の人たちは態度も横柄で怖かった。孤児院がいっとう大切に預かっていたウノの子も、シンコのわたしを特にバカにしていじわるばかりしてきた」
 チナは真っ直ぐに俺を見つめ、更に言葉を続ける。
「そんな教会っていらないよね!? 偉ぶって、肝心の魔力だって貧しい人たちには出し渋って。その上、ずっと見下してきた属性数を多く持つ人たちがもっと強い魔力を使えるとなったらそれを隠して。……そんな教会、わたしはいらない!」
 チナの率直な物言いに、思わず目を瞠る。
 ……なるほど。教会がいらない、か。
 俺はこれまで両親の仇を取ることを目標にしており、その達成後について具体的に考えたことはなかったが……。
 たしかに、腐敗しきった今の教会組織はチナの言うように失くしてしまってもいいのかもしれん。そうして、真に社会のためを思い、魔力の研鑽と研究に励む魔導士らによる新しい組織として作り直す――。
「チナ、やはりお前は賢い」
「え?」
「未来の展望は明るいぞ」
「わわわっ!?」
 水色の髪をワシャワシャとかき混ぜながら白い歯をこぼす俺を、チナはもちろんセリシアも不思議そうに見つめていた。
 ここで一旦会話は途切れ、俺たちは少し冷めてしまった夕食を口に運んだ。
「あの、ひとつお伝えしておきたいことが」
 粗方食べ終えたタイミングで、思い出したようにセリシアが声をあげた。
「教会の中にもまた、階級のピラミッドは存在します。教会の頂点にいるのは、ご存知の通り教祖様です。しかし、教祖様の上にもっと強力な権力者が存在するのかもしれません」
「もしかして、それは『デラ様』か?」
「ご存知なのですか!?」
「いや、分かっているのは名前だけだ。それが何者かは分らん。もし、君がデラについて知っているなら教えてほしい」
 加護と同様に、デラについても、両親の日記に記載はなかった。
 教会所属とはいえ、両親は下級魔導士だ。それらについて知る立場になかったのか。あるいは、当時はまだ加護もデラも存在しなかったのか。幾度となく考えを巡らせてきたが、いまだ答えには行き着けていない。
「いえ、私も子細については分からないのです。ただ、イライザ様のことを聖女様とお呼びするようになったのは、イライザ様が治癒の力を備えてからのことで、比較的最近のことなんです」
「それについては夕食に招かれた時に、イライザ本人から治癒の力は生まれつきのものではないと聞いている」
「そうでしたか。シンコの私は下働き、イライザ様は魔導士候補と立場は違いましたが、共に両親を亡くし同時期にグルンガ地方教会に引き取られました。当時のイライザ様は私にも親切で、身の回りの品を何も持たない私に自身のリボンを譲ってくれたこともあったんです……。ただ、治癒に関しては今のような力はなく光属性の魔力を注ぎ回復力の促進を図るのがせいぜいでした。ところが十五歳になったばかりのある日、教会長と共にオルベルの聖魔法教会を訪問したイライザ様は、現在の治癒の力を備えて帰ってきました。この時からイライザ様は、別人のように変わりました」
 俺は、イライザがセリシアに暴力を揮っているのを実際に目にしている。そのイライザが『親切だった』というのは、にわかには信じられなかった。
「意外ですよね。ですが実際に、それまでイライザ様はウノである事実を誇りにはしていましたが、特権意識はさほどお強くなかったのです。少なくとも、シンコを理由に私を蔑むようなことはありませんでした。それが、オルベルの聖魔法教会から戻って以降は事ある毎に私がシンコという事実を嘲笑するようになりました」
「イライザがオルベルの聖魔法教会で『デラ』から祝福を受け、治癒の力を授かったことで特権意識に目覚めたのは間違いないな。……だが、見方を変えればデラ一味としても強大な力を授けることはリスクだ。だから、勝手な使い方をされぬよう、徹底した意識改革を施したと考えるのが妥当だろう」
「ふーん。でも、あの聖女様、高笑いでセリシアお姉ちゃんを叩いていたよ?」
「……まぁ、そうだな。教会の意識改革に加え、彼女がもともと苛烈な性質を持ち合わせていたのは否定できんな」
 チナの率直かつ的確な指摘に、反論の余地なく頷く。
「よし、明日も早い。そろそろ休むとするか」
 こうして、この日は夕食を終えるとそれぞれ客間に戻り、明日に備えて早々に床についた。

 宿を発って一週間が経った。
 移動手段に馬を用いたことで、俺たちの進行スピードは各段に速まっていた。
 しかし、噂話というのもまた馬脚にも劣らぬ速度で広まっていくことを、俺は驚きを持って体感していた。
「どこもセリシアお姉ちゃんの話題で持ちきりね」
 チナも、道行く先々から聞こえてくる真の聖女に関する話題に驚きを隠せない様子で、手綱を握る俺の両腕の間から呟く。
「ええ、まさか私の姿絵まで出回っているなんて。……正直、少し恐ろしさも感じてしまいます」
 並走するセリシアは戸惑い混じりに答えた。
「富権力に関わらず、民草を無償で癒した。このインパクトは、どうやら俺たちが考える以上に大きかったようだ」
 ひとまずギルドのある大きな町を目指していた俺たちだったが、予想外に知れ渡った真の聖女の噂によって迂回を余儀なくされていた。セリシアの再生快癒の奇跡を求め、多くの人がやって来たためだ。
 実は、宿を出発した直後に、セリシアはひとりの赤ん坊に再生快癒を施している。俺たちの足取りを追い、真っ先に助けを求めてきただけあって症状が重篤だったこともあり、その場で母親の腕に抱かれた赤ん坊を治療した。
 すると、目にした人々がほんの小さな切り傷や風邪症状の治療を求めて列成してしまったのだ。
 それ以降、俺たちはできる限り人の往来を避けて進み、夜も宿への宿泊をせずに野宿で過ごしていた。道中にふたつあったギルドを有する町にも立ち寄らず、今に至る。
 蛇足だが一週間の移動中、二回ほど次元獣と遭遇したが、どちらも小型だったため難無く討伐を果たしている。別次元に収納しているため急ぎではないが、こちらもギルドに行き次第換金しておきたかった。
「……そのようです。この調子だと隣町のギルドにも立ち寄るのは難しそうですね。……すみません」
 先ほども、街外れで農夫らが畑仕事をしながら真の聖女についてああでもない、こうでもないと話しているのを耳にしたばかり。
 セリシアの言うように、次のギルドも避けるのが無難だろう。
 ちなみに、現在、俺たちがいるのは地方有数の大都市・ウェールの街の外れ。ウェール領主の直轄地でもあるこの街は、王都オルベルに肩を並べるほど栄えている。そうしてウェール家といえば数代前には王家の姫も降嫁し、オルベルにも名を馳せる名門中の名門でもある。
 ただし、この街が近隣の町村と比べて突出して豊かなのは、次元獣の襲来がないことも理由のひとつなのだと、今の俺は認識していた。事実、ウェールの街から西に進んだ先にある隣町は、町民一丸となって綿栽培から機織りまでを行う織物の町として有名な町だが、度重なる次元獣出現への対策・守備隊の雇用などで財政は破綻寸前なのだという。
「なに、セリシアが謝ることはない。織物の町でなくとも、全土にギルドはある。また次に進めばいいだけのことだ。むしろ、君の力がそれだけ得難い力だということだ、誇っていい」
「セイさん……」
 セリシアは感じ入ったように目を細め、馬上の俺を横から見つめていた。
「さて、そうと決まれば進路を少し南に変えるぞ。たしか、西南に進んだ先にもギルドを有する町があったはずだ」
 緩めていた馬脚を上げようと、手綱を引こうとしたその時――。
「もし! お待ちくださいませ!!」
 背ろから制止の声をかけられた。
 振り返ると、揃いの隊服に身を包んだ騎馬の一個隊が列を成していた。
「何用だ?」
 俺の誰何に隊列の中央でリーダーと思しき男が無駄のない所作で馬から下り、俺の……いや、俺の隣のセリシアの前まで進み出た。
「突然のご無礼をお許しください。私はウェール領主付きの護衛部隊長・カエサルと申します。この度は、我が主の願いを聞き入れていただきたく、参った次第です。そちらにおわすのは、奇跡の治癒能力を持ち、真の聖女と謳われるセリシア様とお見受けいたします。どうか不治の病に苦しむ領主様の末のご子息をお助けくださいませ! 薬師らに匙を投げられ、この上は聖女様だけが頼りでございます! なにとぞ、お願いいたします!」
 カエサルはセリシアに向かい、頭を下げて懇願した。
「……不治の病?」
「左様でございます! 七歳の末のご子息・マーリン様は生まれつき心臓の機能が弱く、成長と共に症状は悪化の一途を辿っております。薬師にはもういくらも生きられないだろうと言われております。しかし、マーリン様はこの瞬間も生きようと必死なのです。ご自身が切れ切れの苦しい呼吸を繰り返しているというのに、枕辺で泣き明かす両親を、逆に『大丈夫だ』と力づけておられます」
 セリシアがカエサルの語った一語に反応し反復すれば、彼はさらに言葉を重ねた。
 馬上のセリシアが、手綱を握る拳をギュッと握り締める。そうしてセリシアは、ゆっくりと隣の俺に首を巡らせた。
 セリシアと俺の目線がぶつかる。
「セイさん……」
 その眼差しの強さに、俺は彼女がみなまで言う前に大きく頷いた。
「領主の屋敷に立ち寄っていこう」
「ありがとうございます! ……カエサルさん、領主様のお屋敷に案内してください」
 セリシアは俺に感謝を告げ、カエサルに向き直った。
「おお!! 領主様もお喜びになります! 聖女様、ありがとう存じます」
「あの、私のことはセリシアとお呼びください。それから、注目を集めるのは避けたく、お屋敷までできるだけ人目に付かずに移動をしたいのですが」
「承知いたしました、セリシア様。屋敷は敷地南にある果樹園と庭で繋がっております、そちらからまいりましょう。こちらでございます」
 カエサルは素早く馬に跨り、俺たちの一歩前へと進み出る。
「ねぇねぇ隊長さん、領主様のお屋敷には大きなお風呂、ある?」
「はい! ここウェール領には源泉が湧いており、屋敷には専用の温泉と温水プールがございます。皆さまで使っていただけるよう、主に伝えましょう」
 チナが馬上から聞けば、カエサルが答えた。
「本当!? やったぁ!」
 俺たちは行き先を領主の屋敷に変更し、先導するカエサルに続いた。
 ……ほう、古い時代の監視塔か。
 前方に仰ぎ見る領主の屋敷は重厚な石造りで、ひと目でかなりの年代物としれた。しかも屋敷の裏手には、これまたかなり年季が入った監視塔まで残っていた。
「今の時代に監視塔を残したままにしているとは珍しい」
