アルバーニ様の邸宅は、城下街ブレイナスが一望できるブラスト領南の高台に悠然と聳え立つ。
「セイさん、アルバーニ様との出会いや、ふたりの関係については前に聞かせてもらったけれど、アルバーニ様ご本人はどんな方なの?」
 高台に続く緩やかな坂道を上りながら、俺の馬に横座りで同乗しているアルテミアが尋ねてきた。
 以前にも触れた通り、筆頭侯爵の地位は世襲ではないが、ブラスト領主といえば代々火属性の有能なウノを輩出する名門。それゆえ、歴代のブラスト領主にはアルバーニ様就任以前にも数名、火の筆頭侯爵の名を冠した者があった。
 そんな名家の出身で、かつ、自身も火の筆頭侯爵でありながら、アルバーニ様という人は不思議なくらい特権意識のない、平かな人柄だった。
「気っ風のいい、豪胆な女性だ。そんな彼女の魅力に引き寄せられるように、周りにも自然と魅力ある人が多く集まってくる。……ああ、心配せずとも君たちともきっと気が合う。いつだって彼女は、誰とでもすぐに打ち解けてしまうんだ」
「そうですか」
 アルテミアは自分から尋ねてきたわりには、あっさりした答えを返した。
 ふと横を見れば、チナがセリシアと一緒の馬上で頬に風を受けて微笑んでいた。
 ギルドで泣きべそをかいていたチナは、あの後俺が抱き上げて慰めてやっていたら、いくらもせずに泣き止んだ。しゃくりあげながら告げられた『今晩は、わたしと一緒のお部屋で寝てくれる? アルバーニ様のお部屋に行ったりしちゃいやよ?』の台詞には内心でかなり驚いたが、俺が是と答え、私的にアルバーニ様の私室を訪ねるような仲ではないことを伝えたらコロッと機嫌を直した。
 そういえば、あの時セリシアとアルテミアのふたりが、揃って安堵の表情を浮かべていたのだが、あれはなんだったのだろう。不可解ではあるが、とにかくチナが泣き止んでくれたのは助かった。
「……セイさん」
「ん?」
 低く呼びかけられて、再び視線をチナからアルテミアに向ける。
「私はこれまで塔という限られた世界の中で生きてきたわ。だから世間知らずで、圧倒的に人との交流は不得手よ。だけど、これからは自分の足で広い世界へ出て、この目に多くの景色を映し、たくさんの経験を積んでいく。そしてアルバーニ様のようにとはいかなくても、もっともっと自分を磨いて、いつかセイさんにほんの少しでも認めてもらえるように頑張るわ」
 アルテミアから告げられた突然の決意表明に戸惑いつつ、俺は緊張で張り詰めた彼女の肩をポンポンッと叩く。
「なに、それならば気負う必要はまるでない。俺はとっくにアルテミアを認めている。いや、認めるなどという台詞では生温いな。ウェール領では、俺が頼んだ重力制御の無茶ぶりを即座に受け入れて実践してくれた君の勇気と度胸に感服した。アルバーニ様と比較する必要なんてない、君は十分に魅力的だ」
「セイさん……」
 俺を見上げるアルテミアの瞳が僅かに潤み、頬が紅潮して見えたのは、果たして俺の気のせいなのか……。
 そうこうしているうちに高台を上りきり、俺たちはアルバーニ様の邸宅の玄関前に立った。
「セイ! 待っていたぞ!!」
 俺がノッカーを叩くと、待ち構えていた素早さで、彼の方が燃え立つような赤い髪を靡かせながら中から扉を引き開けた。
 パッと目を引く艶やかな赤毛とアーモンドの形のくっきりとした二重の奥の太陽みたいに眩しい金色の瞳。秀でた額に鼻筋がスッと通り、キュッと口角の上がった形のいい唇。
 一年ぶりに見えたアルバーニ様は、咲き誇る大輪の花のように輝き、息をのむほどに美しかった。
「アルバーニ様、ご無沙汰しております。御自らお出迎えいただき、恐悦至極に存じます」
「よいよい、堅苦しい挨拶はなしだ。それよりもお主、少し見ぬ間に男を上げたのではないか」
「おやめください。また、そのように俺を揶揄って」
「なに、思ったことをそのまま申したまで。揶揄ってなどおらんわ」
 アルバーニ様は形のいい唇から白い歯を覗かせて、カラカラと声を立てて笑う。
「して、此度はずいぶんと可愛らしい連れが一緒ではないか。私はアルバーニ、ブラスト領主で、今代の火の筆頭侯爵の名を賜っておる。其方らの名を教えてくれ」
