次元獣の換金を終えギルドを出た俺とチナは、『癒しの力を持つ聖女』がいるグルンガ地方教会に向かうべく、乗合馬車に乗り込んだ。
「わー! いい景色~」
チナは馬車が走り出してから、ずっと車窓に張り付いて移ろう景色を眺めながらはしゃいでいた。
彼女の嬉しそうな様子を見ていると、俺の頬も自然と緩んだ。
「チナ、これを尻の下に敷いておくといい。まだまだ先は長い。あんまりはしゃぎすぎると、体力がもたないぞ」
俺は荷物袋から敷物を取り出して、隣のチナに差し出した。
座ったまま目的地まで早く行ける馬車は快適ではあるが、長時間の乗車となればそれなりに疲れるものだ。特に小さな子供なら、なおさらだろう。
「全然平気! お兄ちゃんと一緒に馬車にのって、外の景色を眺めて、わたし、こんなに楽しいのは初めてよ」
チナは俺の心配をよそに、元気いっぱいで答えた。
「……でも、敷物はありがとう。本当はちょっとお尻が痛かったの」
はにかんだ笑顔でされたカミングアウトと、敷物に向かっていそいそと伸ばされた小さな手がとても可愛らしい。
俺は片腕でチナの脇腹をヒョイと掴んで軽々と持ち上げると、反対の手で彼女の座席の上に敷物を置く。
「わっ! ふわふわで快適」
敷物の上にそっと下ろしてやれば、彼女はにっこりと笑ってみせた。
「そうか」
チナの頭をワシャワシャと撫でながら、口角の緩みを自覚していた。
「……チナ、俺もお前と同じだ」
「え?」
「お前と並んで、こうして車窓から移ろう景色を眺める。こんなに楽しいことはない」
「お兄ちゃんったら、わたし、言ったじゃない。……そういうのは、簡単に言っちゃいけないんだから」
言葉とは裏腹、チナは俺の腕に甘えるようにすり寄った。どこか小動物を思わせる彼女の仕草に、思わず笑みがこぼれた。
チナとふたりで旅を始めてから、無機質な俺の日常は一変し、笑顔があふれていた。
二日後。
乗合馬車を乗り継ぎ、俺たちは地方都市グルンガに降り立っていた。
「ここが地方都市グルンガか……」
停車場は街の端だが、それでも多くの人々が行き交って活気が伝わってきた。中央の広場に向かえば、さらに賑わっているのだろう。
「大きい街! 人がいっぱい! それに、お店も!」
地方教会があるのは、往々にして大都市だ。逆を言えば、教会があることで人や物が集まって来るのだ。
「街の散策もいいが、ひとまず今晩の宿を確保するか。これだけの都市だ、きっと部屋に風呂の付いた宿もあるぞ」
「やったぁ!」
今にもひとりで駆け出してしまいそうなチナの腕を取って、飲食店や宿が軒を連ねる通りへと足を進める。
古びた外観の小間物屋の前を通りがかった時、ちょうど中から扉が開け放たれた。
見るともなしに視線を向ければ、店内から中年の夫婦と草臥れたワンピースの少女が姿を現した。
「急に呼び止めちまって悪かったね。だが、あんたの薬で娘はずいぶんと呼吸が落ち着いてきた」
引き開けた扉に手をかけたまま、婦人が丁寧に礼を告げる。
「本当にあんたは娘の命の恩人だよ。それなのに礼にこんな物しか持たせてやれなくて、すまないな」
婦人の隣に立った男性も続ける。
「とんでもない。私の薬草は症状を和らげる手助けをするだけです。これも全ては、お嬢さんが備えていた生命力と体力によるところです。こんなにいただいてしまって、逆に申し訳ないです」
最初に認識したのは澄んだ声。次いで、扉を潜って通りに現れた少女を認め、その眩いほどの金髪に息を呑んだ。
年の頃は十六、七歳。少女はほっそりとした体形に、整った目鼻立ちをしていた。だけどなにより目を引いたのは、澄んだ菫色の瞳と月光を溶かしたみたいな金髪。
そうして少女からは、不思議な気品のようなものを感じた。
「セリシア、なにを言ってるんだい。たとえそうだとしても、あんたの薬が咳の発作で苦しむあの子を楽にしてくれたよ」
「そうだ。分かっちゃいたが、やはり聖女はこっちの足元を見て、娘のために薬ひとつ調合しちゃくれなかった」
「おばさん、おじさん……。本音を言うと、いただいた道具類はとてもありがたいです。ちょうだいして、今後の調薬に使わせてもらいます」
セリシアと呼ばれた少女は、そう言って腕の中の紙袋を大切そうに抱え直した。
「ああ。ぜひ、そうしとくれ」
「あの、それではすみませんが私はこれで失礼いたします」
「気を付けてお帰りよ」
「はい」
ふたりに挨拶を済ませるとセリシアは店を飛び出し、俺たちの横をすり抜けて走って行った。
その時に一瞬だけ見えた彼女の横顔は、パッと見にも相当焦っているように見えた。
「失礼。彼女はこの街の薬師かなにかか?」
彼女の素性が気になった俺は、店の扉が閉ざされる前に夫婦の元に歩み寄って尋ねた。
「いや、セリシアは教会の下働きの娘だ。別に薬師を謳ってるわけじゃないが、ちょっとの不調や怪我ならあの子の薬で治っちまう。富裕層を除けばこの街の者は皆、あの子に助けられているよ」
「教会? それは『癒しの力を持つ聖女』がいると噂のグルンガ地方教会か?」
「あんたたち、この街の者じゃないね。もしかして、聖女様の癒しを求めてやって来たクチかい? 可哀想だが、聖女の治療は受けられないよ」
「なぜだ? 聖女が瀕死の重傷を負った兵士を回復させたというのはデマだったのか?」
夫婦は俺たちを聖女の治療を求めてやって来た巡礼者と思ったようで、声を低くして教えてくれる。
「その噂は間違いじゃないが、聖女様の癒しは金と権力のある者限定だ。治療を受けるには、教会幹部からの紹介状を持って訪ねるか、金を積むかしかない。ただし、あたしら一般市民にゃ到底用意できないほどの大金を用意せにゃ、見向きだってしてもらえない」