 十五年前に国家主導で領境を明確に定め、登記を行って領地とそこからの税収管理をするようになってから、近隣領との小競り合いは劇的に減った。それに伴い、近隣領の監視を目的にした通称監視塔は不要となり、取り壊す領がほとんどだった。
「……あ、いや。そうですね、たしかに少し珍しいかもしれませんね……」
 なぜかカエサルは、物凄く歯切れ悪く答えた。
「さ、さぁ! こちらからお入りくださいませ!」
 そうして柵で囲われた果樹園の入り口に差し掛かったのをこれ幸いというように、俺たちを中へ招き入れた。
 カエサルの挙動を若干訝しみながらも、この時はさほど気にせず案内されるまま果樹園を進んでいった。
 果樹の間を突っ切って屋敷の庭に出れば、玄関は目前だった。
 先導していたカエサルは玄関に立つふたつの人影を認めるや、驚きの声をあげた。
「あ、あちらにおられるのが領主ご夫妻でございます」
 通常、領主夫妻が自ら玄関先に立って客人を出迎えることは稀だ。そのことからも、セリシアに対する期待の大きさが窺えた。
「おお、あなたが聖女様ですな! 姿絵で拝見したとおり、なんとも神秘的な佇まいでいらっしゃる!」
 姿絵などで事前に情報を得ていた領主は、手放しでセリシアを誉めそやした。
「本当に、シンコというのが信じられないほどお美しくて……いえ。聖女様は本来、ウノとして生まれるべきところ、神様の手違いでシンコとして生まれついてしまったというだけね。天はちゃんと見ていて、本来のあなたに相応しい力を開花させたのだわ!」
「そうだな! 儂も聖女様がシンコと聞いた時は大層驚きましたが、聖女様だけは既存の物差しでは測ってはならんのだ。属性すら凌駕した稀有な存在であられる!」
「え……」
 興奮気味にまくし立てる夫妻の勢いに、セリシアはすっかり押されてしまっていた。
「あら、あなた。いつまでも聖女様を玄関に立たせていては失礼ですわ。まずは応接間にてウェルカムティーでひと息ついていただきませんと」
「おぉおぉ、そうじゃったな! ささっ、聖女様。どうぞお入りくださいませ。詳しい話は、そちらで」
 ……治療を乞う立場でありながら姦しくまくし立て、人の話をまったく聞かぬ唯我独尊の様は、まさに高位貴族といったところか。俺はやれやれと若干の呆れを滲ませて夫婦を見つめていた。
 その時、セリシアの後ろに続く俺とチナに、はじめて領主が目を向けた。どうやら領主は、興奮のあまりここまで俺たちの存在に気づいていなかったらしい。
「ん? その者らは……」
 胡乱気に俺の頭から舐めるように見下ろしていき、左手の甲に目を留めた瞬間、領主はビクリと肩を跳ねさせて叫んだ。
「っ!! そなた、下賤なセイスか!! 連れの小娘もシンコではないか……! なぜセイスがここにいる!? セイスの分際で儂の敷居を跨ごうなど――」
「お待ちください! こちらのセイさんとチナツちゃんは私の連れで、恩人でもあります! このふたりが屋敷に上がることを許されないのなら、私もお屋敷に上がることはできません」
「な、なんと……セイスのこの者が恩人と? それは、正気でおっしゃっているのですか……」
「もちろん正気です! 重ねてになりますが、ふたりに退去を求めるのなら、私もこの場を去らせていただきます」
 凛と背筋を伸ばし、一歩も譲らずに言い放つセリシアに、領主は引き結んだ口の端をヒクヒクと震わせながらも即座に頭を下げた。
「と、とんでもない。聖女様の恩人とは露知らず、ご無礼をお許しください。もちろん、皆様ご一緒にお入りいただいてかまいません。ですので、なにとぞ聖女様には息子の治療をお願いしたく」
 ……ほう。頭でっかちのウノの高位貴族が、息子の治療のためとはいえ俺たちに頭を下げたか。
 領主の頭頂部を見るともなしに眺めながら、ふと横に立ったカエサルがひどく落ち着かない様子で俺たちを交互に見ているのに気づき、少し不思議に思った。
 ……領主の行動に罪悪感でも覚えているのだろうか。護衛部隊の隊長というだけでこの家の者でもないのに、随分と義理堅いことだ。
「領主様、頭を上げてください。もちろん、息子さんの治療もさせていただきます」
「ありがとうございます!」
「それから、どうか私のことはセリシアとお呼びください」
「承知いたしました、セリシア様。で、ではどうぞ皆様、お入りくださいませ」
 ひと悶着あったものの、俺とチナもセリシアに続いて屋敷に上がる。
 その際、カエサルが俺の耳もとで「父が大変失礼を申しました」と低く謝罪を口にした。
 ……父? なにかの聞き間違えか?
 先ほどの失態を取り戻そうとでもするようにセリシアの左右を固め、歓待するのに必死の領主夫妻は、後ろの俺たちなど気にも留めていなかった。
 そんな領主夫妻を余所に、カエサルは聞き間違いかと訝しむ俺に苦笑して、ウェール領主一家の秘密をそっと打ち明けた。


 セリシアは領主夫妻が勧めるウェルカムティーを断り、真っ直ぐに子息の元へと向かった。
 そうして明るい陽光が注ぐ広い子供部屋で、セリシアは子息の枕辺に立ってスッと手のひらを翳す。
 ――フワァアアアアッッ!
 眩いほどの光の渦が、寝台の上で苦しげな呼吸を繰り返す少年をふうわりと包み込む。
 すると、見る間に少年の呼吸が落ち着き、青褪めた頬にも血色が戻る。
「おお……! ずっと寝台に伏したままであったマーリンが起き上がったぞ!! ……これは、まさに奇跡だ!!」
 セリシアの再生快癒に、歓声が沸き上がった。
「……あれ、僕、どうしたんだっけ。……え、お父様? 泣いているの?」
 自ら身を起こしたマーリン本人は、状況に理解が追いつかない様子できょとんと首を傾げる。子供らしい声には張りが戻り、その表情にも苦痛の色は見あたらない。
 大きな出窓から差し込む陽光に消えかかった光の粒子がキラキラと反射して、まるで室内は夢の中にでもいるかのように幻想的だった。
「マーリン!!」
 父である領主はマーリンを胸に抱き、男泣きしていた。
 母親の領主夫人も目に涙を滲ませて、夫の腕の中から困惑気味に周囲を見渡すマーリンに愛おしそうに頬を寄せる。さらに寝台から一歩分距離を置いた俺の脇では、カエサルが感じ入った様子でその様子を見つめていた。
「え? 母様に兄様まで、どうしちゃったの?」
 マーリンは母親とカエサルを順に眺め、戸惑いの滲む声をあげた。
 ちなみに、なぜマーリンがカエサルに対し『兄様』と呼び掛けたのか――。それはカエサルが領主の長男で、マーリンの実の兄だからだ。
 いくら隊長とはいえ家臣でありながら俺たちと共に子供部屋に入室しようとするカエサルの行動を訝しむ俺に、彼自身が明かした。
 彼は家臣に甘んじるこの状況について子細こそ語らなかったが、たったひと言「自分はドスですから」と寂しげに補足したのが印象的だった。
 重ねてになるが、ウェールは地方領ではあるものの王家からの覚えも目出度く、広大な領は土地が豊かで、古くからヴィルファイド王国の穀倉庫との異名でも呼ばれている。そんな名門ゆえ、代々の領主は皆ウノの者が務めている。
 カエサルがドスであることを理由に後継者を辞退して、護衛部隊員を志願したであろうことは瞭然だった。
 個々の家庭の事情に口を出すつもりなど更々ない。しかしウノ至上主義の階級社会に対し、無意識のうちに喉元に苦いものが込み上がってしまうのは、俺自身セイスを理由にこれまで辛酸をなめ尽くしてきたからに違いない。
「あぁ、よかったわマーリン。あなたったら、見違えたように元気になって」
「本当だ! 僕、もう胸が苦しくないよ!」
 マーリンは母親に告げられて初めて気付いたように、目を丸くして心臓に手をあてた。
「よかったなマーリン、ここにいるセリシア様がお前を治してくださったんだ」
 カエサルがセリシアを示せば、マーリンは枕辺に立つ彼女を見上げてパチパチと目を瞬いた。
「あなたが僕を治してくれたの?」
「ええ。マーリン様が元気になってよかったわ」
「そっか、どうもありがとう!」
「どういたしまして」
 ここで領主は抱擁を解くと、セリシアに向き直って深々と頭を下げた。
「セリシア殿、本当になんとお礼を申し上げたらよいか。息子共々、心より感謝申し上げます。また此度の謝礼につきましては侍従に申し伝え、客間の方に運ばせて――」
「い、いえ。治療に対して金品の一切は不要です。領主様のお気持ちだけ、頂戴させていただきます」
「そんな。どの薬師にも匙を投げられ、儚くなるのを待つしかなかったマーリンを治していただいたのです。なんの礼もせずにお返しするなど、それこそ私どもの気が済みません!」
「……でしたら、今宵ひと晩の宿泊をお願いしてもよろしいですか? それから、領主様が屋敷内に造らせたという温泉を使わせていただけたら嬉しいです」
 セリシアは領主の勢いにたじたじになりながらも、ふと思い出したように先ほどチナが口にしていた要望を伝えた。
「そんなのはお安い御用です! 客間を用意しますので、温泉も皆様方で自由にお使いください」
「えー、いいなぁ。僕も一緒に入りたいたいよ」
 すっかり回復したマーリンは、無邪気に訴えた。
「これマーリン! 恩人のセリシア殿に無礼を言うんじゃない!」
 領主が息子を窘めるのを、セリシアがそっと制す。
「いえ。よかったらマーリン様も一緒に入りましょう。みんなで入った方が絶対に楽しいわ」
「やったぁ! ありがとう、……ええっと、セリシアお姉ちゃん!」
「まぁっ、ふふっ。マーリン様に『お姉ちゃん』と呼んでいただけるなんて光栄です」
 マーリンはセリシアに満面の笑みを向ける。
「ちょっとちょっと! セリシアお姉ちゃんのことは『お姉ちゃん』って呼んでもいいけど、お兄ちゃんのことは『お兄ちゃん』って呼んじゃダメなんだからね!」
「え?」
 突然のチナの言葉にマーリンは、ポカンとした顔をしていた。
「こら、チナ」
 俺が苦笑してチナの頭をクシャクシャと撫でれば、チナは見せ付けるようにその腕にキュッと抱きつく。子供らしい独占欲を前面にするチナに対し、同席していた領主夫妻が不服の声をあげることはなかった。
 ふたりの関心はチナの小さな無礼よりなにより、病床に伏していたのが嘘のように精気溢れるマーリンただひとりに注がれているようだった。ただし、それは領主夫妻に限ったことではなく、子供部屋に集った皆の顔に微笑みが浮かんでいた。マーリンだけは、いまだ「よく分からない」という顔をしていたが。
 俺たちは、カエサルの案内で客間へ向かう廊下を進んでいた。
 堅牢な石組みの建築は決して華美ではないが、なんともいえぬ趣があった。言うなれば、それは先祖代々繋いできた歴史の重みということになるのだろう。
 代々この領と領主館を守り繋いできた古人の息吹が感じられるようだった。
「この屋敷は随分と古い時代の物のようだな」
