宿に着くと部屋をツインで取り直し、チナを伴って客室に向かう。
「わぁ! わたし、宿にお泊りって初めて!」
 チナは奥のベッドにボフッとダイブして、楽しそうな声をあげた。
「そうか。とはいえ、大きな都市ばかりを選んで旅しているわけではないから、毎回宿があるとは限らん。すまんが、今後は野宿で過ごす晩もでてしまうだろう」
「お兄ちゃんとお外で夜明かしなんて楽しみ!」
「はははっ、そうか。チナはなかなか肝が据わっているな。頼もしい限りだ」
 俺は荷物を自分のベッドの脇に置くと、壁掛け時計に目を向ける。
「さて、晩飯にはまだ間があるな。風呂でも入りにいくか」
「え? お風呂?」
「ああ、この宿には時間制で利用できる風呂があるんだ。利用客が少ないこの時間なら、十中八九空いている」
「わぁ、行く行く!」
 チナは嬉しそうに、買ったばかりの新品の石鹸とタオルを抱えた。
 俺は微笑ましい思いで、チナを片手に抱き上げて歩きだす。
「お兄ちゃん、わたし自分で歩けるよ?」
「俺がこうしたいんだ」
「へへっ」
 チナは嬉しそうに俺の肩に抱きついた。そのまま、客室を出て宿の廊下を進む。
 親もなく、孤児院でも弾かれ者……。そんな境遇にあってチナは明るさを失わず、どこまでも健気だ。
 彼女を前にすると、胸が切なくなるような不思議な心地を覚える。
 この感情は、親が子に抱く庇護欲のようなものだろうか。とにかく、肩にかかる重みと、子供特有の少し高い人肌の温度が、とても大切に感じられた。守ってやりたいと、強く思った。
「お兄ちゃん、どうかした?」
 頭上から掛けられたチナの声で、束の間の物思いは終わりをみた。俺は緩く首を横に振り、目の前に並んだ貸し風呂の扉の前で足を止めた。
「いいや、なんでもない。……さて、ここだな」
 幾つか並ぶ貸し風呂の扉は、ほとんどが【空】の札になっていた。
「お、これは運がいいぞ、選び放題だ。チナ、せっかくだ。露天にするか?」
「え? う、うん」
 チナは小首を傾げ、次いでコクコクと縦に振った。
 幾つかある貸し風呂の中から、石組みの露天を選ぶと扉の札を【満】に変え、中に入った。
 脱衣所で手早く衣服を脱いで籠に押し込むと、さっそく風呂に飛び出した。
「わー! お風呂がお外にある!」
 チナの反応を見て、先の彼女の態度にも合点がいく。チナは、露天風呂の意味がわかっていなかったのだ。
「夜に月を眺めながら浸かるのもオツだが、昼間にお天道様を浴びながら風呂に入るのも悪くない。これが、なかなかクセになる。さぁチナ、先に体を流してやろう」
「えー? わたし、自分で洗えるよ」
「そうだったか。ところで、チナは幾つだ?」
 並んで流し場に腰掛け、体を洗いながらふと気になって尋ねた。
「五歳よ」
 チナは水色の髪を泡立てた石鹸で洗いながら答えた。
 耳にして、俺の肩がピクンと揺れる。
 ……五歳。
 その見た目以上にチナが聡いからつい忘れてしまいそうになるが、本来彼女はまだ親の庇護下にあるべき年齢なのだ。
「そうか」
「お兄ちゃんは、なん歳?」
「俺は十八だ」
 一拍の間を置いて、この世界での実年齢を答える。
「ずっとひとりで旅をしているの?」
 モコモコにした泡で頭のみならず、全身を洗いながら、チナはさらに質問を重ねてくる。
「ああ」
「へぇ~。旅はいつまで続けるの? もしかして、なにか目的があるの?」
 チナは、きっとなんの気なく尋ねただけ。しかし、彼女からされたこの質問に、俺の胸の奥が熱く疼いた。
 俺の旅には目的がある。……それは、両親の死の真相を知ること。
 そして両親の死に関与した者がいたのなら、仇を討つ。これこそが、俺の旅の最終的な目的だった。
 三年前、村に戻った俺はずっと自分が思い違いをしていたことを知った。それに気づかせてくれたのは両親の日記で、二人は次元獣に殺されたのではなかった。両親はこの世界のタブーを知り、葬り去られたのだと俺は確信した。
「そうだな、ある程度情報が集まったら、いったん旅は終え王都オルベルハイドに行く」