 ひとしきり笑うと、アルバーニ様は後ろに立つチナたちに視線を向けて、自ら名乗りを口にした。
「わたしはチナツよ」
「セリシアと申します」
「アルテミアですわ」
 アルバーニは三人と順に握手を交わす。
「この地にも噂話は届いている。グルンガ地方教会の聖女を越える治癒の魔力を発揮する真の聖女が現れたことも、ウェール領に突如現れた四体の次元獣を空から赤子の手を捻るように倒したという其方らの活躍も。それらを耳にして、セイに新魔創生を体得した仲間が現れたのだとすぐに分かった。そしてぜひ、会ってみたいと思っていた!」
 アルバーニ様は、喜色に声を弾ませる。それにつられるように、硬かった三人の表情も解れていくのが見て取れた。
「チナツ、セリシア、アルテミア、今日は会えて嬉しく思う! 奥で各々のこと、旅のことやセイのことなど詳しく聞かせてくれ」
「アルバーニ様! お兄ちゃんのことだけは、交換こよ!」
「なに?」
 チナの言葉にアルバーニ様のみならず、俺の脳内にも疑問符が浮かぶ。
「わたしたちも教えるから、代わりにアルバーニ様も昔のお兄ちゃんのことを教えてね!」
「ほう! 情報交換ということか、それは面白い! よし、そうと決まれば、奥の応接間に茶や菓子を用意してある。そちらでじっくり話そうじゃないか」
「うんっ!」
 ……なんと、チナとアルバーニ様が手を取り合って行ってしまった。
「セリシアお姉ちゃんとアルテミアお姉ちゃんも早く早く!」
「ええ」
 振り返ったチナに手招かれて、セリシアとアルテミアもいそいそと後に続く。
「急に四人で押しかけてしまってすまんが、世話になる」
「いえいえ。アルバーニ様も申しておりました通り、セイ様のご活躍は風の噂でこの地にも届いておりました。セイ様が旅の途中で仲間を持たれたことも同様です。複数名の滞在を想定し、準備を整えてございます。ゆっくり寛いでいかれてください」
 玄関にひとり残った俺が脇に控えていた顔見知りの家令に告げたら、丁寧な答えが返された。
「さすがに抜かりないな。……これならば、アルバーニ様は俺が旅の子細を伝えるまでもなく『風の噂』とやらで全て把握しているのではないか」
「ははは、ご冗談を。アルバーニ様とて、千里眼はお持ちではない。それに、たしかにこの一年、アルバーニ様は教会の暗部に切り込むべく持ち得る人脈を駆使し、慎重に情報を集めてきました。しかし、次元獣に関する詳細は、セイ様が一年をかけて集積してくださった情報頼りでございます。セイ様がお越しになるのを、アルバーニ様も、そして私も、首を長くして待っておりました」
 ここで家令は一度言葉を区切り、少しの間を置いて再び口を開いた。
「セイ様、ついに時は満ちた。これからヴィルファイド王国は……いえ、エトワールは大きく変わる。そして、この変革をなすのはセイ様、あなただと確信しておりました」
「俺ひとりではなせん。さすがに過大評価だ」
 ピンと背筋が伸びた初老の家令・ベルゼルン。俺は彼の燕尾服の下に、無駄なく鍛え上げられた筋肉が隠れていることを知っている。
 屋敷を切り盛りする家令の姿は、表の顔。彼には、別の顔がある。
 この国には、"紅炎の鬼"の異名で呼ばれた伝説の勇者がいる。火属性のその男は、卓越した攻撃力と果敢な戦略で、数多の次元獣を倒してきた歴戦の勇者。――その"紅炎の鬼"とは、目の前にいるアルバーニ様の右腕・ベルゼルンだ。
「……だがベルゼルン、俺ひとりでは叶わなくとも、一丸となって挑めばなせる。変革は皆で成し遂げる」
「真の勇者は私ではない。真の勇者の名は、やはりあなたにこそ相応しい。……おっと、あちらはすっかり盛り上がっているようですな。玄関先で長々と足止めしてしまい、失礼しました。どうぞセイ様も、応接間の方で喉を潤してください」
 ずいぶんと盛り上がっているようで、楽しげな話し声や笑い声が応接間からここまで漏れてきていた。その声にベルゼルンは皺が刻まれた頬を緩め、俺を奥へと促した。
 応接間で夕刻から始まった茶会は大盛り上がりを見せ、そのまま夕食に縺れ込んだ。夕食を終えても、話は一向に尽きる様子がなかった。