 俺は重厚な造りの廊下をぐるりと見回しながら、カエサルに水を向けた。
「ええ。増改築を繰り返しておりますが、屋敷の基幹の部分は千年も前に建造されているそうです。古くからある部分は水回りなどで不便な点も多いのですが、それもまたこの家の歴史と思いうまく付き合っております。……あ、皆様にお入りいただく温泉についてはご安心ください! あれは祖父の代に造ったものですので、状態もよく使い勝手もよくなっております」
「ははは、それはありがたいな。……ところで、先ほど果樹園から見た監視塔。あれも千年とはいかないまでもかなり古いのだろう? 素人の俺が言うのは心苦しいのだが、若干傾斜しているようにも見えた。あれは取り壊しておいた方が安全かもしれん。今はもう誰も使っていないのだろう?」
 俺が『監視塔』の一語を口にした瞬間、カエサルの表情が目に見えて強張ったのが分かった。
「先ほども思ったのだが、もしかしてあの監視塔にはなにかあるのか?」
「……セイ様、あなた方一行にだから打ち明けます。俺の話を聞いていただけますか」
 折よく、俺たちが一夜を過ごす客間の扉の前に到着したところだった。
「もちろんだ。続きは中で聞かせてもらおう」
 俺たちは客間の手前にある応接セットに腰を下ろした。俺を真ん中にして長ソファの左右にチナとセリシアが座り、小さな卓を挟んだ向かいのソファにはカエサルがひとりで座った。
「俺は先ほど、『この家の長男で、マーリンの兄だ』と言いましたね」
 カエサルは膝の上で緩く手を組んで、重く口を開いた。
「ああ。そうだったな」
「けれど、俺にはもうひとり『きょうだい』がいるのです。そして、その『きょうだい』――もうじき十六歳になる妹はあの監視塔でひとり家族や使用人たちからも隠れるように暮らしています」
 俺が予想外の切り出し方を怪訝に感じつつ同意すれば、カエサルはさらに衝撃的な事実を告げた。
 あの監視塔に人が暮らしているのか!? しかも、カエサルの妹ならば領主の姫君。古びれて傾きかけたあの塔で、うら若い姫君がひとりで暮らしているとは、到底信じられなかった。
「どうしてそんな事態になっている? ……率直に聞くが、それは本人の意思に反した監禁などではないのだろうな?」
「この決定をしたのは父ですが、妹のアルテミア自身、塔での暮らしを了承しています。それに、衣食をはじめ妹の身の回りは不足なく整えられていますので、一般的な意味での『監禁』には当たらないかと」
 カエサルは一旦言葉を区切ると、しばしの間を置いて再び唇を開いた。
「ですが、俺自身ドスを理由に後継者を辞退した身です。領主の娘でありながらシンコとして生まれたアルテミアは、両親が嘆き悲しみ、そして世間の目からなんとかしてその存在を隠そうと躍起になっている姿を幼少期から見てきています。父から『塔に移れ』と言われれてしまえば、あの子に反論の選択肢がないのは分かりきっています」
「お姫様はシンコなの!? じゃあ、私やセリシアお姉ちゃんと同じよ!」
 チナは、お姫様との共通点に喜びの声をあげた。
「セリシア様は尊き治癒の力を、チナツ様とてその年齢で凄腕の冒険者であるセイ様の右腕なのだと聞き及んでおります。市井でお力を発揮しておられるおふた方とアルテミアを同列には語れません。そもそも、アルテミアにはそのような力はございませんし……」
「えー? 同じシンコなのに……」
 カエサルの答えに、チナは分からないというようにコテンと首を傾げていた。しかし、俺にはカエサルの言わんとしていることがよく理解できた。
 カエサルが口にした『市井』という単語から始まる下り……。それは暗に『貴族社会では、事はそう簡単ではない』と示しているのだ。
 ウノを頂点とした階級ピラミッドは国内外に広く浸透しているが、貴族社会において一層顕著だ。ドスのカエサルですら後継者を辞退した状況からも分かるように、ヴィルファイド王国の上位貴族はほぼウノで占められており、ドス以下の者が貴族当主となれば社交界での嘲笑や冷遇は避けられない。
 そんな魔力数の階級至上が浸透しきった貴族社会にシンコとして生まれたアルテミアは、チナやセリシアの比ではない肩身の狭さであったろう。
 俺は納得いかない様子のチナの頭をポンポンッと撫でて慰めると、真っ直ぐにカエサルを見据えた。
「俺にそれを告げながら、君は『監禁ではない』という。ならば、俺に助けを求めるのもおかしな話。……君は、俺になにを望む?」
「実は、俺自身どうするのが正解なのか分からないのです。ただひとつ、アルテミアは『自分はシンコだから』と幼少期から全てを諦め、受け入れてきました。来月、十六歳の誕生日を迎えたら、あの子は四十も年の離れた下級貴族に後妻として嫁ぐことが決まっています。もちろん、アルテミア自身も了承した結婚話です。ですが、いくらまともな縁談がないからといって、父よりも年上の男に望んで嫁ぎたい娘がいるでしょうか」
 これには、幼いチナよりもセリシアが大きく反応した。声こそ出さなかったが、彼女は眉間に深く皺を刻み、堪えるように膝の上で両手をきつく握り締めた。
「アルテミアが望めば、俺は両親に破門されたっていい。なんとしたって、この縁談を破談にしてみせます。……ですが、俺が何度尋ねてもあの子は、決して心の内を明かしません。『私には若さしかないのだから、もらってくれる人がいるうちに』などと冗談混じりに笑っていますが、そんなのはこの家に残ることで将来領主を継ぐマーリンの負担になることを恐れての発言だと分かりきっています。なんとなくですが、あなた方にならアルテミアは心を開くのではないかと、そんな気がしています。現時点で俺が望むのは、あの子と腹を割って話をしてもらいたいと、この一点です。その上でアルテミアがどんな結論を下すのか、それはあの子次第です」
 真っ直ぐに俺を見返して、カエサルはこんなふうに締めくくった。
 ……正直な男だ。
「塔に鍵などは?」
 カエサルはこの質問に、首を横に振る。
「そうか。すぐに向かいたいところだが……」
「でも、領主様がお茶とお菓子を客間に運ばせるって言ってたよ!」
 チナがニコニコと訴える。その目は期待感にキラキラと輝いており、思わず苦笑が浮かぶ。
 とはいえ、たしかに俺たちが到着早々、客間を不在にしたとあっては大ごとになってしまうか……。
「急を要するものではありませんから、どうかまずはお茶で一服されてください。それに今はまだ日も高く、人目にもつきやすいですし」
「なるほど。では、夕刻あたりに折を見て訪ねてみよう。案内はいらん、場所は分かっているから俺たちだけで十分だ。あまり大人数で動いても、目立つだろうからな」
「お気遣い、感謝いたします」
 ――コンッ、コンッ。
 カエサルが俺たちに深々と頭を下げて席を立つのと同時に、扉が外から叩かれた。彼と入れ替わるように茶道具一式を手にした使用人たちが入室し、卓に香り立つ紅色の紅茶と溢れんばかりの菓子を並べはじめた。
 給仕を断った三人だけの茶会は、肩肘張らない楽しいものだった。
 俺たちは紅茶と多種多様な菓子に舌鼓を打ちながら、久しぶりに寛いだ時間を満喫した。
 そうして卓の上の皿が粗方空になり窓の外を一瞥した俺は、カップに残っていた最後のひと口を飲み干すと、カップをトンッとソーサーに置いた。
「さて、そろそろ行ってみるか」
「うん」
「はい」
 俺がスッと腰を浮かせれば、チナとセリシアも揃ってカップを置いて席を立った。

 アルテミアの居住スペースは、気が遠くなるくらい階段を上って辿り着いた塔の最上階のフロアが丸々あてられていた。カエサルの言葉通り古びてはいたが、年頃の娘が好みそうな調度で整えられていて、居心地はよさそうだった。元来監視を目的として建てられただけあって、円錐形の塔内360度ぐるりと等間隔に窓が設えられており、眼下の景色が一望できるのもよかった。もちろん、自ら望んでここで暮らしたいのかと聞かれれば、それはまったくの別問題だが。
 そして初対面したアルテミアは、何故か、俺たちの突然の訪問に驚かなかった。
「まるでわたしたちが来るのが分かっていたみたい!」
「そうよ。私は自由にここを出るわけにはいかないから、見下ろす景色が全て。あなたたちがやって来ることは、窓から見て知っていたもの」
 薄っすら微笑みを浮かべてこう口にするアルテミアは、流れるような銀の髪に新緑を思わせる鮮やかなグリーンの瞳が印象的な美しい少女だ。しかし、その美しさは大輪に咲き誇った花のようなそれではなく、蕾を思わせる楚々とした美しさ。初々しいこの少女が、来月には還暦も近い男の妻になる現実は、生理的に受け入れ難かった。
「この塔に家族と使用人以外の人が訪ねてきたのは初めてよ、嬉しいわ!」
 さらに、外部との接触を極限まで避けて過ごしてきたからか、高位貴族の姫君にしては言動が率直というか……やや優美さに欠く印象を受けた。
「改めてアルテミア姫、突然訪ねてきた無礼をお許しください。俺はセイ、冒険者を生業として次元獣を倒しながら各地を旅しています」
「わたしはチナツです」
「セリシアと申します」
「あら、だったらあなたたちは領の外のことをいっぱい知っているのね。よかったら、私に自由な外の世界のことを色々教えてくださいな。もちろん、あなたたち自身についても。……あ、私のことはアルテミアとだけ呼んでちょうだい。姫だなんて呼ばれると落ち着かなくていけないもの。それから、畏まった態度も不要よ。この塔内にあっては、まどろっこしいだけだもの」
 アルテミアに招き入れられ、俺たちはフロアの一角に設えられた毛足の長い絨毯が敷かれたスペースに直接腰を下ろした。
「ほぅ。東方の国ならいざしらず、この国でこんなふうに床に直接座って寛ぐというのは珍しいな」
「いいでしょう? 書物を読むことも、私の日々の慰めなのよ。東方の国の生活習慣について書かれた本を見て、いいなって思ったの。屋敷でやったらお行儀が悪いって批判されてしまいそうだけれど、ここは私だけのお城だもの。私がしたいように自由にするのよ」
 ……果たして、彼女は気づいているのだろうか。ここまでに、三度も『自由』という単語を口にしていることに。
「そうねぇ、まずはあなたたちがこれまで旅してきた場所とそこであった出来事を教えてちょうだい。ここに地図があるわ!」
 アルテミアが広げた大判の地図を四人で囲む。俺はこれまで旅してきた場所を指差して、その土地であったこと掻い摘んで説明していく。
 俺の話にアルテミアだけでなく、チナとセリシアも目を輝かせて聞き入った。
「――そうしてグルンガ地方教会を出て、ここに至るというわけだ」
「なんて素敵なのかしら。私も鳥のように大空を羽ばたいて、自由にいろんなところに行ってみたいわ」