 適当に誤魔化すこともできたが、チナに嘘はつきたくなかった。
 だから、事実の部分だけをかいつまんで伝えた。
「オルベルに!? いいなぁ~、白亜のヴィルファイド王宮を見てみたいな。だけど王宮より、豪華だって評判なのは聖魔法教会よね。わたし、綺麗なステンドグラスを持つ教会を絵はがきで見た……っ、いたたたたっ!」
 チナが興奮気味に目を丸くして叫ぶが、どうやら途中で泡が目に入ってしまったようで、わたわたと手探りで桶を探し始める。
「ほら、お湯をかけるぞ」
「うん……! ふぁ~、助かったぁ」
 俺が桶でお湯をかけ、泡を流してやると、チナはプルプルと子猫みたいに首を振って飛沫を散らした。
「目はゴロゴロしないか?」
「もう平気!」
「そうか。それじゃあ、風呂に浸かるか」
「うん!」
 自分の全身にもお湯をかけて泡を流すと、俺たちは石組みの露天風呂に向かった。
「ふぁぁ、気持ちいい」
「はははっ、チナは風呂が好きか?」
 湯に体を沈め、気持ちよさそうな声をあげるチナに水を向ける。
「大好き! パパもお風呂が好きで、よく一緒におうちのお風呂に入ったの。もちろん、ママとも。……だけど、孤児院のみんなと入るお風呂はあんまり好きじゃなかった」
 チナは台詞の後半で表情を曇らせた。俺はポンポンッと彼女の背中を撫でると、あえて軽い調子で口にする。
「そうだったか。なら、俺と入る風呂はどうだ?」
「もちろん大好き! しかも今日は、お兄ちゃんとお空の下のお風呂をふたり占めだもん。贅沢すぎちゃう」
 チナはパァッと表情を明るくし、力強く言い募る。
「そうか。ならば今後、風呂付の宿に泊まった時はまた一緒に入ろう」
「約束よ!」
「ああ、約束だ」
 俺はチナから差し出された小指に、自分の小指を絡めた。
 前世と同じように、この世界でも約束の証に小指を絡める習慣があることは、なくなった両親に代わって俺を育ててくれていた祖母から教わった。
 愛情深く優しい祖母と祖父がいたから、俺の幼少期は決して孤独ではなかった。しかし、幼い俺は想像せずにはいられなかった。
 母の手に頭を撫でてもらうのは、どんな心地がするのだろう。
 父と一緒にする遊びは、どれほど楽しいのだろう。
 俺から両親を奪った者がいるのなら、俺は絶対に許さない。真実を白日に晒し、必ず裁きを受けてもらう――。
「さっきの話だけど、お兄ちゃんは以前にオルベルに行ったことがあるの?」
「小さい頃に、祖父に連れられて行ったことがあるな」
 俺の記憶にあるのはその時の訪問だけ。しかし、俺はヴィルファイド王国の王都・オルベルハイドで生まれ、両親が祖父母を頼って居住を移すまで王都で暮らしていたのだという。
「へー! 聖魔法教会も見た? 立派だった?」
 興味津々のチナに、俺は苦笑しながら答える。
「たしかに教会は、とても立派だった。幼いながらにその豪華さに唖然としたのを覚えている」
 魔法世界エトワールにおいて、教会の影響力は甚大だ。
 聖魔法教会の本部を抱えるエトワールの中心国家ヴィルファイド王国もそれは例に漏れず……いや、むしろ教会の総本山だからこそ教会の及ぼす力は他国よりも強い。
 事実、幼い頃に見た聖魔法教会は、その優位性を示すかのように王宮よりはるかに豪奢だった。
 その頃の俺はまだ、両親の死に教会が絡んでいようなどとは想像もしていなかった。ただ、両親の勤め先であったという美しい教会に感嘆の息をこぼしながら見入った。
「そっか。楽しみ!」
「ははっ、そう逸るな。オルベルに行くのはまだ先だ。もうしばらくは旅を続けるつもりでいる」
「うん」
 喜色を浮かべるチナの頭をサラリと撫で、この話題はこれで一旦終わりになった。
 これ以降はチナとふたり、心地いいお湯に浸かって寛いだ。

 客室に戻り、ふとチナの方を見たら、彼女の水色の髪が湿り気を残していることに気づく。
「おい、チナ。まだ髪が濡れているじゃないか」
「え?」
 タオルを掴むのと逆の手で、キョトンとした顔をしたチナを手招く。
「ほら、こっちに来い。拭いてやる」
「うんっ」