夫人は憤慨した様子でさらに続ける。
「うちも一昨日、なけなしの金を持っていって教会の門戸の前で頭を下げたが門前払いされた。セリシアはその時の様子を見ていたようで、さっそく自作した薬草を持って訪ねてきてくれたんだ。それで一旦症状が落ち着いたんだが、今日は今朝から娘の調子が悪くてね。そうしたら偶然セリシアが通りがかってね、声をかけたらこうしてわざわざ追加の薬を持って来てくれたんだよ」
亭主は夫人の言葉にうんうんと頷き、セリシアへの感謝を滲ませて口を開いた。
「貰った薬を飲ませたら、娘の激しい咳の発作があっという間に静まった。セリシアには頭が下がる。とはいえ、ちょっとした軟膏や湿布薬ならいざ知らず、まさか咳止めまで作っちまうとは思わなかったけどな」
薬草を素材とした天然成分だけで咳を止めることはなかなか難しい。だから腕のいい薬師でも、咳止め薬は気休め程度の効果しか発揮しないことも多かった。
これを聞くに、彼女がかなり調薬の技術に優れているのは瞭然だった。
「ほう。薬師を生業にしている者でも咳止め薬の調合は難しいと聞く。……まさか、彼女は調薬に光魔力を使っているのか?」
「はははっ、それはない。光属性は持っているそうだが、セリシアはシンコだ。調薬に使うほどの魔力はないだろうよ」
「え? あのお姉ちゃんもシンコなの!?」
セリシアがシンコという事実に、チナが真っ先に反応した。
「ああ、シンコというのを理由にあの子は教会でも肩身の狭い思いをしているよ。両親を亡くして教会に引き取られてから、朝から晩までずっと聖女の世話や家事仕事にこき使われている。だがね、たとえ癒しの力がなくたって、あたしらに言わせりゃ教会の奥で金と権力に胡坐をかいて座ってる聖女より、セリシアの方がよっぽど聖女の名に相応しいさ」
「その通りだな」
「そう言えば、前にあの子が教えてくれたっけ。薬剤の調合をする時は、いつだって心の中で光の魔力に祈りながらしてるってね」
「ほう、彼女がそんなことを」
……祈り。
俺はこの一語を耳にすると、いつだって思わずにいられない。
祈りというのは、皆が想像するよりも遥かに大きな力と可能性を秘めている。
……そう。俺が新魔創生をなし得、次元操作の使い手となったように。
強い意志で希う、それこそが全ての源となるのだ。
「病の娘さんがいるというのに引き止めてしまってすまなかったな。だが、色々聞かせてもらえてよかった」
「なに、かまいやしないよ。それより、さっきも言ったように目玉が飛び出るほどの大金を持っているんじゃなけりゃ、聖女の治療は諦めて腕のいい薬師でもあたった方がいい。セリシアを頼るにしても、たぶん今日はもう難しい。夕方から夜は夕食の支度から聖女の身の回りの世話だなんだって、あの子は大忙しだ」
「そうか。ならば明日、改めて彼女を訪ねるとしよう」
夫婦に別れを告げ、再び通りを進み始める。
通り沿いの宿屋を数軒素通りしたところで、チナが俺の袖を引いた。
「お兄ちゃん、今晩の宿を取らないの?」
「別れ際の彼女の様子が少し気になる」
「え?」
婦人は、セリシアは夕方から夜にかけて忙しいと言っていたが、今はまだ正午を回ってさほど時間が経っていない。それにしては、俺の横をすり抜けていく彼女はひどく慌てていた。
「宿は後にして、地方教会に行ってみよう」
もしかすると、なにか特別な用事が控えていたり、言いつけられた用事の途中で帰りを急いでいたりしたのではないか。
帰りが遅くなったことで聖女や魔導士たちから叱責を受けていなければいいが……。
「わっ!?」
俺はチナを掬うように片腕に抱き上げると、地方教会へと続く大通りを走りだす。
地方教会の場所は、誰に尋ねるまでもなかった。
大通りの先には、他の家々や商店より頭ひとつ抜きんでた地方教会の建物が見て取れた。王都オルベルの聖魔法教会には及ばないが、煌びやかな装飾の尖塔が一際存在感を放っていた。
教会までの距離は、目算でおよそ一キロ。うまくすれば、セリシアに追いつけるかもしれん。
「チナ、少し急ぐぞ」
「っ、うん」
チナがキュッと肩を掴むのを確認し、俺は一気に速度を上げた。
「ありがとう、セリシアお姉ちゃん」
ところが、大通りをほんの数十メートルほど進んだところでセリシアの名前を耳にして足を止めた。
声は大通りに繋がる細い横道から聞こえてきた。俺は即座に大通りを曲がり、横道へと駆け出した。
「どういたしまして。これからも錆びた鉄くぎや金属屑なんかを踏んじゃった時は、すぐに言ってちょうだい。ちゃんと消毒をしないと、後々大変なことになってしまうから」
横道を少し行くと、道の端にしゃがみ込むセリシアと七、八歳くらいの少年の姿を認めた。俺はチナを一旦地面に下ろし、二人のやり取りを注視した。
少年は裸足で、その右足には真っ白な包帯が巻かれていた。どうやらセリシアは、帰り道で行き合った子供の足の怪我を治療してやっていたらしい。
治療に使った道具類を鞄にしまいながら、優しげな笑みで少年に伝えていた。
「うん! それじゃあセリシアお姉ちゃん、本当にありがとう!」
「気を付けて」
セリシアは少年を見送ると鞄を掴み、スックと立ち上がって大通りに向かって走り出す。
俺たちの横をすれ違いざま、彼女の唇がほんの微かに動いた。
「……だめだわ、もう間に合わない」
悲愴感の篭もった小さな呟きが耳を打った次の瞬間、俺は動いていた。