 俺が地図を辿り、最後にトンッとウェール領を示したら、アルテミアは胸の前で両手を組んで窓の外に目線を向け、ホゥッと熱い吐息を零す。
「ならば、自由に行きたいところに行けばいい」
「え?」
「鳥のようにというのは無理かもしれん。だが、君は自分の足で行きたいところに行ける。さっき『見下ろす景色が全て』と言ったな? それは、君自身がそう錯覚してしまっているだけだ。君の世界は、この塔の外にだって無限に広がっている」
 俺の言葉が余程に予想外だったのか、アルテミアはパチパチと目を瞬いて俺を見つめていた。
「……不思議ね。あなたが言うと、まるで自分が自由なのだと、本当にそんなふうに思えてくるわ」
「おかしなことを。事実、君は自由だ」
 アルテミアは眩しい物でも見るように目を細くした。けれど次の瞬間には、スッと瞼を閉じてしまう。
 再び瞼を開けた時、彼女の瞳から先ほどまでの煌きはなくなっていた。諦めることに慣れてしまった、寂しい目だと思った。
「ねぇセイさん、あなたはひとつ根本的な部分を見落としている。私はシンコなのよ。シンコの私に自由などないわ」
 ゆっくりと開かれた唇から紡がれる台詞も、それを口にする能面のような彼女の表情も全てを諦観しているかのようだった。
 シンコだからと諦め、端から期待しないことで、アルテミアは十五年間心を守ってきたのだろう。それをポッと出て来た俺が、どんなに言ったところで彼女には響かない。
 そうして彼女が己の意志で考えを改めようとしない限り、虚構の檻に囚われたまま本当の意味での自由はない。
 ……さて、どうしたものか。
「どうして!? わたしとセリシアお姉ちゃんもシンコだし、お兄ちゃんはセイスよ。だけど、わたしたちは三人で自由に旅をしているよ?」
「今、セイさんが言っていたじゃない。チナツちゃんは錬金術を身に着けたって。セリシアさんは再生快癒、そしてセイさんは次元操作。なんの力も持たない私と、チナツちゃんたち三人を同列に語るのはおかしいわ」
「っ、そんなことない! アルテミアお姉ちゃんの馬鹿! 分からずや!」
 チナは叫ぶと、あろうことか小さな拳でポカポカとアルテミアの膝を叩きだす。
「お、おい! チナ、いい加減にしないか」
 チナのまさかの行動にギョッとして、慌てて小さな肩を掴んで止める。
「……いいえ、セイさん。叩くという行動はともかく、私も今回はチナツちゃんの言い分に賛成です」
 なっ!? セリシアからチナを擁護する声があがったことにも、驚きが隠せない。
「アルテミアさん、私も両親の死後は寄る辺もなく、ずっと『シンコだから仕方ないのだ』と自分に言い聞かせて堪え忍んできました。ですから、あなたの思いはよく分かります。けれど、私に言わせればそんなのは甘えです!」
「待ってちょうだい! 今のはさすがに聞き捨てならないわ。どうして初対面のあなたにそこまで言われなくてはならないの!?」
 ピシャリと言い放つセリシアに、アルテミアも憤慨を隠さなかった。塔内に半ば軟禁のような形で暮らしているとはいえ、そこは領主の姫。彼女に対し、こうも率直に物を言う者などいないのだろう。
「そんなの、アルテミアお姉ちゃんが分からないことばっかり言うからじゃない!」
「お黙りなさい!」
 輪になって火花を燃やす三人は、今にも取っ組み合いの喧嘩を始めそうな勢いだ。三人の様相にハラハラしながら、俺はこの場を穏便に取り持つべく声をあげる。
「おい、三人ともいい加減にしないか」
「「「セイさん(お兄ちゃん)は黙っていて!」」」
 まさか、三人はギロリと俺を睨みつけ、声を揃えた。
 良かれと思っての行動に返ってきた三人からの予想外の反応に、俺は衝撃で岩のように固まった。
 その間も三人は矢継ぎ早に言葉の応酬を続けていたが、動揺冷めやらぬ俺に内容の仔細まで把握する余裕はなかった。
「アルテミアさんの頑固者! あなたが分かってくださるまで、絶対に引きません。いつまでだってここにいて、何度だって繰り返します!」
「わたしも!」
「どうぞご自由に。幸い、ここはスペースだけは広くありますもの。好きなだけ、滞在していただいて構いませんわ」
 俺の存在など無いもののように、三人は互いに顔を突き合わせ激しい舌戦を繰り広げる。
 俺はただただ圧倒され、そんな三人の様子を呆けたように眺めていた。
「では、そうさせていただきます!」
 突然、セリシアが俺を仰ぎ見る。
 ……なんだ? 決着(?)がついたのか?
 なんとか内心の動揺を治め、セリシアを見返して目線で先を促す。
「セイさん! そういうことですので、私とチナツちゃんは今晩ここに泊まらせていただきます!」
「……あ、あぁ。分かった」
 俺は二、三度瞬きを繰り返した後、こんなふうに間が抜けた返事をするのが精一杯だった。
「そうと決まれば、下から毛布を持ってこなくっちゃ!」
「チナツちゃん、毛布は必要ありませんわ」
 意気揚々と声をあげるチナに、アルテミアが待ったをかける。
「……ほら、ここには寝具の替えも多く置いてあるの」
 スッと立ち上がったアルテミアが、フロアの端に設置された大きな収納棚を開ければ、中には寝具やリネン類が潤沢に収納されていた。
「これを敷いて、今夜は三人で並んで寝ましょう」
「わぁーい!」
「まぁ、素敵。しかもここなら、きっと満天の星々が見られるのでは?」
「ええ! ここは色々窮屈で不便だけど、景観だけは他に負けないわ。もちろん、星々が煌く空はその筆頭よ」
 なにがどうしてこうなったのかは分からない。しかし、一発触発の様相が嘘のように、今は三人が満面の笑みを浮かべて楽しそうにしていた。

 その後、俺たちは一旦塔を下り、領主らと夕食を共にした。
 夕食を終えて客間に戻ると、チナは嬉々として寝間着などを纏めはじめた。
「なぁチナ、本当に行くのか?」
 小さな背中に問いかける。
「もちろん! セリシアお姉ちゃんとアルテミアお姉ちゃんと約束したんだから!」
「……だが、ちゃんと眠れるのか? 寂しくはないか?」
 これまで幼いチナは、宿屋でも野宿でも常に俺の傍らで眠りについていた。その彼女が、果たして俺の目の届かぬ場所で眠れるのか……。
「えー? 変なお兄ちゃん、もちろんよ……あっ、分かったー!」
 心配で仕方なくついつい質問を重ねてしまう俺に、振り返ったチナは怪訝そうに答え、途中でなにかに気づいたみたいに叫んだ。
「わたしがいないと、お兄ちゃんが寂しくって寝られないのね? そうなんでしょう!?」
 なっ!? まさか、こんな解釈をされようとは思ってもみなかった俺は、咄嗟に言葉が出なかった。
 すると、その様子になにを思ったか、ニコニコ顔のチナが荷物を纏める手をとめて、トコトコと俺の元にやって来る。
 チナの「屈んで」のジェスチャーを受け、俺が腰を低く落とせば、彼女がキュッと俺に抱き付いた。
「ふふふっ。お兄ちゃん、ひと晩だけのことよ。いい子だから、今夜だけ我慢してねんねして」
 チナはいつも俺がするように、小さな手を俺の頭にのせると、ナデナデと往復させた。
「それから、これは特別よ。パパとママがしてくれた、よく眠れるおまじないよ」
 ――チュッ。
 ふんわりとした温もりが、額に落ちる。
 幼い心遣いが胸にじんわりと染みていく。同時に、彼女の言い分もなまじ間違いではないのだと気づかされる。
 ……どうやら俺こそが、チナの健やかな寝息を聞きながら眠りにつくことに馴染みきっていたのかもしれんな。
「ありがとう、チナ。このおなじないのおかげで、ひとりでも眠れそうだ」
 俺の答えにチナは満足気に微笑んだ。
 ――コン、コン。
「チナツちゃん、準備できたかしら?」
 直後、セリシアがチナを迎えにやって来た。
「あ、セリシアお姉ちゃん! 今行く!」
 チナは元気よく飛び出して、セリシアと足取り軽く塔へと向かっていく。
 俺もふたりの後ろに続き、最上階を目指して上っていくふたりの姿を階段の下から見送った。
「おやすみなさいお兄ちゃん!」
「セイさん、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ。三人ではしゃぎするなよ」
「はーい!」
 喉元まで「俺も護衛として同行する」と出かかったが、男が女子会に押しかける無粋を自覚して、呑み込んだ。
 なにより護衛部隊が隈なく領内の守りを固めているのだから、俺が護衛を買って出るというのもおかしな話だ。カエサルたち護衛隊員にも失礼にあたる。
 結局、反響するふたりの足音が聞こえなくなってから、俺はひとり屋敷へと取って返した。

 長い夜が明け、翌朝。
 俺は早々と塔の階段下に向かい、チナとセリシアが下りてくるのを待った。ところが、ふたりはなかなか下りてこない。
 ……いかん。そろそろ戻らんと、領主夫妻との朝食に間に合わんな。
 その時、階段を下る足音が聞こえてきて、ホッと胸を撫で下ろす。いくらもせず、チナとセリシアが姿を見せた。
「お兄ちゃん! 昨日ね、アルテミアお姉ちゃんがふわふわーって飛んでたの!!」
 階段を駆け下りてきたチナが、俺を見るや口にした第一声に、思わず頬が緩む。
「そうか。ずいぶんといい夢を見たな。ゆっくり休めたようでなによりだ」
「セイさん、違うんです!」
 チナばかりでなく、セリシアまでもが朝の挨拶もなしに、勢い込んで告げる。
「違うとは?」
「私もこの目で見ました。アルテミアさんは、本当に宙に浮き上がっていたんです!」
「なんだって!?」
「アルテミアお姉ちゃん、ふわふわーって、ぷかぷかーって、とにかく、すっごいの!!」
 チナは、興奮に目を丸くして語る。
 セリシアもそれに、いまだ興奮冷めやらぬ様子でうんうんと頷いた。
 風属性のウノならば、物体の浮遊をなせる者は多い。自身の跳躍に、風魔力で推進力を加えることも可能だ。とはいえ、自身が長時間宙に浮かんでいられるほどの力を持つ者はいない。
「アルテミアはどのように浮遊をなしていた?」
 俺はできるだけ冷静に、アルテミアが飛んでいたという状況について尋ねる。
「どのようにもなにも、眠りに落ちてすぐに、ふわりと体が浮いたかと思えば、ゆらゆらと気持ち良さそうに室内を漂って。そのまま明け方近くまで飛んでから、何事もなかったかのように同じ場所に下りてきたんです。ほんとうに驚いてしまいました」
「アルテミアには尋ねたか? 彼女自身は、それについてなんと言っている」
「朝一番で尋ねたのですが、笑いとばされました。どうやらアルテミアさんは、夢の中の出来事だと思っているようで、自身が実際に飛んでいる自覚はないようなんです」
「お布団をひらひらはためかせてね、とっても気持ち良さそうだった!」
 ……布団を?