 俺はチナを椅子に座らせると、手にしたタオルでトントンと叩くように水気を残す部分を丁寧に拭いていく。
 チナはくすぐったそうに、俺のするに身を任せていた。
「チナは綺麗な髪をしているな。まるで透き通る泉のようだ」
 この世界にあって、人々の色彩は実に多種多様だ。それでも、腰まで届く長さのチナの艶やかで美しい水色の髪は目を引いた。
 もっというと、チナは幼いながらにとても整った容姿をしていた。透けるように白い肌に、パッチリとした青色の目。スッと鼻筋が通り、唇は少し薄めでとても形がいい。そこに、サラサラと流れる水色の髪が加わり、文句なしに美少女と言ってよかった。
「わたしの髪と目はママ譲りなの。パパもよく『綺麗だ』って言ってくれた」
「なるほど。チナのママは美しい人だったんだな。だが、チナだってママに負けない美人になるぞ」
「やだ。お兄ちゃんったら、そういうのは軽々しく口にしちゃいけないのよ」
「ははは、だがチナが美しいのは事実だ」
 ここで何故か、ここまで大人しく身を委ねていたチナが、スススッと前屈みになって俺から距離を取ろうとする。
 動きに呼応して、俺の手から水色の毛束がサラリと逃げていく。
「おいおい、急にどうした?」
「だって、パパがいつも言ってた。『口がうまい男には気をつけろ』って。それから、『そういう男には近寄っちゃいかん』とも」
 チナは唇を尖らせて、早口で告げる。その頬は、パッと見でもわかるくらい真っ赤に染まっていた。
「チナ、お前のパパは実にいい助言をしてくれたな。だが、俺はチナの兄貴分だからな、パパのいう『男』の括りには入らないんだ」
「それもそっか! お兄ちゃんは、お兄ちゃんだもんね」
 すんなりと納得したチナは、前方に倒していた半身を起こし、深めに座り直した。
 俺は再び、チナの髪を拭き始めた。
 ……これまでは気に留めたこともなかったが、これからの道中では、よからぬ考えを持つ悪い大人にチナがかどわかされぬよう目を光らせておかなければならないな。
 それに、美貌ばかりではない。ライフルをいとも簡単に創出したチナの魔力制御の能力も、知られては厄介だ。今後は、人前で見せるのは避けなければ。
 奇麗事ばかりでなく、旅は常に盗賊や人攫いといったリスクと隣合わせだ。最強の冒険者を自負する俺は恐れることもないが、チナには脅威だ。
 改めて認識した俺は、気を引きしめた。
「よし、これでいいだろう」
 最後に手櫛で梳き、サラサラとした滑らかな感触を確認し、チナの肩をトンッと叩いて終了を伝える。
 洗い上がりの水色の髪は、まるでそれ自体が発光しているかのような艶を放っていた。
「ありがとうお兄ちゃん!」
 チナは微笑んで礼を告げ、ピョンッと椅子を下りると自身の寝台脇のナイトテーブルに向かい、新品の櫛を取り上げて梳かしだす。
 嬉しそうに髪を整える彼女を横目に見ながら、俺は今後の道程について考えていた。
 俺は一年前から冒険者として各地を回り、次元獣を倒しながらその生態や特性について多くの情報を集めてきた。おかげで次元獣についてはかなり詳細にデータが取れてきていた。
 しかし、肝心の聖魔法教会についての情報が少なすぎた。ガイア隊長から聞かされた『加護』がいい例だった。
 俺は両親が残した日記の存在に慢心していたが、ふたりが教会に所属していたのは今から二十年近くも前のことだ。もっと言えば、下級魔導士だった両親が知り得る情報には限界もあっただろう。日記に記された情報は、きっと教会という組織のほんの一端にすぎない。
 彼の組織の全貌を知ることはできなくとも、俺はより核心に切り込みたかった。そしておそらく、それらは教会と所縁のある場所に行ったり、内情を知る人と接触することでしか得られない。
 ここでふと、十カ月前に立ち寄った酒場で聞きかじった話題が俺の脳裏をよぎった。
 その酒場はヴィルファイド王国北方、隣国との国境の町にあった。
 国境では常に隣国との小競り合いが絶えない。その酒場では、隣国との小競り合いに雇われて参戦し、任期を終えた傭兵たちが多く集まっていた。