「失礼、ずいぶん急いでいるようだ。俺が教会まで送らせてもらう」
「えっ!? き、きゃあっ!」
セリシアに並び、ひと声かけてから膝裏と背中に手をあてて掬うように横抱きにする。
初めは目を丸くしていたセリシアだったが、浮遊感にハッとした様子で俺の肩を掴んだ。
「あ、あなたたちはいったい!?」
困惑を全面にするセリシアに、チナが足元から声をあげる。
「大丈夫だよ、セリシアお姉ちゃん! お兄ちゃんは、誰よりも信頼できる人よ」
元気よく言い募るチナを認め、セリシアがパチパチと目を瞬く。
「すまんが、詳しい説明は後だ。チナ、お前も俺にしっかり掴まっていろ」
「うん!」
俺が体勢を低くすると、チナはピョンッと跳び上がって俺の肩に両手を回し、背中にしっかりと掴まった。
俺はセリシアを抱き、チナを負ぶって、次元操作を発動した。
――ブワァアアーーッ。
魔力が俺たちを包み込み、全身がふわりと宙に浮き上がる。浮遊感はほんの一瞬で、再び足が地面を踏みしめる感覚が戻る。
次元操作の効力は絶大だ。
セリシアを抱き上げてほんのひと呼吸の後には、俺たち三人は教会の正門の前に立っていた。
「……嘘でしょう?」
目の前の光景が信じられないというように、セリシアが腕の中で呆然と呟いた。
「刻限が迫っているんだろう? さぁ、急いで行くんだ」
俺は彼女を丁寧に地面に下ろし、トンッとその背を押した。
「セリシアお姉ちゃん、早く早く」
チナも俺の背中から身軽に地面に下り、セリシアに発破をかける。
「あの、お名前はなんとおっしゃるのですか!?」
「俺はセイ、もしかすると君とはまた会うこともあるかもしれん」
「は、はい。セイ様、ありがとうございました。このお礼は必ずさせていただきます。お言葉に甘え、今は失礼いたします!」
セリシアは俺を見上げ早口で礼を告げると、弾かれたように駆け出した。彼女の姿は正門ではなく、その数メートル先にある従業者用の通用門に消えた。
「チナ、すまんが今晩風呂の付いた部屋には泊まれそうにないがいいか?」
「もちろんよ」
俺の問いかけに、チナはしたり顔で頷いた。どうやら彼女は今の台詞で、俺の意図を全て察したようだった。
……とても五歳とは思えんな。俺は内心で、チナの聡明さに舌を巻いた。
チナの頭をワシャワシャと撫でてから、迷いのない手つきで正門の横に設えられた呼び鈴を鳴らす。
すると、幾らもせず中から応答があった。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「巡礼で教会を回っている。今夜の宿泊をこちらでお願いしたい」
「当教会は、事前に紹介のあった巡礼者様以外の宿泊を全てお断りしております。お帰りください」
居丈高に言い放たれるが、別段気を悪くすることもない。むしろ、けんもほろろな対応は端から想定していた通りだ。
「事前紹介はないが、火の筆頭侯爵・アルバーニ様の紋状ならば持っている」
僅かな逡巡の後、俺は一年前に出会ったアルバーニ様の名前を出した。
「なんと!? しばしお待ちくださいませ」
――ギィイイイ。
俺が『アルバーニ様の紋状』と口にした直後、重厚な両開きの門戸が中から引き開けられていく。
チナはギョッとしたように俺の足に縋り、ゆっくりと開かれていく門戸と俺を交互に見つめていた。
ヴィルファイド王国民なら、火・水・風・土・光・闇の六つの魔力属性を冠し、王族と並ぶ権威と権限を有する筆頭六侯爵の存在をほんの幼子でも知っている。そうして筆頭六侯爵が真に信頼を置いた者にのみ託す紋状の存在もまた周知だ。
珍しいことに筆頭六侯爵の爵位というのは世襲ではない。そうして、侯爵が己の紋状を託せる者は、生涯においてただひとり。紋状は侯爵からの厚い信頼の証であり、お墨付きなのだ。だからこそ、その紋状を授かった者は、有事において筆頭六侯爵その人と同等の権力行使まで認められている。同様に、これを明かせば平時にあっても様々な優遇が受けられることは想像に難くない。
蛇足だが、かつて俺が一週間だけ所属したパーティにいた勇者・アレックは、風の筆頭侯爵の息子だ。奴のことを思い出す度、つくづく筆頭侯爵の爵位が世襲でなくてよかったと、俺は安堵の胸を撫で下ろす。
門戸が完全に開ききると、中から教会職員を示す白いローブに身を包んだ初老の男が姿を現した。俺はすかさず胸ポケットから紋状を取り出して翳す。
「私は当教会の初級魔導士・フレンネルと申します。アルバーニ様の紋状をお持ちとは知らず、大変失礼をいたしました」
紋状を認めた瞬間、フレンネルと名乗った男は先ほどまでの態度とは一転し、平身低頭で俺たちを出迎えた。
「俺はセイ、これは連れのチナツだ。巡礼途中ゆえこのような旅装束のままだが許せよ。見ての通り俺は縁あってアルバーニ様より紋状を託されている。今晩の宿泊を頼めるな」
常とは異なる俺の口調と態度に、チナはますます驚きが隠せない様子だった。
「もちろんでございます。長旅でさぞお疲れでございましょう。急なことゆえ至らぬ部分もありましょうが、精一杯お迎えさせていただきます。どうぞ心ゆくまでお過ごしください。また、教会長と聖女からも一度ご挨拶をさせていただきたく――」
「たしかに疲れた。早く腰を下ろし、熱い茶で一服がしたい」
セリシアの様子が気が気でなく長口上に焦れていた俺は、フレンネルの言葉尻を割って尊大に言い放つ。
「これは長々と立ち話を失礼いたしました! ささ、どうぞ中にお入りください」
フレンネルは頭を下げ、即座に俺たちを招き入れた。
――パシンッ!