「アルテミアは布団を掛けたまま飛んでいたのか?」
「うん! 掛けてた毛布もなんだけど、敷いてた毛布まで一緒にぷかぷか~ってしてた!」
 チナの答えは、大きな衝撃をもたらした。
 ……なんということだ。
 アルテミアは自身が飛んでいただけではなかった。触れているものごと一緒に浮遊させていたならば、それは彼女が重力を操作しているということだ。
 ゴクリとひとつ、喉を鳴らす。
 彼女が行っているのは新魔創生――重力制御だ。
 無意識下で新魔創生を成し遂げる者がいようとは、これまで露ほどにも考えたことがない。だが、アルテミアはそれを実際にやってしまったのだ。
「お兄ちゃん? どうかした?」
「いや、なんでもない」
 内心の動揺をなんとか抑え、やっとのことで返した。
 ……重力制御。
 俺たちは遠からず教会組織……デラ一味と相対することになるだろう。その時に、アルテミアに重力制御の能力で援護をしてもらえたら、どんなにか心強いことか。
 率直に言えば、喉から手が出るほど欲しい能力だ。
「ところで、ふたりが泊まり込むに至った当初の目的の方はどうなった?」
「……それは、駄目だった。アルテミアお姉ちゃん、どんなに言ったって『お嫁に行く』の一点張りなの」
「婚姻に関し、アルテミアさんの決意は固く……。アルテミアさんは『理由はどうあれ、先方は私を望んでくださってる。そこで、幸せになれるように努力する』とおっしゃって、最後まで譲りませんでした」
 アルテミアの結婚相手は、前妻が生んだ子供が幾人もいる高齢の貴族男性だという。既に後継者も決定しており、後妻には子供を産ませる必要がない。だから後妻には、属性数に関係なく、若く美しい女を望む。
 俺に言わせれば、相手の男は傲慢以外の何ものでもなく、碌でもない政略結婚だ。しかし、それを決めるのは俺ではない。
 アルテミアがこの結婚に、幸せな夫婦関係を望み、嫁ごうとしているのならそれを止める権利はない。事実、政略による結婚だろうが年の差や身分差があろうが、円満な夫婦は世に多くいる。
「そうか。ならばこの後、朝食の席でカエサルに会ったら『アルテミアの結婚の意思は固い』とそう伝えよう」
「え!? お兄ちゃん、アルテミアお姉ちゃんを説得しに行かないの!?」
「セイさん、たしか浮遊は風属性のウノでもなかなかなせない技ですよね!? セイさんから改めて浮遊の事実を伝えたら、アルテミアさん自身、自分の能力の可能性に気付き、結婚について考え直してくださるかもしれません!」
「まず、説得ならばチナとセリシアがもう十分にしただろう? それでもアルテミアの結婚への意思は固く、覆すには至らなかった。決意がそこまで固まっているのだから、これ以上俺が彼女に伝えるべき言葉はない。次に浮遊の一件は、アルテミア自身自覚していない能力だ。それについて他人が土足で踏み入り、強引に自覚を促す必要があるとは思えない。なにより彼女の能力と結婚は、切り離して考えるべきだ」
 俺の言葉に、チナとセリシアは眉間にクッキリと皺を寄せ、互いに顔を見合った。
「それは……」
「ふたりがアルテミアを心配しているのはよく分かる。アルテミアにも、ふたりの思いはきっと伝わっている。だが、後はアルテミアが決めることだ。……さぁ、これ以上は領主夫妻を待たせてしまう。一旦、朝食に向かおう」
 ふたりは不満そうではあったが、理に適った俺の主張に反論できず、唇を引き結んだ。
 俺はチナとセリシアを伴い、足早に屋敷に向かう。ふたりは、とぼとぼと重たい足取りで俺に続いた。
「……今は行かんが、出発前にもう一度彼女の元を訪ねよう。煮詰まった物事などが、少し時間を置くと予想外の展望をみることは多いからな」
「「!!」」
 途中で俺がポツリと零せば、チナとセリシアは揃って表情を明るくする。その足取りも、一気に軽くなっていた。

 朝食を終え、客間に戻って身支度を整えた俺たちは、玄関先で領主夫妻の見送りを受けていた。
「セリシア様、もっと長く当家に滞在してくださればよろしいのに」
「そうですわ。それに昨夜は、結局、温泉にも浸かっていただけなかったようですし。やはり今晩もう一泊して、ゆっくり温泉に浸かって行かれては?」
 ふたりの横にはすっかり元気になったマーリンもいて、夫人の言葉にうんうんと頷きながら、セリシアの滞在を熱望するように見つめていた。
「いえ。マーリン様もすっかり回復しておりますし、長く一所にいて噂が広まってしまっては先の移動に差し障りますから。私たちはこれでお暇させていただきます。温泉はまたの機会に」
 セリシアは領主夫妻からの再三の誘いを丁寧に辞した。
「そうですか。それは残念だ」
「どうか近方にお越しの際は、必ず当家にお立ち寄りくださいませ。お待ちしておりますわ」
「ありがとうございます」
 ここでマーリンが、セリシアに向かってトンッと一歩踏み出した。
「セリシアお姉ちゃん、約束だよ! それで、その時は絶対一緒に温泉に入ろうね!」
「え、ええ。今回は、一緒に温泉に入れなくてごめんなさい。次にお屋敷に寄らせてもらった時は、一緒に入りましょうね」
 マーリンの『約束』に、セリシアは一瞬だけ困惑の色を滲ませ、すぐに微笑んで答えた。
「では、セリシア様、セイ様、チナツ様。街道までお送りさせていただきます」
 俺たちは訪れた時と同じように、カエサルたち護衛隊員と共に屋敷を後にした。
 しばらく経ったところで、前を行くカエサルに訴える。
「すまんが、最後に監視塔に立ち寄らせてくれ。アルテミアにひと言別れを告げたい」
「承知しました」
 カエサルには既に、アルテミアの結婚への意思が固いことを伝えてあった。彼はたったひと言「そうでしたか」とだけ答え、静かに頭を下げた。
 カエサルらに馬を預け、塔には俺たちだけで上った。
「チナ、俺におぶされ」
「わーい。やったぁ」
 最初に上った時のように、長い階段の途中で疲れを見せ始めたチナを背負った。
「……昨日の夜はひとりで大変だったろう?」
「ううん! 楽ちんだった」
 ふと思い至って俺が尋ねれば、チナは軽い調子で答えた。
「もしかして、セリシアに背負ってもらったか?」
「違うよ~」
 首を傾げる俺に、セリシアが横から声をあげる。
「実は、途中でチナツちゃんの足の疲れを回復させました。その時に細胞を活性化させたら、その後は疲れ知らずのようで。私自身、これは新発見でした」
「なんと!? 事前に施しておくことで疲れにくい体をつくったか!」
「ええ。結果的にではありますが、そうなります」
「セリシアお姉ちゃんってば、すごーい!」
 これは、再生快癒の応用のようなもの。俺の背中で声を弾ませるチナにしても、錬金術をますます進化させている。ふたりの能力はどんどん磨かれており、これには俺も舌を巻かずにはいられなかった。
 ――コン、コンッ。
 そうこうしているうちに階段を上りきり、最上階のフロアに続く扉を叩く。
「セイとチナツ、セリシアだ。出発前の挨拶に寄らせてもらった」
「はーい」
 俺が名乗ると、すぐにアルテミアがパタパタと駆け寄ってきて、自ら扉を開けた。
「こんな塔の上にまで出立の挨拶に寄ってくれるなんて、本当に律儀なんだから」
 俺たちの訪問に、扉から顔を覗かせたアルテミアは嬉しそうだった。
「俺たちは君に挨拶もせず行ってしまうほど不義理ではないぞ」
「まぁ、ふふふっ。本当言うとね、セリシアさんとチナツちゃんは、私が結婚するって言い張ったから気を悪くしちゃったかなって。正直、不安に思っていたの。こうして、最後にまた会いに来てくれて嬉しいわ」
「えー、なにそれ!? そんなことあるわけないよ!」
「そうです! 結婚のお話とアルテミアさんと私たちの友好は、まったく別の問題です! そんなふうに思われていたとは心外です」
 チナに続き、セリシアも不満を隠そうとしなかった。
「い、いえ。誤解しないで! 決して、ふたりのことを疑っていたわけではないのよ!」
 アルテミアはそれに慌てた様子で言い募る。
 どうやら三人は、昨夜、俺のいぬ間に固い友好の絆を結んでいたらしい。この絆は、きっとアルテミアが嫁いだ後も絶えずに繋がっていくのだろうと、微笑ましい思いで見つめていた。
 ――ドガーンッ! ガッシャーンッ!!
 なんだ!? ドーンと突き上げるような衝撃と共になにかが倒壊したような音が響き渡る。高さのある塔は、地震の時みたいに大きく揺れた。
「きゃあっ!」
「チナツちゃん、掴まって!」
「な、なにが起こっているの!?」
 手を取り合って揺れを堪えるチナたち三人を横目に、俺は窓に向かって駆け出す。
 ――うわぁあああっ!! ――キャアアーッ!!
 俺が窓から眼下を覗くのと、人々の悲鳴が方々からあがるのは同時だった。
「まさか、何故次元獣がここにいる!?」
 階下の光景を認めた瞬間、カッと目を見開いて叫んでいた。
 ザッと見で、次元獣は四体。しかも四体全てが中型から大型の抜きんでた攻撃力を持つ強力な個体だ。
「なんですって!? 次元獣が!?」
 アルテミアはチナとセリシアと繋いでいた手を解いて、いまだ揺れの治まらない中を走って俺の横までやって来る。
 ウェール領主は王家とも所縁ある高位貴族で、加護を持つ他町村よりも手厚く守られているはずだ。そんな領に、何故複数体の次元獣が現れる!?