 彼らはエールを片手に『癒しの力を持つ聖女』について熱く語っていた。彼らの話をかいつまむと、戦場で瀕死の重傷を負った兵士が、グルンガ地方教会から派遣された聖女の治療を受け、見る間に回復したということだった。ちなみに、地方教会というのは王都の聖魔法教会から派遣された魔導士が運営する教会の地方拠点だ。
 酒の席での話題ゆえ、事の真偽などわからない。多分な誇張を含み、話が広まっただけかもしれない。事実、あの時の俺は話半分に聞き流し、早々に次の町に移った。
 ……だが、行ってみる価値はある。グルンガ地方教会に行ってみるか。
 ――カラン、カラーン。
 その時、階下から鐘の音が響く。
「あ! お兄ちゃん、これって夕食の開始だよね?」
 二連の鐘は、宿泊者に準備が整ったことを告げる合図だ。
「ああ。食堂に夕飯を食いに行くか」
「うん」
 俺とチナは客室を出て、食堂に向かった。

 翌日。
 俺とチナはグルンガ地方教会を目指し、日の出からさほど間を空けずに宿を出発した。
 ここから地方都市グルンガまで、徒歩なら一カ月以上はかかる。幼いチナの足ならば、倍以上かかるかもしれない。
 俺はこれまで父と母の仇を討つという最終的な目的はあれど、行く先々で次元獣を倒しデータを積むことを目下の目標としていたから、あえて徒歩以外の移動手段を使ったり、先を急いだりはしてこなかった。
 だが、チナが一緒となれば話は別。俺は地方都市グルンガまでの移動手段に、長距離の乗合馬車を選んでいた。途中の都市で何度か乗り換えが必要だが、旅程は三日ほどに短縮できる。
「お兄ちゃん、馬車の停留所はあっちだよ?」
 二股に分かれた道を右に曲がろうとしたら、隣を歩いていたチナが俺の袖を引いた。
「停留所に行く前にギルドに寄る」
「あ、そっか。昨日倒した次元獣を売りに……あれ? そういえば、肝心の次元獣ってどこにいるの!? 宿にも連れてきてなかったし、置きっぱなしじゃ、他の人に横取りされちゃったりしてないかな?」
 チナは合点した様子で頷きかけ、途中ではたと思い至ったようで声を大きくした。
「大丈夫だ。次元獣は次元操作で別次元に収納してある。あの大きさを運ぶのは大変だからな」
「うそ! お兄ちゃんってそんなこともできちゃうの!? どんな重たい荷物でも手ぶらで運び放題って、すごすぎる!」
 チナは目を真ん丸にして興奮気味に口にした。
 ……なるほど。重たい荷物を運び放題とは面白い着眼点だ。
「ふむ。もしこの世界から次元獣がいなくなり、冒険者が軒並み廃業となったら、その時は荷運びや引っ越しを生業とするのも悪くないか」
「わっ! 楽しそう! その時はわたしに梱包とか荷解きを手伝わせて?」
「もちろんだ」
「……いいなぁ、次元獣のいない世界。わたしみたいに悲しい思いをする子がいなくなったら、なんて幸せだろう」
 軽口を言い合っていたら、チナがふいに遠く空を見つめて零す。
「なるさ」
「え……?」
 チナの頭にポンッと手を乗せて告げると、彼女はゆっくりと俺に目線を移した。
「いつか、次元獣に脅かされることのない平和な世界に必ずなるさ」
「不思議ね。お兄ちゃんが言うと、本当にそうなりそうな気がする。……あ、ギルドの看板が見えてきたよ!」
 チナは二、三度パチパチと目を瞬き、次いでクシャリと微笑んで通り沿いの大きな建物を指差した。
 ――ギィイイ。
 重厚な両開きの扉を押し開き、チナと共にギルドに入る。
「ごめんください」
 早い時間に来たのが功を奏し、見回すギルド内に人はまばらだ。
「よし、チナ。買取の列に並ぼう」
「うん!」
 買取の列に待ち人はおらず、今は五人組のパーティがカウンターで価格交渉をしていた。
 ……ん? 俺から見えるのは、五人組のうしろ姿だけ。しかし、そのうしろ姿に猛烈な既視感を覚える。
 五人の真ん中にいるのは一際豪奢な装備を身にまとった、茶髪の男。その脇を固めるのは、防御を度外視した露出過多な恰好をした二人の女冒険者と、ひょろりとした痩身とずんぐりむっくりとした巨漢の男冒険者の二人。
 ……まさか。嘘だろう?