 言葉達者なチナはもちろん、セリシアとアルテミアも自身の身の上から新魔創生で目覚めた能力のことなど、アルバーニ様相手にまるで女友達を相手にしているように打ち解けて饒舌だった。アルバーニ様自身も、彼女たちとの会話を心から楽しんでいるようだった。
 ただし、その内容はただ楽しいだけのものもあれば、教会の核心に切り込むようなものもあった。
 特に、チナが孤児院で聞いた『闇の器が見つかってひと安心だ。これで無事に器が全て揃った』という魔導士の言葉を伝えた時と、セリシアがグルンガ地方教会の聖女イライザがデラから祝福を受け、治癒の能力を開花させたという話をした時に、アルバーニ様の目が鋭くなったのを俺は見逃さなかった。
 彼女たちがひと通り話し終えると、今度は俺が旅の中で知り得た次元獣の出現傾向から、その個体の特徴と弱点、さらには聖魔法教会の『加護』についても知り得る情報を伝えた。アルバーニ様は興味深そうに、俺の一言一句を聞いていた。
 ただし俺がネズミから得たマリウス大魔導士と教祖の関係について話しても、アルバーニ様に驚いた様子はなかった。要は、デラ信仰の権力構図については、俺よりも教会周辺を重点的にあたっていたアルバーニ様の方が詳しいということだろう。
 やがて、幼いチナがこっくりこっくりと舟を漕ぎだし、後を追うように初めての乗馬で疲れたのだろうアルテミアと、こちらも慣れないチナとの相乗りで疲労が出たのだろうセリシアが、ふんわりと沈み込む極上の応接ソファに身を預け、寝息を立て始めた。
 それを横目に見て、アルバーニ様が俺に水を向ける。
「セイ、先ほど玄関先でベルゼルンとなにを話していた?」
「具体的なことはなにも。ただ、彼は『時は満ちた』とそう言っていました。……アルバーニ様、ここまであなた自身は多くを語っていない。だが、チナとセリシアが、デラによる単一属性の覚醒を示唆する話題に触れた時、あなたの目の色が変わった」
 アルバーニ様は真っ直ぐに俺を見つめていた。
「聞かせてください。この一年、あなたが知り得た教会の……いえ、デラのことを。そもそもデラというのは何者なのですか?」
 アルバーニ様はひと呼吸置いて、重く口を開いた。
「デラとは――」
 アルバーニ様の言葉は、まるで知らない異国の言語でも聞いているかのようだった。それくらい彼女から聞かされたのは、想像を遥かに超えるスケールの内容だった――。
 全てを聞き終えた時、俺の全身は小刻みに震えていた。その振動が俺の膝に凭れかかって眠っていたチナに伝わってしまったようで、小さく身じろぐ。
「……ん?」
 幾度か瞬き、チナがゆっくりと瞼を開く。
 水色の長い睫毛を割ってサファイアみたいな瞳が現れて、俺の姿を映す。すると、チナは安心しきったようにふにゃりと笑んだ。
「あれ? わたし、寝ちゃってた?」
 不思議なことに、チナの存在が俺の中で荒らぶる熱を静める。全身の震えも、目が合った瞬間に止まっていた。
 まるで透き通るサファイアの瞳が、悪感情を全て吸い込んでしまうかのようだった。
「ああ、連日の移動で疲れも出たんだろう。今日はもう客間で休もう。セリシアとアルテミアも起こしてやってくれるか」
「あ、うん!」
 平静を取り戻した俺が、起き抜けのチナの頭をサラリと撫でて伝えれば、彼女は俺の膝からピョンと下り、セリシアとアルテミアの肩をゆさゆさとゆすりだす。
「セイ。今伝えたのは、あくまで教会側の言い分だ。どんな思惑があってデラが教会に加担するのか、そこはデラ本人にしか知り得ない。しかし、どうあってもデラを担ぎ上げ、己の私利私欲に走る教祖を筆頭にした聖魔法教会上部との決戦は不可避だ。私たちは、前に進むしかない」
「もちろんです。聞かせていただいたように六つの器が揃った今、俺たちには一刻の猶予もありません」
 チナたちを横目に声を低くするアルバーニ様に、重く頷いて答える。
「戦略などの詳しい話は明日に」
「はい」
 話を終えて客間に引き上げてからも、俺の頭の中はアルバーニ様から聞かされた内容がぐるぐると巡っていた。隣の寝台から健やかな寝息を立てるチナとは対照的に、眠りは一向に訪れる気配がなかった。