「……まずいな。この領は次元獣への備えも、応戦する人員もいない。このままでは、領が壊滅してしまう」
 加護を過信していたことが、今は裏目に出ていた。次元獣に瘴気をぶつけられたところから、家屋がなす術なく倒壊していく。それに巻き込まれた人々の痛ましい悲鳴も響き渡っていた。
「あぁ、嘘でしょう。街が……、街の人たちが……。私はいったいどうしたら……っ」
 横に立って窓下を見下ろしていたアルテミアが震える唇で声にして、ガクリと力なく頽れる。
 俺はアルテミアが床に倒れる前に腕をしっかりと掴み、彼女と目線を合わせる。
「ここは君を塔に閉じ込めている両親が治める領だぞ。さらに君は他所へ嫁いで行く身だ。それでもこの領を、領民を助けたいか?」
「当たり前よ! 両親のこととか嫁いで出ていくからとか、そんなのは関係ない、ここは私の生まれ育った大切な故郷よ! 助けたいに決まっているじゃないの!!」
 試すような俺の物言いにアルテミアは不快感を滲ませ、語気を強めて叫んだ。
「ならばアルテミア、ここから飛んで助けに行くぞ」
「え、セイさんはそんなことができるの!? ならばどうか、どうか領を助けてください!!」
 アルテミアは先ほどとは一転し、期待の篭もった目を俺に向け、懇願した。
「いいや。飛ぶのは君だ」
「っ、馬鹿言わないで!? どうして私が飛べると思うの!? ……もういいわ! あなたを頼ろうとしたのが間違いだっ――」
「聞くんだ!!」
 掴んだままの俺の手を振り払おうとしながら喚き散らすアルテミアに、俺は声を大きくし一喝した。
「アルテミア、君は今朝チナとセリシアのふたりから聞いたはずだ。眠りながら宙に浮き上がっていたと」
 アルテミアは思い出したようにハッとした表情をした。
「で、でも! あれは……」
「あれはなんだと言うんだ? 君は無意識のうちにシンコの五つの魔力を掛け合わせ、新しい魔力を生み出しているんだ。君が開花させた能力は、重力制御。君自身と、君が触れた物の重力をゼロにできる。その能力で、俺たちと一緒に浮いてくれ!」
「本当に、そんな能力が私に……?」
 アルテミアは信じられないといった様子で、忙しなく瞬きを繰り返す。
「なぁアルテミア、俺の言葉が信じられなくても、友となったふたりの言葉なら信じられるのではないか。ふたりは君に嘘を吐いて物笑いのネタにするような人物なのか?」
「いいえ! チナツちゃんとセリシアさんはそんなことしない!」
 アルテミアは断言し、チナとセリシアを振り返る。
「アルテミアお姉ちゃん! わたしが断言するわ。アルテミアお姉ちゃんは、大空だって自由に飛べる!」
「ええ! アルテミアさん、あなたはたしかに飛んでいました。私もこの目でしっかりと見ています。だからどうか、自信を持って!」
「チナツちゃん、セリシアさん……。だけど私、飛んでいる体感がないの。あるのは、気持ちよく飛んでいる夢の残像だけ。どうやって飛んだらいいかも分からないのよ……」
「大丈夫だアルテミア! 俺の言う通りにするんだ」
 今は一刻すらも惜しまれた。言うが早いか、俺はアルテミアを横抱きにした。
「きゃっ」
「夢で飛んでいる時と同じだ。目を瞑り、その時の気持ちを思い出すんだ」
 アルテミアは疑心暗鬼なふうではあったが、俺の指示通り瞼を閉じた。直後、体から重みが消え、俺の足がふわりと宙に浮き上がる。
「「「飛べているぞ(わ)!」」」
 俺とチナ、セリシアは声を揃えた。
「本当!?」
「っ!」
 ところが、アルテミアがパチッと目を開いた瞬間、体に重力がかかり足は床に逆戻りした。
「……あら?」
「よし、今はこれで上出来だ! 細かな訓練は次元獣を片付けてからだ! アルテミア、推進力は俺が担う。君はひとまず目を瞑って、空を飛ぶ想像だけしていろ!」
「え? ええ!」
 アルテミアが再びキュッと瞼を閉じるのを確認し、後ろのチナとセリシアに指示を出す。
「チナは俺の肩に乗るんだ! セリシアは俺の腰に掴まれ! このまま窓から行くぞ!!」
「うんっ!」
「は、はい!」
 ふたりがしっかりと俺に掴まるのと同時に、ふわりと体が浮き上がった。俺たちは大窓から飛び出した。
「うわぁ~、すごい!」
「風を切って飛ぶなんて、まるで鳥にでもなったようですね」
「……なんで!? せっかく空を飛んでるのに、その景色を私だけ見られないって、なんかおかしいわよー!」
 初めての空中浮遊にあがった三者三様の呟きに苦笑を浮かべながら、意識を目の前の次元獣に向ける。
 ……よし、まずはあの灰色の中型からだ! あいつの弱点は、目だ!
 俺はアルテミアの体勢を変え、左腕一本で片腕抱きにすると、次元操作で推進力となる魔力を噴出させ、一体目の次元獣に狙いを定め急接近する。
 そこだ――!!
 急降下して死角から一気に魔力を打ち放つ。
 ――バシューンッ!!
『グァアアアア……ッッ』
 まさか空中から攻撃を受けるとは思ってもいない次元獣は、急所の目を打ち抜かれ、断末魔の叫びをあげながら呆気なく倒れた。
「お兄ちゃん!! 右よっ!!」
 安堵したのも束の間、チナの鋭い声が響く。
 ――ズガーンッ!! ズガーンッ!! ズガーンッ!! ズガーンッ!!
 俺が右に向き直るのと同時に、頭上のチナが右腕を伸ばし魔力砲を撃ち放つ。なんとチナは、前方に聳え立つ大型次元獣に向かって、右手で握ったリボルバー式小型拳銃から連続で四発をお見舞いした。
「あれの弱点は首の後ろ、だったよね? ちょうど後ろを向いてたから、今だって思ったの!」
 ……なんということだ! たしかに、倒れ込んだ次元獣はチナが孤児院で倒した個体と同じ種類だ。とはいえ、まさかチナが撃ち倒すとは思ってもみなかった俺は、頭上のチナを見上げてしばし愕然とした。
 なにより、チナが錬金術で生みだした素材がここまでの耐久性を有していようとは――!
 俺の魔力の連続発砲を物ともせぬ新素材。……これは、これまでの既成概念を打ち砕く凄まじい成果だ。
「でかしたぞ、チナ! お前の魔力は無敵だ!」
「え? 無敵って……撃った魔力はお兄ちゃんのだよ?」
 一拍の間を置いて俺が労いを告げれば、チナは怪訝そうに首を捻った。
「いいや。チナの技があれば俺の魔力を溜め、俺以外の者でも自在に使うことができる。これまでの戦闘体形を根幹から覆す大手柄だ」
 同じ物をセリシアとアルテミアにも持たせれば、護身にも役立つだろう。万が一他者に奪われても、俺がひと手目かけてストッパーを付加しておけば、意に反した使われ方をすることもない。
「だからお前の創生した新魔力――錬金術が無敵で間違いない」
 俺の言葉に、チナがキュッと俺の頭を掴む力を強くした。
「よかった、よかったよぉ! セリシアお姉ちゃんの再生快癒が凄すぎて、正直言うと焦ってたの。だけど、ここまでの旅でお兄ちゃんと一緒にコツコツ練習してきてよかった! わたしの錬金術が役に立てて、本当によかった!」
 肩車しているチナの表情を見ることは叶わない。しかし彼女の心の吐露が、幼い胸がいっぱいの悩みや葛藤を抱えて苦悩していたことを、俺に痛いほど伝えてくる。
 そんな彼女に、『練習熱心で偉いな』としか言ってやれなかった、道中の己の不甲斐なさが悔やまれた。
「そうだったのか。気づいてやれなくてすまなかったな」
「ううん! こうしてわたしもお兄ちゃんの役に立てたから! ……それからお兄ちゃん、錬金術の練習は約束通りお兄ちゃんとしてたけど、的あての練習はひとりでやってたのよ。だから、どんどん撃って次元獣をやっつけちゃうんだから!」
 ……恐れ入ったな。俺の頭上で一転し、晴れやかに言い切るチナに尊敬の念が募る。
 たったの五歳とは思ぬ思考力と行動力に、俺はすっかり感服していた。だからといって幼いチナにばかり攻撃させているのは、俺の矜持が許さない。
 魔法世界エトワール最強の冒険者は、セイスのセイ。俺だ――!
「セリシア、監視塔に上るチナにかけたのと同じ活性化の魔力を俺にもかけてくれ」
「え?」
 突然呼び掛けれたセリシアは、俺の腰にしがみ付いたまま窺うように小さく身じろぎした。
「君の細胞活性化の魔力で身体能力を向上させ、一気に叩く!」
「分かりました!」
 直後、着衣越しにセリシアと触れ合った部分から、ぽかぽかとした温もりが染み込んでくるのを感じた。
 その温もりは触れ合う表層から体の芯へと広がっていき、血の流れにのるように再び全身の細部にまで巡っていく。
「いかがでしょう?」
 施術を終えたセリシアが、ホゥッとひと息ついて尋ねた。全身の体温が上がり、体中に新鮮なパワーが漲っていた。
「完璧だセリシア! ありがとう!」
『グァアアアアアア――ッッ!!』
 セリシアの魔力によって身体強化が叶ったまさにその時、残る大型と超大型の二体の次元獣が怒りの咆哮をあげる。そうかと思えば、対角にいた二体が俺たちを挟み討ちするように同時に瘴気を吐き出した。
 同時攻撃とは、上等だ! これまでならば、二体の同時攻撃を真正面から受けるのを避け、一体分の瘴気の波動を飛行位置をずらして躱していただろう。
 しかし今、俺はあえてその場にとどまって二体の次元獣が吐き出す瘴気の渦を受け止めた。
 次元操作を体得したとはいえ、体は生身の人間。これまで一度に大量の瘴気を受けるのは、多少なり体に負荷がかかっていた。
 それがどうだ!? セリシアの身体強化のおかげで、無理なくどんどん瘴気を吸い上げられた。
 ……さすがだな。俺は内心で、改めてセリシアの能力に唸った。
 そうして二体の瘴気を吸収しきると、そのまま次元空間に蓄積した。
 吸収した瘴気は、そのまま俺の攻撃魔力となる。これで魔力は潤沢に蓄えた。奴らを打ち倒すのに、一切の不足はない!