「オイ、ふざけるなよ!? 俺の持ち込んだこの素材がそんなはした金なわけがあるか!」
「算定表通りだ。むしろ顔馴染みのお前に免じて、少し色まで付けている」
 ……いや、いけ好かないあの風体とスタッフに対する不躾な態度は間違いない。
「お前の目は節穴だ! もっと上のスタッフと代われ!」
 漏れ聞こえてくる下品な物言いに眩暈を覚えながら、俺は確信した。あれは、アレックだ……。
「いったい、どんな運命の悪戯だ? まさか、こんなところで再び奴らと見えることになろうとは……」
 俺が特大のため息と共に小さくこぼせば、聞き付けたチナが首を傾げた。
「どうしたのお兄ちゃん? 並ばないの?」
「いや、なんでもない。並ぼう」
 奴らと顔を合わせたからと、今さらどうということもない。俺はチナを連れ、奴らの後ろに立った。
 カウンター越しにアレックたちの対応をしていたスタッフが、やれやれといった様子で顔をあげる。俺とスタッフの目線がぶつかる。
 ん? 彼は……!
 なんと、目が合ったカウンタースタッフは、既知のギルドマスターだった。
 まさか、ヴィルファイド王国全土のギルドを統括する長のギルドマスターが、自ら地方ギルドでカウンター業務にあたるとは……。いや、実に彼らしい。
 彼がギルドマスターだとは知らないアレックが零した『上のスタッフと代われ』の台詞に、今さらながら笑いが込みあげてくるのを、口角に力を込めて堪えた。
「アレック、次のお客様も控えている。うちとの価格交渉は決裂だ。その素材は他に持ち込んでくれ」
 俺に気付いたギルドマスターが、毅然とした態度でアレックに言い放つ。
 ちなみに、俺とギルドマスターの初対面は三年前の中核都市エフェソスのギルド……俺がアレックたちのパーティに同行を決めた、あのギルドだ。
 あの時、俺に『弱き者』と言い放った男がギルドマスターだと知ったのは、それからさらに二年後。俺が次元操作を体得し、火の筆頭侯爵アルバーニ様の後援を得て冒険者登録をしに地方ギルドを訪ねた時だ。そこから一年、俺が討伐した次元獣の換金に行く先々で彼とは頻繁に顔を合わせ、いつしか共に酒を酌み交わす仲になっていた。
 三年前の話も、今ではすっかり酒の肴になっている。
「な、なんだと!?」
 アレックは顔を真っ赤にして叫ぶが、ギルドマスターはもう一瞥だってしなかった。
「次の方、こちらにどうぞ」
「チッ!! ……後で見てろよ! 今日の一件はしっかり親父に言いつけてやるからな!」
 アレックは悪態をつきながらカウンターの前からずれ、踵を返して俺の横を通り過ぎた。
「今日はなにをご希望かね?」
「手持ちの次元獣を売りたい」
 チナを連れて颯爽とカウンターに進み出て、用件を端的に告げる。
「おい!? お前、セイじゃねえか!?」
 その時、アレックがガバッと俺を振り返って叫んだ。
「次元獣は中型と大型の二体。どちらも急所への攻撃痕を除けば、ほぼ欠損のない完全体だ」
 わざわざ答えてやる義理など無い。俺はアレックを視界にすら入れず、ギルドマスターとの会話を続けた。
「ほう、完全体が二体とは。して、その次元獣はどこに?」
 ギルドマスターもアレックの存在などないかのように応じた。
「ここは手狭だからな、表に転がしてある」
「オイ!! 無視してんじゃねえぞ!」
 ――ガンッ。
 完全に存在を無視されて、激昂したアレックがカウンターを蹴る。さらになにを勘違いしたか、汚い手で俺の胸ぐらを掴んだ。
 ……三年の月日が経ってもまるで変わらぬアレックの粗暴っぷりに、怒りより呆れが先に立つ。
「その手を離せ」
 低く告げ、アレックの腕を振り払う。
「テメェ、セイスの分際でなにしやがる!?」
 俺からの反撃にアレックはすっかり頭に血が上ったようで、場所も弁えず拳を振り上げてくる。
 三年前ならいざ知らず、今となってはアレックなど恐れるに足らん。
 俺は軽くいなそうとしたのだが、ここで予想外のことが起こった。
「やめて! お兄ちゃんに乱暴しないで!」
 なんと、チナが俺を庇おうと両手を広げ、俺とアレックの間に立ちはだかった。
「ん? なんだ、このチビ……って、その手の印はシンコか!?」