俺が教会の敷地内に一歩踏み出したその時、周囲になにかを打つような鋭い音が響いた。
「セイ様!? お待ちください!」
背中にかかるフレンネルの制止を無視し、素早く音があがった方向に駆ける。教会の建屋を回り込み、裏側に回り込む。
俺が仁王立ちになった赤毛の女性とその足元に伏したセリシアの姿を認めるのと同時に、厳しい叱責の声が響く。
「遅い! どれだけ待たせたと思っている!?」
上等な絹地をふんだんに用いた派手なドレスを見るに、女性はおそらくこの教会の聖女だろう。聖女はセリシアに向かい髪を振り乱し、悪鬼のごとき表情で喚き立てる。
その姿はまさに醜悪のひと言につき、品位もなにもあったものではない。さらに聖女はドレスだけでなく、全身を過剰なほどの宝飾品でゴテゴテと飾り立てていた。
「イライザ様、申し訳ございません」
俺は憤慨を露わにするイライザと呼ばれた聖女と地面に額を擦り付けて詫びるセリシアを前にして、一瞬で状況を理解する。
謝罪を口にする彼女の頬は赤く腫れ、あろうことか唇の端が小さく切れてしまっていた。その傷はおそらく、小さな突起物かなにかが当たってできた物。そうして、派手な出で立ちの聖女イライザの両手の指の幾つかには、輝石が煌く指輪が嵌まっていた。
これらから導き出される答えはひとつだ――。
「お前は言いつけられた用事ひとつ満足にこなせないのか、このグズが!」
っ、いかん!!
激昂した女性が大きく手を振りかぶるのを目にし、俺はすかさず前に飛び出した。ふたりの間に割って入り、セリシアをしっかりと背中に庇いながら、わざと大仰な口ぶりと仕草で語る。
「おぉおぉ! なんと煌びやかなお姿か! よもや、あなた様が巷で噂の『癒しの聖女様』では!?」
「なんだお前は!? なんの許可があってここにいる!?」
突如割り込んで現れた俺に、イライザは虫けらでも見るような目を向けた。
「これはこれは。私は今宵の宿をこちらにお願いしたくまいった次第で」
「ほざけ! ここはお前のような薄汚い貧乏人が使える場所ではない! 早々にここを退き、安宿にでも移れ!」
「ふむ。よもやこちらに滞在するに、金銭が必要とは思わなかったが……。どれ、これくらいで足りようか?」
言うが早いか、俺は懐から金貨が詰まった革袋を二、三袋取り出して彼女の前に積み上げる。
大量の金貨を前に、イライザはまさに鳩が豆鉄砲を食ったよう、そんな様相で立ち尽くした。
普通に旅をしている中で、こうもあからさまに金銭を要求される状況などそうそうあるものではない。この街に来る前に折よく次元獣をギルドに持ち込んで換金していたが、まさかこんな用途で役立とうとは思ってもみなかった。
「せ、聖女様っ! そちらはセイ様と申しまして、筆頭六侯爵のおひとりアルバーニ様の紋状を授かったお方でございます!」
「なんだと!?」
息を切らしながら遅れてやって来たフレンネルが慌てて耳打ちすれば、イライザはギョッと目を剥いた。
「巡礼中ゆえ、このような薄汚い旅装束のまま訪れてしまったことは、平にご容赦を」
「まぁまぁ! 『薄汚い』など、めっそうもない。セイ様は紋状を授かるに相応しい気品に溢れているというのに、私としたことがとんだ早とちりをしてしまいました。先の私は少々目をおかしくしていたのです。どうかお許しくださいませ」
金と権力を前に、イライザはコロッと態度を一転させた。彼女の変わり身は、いっそ清々しいほどだった。
「なに。こちらが事前連絡もなしに急に押しかけてきたのだ、謝罪には及ばん」
「えぇっと、こちらはどういたしましょう? お返しさせていただいた方が……?」
イライザは金貨の詰まった袋を手に形ばかりの問いを口にするが、俺に返そうとする素振りはない。
「それは既にそちらにお渡ししたもの。俺は一度出したものを引っ込めるほど器の小さな人間ではない」
「まぁ! それではありがたくちょうだいいたします。天主は全て見ておられるのです。ですから、きっとセイ様には天からの加護がございますわ!」
イライザがどこまで本気で語っているのかはわからんが、その言葉通り天主が金銭によって忖度を与える存在ならば、世界は終わりだ。
先に告げた通り、差し出した金を惜しいとは思わない。しかし、それらは彼女の贅沢のためではなく、窮する民草のために使われて欲しい。
「そう言えば、道中で小耳に挟んだのだが、去年の長雨の際に街の西を流れる大川の川縁が大量の土石流によってかなり浚われてしまったとか。近隣住民らは、次に大雨が降ったら川が決壊してしまうのではないかと心配していた」
「はっ?」
俺が道中の馬車内で小耳に挟んだ話題を口にすれば、イライザは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして俺を見返した。
「その金額があれば川の護岸工事が叶う。自然災害による被害は、当然天主も望むまい。ふむ、きっとお喜びになるな!」
大金が自由に使えると思い喜びかけていたのだろう、イライザの聖女の顔が見る間に苦々しげに歪む。
そうかといって、彼女が俺の正論に異議を唱える余地はない。
「な、なるほど。……さっそく、手配をいたしましょう」
結局、イライザは強張った笑みを浮かべ不承不承に頷いた。
「なにをぐずぐずしている!? 早う客間を整えてこんか」
俺とイライザの後ろで、フレンネルが地面に膝を突いたままのセリシアを怒鳴りつける声にハッとして振り返る。
「申し訳ございません」
「待て! セリシアと言ったな、俺たちの客間は最低限の寝具が揃っていればいい。部屋の整えは不要だから、このまま客間に案内せよ」
即座に立ち上がり駆けていこうとするセリシアを制止し、案内を命じる。
あえてセリシアとはこれが初対面のふうを装った。