「お兄ちゃん、すごい! 次元獣の攻撃を全部吸い取っちゃった!」
 頭上でチナが感嘆の声をあげた。
「チナ、お前の『カチコチ』を借りるぞ」
「え? もちろん、いいけど。だけど、あんなのどうするの?」
「まぁ見ていろ」
 俺は不敵に笑むと、残る二体の次元獣のうち超大型の方に狙いを定め、奴の上空へと飛行する。そうして次元の狭間からチナが錬金術の練習過程で生み出した金属の大塊――通称・カチコチを引っぱり出して、眼下の超大型の次元獣に浴びせかけた。
 超大型はその体格に見合うパワーを有するが、反面、俊敏さには劣る。
 案の定、頭上から大量のカチコチを食らった次元獣は怯んで身動きが取れなくなっていた。
 ……そうなのだ。このカチコチは錬金術の練習中に出た失敗作と侮れない。自然界に存在するどんな鉱物よりも重く、硬い、新魔力の集合体だ。
「わー。次元獣がベコベコ……」
 チナが漏らした言葉通り、次元獣は甲冑のように黒光りする体表のそこかしこに窪みを作り、痛ましい有様になっていた。
 しかも、こいつの弱点は頭頂部。急所の脳天に大量のカチコチを食らった奴は動くことができず、巨体をビクビクと痙攣させていた。
「とどめだ」
 俺がデコボコになった奴の頭頂部に次元魔力を打ち放てば、超大型次元獣は呆気なく地面に沈んだ。
 巨体が倒れ、周囲に地響きと砂埃が上がる。さらに風に舞う砂埃に混じり、奴から真っ黒な瘴気が噴き出す。
 俺は体格に見合った大量の瘴気を余さずに吸収すると、そのまま最後に残った有翼型の大型次元獣に狙いをつけて打ち放つ。
「チッ! 躱されたか!」
 最後に残った大型次元獣は機敏な動きで飛び立って、すんでのところで俺の攻撃を躱した。
 さらに、三体の仲間をやられたことで、相当殺気だっていた。俺を威嚇するように長大な尾っぽを振り回し、街の中央に建つ公会堂の一角を崩壊させた。
 その時、ガラガラと崩れていく公会堂の奥の方に小さく蠢く人影を認める。
「……まずいな! 公会堂裏手の屋外休憩所に誰かがいるぞ!」
 さらに目を凝らせば、立ち昇る土煙の向こうに赤ん坊を抱いてしゃがみ込む母親らしき女性の姿がしっかりと確認できた。休憩しに屋外に出たところを次元獣の襲撃に遭い、逃げ遅れてしまったようだった。
「え!? ほんとだ! ……お兄ちゃん、あの次元獣の弱点はどこ!?」
 ワンテンポ遅れ、母子の姿を視界に捉えたチナが俺に問う。
「翼の付け根の、内側だ」
「……内側?」
 この手のタイプは無作為に攻撃しても、翼で覆われてしまうから、倒すにはかなりやっかいな部類だった。
「ああ。倒すには、二重攻撃の構えが必要になる。最初の攻撃で翼を広げさせて急所を晒させ、次の攻撃で急所を打つしかない」
「ふーん、分かった! 翼を広げさせればいいんだね!? わたしに任せて!」
 言うが早いか、チナは握り直した小型拳銃を大型次元獣に向かって構える。
 なっ!? 次の瞬間、チナツは片翼に狙いを定め、集中砲弾を浴びせかけた。その数、実に十発!
 通常のリボルバー銃とは異なり、弾倉部分には次元獣から回収した黒水晶をセットしてある。この黒水晶には、俺が次元操作で吸収し、蓄えた魔力を放出できる性質があった。要は、いちいち魔力を装填せずとも、多くの発砲が可能となったのだ。それにしても、彼女のこの応戦力は予想外だった。
 さらにチナは母子に被害が及ばぬよう、事前に次元獣の動きを予測していたのだから驚きだ。
 大型次元獣は、集中砲弾を食らった片翼をバサバサとはためかせてのたうった。しかし、咆哮をあげながら奴が向かう先は、休憩所と対角にあるステンドグラスの礼拝所の方向だった。
 なるほど。光る物に寄っていく習性を利用したか……! この習性は次元獣らにとって本能的な行動だ。傷を負わされて理性を欠き、目に入ったステンドグラスに引き寄せられているようだった。
 っと、いかん。感心している場合ではない。チナが作ってくれた好機を逃すわけにはいかん!
 俺は翼がバサリと開かれた瞬間を見逃さず、急所である付け根部分に渾身の魔力を打ち込んだ。
 有翼の大型次元獣も断末魔の叫びと共に地面に倒れ、そのまま二度と起き上がることはなかった。
 一瞬の静寂の後、街が震えるほどの拍手喝采が沸き起こる。次元獣の突然の襲来になす術なく兢々と屋内に身をひそめていた領民らが、次々と外へ飛び出してくる。その全員が上空の俺たちを見上げ、涙ながらに感謝を口にしていた。
「……あ! あちらに怪我をした人たちが! セイさん、あちらに向かっていただけますか!?」
「よし!」
 セリシアが示す先に、家屋の倒壊に巻き込まれたのだろう負傷者らの姿を認め、一気に加速する。
「アルテミア、ゆっくりと――」
「いえ、このまま飛んでいてください。上空から治療します!」
 十人ほどの負傷者が集められた一角に辿り着き、アルテミアに着地のイメージを伝えようとしたら、セリシアがそれに待ったをかけた。
 セリシアは俺の腰に回していた右腕を外し、眼下に翳す。
 次の瞬間、セリシアの右手のひらから生じた煌く光の粒子が、シャワーのように負傷者に降り注ぐ。光の粒子は負傷者を優しく包み込み、ふわっと発光を強くする。
 そうして徐々に発光が弱くなり、完全に消えた時、負傷者全員が見事な回復を果たしていた。血を流し痛みに呻いていた人も、瓦礫に肺を押し潰されて呼吸苦に喘いでいた人も、傷が癒えて穏やかな呼吸を繰り返している。
 広域に発動された再生快癒の魔力――。
 奇跡を目の当たりにして、俺も周囲で見守っていた人々も、全員がしばし言葉を失くした。
「セ、セイさん! 私、もう限界です!」
 その時、悲痛なアルテミアの声が静寂を割る。
「ずっと意識して目を瞑っていたら、瞼がピクピクして……っ! 目を開けてもいいですか!?」
「なっ!? 少し待て!!」
「だめ、もう限界っ!」
 俺が即座に負傷者が集う一帯から場所を移った直後、限界に達したアルテミアがパッチリと目を開き、一気に重力がかかる。
「っ!! チナ、セリシア、俺から離れろ!! 縺れるように落ちては、逆に危険だ!!」
 緩衝材の代わりにするべく、反射的に地面に向かって次元操作を発動する。同時に、アルテミアを抱いていた手を放し、しがみ付こうとするセリシアとチナにも離れるように指示を出す。この状況下ゆえ難しいかとも思ったが、セリシアとチナは俺が指示した通り、咄嗟に手を放した。
 そんな落下の最中、俺の視界の端をあるモノが掠めた。
 ん? 奴は……!
「「「きゃああっ!!」」」
 俺たちは次元魔力にバフン、バフンッと幾度か弾みながら、最終的に尻から地面に着地した。
「っ、助かった!」
「ちょこっとお尻ぶつけたぁ」
「ええ。ですが、あの高さから落ちて無事だったのですから、十分おつりがきますわ」
 次元魔力のこんな使い方は初めてだったが、目論見通り落下の衝撃を和らげるのに十分な貢献をしてくれたらしい。三人の無事を確認した俺は、安堵の胸を撫で下ろした。
 すかしホッとひと息ついた直後には、落下の最中に見た"ネズミ"を捕まえるべく動き出していた。
「三人とも、しばらくここにいてくれ!」
 俺は三人に言い残し、ウェール領を背に一直線に駆けていくネズミの後を追った。

 次元操作を用いれば、ネズミの捕獲など造作もないこと。
 俺は次元障壁で身動きを封じたネズミと対峙していた。
「ここまでずっと俺たちを付け回していたな。ずっと気配は感じていた。誰の指示だ?」
「そんなの答えるわけが……っ! 言う、言うからやめてくれ!」
 次元障壁でギリギリと絞め上げていくと、ネズミ――間者の男は早々と音を上げた。
「お前たち一行の同行は、逐一聖魔法教会のマリウス大魔導士に上げていた!」
 息も切れ切れに、男が白状する。
 マリウス大魔導士といえば、教会のナンバーツー。教会の長たる教祖の最側近だ。となれば、俺たちの監視は教祖からの指示と考えてまず間違いない。
「お前は水属性のウノだな? たしか、マリウス大魔導士も水属性……連絡は水鏡を介して行っているのか?」
「そうだ」
 水鏡とはその呼び名の通り、水面を鏡に見立てたもので、そこに映る映像を相手の水鏡と共有することができる。水属性のウノの中でも能力に優れた者同士でしか使えない技だが、タイムラグなしに情報共有が可能だった。
「……ウェール領に俺たちが滞在していることは既に伝えてあったのか?」
「あぁ。お前たちが滞在を決めた直後に報せた」
「マリウス大魔導士は俺たちがいるこの地に次元獣を差し向けたのか? 加護があるにもかかわらず、俺たちを倒さんがために!?」
 俺が怒りで戦慄く声でしたこの質問に、男は心底分からないといった様子で眉間に皺を寄せる。
「な、なんだって? 次元獣を差し向ける? 加護? ……いったい、なにを言っている?」
 男の口振りに嘘はなさそうに見えた。どうやらこの男は能力にこそ優れているが、マリウス大魔導士や教会の内部情報にはあまり精通していないのかもしれない。
「お前は教会所属の魔導士ではないのか?」
「もちろん教会所属の魔導士だ。元は冒険者をしていたが、水属性のウノ中でも高い能力を買われて先月引き抜かれた」
 無意識だろうが、これを告げる男は誇らしげだった。
 ……なるほど。教会に所属して日も浅いため多くの情報を持たず、指示通り従順に動くこの男は、間者にはうってつけ。
 そしてこの男は、マリウス大魔導士にとって所詮は捨て駒。マリウス大魔導士は俺に見つかって殺されようが、どうでもいい存在をあえて選んだのだろう。
「……行け」
「は?」
 俺が次元障壁を解いて告げれば、男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして見返した。
「ネズミの尻尾を切ったところで意味はない」
 続く言葉で俺の真意に思い至った男はクシャリと顔を歪め、わなわなと肩を震わせた。
「セイスのくせに、馬鹿にし腐りやがって……」
「ほぅ、命が惜しくないのか。見上げた忠誠心だ」
 俺は次元操作を発動すべく、再び男に向かって手をかざす。
「っ、チクショウ! チクショーッ!!」
 次の瞬間、男は捨て台詞を叫びながら一目散に駆け出した。
 教会に引き抜かれたことは、男にとって誉れだったのだろう。しかし、教会にはもう間者の役目を失敗した男の居場所はない。
 ……見誤るな。目の前の栄誉は所詮、空中の楼閣。
 教会はお前が命を懸けるに足る崇高な組織ではない。同様に、お前の能力を真に活かせる場は教会ではなく他にある。
「弄されるなよ。正しい道は、心眼でもって見極めろ」
 小さくなる背中に向かって零した呟きは、きっと男の耳には届いていないだろう。
 一見しただけの男ではあったが、前途ある優れた能力者でもある男の未来を祈らずにはいられなかった。

 チナたちと合流し、俺たちは再び領主の屋敷へと戻った。