 どんな歴史書にも書かれていないがエトワールでは、数千年前に世界大戦が起きたそうだ。そして、大戦の発端になったのはセイス……。
 アルバーニ様に聞かされた話はこうだった。
『世界は数千年より遥か昔からウノを頂点とする厳密な階級社会だった。しかし数千年、それに反旗を翻したレジスタンスグループが現れた。それを煽動していたのが、新魔創生によりウノを超える魔力を得たセイスだった。最初は一部のセイスらによるほんの小さなうねりだったのが、シンコやクアトロにも新魔創生を扱える者が現れだすと、エトワール中を巻き込んだ大きな争いに発展し人類は滅亡の危機に瀕した。この収束に、各属性のウノの中でも随一の魔力を誇る六名が集まってデラ……次元獣の王・デッドラッシュを召喚。デラの援護によりレジスタンスグループは壊滅、大戦は集結し世界は均衡を取り戻した』
 ここまででも十分な驚きだった。しかし、さらなる衝撃はその後にやって来た。
『ちなみに、デラの援護というのは次元獣の放出だ。驚くべきことに、この大戦以前に、エトワールに次元獣はいなかったんだ。現れた次元獣は、レジスタンスグループの拠点をことごとく潰していったというが、不思議とウノ一派の被害は最小限で収まっている。要は、次元獣の出現はデラの匙加減ひとつということだ。現代だと《加護》と呼ばれているのが次元獣除けの目印だ。そして対戦終息後、デラを召喚した六名が初代の筆頭侯爵を名乗り、闇の筆頭侯爵だった男が教祖を名乗り聖魔法教会という組織を立ち上げた。この初代教祖によってレジスタンスグループに組した者は子孫まで根絶やし。教会によって新魔創生は禁忌とされ、その痕跡も全て消し去られた。いつしか人々から新魔創生の記憶はなくなった』
 現世の日本で見た映画や物語の世界の出来事のようだと思った。しかしこれは、この世界の現実だ。
「……なぜ、次元獣の王は人間世界に関与した?」
 宙に向け小さく零した呟きに、答えはない。
 デラは両親の仇であり、絶対悪。少なくとも、俺はこれまでずっとそう思ってきた。
 しかし人間世界に関与したこと、他にも大戦終結後も次元獣を送り続けること、謎は尽きず、その思惑が見えない。
 そもそも、デラは今回の召喚に応えるのだろうか。六つの器が揃ったというのは、おそらく再びの召喚を意味している。ただし、わざわざ召喚を試みることからも分かる通り、通常教会に……いや、人間世界にデラはいない。デラは召喚によってのみ、人間世界に姿を現すのだ。
 普通に考えれば、器に祝福を与え覚醒を促しているのがデラなのだから、召喚はデラの意思にも思えるが……。だが、次元獣の王がそうも簡単に人間の思惑通りに動くものだろうか。
 果たしてデラは本当に姿を現わすのか、すべてはデラの心ひとつ――。
 俺は身を起こすと、チナを起こさぬよう足音を忍ばせて窓に向かった。カーテンを薄く開けて外を見れば、東の空が薄っすらと白み始めていた。
 どうやら一睡もせぬうちに、夜明けを迎えてしまったらしい。
 ふむ。考えたところで、こればかりは堂々巡りだ。
「……だが、デラの思惑がどこにあろうと関係ない。己に都合のいいウノ至上の楽園を維持せんがため新魔創生を闇に葬り、俺の両親を殺した教会組織を倒す。そしてウノ至上の階級社会を打破してやる――!」
 目に眩いほどの光を放ち、地平線からゆっくりと顔を出す太陽を眺めながら、固く決意を誓う。
 窓前を離れるとマントを掴み上げて客間を後にし、朝日に誘われるように中庭に向かった。
 ところが廊下を渡り、中庭へと続く扉に手をかけようとしたところで、玄関の方から聞こえてくる声に気付いた。
 ……なんだ? こんな早朝から他家を訪れるとは非常識な訪問者もあったものだな。
 なんとなく気になって、中庭には向かわずに声がする玄関へと足を向けた。
「だーかーらぁ。セイがここに来てるのは分かってるのよ。それからね、あたしたちはセイは仲間なの。なーかーま。仲間が来てるってひと言伝えてくれればいいのよ」
 なっ!? この声は――! 玄関が近くなり、鮮明になってきた声を耳にして、背筋が凍りそうになった。