「し、しかし……」
セリシアは戸惑いを滲ませ、俺とフレンネルを交互に見つめた。
「フレンネル、長旅で連れも疲れている。早々に部屋で腰を下ろし、ひと息つきたい。不足の物があれば、部屋でセリシアに申し伝える。下がらせてもらうぞ」
「セイ様がそうおっしゃるのであれば、ぜひそのように。……セリシア、セイ様とチナツ様にくれぐれも失礼のないようにご案内するのだぞ」
俺がこんなふうに言い切れば、フレンネルが否やを唱えられるわけもなく、セリシアに向かって居丈高に案内を命じた。
「承知いたしました。どうぞこちらへ」
セリシアの先導でイライザとフレンネルの前をすり抜け、教会の正面玄関をくぐる。そうして回廊を進み、突き当たった一等豪華な両開きの扉の先に続く客間へと通された。
「わー! いい景色~」
チナは馬車が走り出してから、ずっと車窓に張り付いて移ろう景色を眺めながらはしゃいでいた。
彼女の嬉しそうな様子を見ていると、俺の頬も自然と緩んだ。
「チナ、これを尻の下に敷いておくといい。まだまだ先は長い。あんまりはしゃぎすぎると、体力がもたないぞ」
俺は荷物袋から敷物を取り出して、隣のチナに差し出した。
座ったまま目的地まで早く行ける馬車は快適ではあるが、長時間の乗車となればそれなりに疲れるものだ。特に小さな子供なら、なおさらだろう。
「全然平気! お兄ちゃんと一緒に馬車にのって、外の景色を眺めて、わたし、こんなに楽しいのは初めてよ」
チナは俺の心配をよそに、元気いっぱいで答えた。
「……でも、敷物はありがとう。本当はちょっとお尻が痛かったの」
はにかんだ笑顔でされたカミングアウトと、敷物に向かっていそいそと伸ばされた小さな手がとても可愛らしい。
俺は片腕でチナの脇腹をヒョイと掴んで軽々と持ち上げると、反対の手で彼女の座席の上に敷物を置く。
「わっ! ふわふわで快適」
敷物の上にそっと下ろしてやれば、彼女はにっこりと笑ってみせた。
「そうか」
チナの頭をワシャワシャと撫でながら、口角の緩みを自覚していた。
「……チナ、俺もお前と同じだ」
「え?」
「お前と並んで、こうして車窓から移ろう景色を眺める。こんなに楽しいことはない」
「お兄ちゃんったら、わたし、言ったじゃない。……そういうのは、簡単に言っちゃいけないんだから」
言葉とは裏腹、チナは俺の腕に甘えるようにすり寄った。どこか小動物を思わせる彼女の仕草に、思わず笑みがこぼれた。
チナとふたりで旅を始めてから、無機質な俺の日常は一変し、笑顔があふれていた。
二日後。
乗合馬車を乗り継ぎ、俺たちは地方都市グルンガに降り立っていた。
「ここが地方都市グルンガか……」
停車場は街の端だが、それでも多くの人々が行き交って活気が伝わってきた。中央の広場に向かえば、さらに賑わっているのだろう。
「大きい街! 人がいっぱい! それに、お店も!」
地方教会があるのは、往々にして大都市だ。逆を言えば、教会があることで人や物が集まって来るのだ。
「街の散策もいいが、ひとまず今晩の宿を確保するか。これだけの都市だ、きっと部屋に風呂の付いた宿もあるぞ」
「やったぁ!」
今にもひとりで駆け出してしまいそうなチナの腕を取って、飲食店や宿が軒を連ねる通りへと足を進める。
古びた外観の小間物屋の前を通りがかった時、ちょうど中から扉が開け放たれた。
見るともなしに視線を向ければ、店内から中年の夫婦と草臥れたワンピースの少女が姿を現した。
「急に呼び止めちまって悪かったね。だが、あんたの薬で娘はずいぶんと呼吸が落ち着いてきた」
引き開けた扉に手をかけたまま、婦人が丁寧に礼を告げる。
「本当にあんたは娘の命の恩人だよ。それなのに礼にこんな物しか持たせてやれなくて、すまないな」
婦人の隣に立った男性も続ける。
「とんでもない。私の薬草は症状を和らげる手助けをするだけです。これも全ては、お嬢さんが備えていた生命力と体力によるところです。こんなにいただいてしまって、逆に申し訳ないです」
最初に認識したのは澄んだ声。次いで、扉を潜って通りに現れた少女を認め、その眩いほどの金髪に息を呑んだ。
年の頃は十六、七歳。少女はほっそりとした体形に、整った目鼻立ちをしていた。だけどなにより目を引いたのは、澄んだ菫色の瞳と月光を溶かしたみたいな金髪。
そうして少女からは、不思議な気品のようなものを感じた。
「セリシア、なにを言ってるんだい。たとえそうだとしても、あんたの薬が咳の発作で苦しむあの子を楽にしてくれたよ」
「そうだ。分かっちゃいたが、やはり聖女はこっちの足元を見て、娘のために薬ひとつ調合しちゃくれなかった」
「おばさん、おじさん……。本音を言うと、いただいた道具類はとてもありがたいです。ちょうだいして、今後の調薬に使わせてもらいます」
セリシアと呼ばれた少女は、そう言って腕の中の紙袋を大切そうに抱え直した。
「ああ。ぜひ、そうしとくれ」
「あの、それではすみませんが私はこれで失礼いたします」
「気を付けてお帰りよ」
「はい」
ふたりに挨拶を済ませるとセリシアは店を飛び出し、俺たちの横をすり抜けて走って行った。
その時に一瞬だけ見えた彼女の横顔は、パッと見にも相当焦っているように見えた。
「失礼。彼女はこの街の薬師かなにかか?」
彼女の素性が気になった俺は、店の扉が閉ざされる前に夫婦の元に歩み寄って尋ねた。
「いや、セリシアは教会の下働きの娘だ。別に薬師を謳ってるわけじゃないが、ちょっとの不調や怪我ならあの子の薬で治っちまう。富裕層を除けばこの街の者は皆、あの子に助けられているよ」
「教会? それは『癒しの力を持つ聖女』がいると噂のグルンガ地方教会か?」
「あんたたち、この街の者じゃないね。もしかして、聖女様の癒しを求めてやって来たクチかい? 可哀想だが、聖女の治療は受けられないよ」