「おおお! 我が領を次元獣よりお守りいただき、感謝申し上げます! セイ様たちの速やかな討伐によって被害は最小限、その上、セリシア殿の治癒により負傷者はゼロ。それなのに儂ときたら、セイスやシンコを理由にセイ様とチナツ様に随分と無礼な態度を……っ、なんと詫びを申し上げたらよいかっ!」
 興奮冷めやらない様子の領主は矢継ぎ早に言葉を重ね、最後はガバッと床に伏したかと思えば、平身低頭で己の振る舞いを詫びた。
「やめてくれ。あなたの思いはもう十分に伝わった。これ以上の礼も謝罪も不要だ」
 打って変わったような領主の態度に苦笑しつつ、その肩をトンッと叩いて立ち上がるように促す。
「それから領主、肝心なことを忘れているぞ。あなたの娘、アルテミアが重力制御をなし、俺たちの空中攻撃を可能としたんだ。アルテミアがいなかったら、ここまでの早期討伐はなし得なかった」
「……まさか、娘がこんな能力を持っていようとは想像もしませんでした。これまで世間から隠すことにばかり必死で、儂は父親でありながら娘の本質をなにひとつ見てはいなかったようです」
 セリシアに腕を取られて身を起こしながら、領主はしっかりと彼女の目を見て告げる。
 領主の隣では、領主夫人が夫の言葉に賛同して頷きながら、その瞳を熱く潤ませていた。
「お父様、お母様……」
「アルテミア、儂はお前を誇らしく思う。そして『貰ってくれる男があるうちに』などと、手前勝手な結婚話を推し進めた自分が恥ずかしい。この結婚は、儂から先方に断りを入れる」
「え? 来月に迫った結婚話を破談になど、そんなことをしてはお父様の評判が――」
「そんなのは問題にならん。これはもう、決めたことだ」
 領主はセリシアの言葉を遮り、きっぱりと言い切った。
「っ、お父様。……ありがとございます」
 目に薄っすらと涙を滲ませて小さく感謝を伝えるアルテミアの頭を、領主が不器用な手つきでそっと撫でる。アルテミアの眦から膨らみきった涙がホロリと頬を伝っていった。
「それにしてもセイ様はなんと寛大でいらっしゃるのか。嘘か真かもしれぬ加護を付与しにやって来る教会の魔導士とはなんたる違いだ」
 思わず本音が口を衝いて出た、そんな様子で領主が漏らした。
「今、教会の魔導士と言ったな?」
「えぇ。彼らは態度も横柄なら、金銭にも恐ろしいほど強欲だ。加護の対価についても寄付や心づけを際限なく要求するものだから、最終的には言い値の倍にもなっている。その上、今となっては加護の守りそのものが紛い物と知れ、まったくやり切れません。まぁ、冷静に考えれば『加護があれば次元獣に襲われない』というのもおかしな話で、所詮、気休めのまじないだったのだ。高い勉強代にはなりましたが、こうしてセイ様に救っていただけたことを思えばおつりがきますな」
 領主は俺を見やり、感じ入った様子でこう口にした。
「領主、教会の加護について……いや、教会について知っていることがあれば教えて欲しい。奥で聞かせてもらえるか」
「もちろんでございます。とはいえ、王家と外戚にありその縁で教会の加護を付与していただくに至りましたが、儂とて教会そのものについてそう多くを知っているわけではありません」
「かまわん。今は少しでも情報が欲しい。……領主夫人、よかったら俺たちが話している間に、チナツたちを温泉に案内してやってくれんか。もちろん、約束していたマーリンも誘ってな」
 俺の申し出に、領主夫人は一も二もなく頷いた。
「お兄ちゃんは入らないの?」
「話が終わったら、合流させてもらう」
「それじゃあ、セリシアお姉ちゃんたちと先に入って待ってるわ! 必ず来てね、約束よ!?」
「あぁ、約束だ」
 夫人に伴われて温泉に向かうチナたちを玄関から見送り、俺は領主と共に奥の応接室に移動した。


 そうして遅れること十分。俺もチナたちに合流し、久方ぶりの温泉に飛び込んだ。
「お兄ちゃん、こっちこっち!」
 チナに呼ばれ、湯けむりを割って石組みの広い露天風呂の奥へとざぶざぶと進む。
 領主の屋敷の温泉は、想像以上に広さがあった。脱衣所から続く内風呂には、複数の洗い場が設置され、奥の窓に面して十メートル四方のヒノキの湯舟が。さらに内風呂から外に繋がる扉を出て、渡り廊下を進むと、今俺たちが浸かっている石組みの露天風呂がある内庭の一角に出る。こちらは屋外ということもあり、ヒノキの内風呂以上に広々として開放的だった。
 全員が薄い素材の肌着を身に着けて入浴していたが、すのこのような目張りがかかって、ほどよく周囲から遮られているのはよかった。
「意外と早かったのね!」
「そうだな」
 嬉しそうなチナに、俺も笑顔で答える。
 こんなに早くに温泉に合流できたのは、事前に申告していた通り、領主が教会についてそう多くの情報を持っていなかったためだ。だが、少ないながら有益な情報もあった。
 ……これらの情報を持って一度アルバーニ様と合流したら、オルベルに向かおう。
 今回の次元獣襲来とその後に捕まえたネズミの話から、俺たちの動向が教祖らデラ一味に筒抜けになっていることが分かった。そして周到な彼らのこと、子飼いのネズミは当然あの一匹だけではないだろう。
 そうなれば、今後俺たちが行く先々では次元獣襲来のリスクが発生する。
 情報はもう十分に集まった。これ以上、リスクを犯して旅を続ける意味はない。
 俺は両親の仇……デラを討つ――!
 ――パシャッ!
「っ!?」
 俺が脳内に今後の道程を描き、決意を新たにしていたら、突然顔面に飛沫が浴びせかけられた。
 手の甲で乱暴に目元を拭って目を開くと、チナが俺に両手のひらを向けてニンマリと笑っていた。
「ふふふっ、ボーっとしてるからよ!」
 ほーう。理由はどうあれ、無抵抗の人間に湯を浴びせかけるとはいい度胸だ。
「やったなチナ!? よし、お返しだ!」
 俺も手のひらでお湯を掬い上げ、チナに向かって浴びせる。
 水礫は陽光に反射して、キラキラと眩しいほどに輝いた。
「きゃーっ!」
「うわぁっ!? セイさん、こっちにまでかかって……って、もーう! こうなったら、僕だって負けないぞ!」
 盛大に巻き上げた水しぶきがチナの隣にいたマーリンにもかかってしまったようで、それがマーリンのスイッチを入れてしまった。
「おい、マーリン。お前はつい先日まで病人だったんだ、ほどほどにしておけ」
「病人って誰のこと? 僕はセリシアお姉ちゃんのおかげですっかり元気さ! ……みんな、セイさんに集中放水だ!」
「まぁ、面白そう!」
「微力ながら、私も加勢しますわ!」
 なぜか、マーリンの言葉にアルテミアやセリシアまでが賛同した。
「待て!? 四対一はおかし……っ」
「「「「そーれっ!!!!」」」」
 ――バッシャァアアアアッッ。
「っ、うぷっ!!」
 四人から一斉に湯を浴びせられ、一歩後ろにたたらを踏む。
「お前たち、やったな!?」
「きゃーっ!」
「わあぁっ!!」
 午前中から入り始めていたというのに、賑やかな俺たちの声は太陽が一番高いところを過ぎてもまだ、やむ気配がなかった。

 夕刻前。
 風呂を上がって旅支度を整え直した俺たちは、屋敷玄関で再び領主夫妻とマーリンの見送りを受けていた。
「どうか道中、お気をつけて」
 領主から深々としたお辞儀と共に丁寧な別れの言葉をもらう。
 見送りの光景だけを取って見れば、今朝と同じ。ただし、俺たちを送る夫妻の目には敬服と深い信頼が滲み、今朝とはまるで別人のようだった。
「あぁ、世話になったな」
「セリシアお姉ちゃん、次元獣の襲来を嬉しいなんて言ったらバチがあたっちゃうかもしれないけど、僕は約束が叶って嬉しかった。お姉ちゃんと一緒に温泉に入れて、すっごく楽しかった!」
「ええ。私もとっても楽しかったわ。ありがとう、マーリン様」
 両親の間からひょっこりと顔を出したマーリンが告げれば、セリシアも笑顔で答えた。
「それからアルテミア姉様」
「……ふふ、なんだか『姉様』だなんて呼ばれるとくすぐったいわ」
 監視塔で過ごしていたアルテミアは、実の姉弟でありながら、ほとんどマーリンとの交流がなかったのだという。
「これまでカエサル兄様から、塔で暮らす姉様のことはよく聞いてた。でも、本当はちゃんと会って話がしたかったよ。これでやっと姉様と屋敷で一緒に暮らせると思ったら、セイさんたちと一緒に行くんだって聞いて、本音を言うと寂しいんだ。……だけど、これが別れじゃないんだよね? またウェール領に、この屋敷に帰ってくるんだよね?」
「ええ。今はセイさんたちと行くわ。重力制御の能力をもっともっと磨いて、セイさんの役に立ちたいの。でも、全部終わったら帰ってくる。だってここが、私の家だもの!」
「うん! 僕、待ってるよ!」
 アルテミアとマーリンは固く抱き合い、その後ろでは領主夫妻が人目を憚らず号泣していた。
「こんな光景が見られようとは……。セイ様、チナツ様、セリシア様、全てあなた方のおかげだ。俺からも、心から感謝申し上げます」
「お前までやめてくれ」
 腰を直角に折って頭を下げるカエサルに苦笑しつつ、その背をポンポンと叩いて顔を上げさせる。
「そう言えばカエサル、風呂でマーリンが面白いことを言っていたぞ。彼は初めて入った温泉にいたく感動したようで、この感動を広く国中の人々にも伝えていきたいそうだ」
「え?」
 俺が耳元で囁けば、カエサルは意図が掴めぬ様子で小さく首を傾げた。
「国中の源泉湧出位置を調べ、各地で温泉リゾートの開発をするのだと張り切っていた。……そうなると、領主としてこの地に留まることは難しいかもしれんな」
 カエサルは呆気に取られたみたいに、俺とマーリンを交互に見つめていた。
「なに、領主夫妻はまだまだ元気だ。将来のことは、急がずゆっくり決めたらいい。それに、今後は領主夫妻も腰を据え、じっくり話し合うことができるだろうからな」
「……そうですね」
 カエサルは俺の言葉に少しの間を置いて、重く頷いた。
 そうして俺から視線を外すと、カエサルはアルテミアに向かってトンッと一歩踏み出した。
「アルテミア、セイ様たちが一緒だから道中の心配はしていない。だが、お前は塔の中での生活しか知らん。雨風や寒暖の差に十分注意して、くれぐれも健康には留意をするんだぞ」
「ええ、分かったわ。ありがとう、兄様」
 アルテミアはカエサルの忠告に笑顔で答え、固く握手を交わす。
「アルテミア、無事に帰ってくるのを待っている」
「どうか気を付けて。……なにを今さらと思うでしょう。ですがこの地から、あなたの無事を心から祈っています」
「姉様、いってらっしゃい!」
「ありがとう。お父様、お母様、マーリン。みんな、いってきます!」
 アルテミアは他の家族とも順番に別れの握手を交わすと、高らかに手を振りながら屋敷に背中を向けた。
 領主一家にとってここは新たなスタートになるのだろう。そして俺たちも、ここから新しいフェーズに進む。
 それぞれの思いを胸に、俺たちはウェール領を後にした――。