 アレックはチナの左手の甲に浮かぶ印を認め、馬鹿にしたように指摘した。
「そうよ。わたしはシンコだけど、それがなに?」
「ハッ! 気の強いチビだ。……だが、俺は気の強い女は嫌いじゃないぜ。それに珍しい色の髪をしてる。なにより、可愛い顔立ちをしてるじゃねえか」
 アレックはチナの頭の天辺から足先までを舐め回すような目つきで眺める。その顔はニヤけきり、あまりの気色悪さに全身の産毛が逆立った。
「おい、チビ。お前、セイの連れか? でかい口叩いてるが、どうせコイツは今もどこぞのパーティで靴を舐めているんだろ。こんな最下層のクズと一緒にいたって先は知れてる。どうだ、特別に俺のパーティで下働きをさせてやってもいいぜ? なに仕事は簡単だ。少しばかり俺をいい気持ちにさせてくれりゃ、他に難しいことはない」
 さらにアレックはしゃがみ込み、チナと目線の高さを揃えると、こんな戯言をのたまった。
 ……勘弁してくれ! アレックの女好きは知っていたが、年端もいかない幼女までが守備範囲とは、どこまで性根の腐った気持ち悪い奴なんだ。
「おい! チナに――」
「触らないでっ!! わたし、あなたみたいな人、大嫌い!」
 アレックがチナに触れようとするのを目にし、俺が制止の声をあげるのと、チナがアレックに向かって力いっぱい足を蹴り上げるのは同時だった。
 なっ!?
「っ、@*◇&%$▼#――!!」
 股間を抱えて悶絶するアレックと、腕組みして鼻息を荒くするチナを、信じられない思いで交互に眺める。
「……ねぇ、ギルドのおじさん。ここ、ちょっとガラが悪いんじゃない?」
「すまないな、お嬢ちゃんの言う通りだ。今度から、マナーの悪い輩はスタッフが早々に追い出すことにするよ」
「それがいいわ!」
 いまだヒューヒューと浅い呼吸を繰り返しながら床に伏すアレックと、衝撃が冷めやらず固まったままの俺を余所に、チナとギルドマスターは二人で楽しげに話し始める。
「あ、それよりもおじさん! 早くお兄ちゃんの次元獣を査定して? わたしたち、この後馬車に乗る予定なの」
「おぉ、そうかだったか。それはすまなかったね。たしか次元獣は表と言っていたかな」
「うん!」
 チナとギルドマスターは蹲るアレックの脇をゴミでも避けるように通り過ぎ、扉の外に消えていく。
 ――ギィイイ。バタン。
 扉の閉まる音にハッとして、俺も慌てて二人の後を追う。アレックは俺たちを追って来なかった……いや、とても追って来られるような状態ではなさそうだった。
「――いやぁ、稀に見るいい状態だな」
 ギルドでは、即金での買取が基本だ。表で次元獣の状態を確認したギルドマスターは、ほくほく顔でカウンターの奥にいき、溢れるほどの金貨が詰まった革袋を卓上にどんどんと積み上げていく。
「えー、こんなに!?」
「いや。二体とはいえ、さすがにこの額はもらいすぎではないか?」
 嬉々とした声をあげるチナとは対照的に、俺は積まれた金額にギョッと目を向いた。
「なに。あんなに状態のいい二体分なのだから、決して高すぎる金額ではない。それに今回は、お嬢ちゃんに嫌な思いをさせてしまった迷惑料も込みだ。お嬢ちゃん、これに懲りず、またギルドに寄っておくれ」
「うんっ!」
「そういうことなら、今回はありがたく貰っておこう。だが、次回は通常査定で頼む」
「はははっ。お前のそういう真面目なところは嫌いじゃない。次も期待している、ガンガン大型次元獣を倒して持ち込んで来い。それから、その時はまた一緒に酒でも飲もう」
 アレックは蹲った体勢のまま目線だけ上げ、卓上に山と積まれた金貨と、親し気にギルドマスターと会話する俺を、狐にでもつままれたみたいに見つめていた。
「うっそ~。なんかあの子、三年前より恰好よくなってない?」
「うん。それにめっちゃ金持ちになってんじゃん。……てか、うちのリーダーなんかダサくね?」
「あれだけの稼ぎって、あいつどんだけ強えんだよ? 少なくとも、うちのパーティじゃ一生かけても稼げないよな……」
「オイラ、セイのことあんまりいじめなくてよかったぁ……」
 背中に四者四様の呟き(+荒い呼吸と呻き声)を聞きながら、俺は右手に大量の金貨、左手にチナの手を取ってギルドを後にした。