「なぜだ? 聖女が瀕死の重傷を負った兵士を回復させたというのはデマだったのか?」
夫婦は俺たちを聖女の治療を求めてやって来た巡礼者と思ったようで、声を低くして教えてくれる。
「その噂は間違いじゃないが、聖女様の癒しは金と権力のある者限定だ。治療を受けるには、教会幹部からの紹介状を持って訪ねるか、金を積むかしかない。ただし、あたしら一般市民にゃ到底用意できないほどの大金を用意せにゃ、見向きだってしてもらえない」
夫人は憤慨した様子でさらに続ける。
「うちも一昨日、なけなしの金を持っていって教会の門戸の前で頭を下げたが門前払いされた。セリシアはその時の様子を見ていたようで、さっそく自作した薬草を持って訪ねてきてくれたんだ。それで一旦症状が落ち着いたんだが、今日は今朝から娘の調子が悪くてね。そうしたら偶然セリシアが通りがかってね、声をかけたらこうしてわざわざ追加の薬を持って来てくれたんだよ」
亭主は夫人の言葉にうんうんと頷き、セリシアへの感謝を滲ませて口を開いた。
「貰った薬を飲ませたら、娘の激しい咳の発作があっという間に静まった。セリシアには頭が下がる。とはいえ、ちょっとした軟膏や湿布薬ならいざ知らず、まさか咳止めまで作っちまうとは思わなかったけどな」
薬草を素材とした天然成分だけで咳を止めることはなかなか難しい。だから腕のいい薬師でも、咳止め薬は気休め程度の効果しか発揮しないことも多かった。
これを聞くに、彼女がかなり調薬の技術に優れているのは瞭然だった。
「ほう。薬師を生業にしている者でも咳止め薬の調合は難しいと聞く。……まさか、彼女は調薬に光魔力を使っているのか?」
「はははっ、それはない。光属性は持っているそうだが、セリシアはシンコだ。調薬に使うほどの魔力はないだろうよ」
「え? あのお姉ちゃんもシンコなの!?」
セリシアがシンコという事実に、チナが真っ先に反応した。
「ああ、シンコというのを理由にあの子は教会でも肩身の狭い思いをしているよ。両親を亡くして教会に引き取られてから、朝から晩までずっと聖女の世話や家事仕事にこき使われている。だがね、たとえ癒しの力がなくたって、あたしらに言わせりゃ教会の奥で金と権力に胡坐をかいて座ってる聖女より、セリシアの方がよっぽど聖女の名に相応しいさ」
「その通りだな」
「そう言えば、前にあの子が教えてくれたっけ。薬剤の調合をする時は、いつだって心の中で光の魔力に祈りながらしてるってね」
「ほう、彼女がそんなことを」
……祈り。
俺はこの一語を耳にすると、いつだって思わずにいられない。
祈りというのは、皆が想像するよりも遥かに大きな力と可能性を秘めている。
……そう。俺が新魔創生をなし得、次元操作の使い手となったように。
強い意志で希う、それこそが全ての源となるのだ。
「病の娘さんがいるというのに引き止めてしまってすまなかったな。だが、色々聞かせてもらえてよかった」
「なに、かまいやしないよ。それより、さっきも言ったように目玉が飛び出るほどの大金を持っているんじゃなけりゃ、聖女の治療は諦めて腕のいい薬師でもあたった方がいい。セリシアを頼るにしても、たぶん今日はもう難しい。夕方から夜は夕食の支度から聖女の身の回りの世話だなんだって、あの子は大忙しだ」
「そうか。ならば明日、改めて彼女を訪ねるとしよう」
夫婦に別れを告げ、再び通りを進み始める。
通り沿いの宿屋を数軒素通りしたところで、チナが俺の袖を引いた。
「お兄ちゃん、今晩の宿を取らないの?」
「別れ際の彼女の様子が少し気になる」
「え?」
婦人は、セリシアは夕方から夜にかけて忙しいと言っていたが、今はまだ正午を回ってさほど時間が経っていない。それにしては、俺の横をすり抜けていく彼女はひどく慌てていた。
「宿は後にして、地方教会に行ってみよう」
もしかすると、なにか特別な用事が控えていたり、言いつけられた用事の途中で帰りを急いでいたりしたのではないか。
帰りが遅くなったことで聖女や魔導士たちから叱責を受けていなければいいが……。
「わっ!?」
俺はチナを掬うように片腕に抱き上げると、地方教会へと続く大通りを走りだす。
地方教会の場所は、誰に尋ねるまでもなかった。
大通りの先には、他の家々や商店より頭ひとつ抜きんでた地方教会の建物が見て取れた。王都オルベルの聖魔法教会には及ばないが、煌びやかな装飾の尖塔が一際存在感を放っていた。
教会までの距離は、目算でおよそ一キロ。うまくすれば、セリシアに追いつけるかもしれん。
「チナ、少し急ぐぞ」
「っ、うん」
チナがキュッと肩を掴むのを確認し、俺は一気に速度を上げた。
「ありがとう、セリシアお姉ちゃん」
ところが、大通りをほんの数十メートルほど進んだところでセリシアの名前を耳にして足を止めた。
声は大通りに繋がる細い横道から聞こえてきた。俺は即座に大通りを曲がり、横道へと駆け出した。
「どういたしまして。これからも錆びた鉄くぎや金属屑なんかを踏んじゃった時は、すぐに言ってちょうだい。ちゃんと消毒をしないと、後々大変なことになってしまうから」
横道を少し行くと、道の端にしゃがみ込むセリシアと七、八歳くらいの少年の姿を認めた。俺はチナを一旦地面に下ろし、二人のやり取りを注視した。
少年は裸足で、その右足には真っ白な包帯が巻かれていた。どうやらセリシアは、帰り道で行き合った子供の足の怪我を治療してやっていたらしい。
治療に使った道具類を鞄にしまいながら、優しげな笑みで少年に伝えていた。
「うん! それじゃあセリシアお姉ちゃん、本当にありがとう!」
「気を付けて」
セリシアは少年を見送ると鞄を掴み、スックと立ち上がって大通りに向かって走り出す。
俺たちの横をすれ違いざま、彼女の唇がほんの微かに動いた。
「……だめだわ、もう間に合わない」
悲愴感の篭もった小さな呟きが耳を打った次の瞬間、俺は動いていた。
「失礼、ずいぶん急いでいるようだ。俺が教会まで送らせてもらう」
「えっ!? き、きゃあっ!」
セリシアに並び、ひと声かけてから膝裏と背中に手をあてて掬うように横抱きにする。
初めは目を丸くしていたセリシアだったが、浮遊感にハッとした様子で俺の肩を掴んだ。
「あ、あなたたちはいったい!?」
困惑を全面にするセリシアに、チナが足元から声をあげる。
「大丈夫だよ、セリシアお姉ちゃん! お兄ちゃんは、誰よりも信頼できる人よ」
元気よく言い募るチナを認め、セリシアがパチパチと目を瞬く。
「すまんが、詳しい説明は後だ。チナ、お前も俺にしっかり掴まっていろ」
「うん!」
俺が体勢を低くすると、チナはピョンッと跳び上がって俺の肩に両手を回し、背中にしっかりと掴まった。
俺はセリシアを抱き、チナを負ぶって、次元操作を発動した。
――ブワァアアーーッ。
魔力が俺たちを包み込み、全身がふわりと宙に浮き上がる。浮遊感はほんの一瞬で、再び足が地面を踏みしめる感覚が戻る。
次元操作の効力は絶大だ。
セリシアを抱き上げてほんのひと呼吸の後には、俺たち三人は教会の正門の前に立っていた。
「……嘘でしょう?」
目の前の光景が信じられないというように、セリシアが腕の中で呆然と呟いた。
「刻限が迫っているんだろう? さぁ、急いで行くんだ」
俺は彼女を丁寧に地面に下ろし、トンッとその背を押した。
「セリシアお姉ちゃん、早く早く」
チナも俺の背中から身軽に地面に下り、セリシアに発破をかける。
「あの、お名前はなんとおっしゃるのですか!?」
「俺はセイ、もしかすると君とはまた会うこともあるかもしれん」
「は、はい。セイ様、ありがとうございました。このお礼は必ずさせていただきます。お言葉に甘え、今は失礼いたします!」
セリシアは俺を見上げ早口で礼を告げると、弾かれたように駆け出した。彼女の姿は正門ではなく、その数メートル先にある従業者用の通用門に消えた。
「チナ、すまんが今晩風呂の付いた部屋には泊まれそうにないがいいか?」
「もちろんよ」
俺の問いかけに、チナはしたり顔で頷いた。どうやら彼女は今の台詞で、俺の意図を全て察したようだった。
……とても五歳とは思えんな。俺は内心で、チナの聡明さに舌を巻いた。
チナの頭をワシャワシャと撫でてから、迷いのない手つきで正門の横に設えられた呼び鈴を鳴らす。
すると、幾らもせず中から応答があった。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「巡礼で教会を回っている。今夜の宿泊をこちらでお願いしたい」
「当教会は、事前に紹介のあった巡礼者様以外の宿泊を全てお断りしております。お帰りください」
居丈高に言い放たれるが、別段気を悪くすることもない。むしろ、けんもほろろな対応は端から想定していた通りだ。
「事前紹介はないが、火の筆頭侯爵・アルバーニ様の紋状ならば持っている」
僅かな逡巡の後、俺は一年前に出会ったアルバーニ様の名前を出した。
「なんと!? しばしお待ちくださいませ」
――ギィイイイ。
俺が『アルバーニ様の紋状』と口にした直後、重厚な両開きの門戸が中から引き開けられていく。
チナはギョッとしたように俺の足に縋り、ゆっくりと開かれていく門戸と俺を交互に見つめていた。
ヴィルファイド王国民なら、火・水・風・土・光・闇の六つの魔力属性を冠し、王族と並ぶ権威と権限を有する筆頭六侯爵の存在をほんの幼子でも知っている。そうして筆頭六侯爵が真に信頼を置いた者にのみ託す紋状の存在もまた周知だ。
珍しいことに筆頭六侯爵の爵位というのは世襲ではない。そうして、侯爵が己の紋状を託せる者は、生涯においてただひとり。紋状は侯爵からの厚い信頼の証であり、お墨付きなのだ。だからこそ、その紋状を授かった者は、有事において筆頭六侯爵その人と同等の権力行使まで認められている。同様に、これを明かせば平時にあっても様々な優遇が受けられることは想像に難くない。
蛇足だが、かつて俺が一週間だけ所属したパーティにいた勇者・アレックは、風の筆頭侯爵の息子だ。奴のことを思い出す度、つくづく筆頭侯爵の爵位が世襲でなくてよかったと、俺は安堵の胸を撫で下ろす。
門戸が完全に開ききると、中から教会職員を示す白いローブに身を包んだ初老の男が姿を現した。俺はすかさず胸ポケットから紋状を取り出して翳す。
「私は当教会の初級魔導士・フレンネルと申します。アルバーニ様の紋状をお持ちとは知らず、大変失礼をいたしました」
紋状を認めた瞬間、フレンネルと名乗った男は先ほどまでの態度とは一転し、平身低頭で俺たちを出迎えた。
「俺はセイ、これは連れのチナツだ。巡礼途中ゆえこのような旅装束のままだが許せよ。見ての通り俺は縁あってアルバーニ様より紋状を託されている。今晩の宿泊を頼めるな」
常とは異なる俺の口調と態度に、チナはますます驚きが隠せない様子だった。
「もちろんでございます。長旅でさぞお疲れでございましょう。急なことゆえ至らぬ部分もありましょうが、精一杯お迎えさせていただきます。どうぞ心ゆくまでお過ごしください。また、教会長と聖女からも一度ご挨拶をさせていただきたく――」
「たしかに疲れた。早く腰を下ろし、熱い茶で一服がしたい」
セリシアの様子が気が気でなく長口上に焦れていた俺は、フレンネルの言葉尻を割って尊大に言い放つ。
「これは長々と立ち話を失礼いたしました! ささ、どうぞ中にお入りください」
フレンネルは頭を下げ、即座に俺たちを招き入れた。
――パシンッ!
俺が教会の敷地内に一歩踏み出したその時、周囲になにかを打つような鋭い音が響いた。
「セイ様!? お待ちください!」
背中にかかるフレンネルの制止を無視し、素早く音があがった方向に駆ける。教会の建屋を回り込み、裏側に回り込む。
俺が仁王立ちになった赤毛の女性とその足元に伏したセリシアの姿を認めるのと同時に、厳しい叱責の声が響く。
「遅い! どれだけ待たせたと思っている!?」
上等な絹地をふんだんに用いた派手なドレスを見るに、女性はおそらくこの教会の聖女だろう。聖女はセリシアに向かい髪を振り乱し、悪鬼のごとき表情で喚き立てる。
その姿はまさに醜悪のひと言につき、品位もなにもあったものではない。さらに聖女はドレスだけでなく、全身を過剰なほどの宝飾品でゴテゴテと飾り立てていた。
「イライザ様、申し訳ございません」
俺は憤慨を露わにするイライザと呼ばれた聖女と地面に額を擦り付けて詫びるセリシアを前にして、一瞬で状況を理解する。
謝罪を口にする彼女の頬は赤く腫れ、あろうことか唇の端が小さく切れてしまっていた。その傷はおそらく、小さな突起物かなにかが当たってできた物。そうして、派手な出で立ちの聖女イライザの両手の指の幾つかには、輝石が煌く指輪が嵌まっていた。
これらから導き出される答えはひとつだ――。
「お前は言いつけられた用事ひとつ満足にこなせないのか、このグズが!」
っ、いかん!!
激昂した女性が大きく手を振りかぶるのを目にし、俺はすかさず前に飛び出した。ふたりの間に割って入り、セリシアをしっかりと背中に庇いながら、わざと大仰な口ぶりと仕草で語る。
「おぉおぉ! なんと煌びやかなお姿か! よもや、あなた様が巷で噂の『癒しの聖女様』では!?」
「なんだお前は!? なんの許可があってここにいる!?」
突如割り込んで現れた俺に、イライザは虫けらでも見るような目を向けた。
「これはこれは。私は今宵の宿をこちらにお願いしたくまいった次第で」
「ほざけ! ここはお前のような薄汚い貧乏人が使える場所ではない! 早々にここを退き、安宿にでも移れ!」
「ふむ。よもやこちらに滞在するに、金銭が必要とは思わなかったが……。どれ、これくらいで足りようか?」
言うが早いか、俺は懐から金貨が詰まった革袋を二、三袋取り出して彼女の前に積み上げる。
大量の金貨を前に、イライザはまさに鳩が豆鉄砲を食ったよう、そんな様相で立ち尽くした。
普通に旅をしている中で、こうもあからさまに金銭を要求される状況などそうそうあるものではない。この街に来る前に折よく次元獣をギルドに持ち込んで換金していたが、まさかこんな用途で役立とうとは思ってもみなかった。
「せ、聖女様っ! そちらはセイ様と申しまして、筆頭六侯爵のおひとりアルバーニ様の紋状を授かったお方でございます!」
「なんだと!?」
息を切らしながら遅れてやって来たフレンネルが慌てて耳打ちすれば、イライザはギョッと目を剥いた。
「巡礼中ゆえ、このような薄汚い旅装束のまま訪れてしまったことは、平にご容赦を」
「まぁまぁ! 『薄汚い』など、めっそうもない。セイ様は紋状を授かるに相応しい気品に溢れているというのに、私としたことがとんだ早とちりをしてしまいました。先の私は少々目をおかしくしていたのです。どうかお許しくださいませ」
金と権力を前に、イライザはコロッと態度を一転させた。彼女の変わり身は、いっそ清々しいほどだった。
「なに。こちらが事前連絡もなしに急に押しかけてきたのだ、謝罪には及ばん」
「えぇっと、こちらはどういたしましょう? お返しさせていただいた方が……?」
イライザは金貨の詰まった袋を手に形ばかりの問いを口にするが、俺に返そうとする素振りはない。
「それは既にそちらにお渡ししたもの。俺は一度出したものを引っ込めるほど器の小さな人間ではない」
「まぁ! それではありがたくちょうだいいたします。天主は全て見ておられるのです。ですから、きっとセイ様には天からの加護がございますわ!」
イライザがどこまで本気で語っているのかはわからんが、その言葉通り天主が金銭によって忖度を与える存在ならば、世界は終わりだ。
先に告げた通り、差し出した金を惜しいとは思わない。しかし、それらは彼女の贅沢のためではなく、窮する民草のために使われて欲しい。
「そう言えば、道中で小耳に挟んだのだが、去年の長雨の際に街の西を流れる大川の川縁が大量の土石流によってかなり浚われてしまったとか。近隣住民らは、次に大雨が降ったら川が決壊してしまうのではないかと心配していた」
「はっ?」
俺が道中の馬車内で小耳に挟んだ話題を口にすれば、イライザは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして俺を見返した。
「その金額があれば川の護岸工事が叶う。自然災害による被害は、当然天主も望むまい。ふむ、きっとお喜びになるな!」
大金が自由に使えると思い喜びかけていたのだろう、イライザの聖女の顔が見る間に苦々しげに歪む。
そうかといって、彼女が俺の正論に異議を唱える余地はない。
「な、なるほど。……さっそく、手配をいたしましょう」
結局、イライザは強張った笑みを浮かべ不承不承に頷いた。
「なにをぐずぐずしている!? 早う客間を整えてこんか」
俺とイライザの後ろで、フレンネルが地面に膝を突いたままのセリシアを怒鳴りつける声にハッとして振り返る。
「申し訳ございません」
「待て! セリシアと言ったな、俺たちの客間は最低限の寝具が揃っていればいい。部屋の整えは不要だから、このまま客間に案内せよ」
即座に立ち上がり駆けていこうとするセリシアを制止し、案内を命じる。
あえてセリシアとはこれが初対面のふうを装った。
「し、しかし……」
セリシアは戸惑いを滲ませ、俺とフレンネルを交互に見つめた。
「フレンネル、長旅で連れも疲れている。早々に部屋で腰を下ろし、ひと息つきたい。不足の物があれば、部屋でセリシアに申し伝える。下がらせてもらうぞ」
「セイ様がそうおっしゃるのであれば、ぜひそのように。……セリシア、セイ様とチナツ様にくれぐれも失礼のないようにご案内するのだぞ」
俺がこんなふうに言い切れば、フレンネルが否やを唱えられるわけもなく、セリシアに向かって居丈高に案内を命じた。
「承知いたしました。どうぞこちらへ」
セリシアの先導でイライザとフレンネルの前をすり抜け、教会の正面玄関をくぐる。そうして回廊を進み、突き当たった一等豪華な両開きの扉の先に続く客間へと通された。